第7話
ガラッ、と引き戸を開けると、強烈な出汁の匂いとむわっとした熱気が顔に吹き付けた。
大晦日の夜ということもあり、店内は年越し蕎麦をすする客で賑わっている。
「いらっしゃい。……おお片桐、生きてやがったか」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、鉢巻に前掛け姿の店主、徳田だった。
「昨日は差し入れ、助かったよ」
「気にするな。そんなことより動けるようになってよかったな」
徳田はニヤリと笑うと、片桐の背後にいる有坂に目を留め、ほうと息を吐いた。
「なんだ、あん時の迷子じゃないか。どうした?『REPAIR』にでも転がり込んだのか?」
「あ、いえ、その、これから、というか……あ、その節は道を教えていただき、ありがとうございました」
有坂がペコペコと頭を下げる。
ゲートタウンに辿り着き、右も左も分からず迷っていた有坂に、助けがほしいならと片桐の事務所を教えたのは他ならぬこの徳田だ。
「依頼料が払えなくて下働きでもするのか?」
徳田の言葉に答えにくそうに頭を掻く有坂を見て、彼は気にする素振りを見せずに「蕎麦でいいな?」と話を切り替えた。
「ああ。頼む」
二人がカウンターの隅に腰を下ろした直後、背後のテーブル席から下品な笑い声が弾けた。
「だから言ったろ! あそこにはまだお宝が眠ってるってな!」
「でもよぉ、あれ、本当に『アビスストーン』か? 探しても見つからねぇ代物が、なんで今更あんなところにあるんだよ」
「知らねぇよそんなことは。だがあれは『アビスストーン』だ。間違いねぇ」
酒が入っているのか、顔を赤くしたスクレイパーの男たちが、周囲の目も気にせず大声で管を巻いている。
アビスに潜る実力を持たず、周辺の地表である『等活』を浚うことしかできない連中だ。
そんな奴らが、『スパインタワーでアビスストーンを見つけた』と騒いでいる。
「上に登る道がなくて行けなかったが、どうにかして、絶対に手に入れてやる。いいか、見つけたのは俺たちだからな! お前ら、勝手に手を出すんじゃねえぞ!」
酔ったスクレイパーの男は椅子の上に立ち上がると周りに向かってそう喚いた。
(……スパインタワーに『アビスストーン』、ね)
『アビスストーン』――特殊な加工を経て体内に取り込めば、後天的に『異能力』を発現させることができる超微細粒子の結晶。
以前は周辺の地表である『等活』やアビスの浅層でも見かけられたが、T.A.M.Oやファイブリングスによる回収・管理が進んだ結果、今では『焦熱』以降の深層エリアでしかお目にかかれない。
手に入れさえすれば莫大な金に化ける代物だ。
確かにスパインタワーは上層へのアクセスルートがなく、手つかずになっている箇所は多い。
それに、と片桐は先日の小さな幸運を思い出した。
長い時間を掛けて下層へと移動し、ロビーへと落下していた徘徊者。
その身にはプラチナのネックレスとダイヤの指輪が埋まっていた。
(そういうことも、ある場所だしな)
今頃になってアビスストーンが発見される可能性はある、かもしれない。
だが、と片桐の中で過去の経験と記憶が違和感を伴って首をもたげた。
当然、スパインタワー内部はT.A.M.Oやファイブリングスによってドローンを使った調査が行われている。
しかし未だに上層へのルートが整備されていないということは、彼らにとって「行く価値がない」と判断されたからに他ならない。
少しの金や貴金属の類程度の発見では、彼らが危険を冒して探索をする理由にならないからだ。
それを踏まえると、元々スパインタワーにアビスストーンなど存在していなかったと結論づけるのが自然だ。
(ならどうして、今頃になって)
片桐の脳裏に、一つの不穏な仮説がよぎる。
超微細粒子の濃い深層に存在する未知の脅威が、何らかの理由で地表に現れたのではないか。
――例えば、極めて濃密な超微細粒子を身に纏う第一世代の魔物『大禍』の一体が、つい最近あのタワー付近を通過した痕跡だとしたら。
「片桐、さん?」
真剣な顔で黙ってしまった片桐を見て、有坂が心配そうに声をかける。
「ん? ああ、大丈夫だ。なんでもない。それよりも」
片桐は冷ややかな目と微かな溜息で制した。
「彼らには目も、意識も向けるなよ。……有坂くん、覚えておくといい。ああいうのは無視するのが一番だ」
片桐は声を潜め、言い放つ。
「こんな場所で、高価な獲物を見つけたと吹聴する。それを自信の表れだと勘違いしているような連中は、自分から勝手に敵を作る」
「……絡まれる、ってことですか?」
片桐は頷く。
「目立つな、騒ぐな。さっき六條に言われたルールの意味が、これで分かったか?」
有坂は大きく頷いて大袈裟にスクレイパー達から目を逸らした。
ふと、片桐が視線を前に戻すと、徳田が両手に蕎麦を持ったまま無言でカウンターの向こうに立っていた。
その視線の先にはスクレイパー。
徳田の横顔には、騒ぎに対する呆れと、拭いきれない微かな哀愁が張り付いている。
少し丸くなったその背中から、彼もまたかつてはあのようにアビスの夢を語り、現実の泥水を啜ってきたのだろうという匂いがした。
「……ほらよ、お待ちどお」
ドン、と無骨に置かれた二つの丼からは、白い湯気が立ち上っていた。




