第4話
喫茶店のドアを開けると、カウベルの音と共に焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
店内は昼時を過ぎているせいか閑散としており、琥珀色の照明が古びた木のテーブルを柔らかく照らしている。
片桐は慣れた足取りで奥の席へと向かった。
そこには、新聞を広げながらコーヒーを啜る男――六條が待っていた。
六條は片桐の姿を認めると片手を上げかけ、その背後にいる人物に気づいて目を丸くした。
「……おい。どうして彼がここにいる」
六條の視線は、片桐の背中で申し訳無さそうに縮こまっている有坂に向けられている。
「さっき偶然会ってな」
片桐は短く答え、向かいの席に腰を下ろした。
六條は呆れたように溜息をついたが、それ以上は追求せず、ウェイトレスを呼んだ。
「好きなものを頼むといい」
片桐に促され、有坂はメニュー表を食い入るように見つめた後、ナポリタンとカツサンド、それからオレンジジュースを注文した。
注文を終えると、テーブルには奇妙な沈黙が流れた。
六條は組んだ指の上から、値踏みするように有坂をじっと観察している。
その鋭い視線に射抜かれ、有坂は借りてきた猫のように小さくなっていた。
会話のない気まずい時間が数分続いた後、程なくして運ばれてきた料理を前に、有坂はパッと目を輝かせた。
「いただきます」
彼は両手を合わせると、フォークを手に取った。
その手つきは洗練されており、ケチャップで赤く染まった太麺を上手に巻き取って口に運ぶ。
その所作一つとっても、育ちの良さが垣間見えるようだった。
ジャンクな味付けに感動しながらも、決して音を立てずに食事を進める有坂を横目に、片桐は懐から封筒を取り出し、テーブルの上へ置いた。
「すまない、遅くなった」
六條は無言で封筒を受け取り、中身を確認する。
だが、その表情は晴れるどころか、僅かに曇る。
「……片桐。これじゃあ半分なんだ」
それは薄情さから来ている言葉ではない。
そこには、どうしようもない現実を突きつけざるを得ない、苦渋の色が滲んでいた。
「半分?」
片桐は飲もうとしたコーヒーのカップを宙に浮かせたまま、眉をひそめた。
「前回と同じ額を入れたはずだが」
「相場が、上がったんだ」
「それにしても……」
あまりにも急ではないか、と片桐は言葉に詰まる。
「ルートがな、腐りかけてるんだよ」
六條は声を潜め、テーブルに肘をついた。
「ガイア・ファーマ内の目が厳しくなった。上手くやろうとすればそれだけ誰かに頼らなきゃならない。介在する人間が増えれば……分かるだろ?」
六條は軽く咳払いして続ける。
「そもそも、だ。お前も知ってるように、この薬は死を覚悟したダイバーの為のものだ。全ての痛みと恐怖を麻痺させて最期まで戦うための『特攻薬』だ。お前のような個人のために定期的に流すもんじゃない」
それでも、と六條は大きく息を吐いて続ける。
「こうして薬の用意ができているのは、お前の親父さんのことを知ってる人達のおかげなんだよ」
片桐に反論できる言葉はなかった。
その事情は十分に理解できる。
だがこの薬なくしては、父親をも呑み込んだアビスに、片桐がこれからも触れ続けることができない。
片桐は喉の奥で苦いものを飲み込み、視線を封筒へと落とした。
「……すまない。足りない分は、次までに必ず」
「いや、いい。今回は俺が被る」
六條は遮るように言い、封筒を懐にしまった。
「いきなりだったのは間違いないしな。……だがな、片桐」
六條の瞳が、哀れみにも似た真剣な光を帯びて片桐を射抜いた。
「最期の瞬間に使う薬を、生きるためにあおる。そんな生活はまともじゃない」
「…………」
「悪いことは言わん。お前なら、ここを出ても食い扶持には困らないだろう。アビスとは関係ない、どこかの田舎町でのんびり暮らすのも悪くないと思うがな」
それは純粋に、古くからの友人としての忠告だった。
その忠告を肯定するわけにはいかない片桐は視線を逸らし、無言でコーヒーを飲んだ。
昔馴染は随分と減った。
そんな数少ない友人からの優しさが、今は痛かった。
「……悪い、手洗いに」
重苦しい空気を断ち切るように、片桐は席を立った。
片桐の背中がトイレの扉の向こうに消えるのを待ち、六條は鋭い視線を有坂に向けた。
有坂はビクリと肩を震わせ、ナポリタンを巻くフォークを止めた。
「……本当に偶然か?」
六條の声は低く、威圧感に満ちていた。
「俺は『隠れてろ』と言ったはずだぞ」
「ぐ、偶然です。前に片桐さんの事務所へ伺った時は会えなくて、今日、炊き出しの列で……」
「炊き出しだと? 君は自分の立場というものを……」
と、六條は呆れ果てて天を仰いだ。
「いいか、よく聞け。君はただの家出人じゃない。東京のインフラと金融を牛耳る『イリス・キャピタル』の、たった一人の後継者なんだぞ」
六條は指先でトントンとテーブルを叩き、有坂に釘を刺す。
「だから、しばらくの間死んでもらうことにした。生きていると分かれば、その首にどれだけの値がつくと思ってる。ライバル企業、誘拐屋、あるいは内部の敵対派閥……データの流出を目論んだ君を探そうとする連中は、山ほどいるんだ。だから君は今、戸籍上死んでいる。亡霊らしく、息を潜めていろ」
「は、はい……肝に銘じます」
有坂は顔面蒼白になり、小刻みに頷いた。
その目には怯えの色が浮かんでいるが、同時に縋るような光も宿っていた。
彼は周囲を伺いながら、震える声で尋ねた。
「あの……ところで六條さん。例の件、上手くやってくれましたか?」
有坂が命懸けで持ち出した、組織の不正データの件だ。
彼は信じているのだ。
自分の「死」と引き換えに、その正義が白日の下に晒されることを。
六條は表情一つ変えず、静かに頷いた。
「ああ、安心しろ」
だがそれは、嘘だった。
データは闇に葬り去った。
巨大企業の不正など表に出るべきではない。
ましてやその告発をしたのが当の企業の跡取りなどとなれば、しばらくの間国内は大変な混乱に陥るだろう。
今の日本に、そんなことに関われるほどの体力は残されていないのだ。
有坂を生かすためには、正義などという不確定な火種は消し、本人には死んでもらうしかなかったのだ。
「……よかった」
何も知らない有坂は安堵の息を吐き、目尻に涙を浮かべた。
「僕がやったことは、無駄じゃなかったんですね……」
「すまない、待たせた」
そこへ、片桐が手を拭きながら戻ってきた。
六條は瞬時に表情を戻し、何事もなかったかのようにコーヒーを啜る。
有坂も慌てて涙を拭い、残りのカツサンドを頬張った。
何も知らない片桐は、空になった有坂の皿を見て「よく食うな」と微かに笑った。
その穏やかな空気の中で、六條と有坂だけが、共有した秘密の重さを噛み締めていた。




