第7話
タツヤはレンとミホを背中で庇うように立ち、左手を広げて制した。
目の前には、唯一の出口を塞ぐように立つ「ツギハギ」の怪物。
ここは袋小路だ。
ただ突っ込めば成す術なく殺されるだろう。
タツヤは怪物から目を離さず、摺り足でゆっくりと後ろへ下がった。
釣られるように、怪物が部屋の中へと足を踏み入れる。
一歩、また一歩。
怪物の巨体が部屋の中央付近へと誘導され、入り口の脇にわずかな空間が生まれる。
タツヤの狙いを悟ったレンは、ミホの腕を強く掴み、ギリギリまで壁際に身を寄せた。
「え?なに?どういうこと?」
心臓が破裂しそうなほどの緊張。
ミホの声には耳を貸さず、タツヤの背中だけを見つめてその時を待つ。
怪物が十分に引きつけられ、タツヤとの間合いが詰まった、その瞬間。
「――行けッ!!」
裂帛の気合と共に、タツヤが踏み込んだ。
逃走経路を僅かにでも広げる為、タツヤはわざと逆方向から攻めるようにナタを振り上げる。
「い、いくよ……!」
レンは事態を飲み込めていないミホを引きずり、開いたスペース――壁と怪物の間を駆け抜けた。
背後で、硬い刃物が濡れた肉に食い込む、重たい手応えの音が響く。
「タツヤくん!?ねぇ!!タツヤくん!!」
できることなら、タツヤも無事に逃げ出して欲しいと強く願う。
だが、そんなレンの願いは叶わなかった。
後ろでタツヤの絶叫が響く。
「あ゛、あ゛アァあッ――!!」
喉が千切れるほどの絶叫。
だが、その叫び声は一瞬で途切れた。
直後、違う音が聞こえた。
殺して終わりではなく、殺してからが本番のように響く嫌な音。
だがそれらは迷宮を満たす超微細粒子によって瞬く間に吸収された。
肉を裂き、骨を砕き、内臓をぶち撒ける音が「ありのまま」聞こえていたら、レン達の精神はその場で崩壊していただろう。
皮肉なことに、この世界を覆うノイズの海が、二人の理性を辛うじて繋ぎ止めたのだ。
一瞬だけ、レンは後ろを振り返った。
ライトに照らされたそこでは、腰を落とした「ツギハギ」の背中が、タツヤだったものから一生懸命何かを毟り取っている。
「う……ぁ……」
言葉を失うミホの手を引き、レンは闇の奥へと駆け込んだ。
走る途中、垣間見た友人の死を思い出しそうになっては何度も頭を振って拒絶した。
どれくらい、走っただろうか。
不意に、視界を覆っていた粒子の霧が薄まった気がした。
音も気配も完全に途絶えたコンクリートの広間で、二人は糸が切れたように水たまりの中へ倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
マスク越しに荒い息を繰り返す。
地下に落ちてから常に走っているような気がする。
ここは先ほどよりも空気が澄んでいるのか、自分たちの荒い呼吸音がやけに生々しく反響した。
ある程度息を整え、レンは泥水の中から這い出て立ち上がる。
「……なんで……」
泥水の中で、蹲ったミホが震えている。
「ねぇ?なんで、こんな事になってるの?」
ミホは下を向いたまま呟く。
「ねぇ?なんで?さっきまであんなに楽しかったのに…ねぇ。……ねぇ」
ミホが顔を上げた。
「ねぇなんで!なんでタツヤくんを助けなかったの!!」
泥と涙で汚れたその瞳には、恐怖と共に粘着質な侮蔑が同居している。
「あんた、怪我してないじゃん!? なのにどうしてタツヤくんを置いて逃げたのよ!」
「ち、違う! あれは……タツヤが……」
レンは掠れた声で反論しようとしたが、言葉は虚しく響くだけだった。
タツヤは自ら残った。
そうして生き延びたのは「戦おうとしなかった自分」だ。
その事実は変わらない。
「……ごめん」
「謝って済むと思ってんの!?」
ミホの声が金切り声に変わる。
ノイズが薄れたこの空間では、彼女の甲高い声が耳障りなほどワンワンと反響し、レンの鼓膜を叩いた。
彼女はレンの胸ぐらを掴み、マスク同士がぶつかるのを気にもとめず、睨みつけてきた。
「前から思ってたけど……あんたって、ホント口だけだよね」
「……え?」
「タツヤくんやダイキの後ろにくっついてるだけで、自分じゃ何も決められない。今回だってそう。あんたがちゃんとしてたら!タツヤくんは生きてた!なのにいつまでもなよなよしてさ!あんたが!あんたが死ねばよかったのに!」
ミホの言葉が、レンの心臓を鋭利なナイフのように抉る。
「あんたみたいなクソ虫より、タツヤくんが生き残ればよかったのに……ッ!! ヒッ、ヒグッ、ウッ!?」
叫んだ瞬間、ミホが過呼吸を起こした。
興奮して荒くなった呼気と涙で、バイザーが一瞬で白く曇り、視界をゼロにする。
密閉されたマスクの中で、自分の金切り声が反響し、さらに「息が吸えない」というパニックが彼女を襲った。
「う、あぁーッ! 見えない! 苦しっ……!」
ミホは錯乱したように、自分の顔――防毒マスクをガンガンと叩き、爪を立てて引き剥がそうともがく。
「外れろよクソが! 息苦しいんだよ!」
ダイキが『賢い買い物』だと絶賛していたそのマスクは、今や彼女の視界と聴覚を奪い、自分自身の吐いた二酸化炭素で窒息させるだけの拷問器具に成り下がっていた。
「お、落ち着いて」
ここでマスクを外させることが正解なのか分からない。だがこのままでは彼女は正気を失うかもしれない。
どうすることが正解なのか、そんな判断がレンにできるはずもなかった。
「ねぇ、お願いだから、落ち着いてよ!」
レンはとっさに身を乗り出し、ミホの手首を強く掴む。
「放して! もう死ぬ! 生きてる意味ない!」
ミホの両腕をつかみ、策がないまま必死に押さえつけようとするが、思いの外力が強い。
「落ち着いて! とりあえず大きく深呼吸して!」
レンは暴れるミホを、泥水の中にねじ伏せるようにして押さえ込んだ。
そうするしかなかった。
華奢な体のどこにこれほどの力が、と思うほど、ミホの抵抗は凄まじかったのだ。
だがレンも必死だった。
それは彼女を助けたいというよりも、目の前で壊れていく人間を見たくないという防衛本能だったのかもしれない。
「暴れないで!ねぇ!」
「うぐぅッ、い、いやぁぁああ!!」
「落ち着いてって!!」
レンにかけられる言葉などなく、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
そして、ミホの抵抗が徐々に弱まっていく。
レンは肩で息をしながら、抱え起こしたミホの背中を無骨にさすった。
しばらくすると、ミホは泣き崩れて膝を抱え、自分の殻に閉じこもってしまった。
レンは泥に汚れた手を離し、うんざりとした表情でその小さくなった背中を見下ろす。
本来助け合わなければならない状況で、責任転嫁と醜い本音のぶつけ合いになっている。
互いの極限のストレスが、人間関係を腐らせていく。
(……さっさと手を離したほうがよかった、のか?)
一瞬よぎったその昏い思考を、レンは慌てて振り払った。
とはいえタツヤの「頼む」という言葉がなければ、今すぐこの場に置き去りにしていただろう。
重苦しい沈黙が場を支配する。
レンは顔を背け、あてもなく通路の奥を睨んだ。
早くここから離れたほうがいいような気がする。
「ツギハギ」がタツヤを蹂躙し終えた後、自分たちを追ってきているかもしれない。
だが、今のミホを引きずって歩くことなど、今のレンにはできそうにない。
レンは広間の隅に腰を下ろしてスマートフォンを見た。
どれくらい時間が経ったのだろう、と何気なく画面を点灯させると、トークアプリに通知が1件表示されていた。
母親からだった。
『クリスマスのプレゼントを贈りたいので住所を教えてください。寒いから、体を壊さないようにね。何かあれば連絡してね。いつでも、帰ってきてね。』
電波の届かないアビスの地下で、奇跡的に迷い込んだ電波が拾ったのか、それとももっと浅い階層で受信していた遅延通知なのか。
画面のアンテナピクトは、今はもう「圏外」を示している。
涙を流せればよかった。
笑えればよかった。
しかし今のレンにそんな余裕はなく、ただ黙ってスマートフォンをポケットに戻した。
10分、20分経ってもミホは頭を上げない。
寝てしまったのか、レンがそんな疑問からスマートフォンのライトを再び点灯させた、その時だった。
レンの視界の端、通路のさらに奥の暗闇に、人影が立っているのが見えたのだ。
自分達と同じマスクをつけて、見たことのあるアウターを着たその姿は、まさしくダイキのものであった。




