第8話
レンの喉からは、声にならない安堵が漏れた。
(よかった……)
ダイキが、生きていた。
ようやく再会することができた、とレンの体からは力が抜け、立ち上がることができなかった。
助かった、という思いが全身を駆け巡り、自然と涙がこぼれた。
だが次の瞬間、大きな違和感を覚えた。
これまでの経験から、「何かが、おかしい」という直感が大声を上げている。
ダイキはいったいいつから、あそこに立っていた?
なぜ、声をかけてこない?
いつもの彼なら、「無事か!」と大声で駆け寄ってくるはずだ。
あるいは「タツヤは!?」と現状の確認をしてくるだろう。
なのに、彼は暗闇の中で俯いたまま彫像のように静止している。
こちらのライトを受けても、身じろぎひとつしない。
その立ち姿からは、ダイキが持っていたはずの頼もしさや熱量が消え失せ、代わりに底知れない「空虚」だけが漂っていた。
「ダ……ダイキ?」
レンが震える声で呼びかけた、その時だった。
「あ……」
レンの声に反応したミホが顔を上げ、喜びの声を上げた。
彼女の声色が、劇的に変化する。
直前までレンとマスクへ向けていたものとは正反対の声。
「ダイキ!? ダイキじゃん!」
彼女には、レンが感じた違和感が見えていないようだ。
「よかったぁ……生きてたんだね、ダイキ……!」
ミホは勢いよく立ち上がり、レンのことなど忘れたかのように駆け出した。
「待って! ミホ!」
レンは咄嗟にミホの腕を掴もうと手を伸ばした。
行ってはいけない。
あれに近づいてはいけない。
根拠のない、けれど確信に近い警鐘がレンの脳内でガンガンと鳴り響く。
だが、その指先はミホの上着を僅かに掠めただけで、空を切った。
「お願い、助けて!!」
ミホは警戒心のかけらもなく、リーダーの懐へと飛び込んでいく。
「私もうこんなところ嫌だよ!タツヤくんも死んじゃって、あいつは役に立たないし!ねぇお願い!早くこんなところから出してよ!」
頼りないレンと違い、ダイキはミホにとって最強の守護者であった。
彼ならこの悪夢を終わらせてくれると、ミホは本気で信じていた。
直後、ダイキが片腕で、飛び込んできたミホを抱きしめた。
「……え?」
ミホが小さく声を漏らす。
だがそれは抱擁ではなかった。
「あ、あれ……? ダイキ……?」
万力のような力で、ミホの身体を片腕だけで拘束する。
困惑するミホの脇腹に、ダイキがもう片方の手のひらを添えた。
生前、ワンダラーの体を容易くぶち抜いたダイキの異能力、「衝撃」。
それが今、ゼロ距離で生身の女性に向けられている。
「な、なに?これ、どういうこと?」
ダイキは何も答えない。
ただその手のひらを、強く、ミホの脇腹に押し当てた。
直後。
破裂音と共に、ミホの上半身が肉片となって飛び散った。
空気が爆ぜ、狭い通路を揺らしたと思った時にはもう、ミホはいなくなっていた。
ゴロゴロと、黒い塊が転がってくる。
レンは呆然とした。
そこに残された腰から下だけのミホと、壁に散らばったミホを交互に見て、レンは叫ぶことすらできなかった。
(俺を……見てる……)
足元に転がってきたマスクの中身が、無感情な瞳でこちらを見つめてきていた。
ダイキが、ゆらりと動き、ミホの下半身をゴミのように蹴り飛ばす。
壁にぶつかった肉塊は鈍い音を立てて落ちた。
そしてその無機質なマスクが、今度はゆっくりとレンに向けられる。
マスクの奥からは低く長い音が漏れている。
「あ……あ、あ……」
レンは座った姿勢のまま、ズルズルと後退る。
殺される、と思った。
次は俺だ、と思った。
(いやだ……いやだ……いやだ)
レンは震える手でポケットを探った。
ただ無残に殺されるのは嫌だ。
逃げなければ。
だが同時に、もし逃げられないとしても、このふざけた世界に何か爪痕を残してやりたいと思った。
だから、ポケットの中の折りたたみナイフを探ったのだが、しかし指先が触れたのはナイフではなく、冷たくて四角いライターの感触だけだった。
(……なんで、ナイフは?)
脳裏に、遺体を漁った時の記憶が蘇る。
あの時、ライターをポケットにねじ込んだ拍子に落としたのかもしれない。
「クソッ……!」
思わず悪態をつく。
ゴミを拾って武器を捨てたのか、とレンは歯噛みする。
そんな自分を、マスクの中のミホが馬鹿にしながら笑っているような気がした。
ダイキが、再びゆらりと動き出す。
ようやく立ち上がったレンは、その恐怖で足がすくんだ。
(このままじゃ俺も、壁のシミになる)
死にたくない。
叫び出しそうな恐怖の中で、レンの手が「ゴミ」を握りしめた。
イチかバチか、だった。
「んん!!」
押し殺した叫びと共に、レンは手にしたジッポライターを、自分の目指す逆方向の壁へ全力で投げつけた。
虚空に、金属が壁を叩く甲高い音が響く。
ダイキのマスクが、わずかに音の方へ向いた。
(今だ!)
レンは地面を這うように身を低くし、無我夢中で駆け出した。
直後、頭上の空気が破裂する。
髪の毛が波打ち、鼓膜が破れそうな風圧が背中を叩く。
(危なかった)
ダイキの注意を一瞬だけ反らせたことが功を奏したようだ。
レンはダイキの脇をすり抜け、ミホだったものがへばりつく通路を、転がるように駆け抜けたのだった。
どれだけ走っただろうか。
走ることにはうんざりしているが、それでも今はそうすることしかできない。
そんな現状に限界が来ていた。
(どこかで休みたい)
とても、眠たかった。
後ろから追ってくる気配がないことを確認し、レンは配管が複雑に入り組んだ隙間に無理やり体を滑り込ませた。
「はぁ、はぁ……」
狭い空間で膝を抱える。
静かだ。
さっきまで、タツヤやミホの声が聞こえていたのに。
今は、自分の荒い呼吸音しか聞こえない。
仲間と一緒にいる時は、その存在が煩わしかった。
責任を押し付けられ、罵られ、嫌な思いを随分とした。
けれど、一人になった今ではあの喧騒すら恋しくなるほど寂しかった。
ここにあるのは絶対的な孤独だけなのだ。
この広い迷宮に、たった一人。
その事実に押しつぶされそうになりながら、レンの意識は泥のように沈んでいった。
……ふと、目が覚めた。
気絶するように眠っていたようだ。
レンはポケットからスマートフォンを取り出した。
相変わらず表示は圏外。
バックライトが暗闇を青白く照らす。
『12月25日 20:02』
画面に表示された日付を見て、レンは自嘲気味に口元を歪めた。
アビスに来てからまだ1日も経っていない。
それなのに、これまでの二十年近い人生以上の出来事が起きている。
それも、悪いことばかりだ。
レンは息苦しさを感じてマスクに指をかけて僅かな隙間を作った。
その時だった。
バックライトの光が、闇の中の「何か」を呼び寄せたのだろうか。
近くでガンガンガン、と何かがぶつかる音がした。
何かが近づいてくる気配。
レンは慌てて息を殺し、スマホの画面を伏せた。
そして気配はある程度の距離でピタリと止まった。
襲っては、こない。
しかし離れていくわけでもない。
「それ」はただそこに居る。
(……なんだ?)
じっとりと見られているような、粘着質な視線を感じる。
怪物となったダイキや、タツヤを殺した「ツギハギ」とは違う、異質な気配。
レンは恐怖と、それを上回る好奇心に突き動かされ、配管の隙間から顔を出した。
震える手で、スマートフォンのライトを向ける。
闇を切り裂いた光の先。
通路の床と片側の壁に、それぞれ手足をかけた奇妙な姿勢で、それは居た。
四つん這いの魔物。
異常に長い手足をもち、尻尾のように長く伸びているのは、背骨に融合したかのような太いケーブルと鉄パイプの束だ。
無機質な配管が、まるで血管か筋肉の一部であるかのように背中の肉と癒着し、赤黒く脈打ちながら床を這っている。
ライトの光を浴びても、「それ」は動じなかった。
ただ、人間と同じその顔で、レンをじっと見つめていた。
そして、目が合った瞬間、怪物の口が三日月形に裂けた。
ニチャリ、と音が聞こえてきそうなほど、深く、悍ましい笑みだった。




