猫探し 最終話
片桐は静かに立ち上がり、壁際で震えている最後のスクレイパーに向かって歩き出す。
「後はお前だけだよ。だからさ、大人しく投降してくれると助かるんだが」
そう言いながら片桐は頭を掻いた。
この手のタイプは扱いを間違えると面倒になる場合が多い。
直後。
「お前、あれか…? 弥生の理の使いだろ? なぁ? そこの…それ!」
片桐の心配をよそに、男の口からは知る必要のない、余分な情報が不意に吐き出された。
男は檻の中の生き物を指さしながら喚いている。
「あれを取り返しに来やがったんだろ!?」
片桐は額に手を当てて宙を見た。
「待て。なぁ、待ってくれ」
スクレイパー共の事情など知りたくない。
特定の組織の関わりなど、更に知りたくない。
しかし、男の口は閉じられない。
「俺は知らなかったんだよ。でもほら、そこの! 木谷さんがな、突然この話を持ってきたから、やるしかなかったんだ!」
倒れているリーダーを指差しながら「生きていくためには仕方ないだろう」と叫ぶ男を、片桐は思い切り張り倒したくなっていた。
『弥生の理』
それは、東京崩壊後、一部の知識層と旧家が結成した、精神の安定を目的とした民間の管理組織だった。
しかしいつからかアビスそのもの、またはアビスから生まれ出るもの全てを「穢れ(けがれ)」と見做すようになり、「日本を古来の清浄な秩序に戻す」ことと「日本の主権をT.A.M.O.から取り戻す」ことを謳う宗教組織へと変貌した。
その思想は、複合企業であるファイブ・リングスが提供する物質的な安定とは対極にあり、今の日本を生きる者達を十分に支える、精神的な支柱となっている。
しかし、片桐にはその「志」を素直に受け入れられない理由が二つあった。
一つは、彼らが謳う『清浄な秩序』というものが、弥生の理という組織にとって都合のいい解釈でしかなく、結果として排他的な選民思想に囚われてしまっているという点。
二つ目は、彼らが排除を目指している『穢れ』の定義の中に、自分自身――片桐宗介の存在が、明確に含まれているからだ。
(あいつら、話を聞いてくれないんだよなぁ)
過去、片桐が遭遇した事件「焦熱惨禍」の折、唯一の生き残りとなった片桐はその後、弥生の理によって執拗な追及を受けたことがあった。
弥生の理にとって「異能力を持たないただの人間」である片桐が、唯一の生還者になることなどありえないと考えられたからだ。
そのため「弥生の理」にとって片桐宗介は「異能力者」であり、処断されるべき存在であった。
(一番関わりたくない名前を…)
片桐は焦りを覚えた。
「何でも屋」として安穏な生活を望む彼にとって、事件の真相など知るべきではない。
知る必要のないことを知ったと誰かに知られれば、それは即座に自らの生活を弾き飛ばす爆弾になるからだ。
ここが寂れた地下駐車場でよかった、と片桐は自身に言い聞かせた。
「よし、分かった。分かったから落ち着いてくれ。な? 頼むよ。少し落ち着いてから、話を聞かせてくれないか」
感情が高ぶった相手に感情をぶつけるのは得策ではない。
宥めて、落ち着かせて、その隙をつかねばならない。
「幸いここには誰もいない。で、つまりお前は無理やり、この件に加えさせられたんだな?」
片桐の問いかけを聞いているのかいないのか、男はブツブツと呟き続けている。
「普段なら俺たちが手を出すはずのないブツをよ、木谷さんが勝手にどっかから引き受けてきたんだ。だから俺は、関係ねぇんだよ…」
男は今にも泣き出しそうな声だが、話をさせることで昂ぶっていた感情は少し落ち着いてきているようだ。
目の前の男はまだ若いはずなのに、恐怖で筋肉を引き攣らせ、その顔を急激に老け込ませていた。
口元からは微かに唾液が垂れ、ポタリと地面に落ちた。
(これ以上は待っていられないな)
またいつ余計なことを口走るか分からない。
今すぐにでも、男の口を封じるべきだろう。
「分かった。分かったよ」
片桐は両手を上げて口角を上げる。
「ところで、今来た後ろの彼も仲間なのか?」
片桐はそう言いながら、静かに一歩前に踏み出す。
「あ? 誰だって? 今夜はもうここには誰もこねぇよ」
と男が後ろを振り返った瞬間、片桐は一瞬で男との間合いを詰めた。
「すまない、見間違いだったようだ」
片桐はそう言って男の首にロープを引っ掛けてあっという間に男を気絶させた。
男の膝がガクンと折れてその場に崩れ落ちる。
辺りは再び静寂に包まれ、水滴の音だけが、地下の闇を支配していた。
片桐は大きく息を吐く。
(どうにか、無事に終わったな)
片桐は壁際から離れ、地下駐車場の奥まった一角にある、目的の檻へと向かった。
檻の中には「猫探し」のターゲットである生き物がいた。
だがしかし、その姿は猫と呼べるほど可愛いものではなかった。
「何かと聞かれれば、トカゲだな」
片桐は口元を歪ませて、その顔に嫌悪感を露わにした。
周りの目がある酒場の中で「トカゲ探し」と言うのは確かに無理がある。
だから六條は敢えて「猫」と揶揄したのだろうが、目の前の生き物は猫に対するイメージとは懸け離れすぎており、片桐の中では更に一層、嫌悪感が高まった。
手足の曲がる角度、その舌の長さ、それに四足歩行である点はトカゲそのものだ。
目の前の生き物をトカゲと呼ぼうと思えば呼べる程度の類似点はあるにはある。
しかしその生き物の外見は有機物と無機物の混ざり合った、醜悪な融合体だった。
元は人間であった身体を、ペットボトルのような薄いプラスチックの破片が覆い、その下には錆びた鉄筋やコンクリートの破片が生体組織のように浮き出ている。
このような有機物と無機物が綯い交ぜになっている生き物こそが、東京アビスの出現と同時に現れた「魔物」と呼ばれている生き物であった。
そもそも魔物のベースは人間である。
東京アビスが出現したあの時、既に死体となっていたもの、または新たに死体になったもの達を取り込んだアビスが、更に無作為に飲み込んでいった人工物とごちゃ混ぜにして吐き出したことで、この不気味な生き物は誕生し、今ではアビスの内外を闊歩している。
だが目の前の魔物には他の魔物との明確な相違点が一つあった。
その首にシンプルな銀色の首輪が装着されているのだ。
片桐はその表面をちらりと見て、それがただの管理用デバイスだと判断する。
首輪には継ぎ目がなく、そのデザインはネクサステックが好む無機質で冷たいものだった。
ネクサステックとはR.I.N.G.S.の中で技術開発や管理システムを司る企業である。
片桐は首輪の小さな窪みに気が付かず、ゴーグルのデバイスを操作して六條の電話番号を呼び出した。
しかし電波は遮断されているようで、繋がらない。
(そんな気は、してたんだよな)
どうやら今日はアビスからの超微細粒子である「ノイズ」が多い日のようだ。
そんな日は電子機器の調子が悪い。
だから六條はわざわざフリンジにある統制区からゲートタウンまで来たのだろう。
このあと片桐は酒場に戻り、自身に不都合な情報は削ぎ落として、淡々と六條へ報告を行うだろう。
スクレイパーが口にした「弥生の理」や「木谷」といった情報は意図的に伏せて、だ。
(幸い、六條は口の固い男だ)
このあとの取り調べの際に、六條がスクレイパーの男達から何を聞いても、それが公になることはない。
片桐はゴーグル型のデバイスを額へと押し上げる。
彼は地下駐車場の入り口へと戻り、陰に放り投げていた荷物を回収。
短剣をベルトに戻し、ウエストバッグを装着した。
濡れたウエストバッグの感覚が、冷たい夜気に触れて僅かに不快だった。
彼は、不本意に得てしまった情報を隠蔽できたことに安堵した。
(俺が知ったことは、俺の腹の中にしまっておけばいい。誰にも言わず、誰からも聞かれない)
そしてまた、同じ毎日が訪れる。
これまでそうやって、「何でも屋」の仕事をこなしてきたのだ。
それはとても些細な生活だったが、片桐はそれこそが自分の身の丈にあった生活だと思っている。
(面倒事はもう、たくさんだ)
だが、しかし。
片桐が地下駐車場から立ち去るその姿、そして地面に倒れているスクレイパー達が事前に交わしていた会話、それらはすべて、猫の首輪に嵌め込まれたレンズを通じて弥生の理に送られていた。
そんなことなど夢にも思わずに、片桐は地下の濃密な湿気から、ゲートタウンの粘性の高い夜気の中へと、再び姿を溶け込ませたのだった。




