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REPAIR  作者: 明星
クリスマス
19/19

クリスマス 最終話

片桐はレンに背を向けて少し離れた場所に立つと、タブレットケースを取り出して錠剤を噛み砕き、深く、ゆっくりと瞬きをした。

瞼の裏で、張り詰めていた神経の回路を一本一本、丁寧に切断していく。

過敏になりすぎている視覚と聴覚を「常人」のレベルまで落とす、数秒間の短い瞑想。

その間、片桐の意識は外界から遮断されていた。

瞼の裏は暗く、耳に届く音は微かなものへと変化する。

「ふぅ……」

長く息を吐き、目を開けて全てが「普通」に戻ったことを確認する。

視界に映るのは、いつもの見慣れた廃墟と、遠くに見える統括区の煌めき。

そして虫すら鳴かないアビス周辺の静寂。

仕事は、終わりだ。

生存者は一名のみだが、全滅よりはマシだろう。

そう判断し、目頭を揉みながら背後で疲れ切っているであろうレンに声をかけようと振り返った。

「大丈夫か?もう一息……」

頑張れ、そんな言葉は、途中で止まった。

予想していなかった光景が目の前にあったからだ。

レンがマスクを押さえながら、アスファルトの上でのたうち回っている。

「おい!どうした!」

片桐は駆け寄り、レンの体を抱き起こす。

防塵ゴーグル越しに僅かに見えるレンの目は、既に焦点が合っていない。

そして何より、マスクのクリアバイザーの内側が、一瞬にして汚れ、視界を塞いでいた。

(しまった)

先に確認しておくべきだった。

(アビスの中で何か口にしたのか!?)

片桐は表情を変えず、即座にレンの後頭部へ手を回し、マスクのバックルを探った。

だが、指先に触れた金属製のバックルは何かを噛んでおり、びくともしない。

爪を立てて外そうとしたが、嫌な感触とともに爪が裏返ってしまう。

短剣でベルトを切るべきか一瞬判断を迷う。

レンが激しく痙攣し、暴れるせいで手元が定まらず、この暴れ方では、刃先が頸動脈を捉えかねない。

その時、片桐の視線が、マスクの顎部分――本来なら排気弁があるはずの場所へ吸い寄せられた。

そこには赤と緑の派手なビニールテープが幾重にも巻き付けられ、嘔吐物の排出を妨げていた。

そして、その中央には、ファンシーなホログラムシールが貼られている。

『MERRY X'MAS』

(このままでは、窒息する)

弁が動かなければ、吐瀉物はどこへも行かない。

自らの吐いた物で、溺れることになる。

しかし。

片桐の手が止まるのと、レンの動きが止まるのは、ほぼ同時だった。

レンの背中が、釣られた魚のように大きく跳ねる。

マスクの中で、汚濁がゴボリと揺れた。

それが最期だった。

レンの手が、力なくアスファルトに落ちる。

痙攣が止まり、片桐の腕の中で、その身体はただの重い肉塊へと変わった。

一瞬の、ことだった。

片桐は動かなくなったレンをゆっくりと地面に寝かせた。

マスクの内部は汚れきり、レンの表情を伺うことすらできない。

助かったはずだった。

今まで生きていた。

積み重なったその全ての「幸運」が、たった一つの「不運」によって帳消しになった。

月明かりがマスクの表面を照らす。

そこに貼られた『MERRY X'MAS』の陽気な文字だけが、無機質にきらきらと輝いている。

優しい光を浴びながら、レンは自らの嘔吐物に溺れ、窒息死したのだった。

片桐は無言でレンの遺体の前に屈み込んだ。

レンの衣服のポケットを探り、安っぽい二つ折りの財布を取り出す。

中には数枚の紙幣と、ポイントカード、そして運転免許証が入っていた。

免許証の住所欄には『新潟県』の文字。

アビスとは無縁の、雪深い山間の住所が記載されている。

「……」

片桐は免許証だけを抜き取り、自分の胸ポケットに滑り込ませた。

財布はそのままレンのポケットに戻す。

誰が見つけるか、あるいは獣が食い荒らすか。

どちらにせよ、ここでできることはもう何もない。

片桐は一度だけレンの姿を見下ろした後、踵を返した。

ゲートタウンは深夜の静寂に包まれていた。

かつての繁華街の名残を残したこの街は、夜になるとその醜悪さを闇の中に隠し、どこか死に絶えた巨大な生物のような静けさを纏う。

片桐は迷路のように入り組んだ路地を抜け、目的のビルへと足を向けた。

増築に増築を重ね、本来の構造すら分からなくなったかつての九龍城砦のような廃ビル群。

その一角、錆びついた鉄扉の前で足を止める。

ノックはしない。

そのままノブを回し、重い扉を押し開けた。

部屋の中は、雑多な機材と書類の山で埋め尽くされていた。

複数のモニターが放つ青白い光だけが、薄暗い室内を照らしている。

その光の海の中、粗末なパイプ椅子に深々と腰掛けた男が一人。

「おや」

男――ジョン・ドウは、手元の端末から視線を外し、貼り付けたような薄い笑みを浮かべた。

「お帰り、ミスター・カタギリ。思ったより早かったじゃないか」

「……」

片桐は何も答えず、部屋に入ると無造作に胸ポケットから免許証を取り出し、ジョン・ドウのデスクへ置いた。

パチン、とプラスチックの乾いた音が、静かな部屋に響く。

「生存者は、なしだ」

ジョン・ドウはデスク上の免許証を人差し指で引き寄せ、ちらりと視線を落とす。

「新潟……いいところだ。あそこのニホンシュが好きでね」

「田舎に、帰りたがっていた」

「なるほど。なら、せめてタマシイだけでも、里帰りさせてあげようか」

ジョン・ドウは慣れた手つきで免許証を読み取り機にかざし、キーボードを叩き始めた。

カタカタという無機質な音が続く。

これで数日後には、然るべきルートを通じて実家へ訃報が届くことになるだろう。

行方不明のまま、家族が生還を待ち続けるという地獄だけは回避できる。

「ソウビは? レンタルはないのかい?」

「ネット通販の安物だ。ライゼン・リースへの返済金はない」

「そいつは素晴らしい。仕事が減るのはいいことだ」

ジョン・ドウは軽口を叩きながら、手元のマグカップに口をつけた。

その目は、口元の笑みとは対照的に、冷たく凪いでいる。

彼は他の生存者の結末や片桐がどのようにして戻ってきたか、その過程を詳しく聞こうとはしなかった。

結果が全て。

死体に対する処理が終わった。

それだけのことだ。

「……出口までは、生きてたんだ」

片桐はぽつりと、言い訳のように漏らした。

ジョン・ドウはキーを叩く手を止めず、モニターを見つめたまま答える。

「そうか。じゃあ、君の仕事はパーフェクトだったわけだ」

その声に、慰めも皮肉もない。

ただ事実を確認するだけの、乾いた肯定だった。

「報酬はいつもの口座に入れておくよ。……一杯どうだい?」

片桐が無言で頷くとジョン・ドウは琥珀色の飲み物を空のグラスに注ぐ。

片桐はそれを一気に喉に流し込むと背を向けた。

「もっと味わってほしいサケなんだがね」

そんな言葉を背に受けつつ、鉄扉を押し開けて廊下へと出る。

閉まる扉の隙間から、ジョン・ドウが「メリークリスマス」と呟くのが聞こえたが、片桐は足を止めなかった。

ビルを出ると、冷たい夜風が頬を打った。

空を見上げると、分厚い雲の切れ間から、数少ない星が覗いている。

片桐はふと、ポケットの中の錠剤ケースに触れたが、取り出すのをやめた。

今はただ、この静寂だけがあればいい。

片桐はコートの襟を立て、闇の中へと消えていった。

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