第2話
昨夜、有坂が事務所兼ガレージに戻ってきたのは、日付が変わる直前のことだった。
冷え切ったソファで横になっていた片桐は、重い金属扉が開く音で浅い眠りから引き戻された。
「……遅かったな。晩飯、用意してないぞ」
身を起こしながら片桐が呟くと、有坂はどこかぎこちなく答えた。
「食べてきたので、大丈夫です」
片桐は眉をひそめた。
無一文に近いこの男が、こんな夜更けまで外出し、どこで、どうやって食事にありついたというのか。
いくつか推測は立ったが、口に出して問いただすまでの気分にはなれなかった。
「今日はもう、寝ますね」
有坂はそれ以上語ろうとはせず、足早にガレージの奥、住宅部分の急な階段を上って二階へと消えていった。
(ま、何かあれば言ってくるだろう)
深く知ろうとしない。
それは片桐の依頼に対する姿勢であり、この同居生活においても同じだった。
あの男も、ここに来るまでは普通に働いていたのだ。
一から十まで面倒を見るほうがおかしな話だ。
翌朝。
片桐が携帯コンロで湯を沸かしていると、二階から降りてきた有坂が、またしても早朝の街へと出て行った。
「……気楽な様子だな」
これまでのことを深刻に受け止めすぎているのではという懸念もあったが、そんなこともない有坂の背中を見送りながら、片桐はインスタントコーヒーを啜った。
彼には彼の生活、そして目的があるのだろう。
少しでも早く自立してもらえるのであれば、それは大変に結構なことだ。
片桐は空になったカップを流しに置き、作業机に向かった。
机の中央には、分解されたアンティークの機械式時計が鎮座している。
先日、片桐が宝飾品を換金した馴染みの故買屋からの依頼だった。
かつて人類の月面着陸に帯同したと謳われるメーカーの、古い機械式時計。
これほど複雑な機構のオーバーホールには高度な経験と知識が要求される。
ゲートタウンでそれを持ち合わせる人間は少なく、かといって外の人間に依頼するような手間を、この街の住人は好まない。
そんな時、『何でも屋』である片桐のような存在は重宝される。
ゆえに、金になる。
片桐は右目にルーペをはめ込み、ピンセットの先で極小の歯車をつまみ上げた。
息をするのすらためらわれるほどの精密作業。
純粋な物理的技術と集中力だけが要求される世界。
そんな静謐な世界が、片桐の性には合っていた。
しばらく無音の中で作業を続けていた片桐だったが、やがて小さく息を吐いた。
「……ヒゲゼンマイの摩耗が酷いな。これじゃあ動きが安定しない」
手持ちのジャンクパーツを探ったが、適合する寸法のものは見当たらなかった。
片桐はルーペを外し、作業机の上の部品に埃よけの布を被せる。
「探してみる、か」
面倒だが、ここで依頼を諦めるわけにはいかない。
生活する為にも、あの薬の為にも、日々の収入を疎かにするわけにはいかないのだ。
片桐はロングコートを羽織り、ジャンクパーツの露店が並ぶ区画へと向かうべく、再びゲートタウンの通りへ出た。
街を歩き始めて数分。
(……またか)
片桐は歩調を一切変えずに、周囲の気配を探った。
背中の皮膚を撫でるような、ひどく落ち着きのない視線。
昨日から断続的に続いている、あの不器用な尾行だ。
しかし、片桐はすでにその尾行者に付き合うつもりはなかった。
過去に嫌というほど向けられてきた「殺気」や「害意」の類が、この視線には一切含まれていないからだ。
相手の目的が見えない不気味さはあるが、明確な脅威ではない。
ならば、と片桐はそれをただの「雑音」として処理し、ジャンク街への歩みを進めた。
入り組んだ路地を抜け、昨日と同じ広場に差し掛かった時、片桐はふと足を止めた。
視線の先にあったのは、昨日と変わらない『弥生の理』の白い治療テント。
純白の布地に白菊と鏡の意匠。
相変わらず信者たちが、怪我や病気に苦しむ住人たちに無意味な祈祷と湿布を施している。
その平和的で欺瞞に満ちた光景に、しかし今日は明確な違いがあった。
「ふざけんな! こんな草の汁で痛みが引くかよ!」
テントの端で、体格のいい男が怒鳴り声を上げた。
酒を飲み過ぎているのか、目は血走り、口元には泡が浮かんでいる。
男は周囲の信者を突き飛ばし、並べられていた薬品の瓶や香炉を蹴り飛ばした。
「ヒィッ……!」
「誰か、お止めして!」
信者たちがパニックに陥り、後ずさる。
暴れる大男を取り押さえようとする者はいない。
(予想できることなのにな)
対策など何もしてはいないのだろう。
とはいえ、無関係な宗教団体のトラブルに首を突っ込んで、余計な火の粉を被るつもりもなかった。
片桐が静観を決め込んだ、その直後。
テントの奥から、一人の若い女性が歩み出てきた。
灰色の粗末な修道服のようなものを身に纏っているが、その顔つきは他の信者たちのような柔和なものとはまるで違う。
鋭い三白眼に、気の強そうな面構え。
整ってはいるが、どこか刃物のような冷たさを感じさせる容貌。
女性は暴れる男の正面に立つと、一切の躊躇なく、その懐へと踏み込んだ。
「なんだぁ!?」
男が太い腕を振り下ろす。
しかし女性はそれを最小限の動きで躱すと、男の腕を絡め取り、流れるような動作で関節を極めた。
そのまま男の重心を崩し、足を払う。
ドスン、という鈍い音とともに、巨漢が地面に叩きつけられた。
「ぐっ……ガァ!」
女性は一切の感情を交えず、男の背中に膝を乗せ、肩の関節を外れる寸前まで締め上げた。
祈祷でも、神秘的な力でもない。
それはただ、極めて実践的で、洗練された近接格闘術の形だった。
(……ほう、ああいうのもいるんだな)
片桐は目を細めた。
少なくとも、彼女は盲信者ではない。
明確な意思を持って問題に立ち向かい、自己の判断で躊躇うことなく暴力を振るうことができる「人間」だ。
男が完全に抵抗の意志を喪失したのを確認すると、女性はゆっくりと顔を上げた。
そして、少し離れた場所に立つ片桐へと、一直線に視線を向けた。
偶然、ではない。
彼女は最初から片桐がそこにいることを知っていたかのように、その鋭い三白眼で彼を射抜いていた。
静かだが、ひどく切迫した、刺すような視線。
片桐は表情を崩さず、数秒の間だけその視線を受け止めると、踵を返して広場を後にした。
数時間後。
目的のヒゲゼンマイをジャンク屋で調達し、片桐はREPAIRのガレージへと戻ってきた。
薄暗い事務所の入り口。
有坂が戻ってきている様子はない。
片桐は、重い金属扉の下、床のコンクリートに落ちている白い紙片に気づいた。
またしても、チープなA4のコピー用紙。
片桐はそれを拾い上げ、眉根を寄せた。
昨日のような、整った文字ではない。
急いで書いたような、少し乱れた手書きの文字だった。
『あなたが教団を嫌っていることは知っています。でも私では無理なんです。他に頼れる人もいないんです。お願いします。彼女が、巫女が完全に壊れる前に、どうか』
前回よりも遥かに必死さと絶望が滲む、感情の垣間見える文面。
(女……か?)
私、という言葉で相手の性別を想像するのは早計かもしれない。
しかし。
ふと、片桐の脳裏に昼間見たあの女性の顔が浮かんだ。
(いや、よそう)
片桐は無言のまま手紙を丸めると、作業机の横にあるゴミ箱へと放り投げた。
そしてコートを脱ぎ、再び作業机の前へと座る。
ルーペを目にはめ込み、ピンセットを手に取った。
「……勘弁してくれ」
片桐は誰に言うでもなく呟くと、時計の精緻な歯車の世界へと、再び意識を没入させていった。
儀式まで、あと五日。




