第1話
ガレージの中は、水底のように静かだった。
片桐はソファに深く沈み込み、ぼんやりと天井を見上げていた。
足元には空になった安いウイスキーの瓶が転がり、サイドテーブルには錠剤のシートが散乱している。
全ての感覚が、鈍い。
数時間おきに噛み砕く錠剤が、脳と神経の間に分厚いフィルターをかけているからだ。
一人ならばこれほど摩耗する必要はなかった。
だが「救出」という役割を果たすためには神経を極限まで張り詰めさせ、焼き切れそうなほどの集中力が必要だった。
今その「ツケ」は、薬理作用によって強引にねじ伏せられている。
だが薬だけでは抑えきれないものがある。
過去のトラウマ。
以前、調律者としてアビスに潜っていた片桐にとって、その役割を降りるきっかけとなった「焦熱惨禍」は未だに深く心に根を下ろしている。
反芻される、そのトラウマを消すには酒の力を借りるしかない。
心がざわつかなくなるまで、ただ、薬と酒の力で塗りつぶすのだ。
だがその代わり、全身は鉛のように重くなり、頭の芯は痺れたように鈍くなる。
まるで自分と世界との間に一枚のガラスが挟まったような、奇妙な浮遊感。
これが、無理と無茶をした結果の「ツケ」を精算する、唯一の方法だった。
不意に、ガタガタとシャッターの小口扉が開く音がした。
この場所を知り、かつ遠慮なく入ってくる人物など一人しかいない。
「生きてるか、宗介」
定食屋『徳田』の店主、トクさんだった。
彼は返事も待たずにズカズカと入り込むと、古びたローテーブルの上にタッパーを積み上げた。
煮物の匂いが漂うが、薬で鈍った片桐の鼻には、どこか遠くの出来事のように感じられる。
「……いつも悪いね」
「気にするな。昨日の残りだ」
それが嘘であり、トクさんなりの気の使い方だということを、片桐は理解している。
薄く笑う片桐の側へ、トクさんは近くの丸椅子を引き寄せ、片桐の顔を覗き込むようにして座った。
その顔には、呆れと、隠しきれない安堵が混ざっている。
「顔色は……悪かねぇな。だが今回のヤマも大変だったみてぇだな」
「人……助け……だったけど……誰も…」
片桐ははっきりしない意識のまま答える。
多くを語る気力はなかったし、それ以上語れる希望もなかった。
「……そうか」
トクさんはそれ以上を聞かなかった。
ただ、少しだけ気まずそうに視線を彷徨わせ、何かを思い出したように髭面をさすった。
「そういやな、こないだここに若いのが来ただろ?」
若いの、と言われ、片桐の脳裏に浮かんだのはレンと名乗った青年の姿だったが、それはトクさんの言葉と一致しない。
泥のような思考の中を泳ぎ、ようやく答えにたどり着いた。
「……有坂さん、か」
「ああ、そんな名前だったのか?俺ぁ名前なんか聞かなかったからよ。だがな?俺があいつにここを紹介したんだ。だからちょっとばかり気になってよ、様子を見に来たんだよ。お前が飛び出していった後にな」
トクさんは持参したブラックの缶コーヒーをプシュリと開け、片桐に押し付けた。
「俺が来た時、あいつは奥の部屋に引きこもってたよ。中から鍵かけて、怯えてやがった。でも俺の声を聞くと、ようやく出てきてよ、すがるように聞いてきやがったんだ。『あの人は信用できる人なんですよね?』ってな」
片桐が話を聞きながら缶コーヒーの温かさを感じる。
感覚の鈍った指先にじんわりと、伝わってくる。
「……信用、してもらいたい、な」
自虐的な片桐の発言に、トクさんは豪快に笑う。
「おうよ、だから俺ぁ正直に言ってやったんだよ。『あいつは異能力なんて欠片も持ってねぇ。信用できるただの一般人だ』ってな」
「……それはまた、有坂さんも喜んだだろうさ」
右も左も分からない場所で、全財産を預けて助けを乞うた相手が何の異能力も持たない一般人。
等活を命からがら抜けてきた有坂にとってこれほど信用できる相手もないだろう。
もちろん、それはただの嫌味だ。
「でも事実だろうが」
トクさんはニカッと笑った。
「そしたらあいつ、ひっくり返ったような声出しやがってよ。『一般人……まさか、”ヌル”なんですか?』ってな」
Null。
「何もない」「空っぽ」。
片桐は以前にも燃焼系の異能力を持つスクレイパーの青年にそう呼ばれたことを思い出した。
若者たちの間では、異能力を持たない人間をそう呼ぶのがトレンドらしい。
いつの時代も人はカテゴライズしたがる。
片桐はそんな風潮があまり好きではなかった。
「そしたらあいつ、急に雷に打たれたような顔しやがってよ?『僕は何をしているんだ』って震えだしたかと思ったら、いきなり飛び出していきやがった。『僕も行きます!脚の速さにだけは自信があるんです!』ってな」
トクさんはおそらく大袈裟に、その時の場面を再現している。
だが、片桐の脳裏には、あの時の光景が蘇る。
崩落した天井の大穴から、何のためらいもなく飛び降りてきた有坂。
そして、着地した直後の、あの底抜けに明るい笑顔。
『片桐さん! 無事でしたか!』
あれは、何も考えていない者の笑顔ではなかったのだ。
強力な「身体強化」を持ちながら、「無能力」である自分に守られていたことへの羞恥心。
その上で、恐怖を押し殺し自らを隣に立たせる為の、彼なりの精一杯の虚勢だったのか。
(……真面目な奴だ)
片桐は、不覚にも口元が緩むのを感じた。
温室育ちの、世間知らずな坊っちゃんなだけだと思っていた。
だが、その根っこには、この薄汚れた街では稀有な「真っ当な良心」を持つ者らしい。
「いい奴、だったな。……まあ、もう会うこともないだろうが」
有坂のことは六條に任せた。
あいつなら上手くやってくれる。
片桐は缶コーヒーを一口すすった。
カフェインが、薬漬けの重い頭にゆっくりと染み渡っていく。
頭の奥で燻っていた重い熱が、少しだけ和らいだ気がした。
「どうだ? そろそろ動けそうなのか?」
トクさんはそう言うと、テーブルの隅に追いやられていた空の容器――以前の差し入れの残骸――を、手際よくビニール袋へと放り込んでいく。
「申し訳ない……汚したままで……」
片桐が力なく詫びるが、トクさんはそんなことを気にする素振りすら見せない。
「そんなこたぁいいんだよ」
ガサガサと袋の口を縛り、トクさんは立ち上がった。
そして、呆れたような、それでいてどこか楽しげな響きで言った。
「それよりもな、宗介。明日はもう大晦日だ」
「……大晦日?」
「ああ。いつまで寝てんだ。そろそろ起きねぇと、年越しの蕎麦も食いっぱぐれるぞ」
そう言い残し、トクさんは風のように去っていった。
再び静寂が戻ったガレージで、片桐はぼんやりと壁のカレンダーに目をやる。
アビスから帰ってきた翌日からずっとこんな調子だったが、感じていた以上に時間は流れていたらしい。
冷蔵庫の中身はとうに空っぽで、トイレットペーパーのストックも切れていたはずだ。
片桐は重い身体をゆっくりと起こした。
酒と薬で鈍った頭の隅で、日常に戻るためのスイッチが小さく入る音がした。




