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REPAIR  作者: 明星
巫女
29/33

第1話

一月一日、早朝。

ゲートタウンの底冷えする夜気は、年が明けても何ら変わることはなかった。

冷暖房の乏しい事務所兼ガレージの薄暗がりの中、微かな物音が響いた。

「……片桐さん。少し、出かけてきます」

有坂の遠慮がちな声だった。

ソファで丸くなっていた片桐は、毛布を引き上げながら「ん……ああ……」と気だるい声で応じた。

ドアが静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。

片桐はそのまま、再び意識を手放した。

昨日の夜の出来事について考えたいのか、それともこれからの生きる術を探しに出かけたのか、片桐の認識はその程度だった。

その後、完全に意識が覚醒したのは、陽が高く昇ってからだった。

未だ家の中に有坂の姿はなく、戻ってきた形跡もない。

片桐は無精髭を撫でながら身を起こし、携帯コンロで湯を沸かす。

安いインスタントコーヒーの粉をカップに入れ、湯を注いだ。

焦げたような苦い匂いが、冷え切った空気に混ざっていく。

ふと、作業机の上に視線をやった。

昨夜、ドアの隙間に挟まれていたチープなA4のコピー用紙。

『一週間後、北部にある放棄された大型ショッピングモールで、弥生いやおいことわりによるおぞましい儀式が行われます。どうか、巫女を助けてください』

片桐はコーヒーを啜りながら、片手で端末を引き寄せた。

弥生の理、それは日本全国に支部を持つ巨大な宗教法人だ。

この街の外では、強引な献金や霊感商法めいたトラブルで眉を顰められることもあるというが、あくまでそれは「よくあるカルト」の枠を出ない。

だが、この手紙に書かれた「巫女」や「おぞましい儀式」のような、普段の組織からは聞こえてこない単語が、果たして事実であるのかどうかは確認しておく必要があった。

片桐はいくつかのキーワードを打ち込み、スクレイパーたちが利用する非合法の掲示板やR.I.N.G.S.に所属するダイバー達によるローカルネットワーク、果てには都市伝説を語るようなニッチなブログまで情報の網を広げた。

数分後。

「……何もなし、か」

片桐は短く息を吐いた。

『巫女』という存在についても、異常な儀式の目撃談も、ゲートタウン内外での不審な活動も、何一つ引っかからない。

見事なまでに情報が存在しなかった。

「やっぱり、ただの悪戯か。それとも……」

片桐は目を細める。

(俺をターゲットにした、質の悪い罠か)

先日処理した「猫探し」の件で、不本意ながら彼らの名をスクレイパーの口から聞いたばかりだ。

片桐は心底嫌悪している相手である弥生の理に関わることなどしたくない。

だからあの夜、その名前を六條に伝えることはしなかった。

「詳しいことは知らなくてもいい」

依頼の内容が何にしても、片桐はその立ち位置を変えるつもりはない。

そしてまた、罠だと分かっている泥沼に、自ら足を踏み入れる理由もない。

片桐は手紙を二つ折りにし、ゴミ箱の中へと落とした。

「この話は、これでおしまいだ」

そう呟いて、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。

午後。

片桐は不足している備品と食料の買い出しのため、ゲートタウンの通りへ出た。

元旦とはいえ、この街に正月らしい華やぎなど存在しない。

ただ、前夜の安酒で悪酔いしたスクレイパーや住人たちが路地に転がり、泥のような正月の気怠さが街全体を覆っているだけだった。

だが、大通りの中央にある小さな広場だけは、異質な熱気を帯びていた。

「さあ、こちらへ。痛むのはここですね。大丈夫、すぐに楽になりますよ」

広場に設営されたいくつかの白いテント。

その中心に掲げられていたのは、純白の布地に一輪の『白菊』と、それを囲む『真円の鏡』を組み合わせた、極めてシンプルな紋章だった。

そこには一切の邪悪さも、オカルト的な毒々しさもない。

恐らく教団設立当初の崇高な理念だけが込められた、一切の混じり気がない高潔な意匠。

片桐は歩みを止め、少し離れた建物の陰からその光景を観察した。

彼らがゲートタウンで見せている「表の顔」は、どう見ても純粋な慈善活動だった。

テントの下では、十数人の信者たちが、怪我や病気に苦しむ住人たちを看病している。

それは一見すると「おぞましい儀式」を行うような集団にはとても見えない。

だが片桐の目を引いたのは、その「治療」の光景だった。

一人の老齢のスクレイパーらしき男が、その腕の傷口を黒く変色させ、熱にうなされていた。

ファイブリングスの一角である大手医療企業、ガイア・ファーマが提供する医療器具や医薬品があればすぐにでも症状を緩和できるだろうが、その日暮らしの彼らにはそれを買う金がない。

そんな老人に信者の一人が寄り添い、変色した腕に、すり潰した野草のような泥状の湿布を丁寧に塗り込んだ。

そして、奇妙な香りのするお香を焚き、老人の背中を優しくさすりながら、静かに祝詞のようなものを唱え始めた。

片桐は目を細めた。

(……無意味なことを)

過去、調律者コントローラーとして様々な現場に立ち会い、膨大なデータを積み重ねてきた片桐には一目で分かる。

あの湿布や祈祷に、腐敗しかけている傷口を治療するような医学的効果など一切ない。

彼らがやっているのはただの気休め、悪く言えば自己満足でしかない。

しかし。

「助かる……。痛みが、引いてきた気がするよ……」

老人は目を閉じ、安堵の表情を浮かべていた。

それは周囲にいる他の住人たちも同様だった。

信者たちの目に嘘はない。

つまり彼らは本気で、この非科学的な治療が人々を救うと信じて疑わず、純粋な慈愛を持って弱者に接しているのだ。

(悪意のない悪ほど、質が悪い)

片桐は背筋に微かな寒気を感じた。

あの純白の紋章と柔和な笑顔の裏で、「日本の清らかな精神性」という教義のもとにどのような儀式が行われているというのか。

『どうか、巫女を助けてください』

ゴミ箱へ捨てた手紙の一文が、不意に脳裏にフラッシュバックした。

「……いや、気にしすぎだな」

もしも本当に彼らが裏で何をしていたとしても、それに関わる必要はない。

関わるべきではない、とすら思っている。

片桐はテントから顔を背け、再び雑踏の中へと歩き出した。

だが、広場を離れ、入り組んだ路地へと差し掛かった直後だった。

(……妙だな)

片桐は歩調を変えず、微かに視線を鋭くした。

誰かにつけられている気がする。

大晦日の炊き出しで感じた視線の主か、あるいは他の何かか。

片桐は足音を殺し、人混みを利用して不規則に路地を曲がり、背後の正体を暴こうと試みた。

だが、尾行者は奇妙だった。

ゲートタウンのスラム特有の複雑な地形を、まるで自分の庭のように熟知しているかと思えば、片桐が意表を突いて一気に距離を詰めても、その姿を捉えることができない。

あれほど分かりやすい尾行をしておきながら、いざ見つけようとすると逃げられる。

(素人か……? だが、これだけ上手く逃げられるのなら……)

結局、片桐は相手の顔すら拝むことができず、見えない糸に絡め取られたような不気味な徒労感だけを抱えて、撒くことしかできなかった。

「……厄介な年明けだな」

片桐は周囲への警戒を一段階引き上げたまま、買い物を済ませるのだった。

儀式までは、あと六日。

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