第10話
男は懐から手ぬぐいを取り出すと、短剣にこびりついたドロドロとした脳漿を拭い始めた。
その顔を覆うのは、鼻と口元だけのハーフマスクとゴーグルのみ。
それに比べて、こちらはどうだ。
レンは自身の顔を覆う、重たく仰々しいフルフェイスのガスマスクを疎ましく感じた。
「最強の装備」だと信じていたものが嫌に滑稽に思えてくる。
レンは呆然と片桐を見つめた。
助かった、のか?
本当に?
思考が追いつくと同時に、張り詰めていた糸が切れ、その場にへたり込みそうになる。
「あぁ、座るのは少し我慢してほしい。今はここから離れよう。そう遠くない場所に、厄介な魔物がいるからな」
男は短剣を腰の鞘に収めると、レンの方へ向き直った。
その声はこの絶望的な場所には不釣り合いなほど、日常的だった。
「改めて、俺は片桐という。ゲートタウンで何でも屋をしている」
片桐の言葉に、レンは何かを言おうとして、言葉にならずに首を振った。
「話は道すがらするとしよう。歩けるか?」
今度は、必死に首を縦に振る。
片桐はわずかに頷き、「よし、行こう」と短く答えた。
その落ち着き払った挙動を見ているだけで、こびり付いて剥がれなかった不安が霧散していくようだった。
「一時間も歩けば地上に出られる。疲れているなら途中、セーフゾーンに寄ることもできるが」
「……」
「どうする?」
片桐の言うセーフゾーンとは、アビス探索の休憩所として水や食料が備蓄されている隠し部屋のことらしい。
(そんな場所が……)
巧妙に隠されているというその場所の存在には全く気が付かなかった。
だが、今は一秒でも早くこの地獄から離れたいと思った。
それに――。
「このマスク……悪ふざけのせいで、外すのが大変で……」
レンの情けない言い訳に、片桐は「なるほどな」と小さく苦笑した。
「行こう。離れずについてきてくれ」
これだけ翻弄されたアビスの内部から、たかだか一時間で出ることができるなんて、まるで現実感がなかった。
「さて、俺がここに来た経緯だが」
歩きながら、片桐は淡々と語り始めた。
「ゲートタウンの『ジョン・ドウ』という男からの依頼なんだが……心当たりは?」
「……いえ、知らない名前です」
「なら君の仲間のなかに、彼と面識がありそうな人はいるかな?」
レンに思い当たる人物は一人しかいない。
「たぶん、俺達のリーダーのダイキだと思います」
ダイキとその、ジョン・ドウという男がどういう繋がりなのか、まるで想像もできない。
しかしこんな場所まで探しに来る価値のある人物など、自分たちの中ではダイキくらいだろう。
レンの言葉に片桐は「そうか」と短く漏らしたが、それ以上深くは追及してこなかった。
「昨夜、居酒屋で『アビス』へ向かうと騒いでいた若者たちの話を人伝に聞いたらしくてね。嫌な予感がするから探してきてくれ、と頼まれたんだ」
昨日の夜。
レンにとっては遠い昔のことにも思えるが、時間はまだ一回りもしていない。
「それで、だ。まず、君の名前は?」
「え……? レ、レン、です……」
「そうか。レン君」
片桐はゴーグルの位置を直しながら、前を見据えたまま問いかけた。
「俺が依頼された捜索対象は五人。状況から察しはつくが……他の四人は?」
「……」
レンは喉の渇きを覚えながら、震える声で答えた。
まずカケルが、地下に降りてきて早々に頭を乗っ取られて死んだこと。
驚いて逃げ出した結果、床が抜けて下層へと落ちてきたこと。
その際怪我をしたタツヤが、死体を縫い合わせたような怪物を食い止める為に殿を務めたこと。
そして、ミホが変わり果てたリーダーの異能力で殺されたこと。
「結局、俺以外みんな、死にました」
「……大変、だったな」
片桐は、静かに相槌を打った。
「ちなみに、最初のは『吊下者』という魔物だ。天井からぶら下がり、獲物が下を通る際に襲いかかる。アビスの中では頭上にも注意しておかなければならない」
気まずくならないために、あえて話をしてくれているのだろうか。
片桐は常に正面を見据え、歩きながら世間話でもするかのように続ける。
「タツヤ君を殺したのは『縫合者』。気に入ったパーツは無理やりにでも奪い取り、自分に縫い付ける収集家だ。動きは速くない。見かけたらすぐに逃げればいい」
いや、そうではない気がしてきた。
「そして、さっき俺が殺したのが『執着者』。君も気づいていたかな? 奴は一度ターゲットと定めた者を決して諦めない。もし自分一人しかいない時は逃げ回るよりも立ち向かう方がいいだろう」
(この人はもしかしたら、アドバイスのつもりで話しているのかもしれない)
そう思った。
「ハンガー、スティッチャー、ストーカー。こいつらは等活ではほとんど遭遇することはないから、知らなければ対処のしようもない、よな」
レンは、片桐の言いたいことがよく理解できた。
知らない者たちが知らないまま、知らない場所に来て死んだ。
それはこのアビスという場所にとっては当たり前のことなのだ。
だから彼は、レンが次にこの場所に来た時にも生き延びられるように、助言してくれているのだろう。
「わけのわからない恐怖」として対峙したすべてに明確な分類と習性があるのだと、カケルも、タツヤも、ミホも、ただの不運で死んだわけではないのだと、教えてくれているのだ。
「俺達、誰も、アビスの中がこんなに危ないところだって、想像もしてなくて……」
怒られると、思った。
呆れられると、思った。
しかし片桐の様子は変わらない。
「俺や他の皆も、同じだよ。知るまでは、ずいぶんと苦労したものさ。……アビスが現れた当初はひどいものだったらしい」
片桐が片手でレンを制し、少しの間、正面を見据える。
そしてまた、歩き出した。
「自衛隊の武装ですら歯が立たず、たくさんの人が死んだ。そしてダイバーが探索をするようになってからも優秀な奴、やる気のある奴から死んでいった。今あるものは全部、そういう死体の山の上に成り立ってる。だから、君の仲間が死んだのは、ある意味で当然、なんだよ」
後ろ姿ではその表情までは分からない。
しかしその声は、どこまでも平坦だった。
それが、この場所の「当たり前」なのだろう。
自分達は地表、等活での活動だけで全てを知ったような気になっていた。
アビスの内部も大して変わりはないだろうと侮っていた。
話にしか聞いたことのない「東京事変」。
そこから始まる様々な連鎖が「今」を作っているということをまるで理解していなかった。
「本当に、すみません」
そんな自分を、こんな場所まで助けに来てくれた。
たとえそれが「何でも屋」の仕事なのだとしても、レンは頭を下げずにはいられなかった。
「ここは遊びでくるような場所じゃない。それは分かってくれただろ?なら次に来る時にはちゃんと準備をしてほしい」
そんなことを言われ、レンはふと、空っぽになった上着のポケットを握りしめた。
堪えきれない自嘲がこみ上げてくる。
「準備、ですか……。はは、笑ってくださいよ」
レンは乾いた声で言った。
「俺、ナイフを持ってたんです……でも死体からライターを取った時に、落としちゃったみたいで。そのライターも、さっき逃げる時に投げつけて……。だから、あのストーカー野郎に追いかけ回された時は、もう何も持ってなかったんです。丸腰で逃げ回るしかなくて……情けないですよね」
武器すらまともに管理できず、死人の遺品に縋って、最後はそれすら失って逃げ回っただけの自分。
勇敢に立ち向かったタツヤや、異能力をもつダイキとは違い、自分はただの腰抜けだ。
しかし、片桐の返答は、そんなレンを責めるようなものではなかった。
「運が良かったじゃないか」
「……はい?」
レンが顔を上げると、片桐は真面目な顔つきで言った。
「もしナイフを持っていたら、君はそこで戦おうとしただろ?」
「それは……」
言われてみれば、確かにそうだ。
ナイフがあれば「一矢報いてやる」という思いに駆られ、勝ち目のない戦いに挑んでいたかもしれない。
「戦いに慣れていない者がナイフ一本で勝てるほど、アビスの魔物達は優しくない。武器が何もなかったから、君は『戦う』という選択肢を捨てて、全力で逃げることに集中できた」
片桐は諭すように続ける。
「生き残ることが重要なアビスで、君はこうして生きている。恥じることじゃないさ」
その言葉に、レンは虚を突かれたような顔をした。
自分の弱さとドジが、結果として命を繋いだと言うのか。
「……まあ、結果論、なんだけどな」
片桐はそう言って、少しだけ表情を緩めた。
そしてレンの顔――マスクに視線を向けた。
「だけど、そのマスクは捨てたほうがいい」
「え……?」
「それ、この街で買ったものじゃないだろ?」
「えっと……ダイキが、リーダーがコスパ最強だからって……ネットで」
「それで、実際どうだった?」
ひどかった、と答えるしかなかった。
「視界は悪いし、音も聞こえにくいし……」
「そう。ここじゃ、音や匂い、些細な違和感に気づけるかどうかが生死を分ける。自分の五感を鈍らせるような装備は、逆に命取りになる」
片桐はさらに続ける。
「それに君、さっきまでライトをつけて走っていただろ」
「あ……はい。スマホのライトを……」
「まぁそれで見つけることができたから良し悪しではあるけど、アビスの闇の中で光源を持つのはやめたほうがいい。『ここに餌がいる』と言っているようなものだからね」
「でも、ライトがないと何も見えなくて……」
「アビスの、特にこの黒縄のことを知っている者はこれを使う」
片桐は自らの装着している無骨なゴーグルを指先でコンコンと叩いた。
「暗視装置。ここまでのものではなくても、これだけは必ず用意したほうがいい」
片桐は相変わらず、レンが次に来る時の参考にと親切心で教えてくれているのだろう。
だが、レンの腹は決まっていた。
(二度と、来るものか)
こんな地獄は一度で十分だ、と強く歯噛みした。
こんな場所に日常的に潜る神経など、持ち合わせてはいない。
この場所で、この街で生きていくのはどこかが壊れていなければ無理だと実感した。
自分と他者、そこにある決定的な意識のズレを、レンは痛感せずにはいられなかった。
と、片桐は不意に進路を変えた。
レンには一本道に見えた通路を無視し、崩れかけた壁の隙間へと身体を滑り込ませていく。
「え、大丈夫なんですか? そんなところ……」
「このエリアの構造は頭に入ってる。少し狭いが、通路の先の集団を相手にするよりいいだろう」
どうやら片桐には「見えている」ようだった。
一瞬、虚空を見つめ、耳を澄ますような素振りを見せる。
通路の先の気配、床を伝う振動、空気の匂い。
それらを、過去の経験と照らし合わせながら、片桐は最適なルートを選び取っている――ようにレンには見えた。
「……あの」
「どうした?」
狭い通路を進みながら、レンはぽつりと漏らした。
「俺、実家が新潟の山奥なんです。アビスなんて無縁の、退屈なところで」
「新潟か。いいな」
「はい……。そんな退屈が嫌で、ここに来れば何者かになれると思ってました。でも」
友人は死に、自分は逃げ回り、助けられただけ。
何者かになるどころか、自分はただの無力な存在でしかないのだと思い知らされた。
「俺……帰ろうと思います。田舎へ」
「……そうか」
片桐の声は、変わらず平坦だった。
引き止めることも、励ますこともない。
「それがいい。ここは、何かを求めて来る場所であっても、自分を探しに来る場所じゃあない」
しばらく歩くと、澱んだ空気がふっと軽くなったのを感じた。
長い階段を上り、ひしゃげたシャッターの隙間をくぐり抜ける。
そこに広がっていたのは、見覚えのある荒れたアスファルトだった。
「……あ」
レンはフルフェイスのバイザー越しの、突き刺さるような輝きに目を細めた。
闇の向こうで統括区がキラキラと輝いている。
青白く、どこまでも無機質な人工の光。
それは泥と血にまみれたアビスとは対極にある、冷徹で美しい、文明の色だった。




