第6話
喫茶店を出ると、湿り気を帯びた冷たい風が頬を撫でた。
空は鉛色の雲に覆われ、今にも雪を降らせそうだった。
「あ、あの……片桐さん」
背後から、遠慮がちな声がした。
振り返ると、有坂がコートの襟を合わせ、周囲をキョロキョロと警戒しながらついてきている。
「本当に、僕はこのまま片桐さんのところへ……?」
「そういうことらしい。それが嫌なら、止めはしないが?」
「い、いえ! ぜひ!お願いします」
有坂は必死に首を横に振った。
金もなく、自らを証明できるものは何もない。
そんな有坂に一人で街をうろつく度胸などあるはずもなかった。
「だがその前に、色々と買っておかないとな」
片桐は諦めたように呟くと、駅前の雑多な商店街へと足を向けた。
これから男二人の同居生活が始まるというのに、事務所の備蓄は底をついている。
自分の分すら怪しいのに、彼の分まで用意しなければならない。
「……贅沢は、言うなよ?」
片桐が入ったのは、看板の塗装が剥げかけた古びたドラッグストアだった。
店内には埃っぽい匂いが漂い、蛍光灯がチカチカと明滅している。
片桐はワゴンセールに放り込まれていた激安の歯ブラシと、業務用の白いタオル、それから特売のシャンプーをカゴに放り込んだ。
「あ、あの、僕はいつも決まったシャンプーを……」
「……どれ?」
「ええっと……あるかな?」
そう言って小走りで取ってきたシャンプーの値段を見て片桐は目を丸くした。
たかだか頭を洗うための物に、彼は数千円もかけている。
「……戻してこい」
有坂は一瞬絶望的な顔をしたが、大人しく商品を棚へ戻しに行った。
レジで小銭を数えながら支払いを済ませると、財布の中身はさらに寂しくなった。
トイレットペーパーにボックスティッシュ。
それから様々な消耗品で一杯のビニール袋を抱えて、二人は再び通りに出る。
『REPAIR』へと続く裏通りへ足を踏み入れると、再びあの白いテントの前を通った。
宗教団体『弥生の理』の炊き出し所だ。
昼時を過ぎても行列は絶えず、白装束の信者たちが何かを唱えながらパンとスープを配っている。
片桐は無言で眉をひそめ、視線を正面に固定したまま足を早めた。
ふと、視線を感じた。
雑踏に紛れた信者の数人が、じっとこちらを見ている。
それは単なる好奇の目ではない。
獲物を品定めするような、あるいは異物を排除しようとするような、粘着質で不快な熱を帯びた視線。
(……それと)
少し離れた場所からも一つ、視線を感じる。
だが不思議とこちらに嫌な感じはない。
いずれにせよ、ここで騒ぎを起こすのは得策ではないだろう。
片桐はそう判断し、気づかないふりをしてその場を通り過ぎた。
「道を変えるぞ」
「は、はい」
大通りを避け、さらに薄暗い路地へと折れる。
そこはビルの隙間にパイプや室外機が無造作に詰め込まれた、日の当たらない場所だ。
湿ったコンクリートと、腐った生ゴミの臭いが鼻をつく。
有坂はハンカチで口元を覆いながら、怯えたように足元を確認しつつ進んでいた。
その時だった。
鋭い鳴き声と共に、黒い影が有坂の足元を疾走した。
それは猫ほどもある巨大なドブネズミだった。
アビスの影響か、赤く光る眼が薄暗闇に軌跡を描く。
「ひいいっ!?」
有坂は情けない悲鳴を上げた。
恐怖に引きつった顔で、反射的に体を跳ね上げるとガラガラと大きな金属音が路地に響いた。
「……おいおい」
片桐は足を止め、呆れ果てて頭上を見上げた。
「だって……そ、それ!」
有坂は、地上三メートルほどの高さにある室外機の上にしゃがみ込み、怯えた顔で下を見下ろしていた。
地面を蹴り、垂直の壁を駆け上がる。
そうして配管を足場にして、室外機の上まであっという間に跳び乗ったその姿はまるで、熟練の軽業師のような身軽さだった。
未知の存在に対して、どうやら反射的に異能力を使ってしまったらしい。
「降りてこい。ただのネズミだよ」
「で、でも……今の、すごく大きくて……!」
「大丈夫だから、ほら。……まったく、あれほど『目立つな』と言われたのに」
片桐はため息をついた。
有坂は迷いなく室外機から飛び降り、派手な音とともに着地した。
その明らかに「普通」ではない身体能力を前に、当の本人はあまりにも不用心すぎる。
六條が釘を刺した理由が、嫌というほどよく分かった。
この男は、放っておけば確実に「騒ぎの種」になる。
「す、すみません……」
有坂は縮こまり、頭を掻いている。
その顔色は疲労か、はたまた緊張や恐怖から来るものなのか、どうにも青白い。
喫茶店では十分な食事をとっていたが、もしかしたらまともな休息は取れていないのかもしれない。
「……行くぞ」
片桐は促すように背を向け、再び歩き出した。
事務所として使っているガレージのシャッターを開けると、油と鉄の入り混じった無骨な匂いが鼻をついた。
一階の作業場は、様々な工具や機材が理路整然と壁掛けにされ、片桐の性格を反映して無駄なく片付いている。
「ここは俺の作業場だ。お前は二階を使え」
片桐はそう言って扉を一つ開けると、その奥にある急な階段を指差した。
「二階はしばらく使ってないから、たぶん埃まみれだ。掃除は自分で、できるな?」
「えっ、あ、はい! やります!頑張ります!」
有坂は渡された雑巾とバケツを手に、慌てて階段を上っていった。
程なくして、上からドタバタと荷物を動かす音や、派手な咳き込み声が聞こえてくる。
それをBGM代わりに、片桐は作業台の前に座り、依頼されていたジャンク品の修理に黙々と取り掛かった。
この家で、自分のいる場所以外から音が聞こえてくるのは何年ぶりだろうか。
それは片桐にとってとても懐かしく、同時に少し哀しい、そんな時間だった。
気がつけば夢中になり、作業を進めているうちにすっかり外は暗くなっていた。
「片桐さぁん……終わりましたぁ……」
階段から降りてきた有坂は、すっかり埃まみれになり、精根尽き果てたような顔をしている。
時刻は夜。
大晦日の冷え込みが、シャッター越しに忍び寄ってくる頃合いだ。
肉体労働を終えた有坂の腹から、小さく、しかしはっきりとした音が鳴る。
「……」
片桐は工具を置き、壁掛けの時計に目を向けた。
一人なら適当に済ませる晩御飯だが、有坂のいる大晦日ならば何か考えたほうがいいだろう。
「……有坂くん。そばは食えるか」
「え? ……はい、好きですけど」
「よし、じゃあ行こう。年越し蕎麦、だ」
「えっ、でも僕、お金……」
「いいよ。蕎麦代くらいは出す。もしもこの先生活に困ったら、こいつを質にでも流すさ」
そう言って片桐が有坂に投げて渡したのは、以前依頼の報酬の中に含まれていた高級そうな万年筆だった。
「刻印があったからな。売るに売れなくて処分に困ってたんだ」
万年筆には『祝・成人 父より』と彫られている。
片桐は冗談めかしてそう言うと、ガレージの外へと歩きだした。
有坂は一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに表情を緩ませ、「ありがとうございます!」と小走りで追いかけてきた。
少し歩くと冷え切った路地の向こうから出汁のいい匂いが漂ってくる。
古びた暖簾には、定食屋『徳田』の文字が染め抜かれていた。




