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REPAIR  作者: 明星
クリスマス
17/19

第9話

レンは息を呑んで、その異形を見据えた。

(来る、か……?)

身構えようとしたが、手元には何もない。

ナイフは紛失し、唯一の所持品だったライターさえもダイキの気を逸らす為に投げてしまった。

完全な、丸腰だ。

三日月形に裂ける魔物の口の中では、音が聞こえてきそうなほど粘液が糸を引いている。

「くっ!!うぅ……」

レンの体が震え、悲鳴にならない悲鳴が漏れ出る。

ただがむしゃらに戦えばいいのか?

このまま観察していていいのか?

そんな思考をする余裕などあるはずがない。

心許ない選択肢は、圧倒的な「死」の予感を前に消し飛んだ。

(逃げなければ、殺される)

それがこの場所、アビスで得ることのできた、たった一つの教訓だった。

レンは弾かれたように背を向け、暗闇へと全力で駆け出した。

身体はとうの昔に限界を迎え、肺が焼けつきそうだった。

呼吸をするたびに、マスクの内側が曇る。

「はっ、はっ、はっ、……くっ!」

レンは闇の中を走った。

いつからか足元はぬかるんだ泥と、正体不明の粘液で覆われている。

何度も足を滑らせ、そのたびに泥まみれになって這い上がり、また走った。

後ろを振り返ることはできない。

振り返れば、暗闇の奥から「やつ」が迫ってきているのが見えてしまうからだ。

ピチャピチャと濡れた足音が、からかっているかの様に一定の距離を空けて追いかけてくる。

時折混じる、硬い爪がコンクリートを引っ掻くような、ガリッという不快な高音。

音は、離れることも近づくこともない。

(なんで、なんでだよ……)

涙と鼻水でマスクの中がぐしゃぐしゃだった。

通販で買った安物のナイフは落としてしまった。

だが、あんなものがあったところで何の意味もないだろう。

ダイキのような異能力がなければ、魔物相手に太刀打ちできるわけがない。

(みんな、死んだ)

あんなに自信満々だったダイキも、お調子者のカケルも、幸せそうだったタツヤとミホも。

全員、闇に飲まれた。

自分だけが、運良く――あるいは運悪く、生き残ってしまった。

逃げ場はなく、出口の方角も分からない。

いや、自分が今どこにいるのかさえ分かっていない。

レンは無我夢中に走り続けることしかできなかった。

恐怖で思考が焼き切れそうだ。

どうして、こんなところに来てしまったのか。

後悔だけが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

間違いの始まりを思い出すと、胃の中でとっくに消化されているはずの唐揚げとケーキが逆流してきそうな気分になった。

「はっ、ぐぅ……!」

嗚咽と共に足がもつれた。

レンは床を這う配管に足を引っ掛け、派手に転倒した。

勢いのまま地面に叩きつけられ、泥水の中に無防備な背中を晒す。

(……終わった)

レンは荒い呼吸のまま頭を抱え、身体を縮こまらせた。

このまますぐに追いつかれ、背中から喰らいつかれるだろう。

鋭い牙が自分の身体を引き裂く激痛を想像し、奥歯を噛み締めた。

……だが。

1秒、2秒。

いつまで経っても、牙も爪も突き立てられなかった。

(……え?)

訪れたのは、痛みではなく、奇妙な静寂だった。

さっきまで背後に迫っていた、あの執拗な足音が消えている。

レンは恐る恐る顔を上げ、震える視線を背後へと向けた。

「……は?」

レンが転んだ場所からわずか数メートルの距離に「やつ」は、居た。

魔物は、四つん這いの姿勢のまま、ピタリと静止しているのだ。

襲いかかってくるわけでもなく、威嚇してくるわけでもない。

まるで映像を一時停止したかのように、不自然に固まっている。

(なんで……?)

すぐ目の前に獲物が転がっているのに、なぜ襲ってこない?

レンは混乱しながらも、この隙に距離を取ろうと、座り込んだままズルズルと後退った。

カサッ。

レンが動いた瞬間、魔物が動いた。

「ひっ!」

レンは悲鳴を上げて動きを止めた。

ピタリ。

魔物の動きも、同時に止まる。

(……え?)

再度動くと、魔物もまた、動く。

レンがゆっくりと立ち上がるが、その間魔物は動かない。

そして少し後ずさりすると、同じ距離の分だけ、「やつ」も動くのだ。

心臓が早鐘を打つ中、レンの中に一つの「仮説」が生まれた。

レンは唾を飲み込み、試すように、右足をゆっくりと引いた。

ズリッ、と魔物の右前足が、前へ出た。

レンが動きを止めると、魔物も止まる。

レンは、またゆっくりと一歩、後退った。

やはり、それに合わせて魔物が一歩前進する。

そしてまたレンが止まると、魔物も止まる。

(そういう、ことなのか……?)

レンは乾いた唇を舐めた。

(こいつは、俺が動いた分だけ距離を詰めてくる)

それはなんだか「だるまさんが転んだ」のようだと思った。

あくまで予想でしかないが、こいつの行動原理はそこにある。

ならば、とレンは試しに一歩前に進み出た。

そうすれば「やつ」は逆に一歩下がるのではないかと思ったのだ。

だが、レンの行動を見た魔物は下がることをせず、ただ嬉しそうに目一杯口角を上げて嗤った。

「ひぃ!!」

やるんじゃなかった、そんな後悔を背負いながら、レンは震える足で再び走り出した。

背後から、猛烈な速度で追ってくる音がする。

こちらが止まれば、止まり、走ればまた、追ってくる。

(こいつ……俺を殺す気がないのか?)

一瞬そう思ったが、直後に否定する。

いや、違うのだ。

レンの背中には、殺意よりも悍ましい粘着質な視線が、ずっと張り付いたままになっている。

(こいつは狩りを楽しんでいるわけじゃない)

ただ、レンが力尽きるのを待っているのだ。

あるいは、レンが別の魔物と鉢合わせになり、無残に死ぬ瞬間を、特等席で眺めようとしているハイエナのような生態なのかもしれない。

どちらにしても、とレンは歯噛みする。

(悪趣味なやつだ……!)

いつまで逃げればいい?

前方からは、いつ他の魔物が現れるか分からない。

もし他の魔物と出くわしても、追われているレンには立ち止まることなどできはしない。

そんな勢い任せの行動で、いつまでも生き延びる自信などない。

かといってこのまま逃げ続けていても、背後の「ストーカー野郎」はずっと憑いてくるだろう。

角を曲がるたびに不安に襲われる。

魔物がいるのではないか。

この先は逃げ場のない袋小路なのではないだろうか、と。

精神が、やすりの上で擦り下ろされるように摩耗していく。

足がもつれ、息が上がる。

逃げても意味がないのなら、どうすればいいというのだ。

向かっている先が分からない。

アビスから出られる気がしない。

一度でも他の魔物に出会えばそれで終いだ。

(もう、走るのを止めてしまおうか……)

その時だった。

「君! 一度止まってくれ!」

どこからか、男の声が響いた。

(……?)

レンの思考は、その声を正常に処理できなかった。

人の、声?

いや、ありえない。

仲間は全滅した。

なら、あれはなんだ?

(罠だ)

疑心暗鬼に蝕まれた脳が、即座に警告を発する。

あれもまた、魔物だろう。

人間の声を真似て、自分を油断させようとしているのだとレンは判断した。

レンは足を止めなかった。

止めることができなかった。

自分の死、レンはまだ、その事実を受け入れられなかった。

「おい! 頼むから止まってくれ!」

また聞こえた。

「聞こえてるだろ?一瞬でいいんだ!ほんと、一瞬だけでいいから」

声はどうにも必死だった。

少なくとも敵意はない、ように思える。

何なら、少し息が切れているような、なりふり構わないそんな叫び声だ。

「頼む!なぁ!!」

そのあまりに「情けない」、人間臭い声の響き。

それが、狂気の海に沈んでいたレンの意識を、強引に水面へと引き上げた。

(……人間、なのか?本当に?)

パニック寸前だった足に、無意識のブレーキがかかる。

レンは、靴の底を鳴らして急停止した。

背後で、ガチャガチャと音を出して、魔物もまた数メートル後方でピタリと止まる。

直後だった。

停止した魔物のさらに後方、闇の奥から黒い影が飛び出した。

影は低い弾道で跳躍し、魔物の背中めがけてダイブした。

鈍く、重い音が聞こえた。

「ゲッ……」

魔物の身体が地面に押し潰され、汚い鳴き声のようなものを上げた。

影の正体である男が、勢いそのままに背中に乗りかかり、その脳天に深々と短剣を突き立てていたのだ。

男は全体重を乗せて刃を抉り、トカゲのような魔物の脳髄を破壊した。

痙攣。

そして沈黙。

レンを精神的に追い詰めた「ストーカー野郎」は、あっけなく肉の塊に変わった。

「はぁ、はぁ、ふぅ……ふぅ」

大きく深呼吸をしたあと、男が魔物の死体から短剣を引き抜き、よろよろと立ち上がる。

レンはその姿を呆然と見つめた。

ダイキのような重装備ではない。

動きやすさを重視したラフな服装に、顔面には鼻と口元だけを覆うタイプのマスクと、目元にはゴーグルのみ。

レンたちのようなフルフェイスのマスクではない。

だからこそ、露出した額の汗や、皺の刻まれた頬、そして白髪混じりの髪が見て取れた。

(おじさん……?)

それは、この絶望的な地下迷宮には不釣り合いな、中年のやつれた男だった。

男は額の汗を拭いながら、レンを見て苦笑した。

「こいつ、厄介だっただろ?遠距離武器でもあると、楽なんだが……」

まだ呼吸が整っていないのか、言葉の端々に荒い吐息が混じる。

「でも、二人ならこうして……はぁ、片方が引きつけてる間に、簡単に倒せる」

男は自らを「片桐」と名乗った。

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