第5話
終わりのない悪夢のようだった。
あれから何度か徘徊者の姿を見たが、戦えない以上、道を変えるしかなかった。
もうどれくらい歩き続けているのか分からない。
それなのに、景色はいつまでも変わらない。
左右に曲がっても、スロープを上り下りしても、同じような景色が続いている。
剥き出しの鉄骨、湿ったコンクリート、垂れ下がるケーブルの蔦。
どこまで行っても真っ暗な迷宮が続き、上下左右の感覚すら曖昧になっていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
シールのせいだ、とレンは歯噛みした。
調子に乗って貼ったシールがマスクの排気弁を半分以上埋めており、自分の吐いた息が内側にこもる。
曇ったレンズを指で拭おうとしたが、曇ってくるのが内側だと気づいてからは苛立ちとともに無視することに決めた。
レンズの縁にはベタベタと貼った百円ショップのホログラムシール。
そして、呼吸器の周りをぐるりと囲む、赤と緑のビニールテープ。
そこには、陽気なフォントで『MERRY X'MAS』の文字が躍っている。
数時間前、ダイキに言われるがまま悪ノリで貼り付けたことが今になって悔やまれる。
(……こんなことになるなんて、思ってなかったんだ)
あの時は楽しんでやったその装飾が、今は視界の端で常に主張し、神経をやすりで削るようなストレスを与え続けてきていた。
「わりぃな、レン」
レンの肩にのしかかるタツヤの体重が、鉛のように重くなっていた。
タツヤの体温は明らかに異常だった。
服越しにも伝わる高熱と、荒い呼吸。
どこかで一度、休んだほうがいいのかもしれない。
しかし先程の徘徊者の存在が脳裏にちらつき、レンの足は止まることを拒否していた。
「ねぇ、これで道、合ってるの……?」
ミホが恨めしげな声を漏らす。
彼女のマスクにも、トナカイの角を模したフェルトや星型のシールが隙間なく貼られている。
かつては笑えたそのデコレーションも、今は泥に汚れ、ただの不気味な仮面に成り下がっていた。
「重いんだよ、タツヤくん。……ねえ、ちょっと休もう?私もう限界なんだけど」
「ごめん、もう少し……もう少しだから」
レンは自分に言い聞かせるように呟き、足を踏み出した。
喉が、渇いた。
昨晩の脂っこい唐揚げと甘ったるいケーキが、今は最悪の形で胃に張り付いている。
水が欲しい。
そればかりが頭を巡る。
「……ぉーぃ……」
不意に、風に乗って音がした。
レンとミホは弾かれたように顔を上げた。
「え……?」
「……ぉーぃ……ぉーぃ……」
一定のリズムで、低く、太い音が繰り返されている。
人の声だ。
誰かが呼んでいる。
「ダイキ!? ダイキなのか!?」
レンが叫ぶ。
声がマスクの中で反響し、耳を痛くする。
相手からの返事はない。
だが、声は途切れることなく続いている。
「誰かいる! 出口が近いのかも!」
ミホの声に生気が戻る。
タツヤも混濁した意識の中で、わずかに顔を上げた。
「……ダイ、キ……?」
助かる、そんな希望という名の劇薬が、死にかけていた彼らの心と体を無理やり動かした。
レンはタツヤを抱え直し、ミホは先頭を切って走り出す。
足の痛みも、喉の渇きも、一瞬だけ消し飛んだ。
声は、迷宮の奥まった一角、配管が密集する狭い通路の先から聞こえてくる。
あそこに行けば助かる。
ダイキがいる。
出口がある。
その一心で、三人は角を曲がった。
しかし、そこは袋小路だった。
「……え?」
ミホが立ち尽くす。
誰もいない。
ダイキも、救助隊も、出口もない。
あるのは、壁に走る巨大な亀裂と、そこから突き出した古びた配管だけ。
「……ぉーぃ……、……ぉーぃ……」
亀裂から吹き込む隙間風が、配管の切断面を通り抜け、人の声に似た空洞音を響かせているだけだった。
「嘘……でしょ……?」
ミホがその場に崩れ落ちる。
レンもまた、膝から力が抜けるのを必死に堪えた。
「どうして……こんな……」
レンが壁を叩く。
その時、ライトの光が部屋の隅にある「何か」を照らし出した。
「ひっ……!」
ミホが短い悲鳴を上げて後退る。
そこには、先客がいた。
壁に背を預け、体育座りをしたまま崩れ落ちた、遺体。
衣服だったものは、湿気と腐敗液を吸って汚泥状と化し、白骨化した身体にへばりついている。
恐らくかつて、スクレイパーだった者だ。
遺体の周囲には、かつてこの場所で「サバイバル」をしていた痕跡があった。
赤錆に覆われ、側面が崩れ落ちた数個の空き缶。
排泄物が黒いシミとなって異臭を放つ部屋の隅。
そして遺体のそばの、浮いた塗膜とカビに覆われた壁には、硬い何かで刻まれた走り書きが一言だけ。
『ダレモ イナカッタ』
彼もまた、あの音に希望を抱いてここまで来て、絶望の中で、誰にも見つかることなく腐り果てたのだろう。
「あぁ……あぁ……」
ミホが頭を抱えてうずくまる。
未来の自分たちの姿が、そこにあった。




