大晦日 最終話
「徳田」から事務所への帰路。
大晦日の夜風は、時間が深まるにつれてさらに鋭さを増していた。
大通りや飲み屋が密集する区画からは、年越しを祝う酔客の喧騒や下品な笑い声が、この澱んだ路地にも微かに届いてくる。
だが、二人が歩く裏道には、底冷えするような静寂と、凍てつく風しか存在しなかった。
隣を歩く有坂は、少年と出会った直後からずっと重い沈黙を保っている。
無理もない。
己の無知ゆえの善意が、スラムを生きる少年の命を危険に晒したかもしれないのだ。
その残酷な事実を突きつけられ、彼は完全に打ちのめされていた。
俯きがちに歩くその足取りはひどく重い。
片桐はそれを横目で見ながらも、あえて慰めの言葉をかけることはしなかった。
これからもこの街で生きていくのなら、その無知の代償は彼自身で噛み砕いて飲み込むしかないからだ。
やがて、見慣れた『REPAIR』の事務所が構えるガレージが見えてきた。
周囲には人気もなく、いつも通りの静まり返った夜――のはずだった。
「……待て」
片桐は急に歩みを止め、有坂の胸の前に腕を出して制止した。
「えっ……?」
顔を上げた有坂が声を漏らすより早く、片桐は鋭い視線をガレージのシャッターと、その横にある事務所の玄関扉へと向ける。
何かがおかしい。
物理的な破壊の跡はない。
だが、目を凝らすと扉の前の砂利が、普段片桐が歩く軌道とは違う形で微かに乱れている。
誰かが自分たちの不在を狙って、ここまでやって来た。
そしてそれは、徳田に出かけた後のこと。
片桐は無言のまま足音を殺し、極めて慎重な足取りで扉へと接近する。
背後で待つ有坂が息を呑む気配がしたが、片桐は答えずに周囲の暗がりを静かにクリアリングした。
待ち伏せはない。
殺気も、ない。
片桐の視線は、玄関扉の足元から、ドアの隙間へと吸い寄せられた。
そこに、白い紙切れのようなものが挟まっている。
片桐は周囲への警戒を解かぬまま、不審な細工がないかを指先で確かめ、そっとそれを引き抜いた。
「……盗みの類じゃなさそうだ」
片桐が短く告げると、有坂も恐る恐る近づいてきた。
街灯の乏しい明かりの下で広げてみる。
それはただの安っぽいA4のコピー用紙だった。
二つ折りにされた紙面には整った手書きの文字が並んでいる。
『一週間後、北部にある放棄された大型ショッピングモールで、弥生の理によるおぞましい儀式が行われます。どうか、巫女を助けてください』
下部には、ゲートタウンの外縁部を示す簡素な地図が描かれている。
そして、ご丁寧に『裏口を開けておきます』という一文が添えられていた。
「……」
無言でその内容を吟味する。
片桐の肩越しに文面を覗き込んだ有坂が、ハッと息を呑んだ。
「これ、助けを求めてますよ。片桐さん……!」
先ほどの路地で死んだように沈んでいた有坂の目に、すがるような熱が宿っていた。
己の無知な善意が他者を傷つけたかもしれないという罪悪感を、この「分かりやすい人助け」で上書きしたい。
今度こそ、正しい正義を行って自分を救済したい。
そんな青臭い焦りが、彼の声から痛いほど透けて見えた。
だが、片桐の目が見つめているのは「現実」だけだった。
「差出人は不明。指定の場所は周辺に人のいない廃墟。そして、報酬の提示はなし、か」
片桐はチープな紙を軽く弾く。
「やる理由が、ないな」
「そんな!もし本当だったらどうするんですか! 誰かが酷い目に遭うかもしれないのに、見捨てるんですか!?」
「有坂くん、相手は『弥生の理』なんだぞ?」
食い下がる有坂の言葉を、片桐は低い声で遮った。
「日本を元の姿に、そう謳いながら異能を忌み嫌い、同じ日本人すら排除しようとする。そんな狂った教義を掲げる排他的なカルト集団だ」
だが弥生の理はそんな顔を巧妙に隠したまま、世間に溶け込んでいる。
そんな連中の『儀式』がどういうものであったとしても、関わりたくはないものだ。
有坂は一瞬怯んだが、それでも拳を握りしめて片桐を睨み返した。
「それなら、なおさら行くべきじゃないんですか! 巫女って書いてあるじゃないですか、きっと女の子ですよ!」
その痛々しいまでの前のめりな姿勢に、片桐は静かにため息をついた。
「さっきの少年への失敗を取り繕おうとしてるのか?」
片桐の容赦のない言葉が、冷たい夜気に響く。
有坂の肩がビクッと跳ねた。
図星を突かれたのだ。
「君のその罪悪感を埋め合わせるために、今度はカルトの得体の知れない儀式に首を突っ込むつもりか。それはもう正義感ですらない。ただの自己満足だ」
「違います!僕は……っ!」
有坂は反論しようと口を開いたが、喉の奥で言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛み締めた。
「落ち着け。それにもし、俺がこれを調べるとしても君を連れて行く気はない」
片桐は手紙を折りたたみながら、静かに告げた。
「え……?」
「俺は君を雇ったわけじゃないよ、有坂くん。君はただの客人だ。俺の仕事に巻き込む理由はない」
突き放すような、しかしどこか諭すような静かな声。
決して乱暴ではないが、有無を言わさぬ大人の明確な線引きだった。
有坂は俯き、それ以上は何も言えなくなった。
片桐は鍵を取り出し、事務所の重い扉を押し開ける。
大晦日の夜が、静かに更けていく。
手元のチープなコピー用紙を見下ろしながら、片桐は小さく目を細めた。
胡散臭い手紙だ。
無報酬の厄介事は御免であることに変わりはない。
だが――。
(……巫女を助けろ、ね)
大晦日の、底冷えするような夜風が片桐の横を吹き抜けていった。




