第4話
落下した衝撃で、肺の中の空気がすべて吐き出された。
「がっ、はっ……!」
レンは瓦礫の山の上で身をよじり、酸素を求めて喘いだ。
背中と腰に鈍い痛みがあるが、幸い手足は動く。
落ちたのは一階層分――せいぜい四、五メートルといったところだろうか。
運良く、崩落した床材や配管がクッション代わりになったらしい。
「……痛ったぁ……」
レンは埃まみれの体を起こし、慌てて周囲を見渡した。
あいつが、カケルを乗っ取ったあいつが降りてきているのではないかと思ったのだ。
だがそれは杞憂だった。
上層のホームよりもさらに湿度が高く、鼻をつくカビの臭いが充満するこの広大な空洞に、奴はいなかった。
「ねぇ! 誰か!?」
レンが声を上げると、少し離れた場所で呻き声がした。
「うぅ……足、が……」
タツヤだ。
瓦礫に半身を埋めるようにして倒れている。
駆け寄って瓦礫を退かすと、タツヤの左足が不自然な方向に曲がっていた。
開放骨折こそ免れているが、これでは自力で歩くことなど不可能だ。
「ねぇもうやだぁ!あたしもう帰りたい!」
その横で、ミホが頭を抱えて座り込み、パニック状態で泣き叫んでいる。
彼女は擦り傷程度で済んでいるようだが、精神の方が限界を迎えていた。
「……ダイキは? ダイキはどこ!?」
レンはライトを振り回し、辺りを見渡す。
だが、頼れるリーダーの姿はどこにもなかった。
「はぐれた……?」
最悪だ、とレンは唇を噛んだ。
ダイキさえいれば。
あの異能力があれば、こんな状況でも何とかしてくれるはずなのに。
ダイキの後ろ姿が落ちるのは見た。
自分たちより少し先行していた彼は、きっと別の場所に落ちたのだろう。
「とりあえず、ダイキを捜そう。俺たちだけじゃ……」
そう言いかけて、レンは頭上を見上げた。
天井には、自分たちが落ちてきた穴がぽっかりと空き、そこから赤い霧が垂れ込めてきている。
高さは五メートル弱。
壁面はツルツルとしたコンクリートと、腐食して脆くなった配管ばかりだが、絶望的な高さではない。
「肩車……とか、三人重なれば届くかな?ミホ、君が一番上になれば…… 俺とタツヤで支えるから」
レンが提案するが、タツヤは脂汗を流して首を振った。
「無理だ……立てねえよ……それに、届いたとして、どうやって登るんだよ」
「無理無理無理! 私懸垂とかできないもん! 無理!」
レンの提案を、ミホが泣きじゃくりながら拒絶する。
冷静に考えれば、その通りだった。
足の折れたタツヤを土台にすることなど物理的に不可能だし、仮にミホが縁に手をかけたところで、彼女の腕力で這い上がれるわけがない。
それに何より――あの上には、カケルだった「アレ」がいるのだ。
戻れない。
その事実は、彼らを恐怖のどん底に突き落とした。
「……移動しよう」
レンは震える声で言った。
「いつ上からカケルが落ちてくるか分からないし、それに、ダイキを捜さないと。ダイキならきっと、出口まで連れて行ってくれる」
根拠などない。
だが、そう信じなければ心が折れてしまいそうだった。
レンはタツヤの右腕を肩に回し、無理やり立たせた。
「ぐぅッ……!」
タツヤが苦悶の声を漏らす。
ミホもふらふらと立ち上がり、タツヤの反対側を支える。
三人は身を寄せ合うようにして、暗闇の奥へと歩き出した。
そこは、迷宮だった。
かつての地下鉄整備用通路なのだろうか。
壁からは無数のケーブルが腸のように垂れ下がり、視界を遮る。
似たような景色、似たような瓦礫の山。
方向感覚は数分で失われた。
自分たちが北へ向かっているのか、南へ向かっているのか、それとも同じ場所を回っているのかすら分からない。
ただ、背後にある闇から逃げるように、重い足を引きずるしかなかった。
「ねえ……あそこ、誰かいない?」
不意に、ミホが足を止めた。
彼女の視線の先、通路の十字路になっている開けた場所に、人影が見えた。
一人ではない。三人、いや四人か。
「ダイバーかな?」
レンが期待を込めてライトを向けようとして、はたと止めた。
うつむき加減でゆらゆらと揺れている彼らの姿は、明らかに生きている人間のそれではなかったからだ。
間違いない。
あれは、徘徊者。
アビスの犠牲者たちの成れの果てが、群れをなして道を塞いでいた。
「ヒッ……」
ミホが短く悲鳴を上げた。
「し、静かに……!」
レンが慌てて彼女の口に人差し指を当てる。
奴らはまだこちらに気付いていない。
ゆっくり引き返せば、うまく逃げられるかもしれない。
そう提案するレンに、タツヤは脂汗を流しながら小声で答えた。
「でもよ、逃げた先にまたあんな奴らがいたら挟まれちまうぜ?」
タツヤは痛みに顔をしかめながらも、努めて冷静さを保とうとしていた。
「なぁ、レン」
タツヤが腰から何かを引き抜き、レンに押し付ける。
ずしり、とした鉄の重み。
園芸用のナタだ。
ホームセンターで売っている、枝打ち用の安物。
「お前だってもう何度かあいつのことは見てるだろ? そろそろ戦って、倒しちまえよ」
四体くらい楽勝だ、とタツヤは笑う。
だがその頬は引きつっている。
「む、無理だって……」
レンの手が震える。
ダイキのチームの仲間になってまだ二週間ほど。
これまでずっと後ろで見てきただけで、実際に戦ったことなど一度もないのだ。
「俺は立てねえんだよ! お前しかいねえんだ!」
タツヤが精一杯声を落として叫ぶ。
「で、でも……」
人の形をしたものに武器を振るう。
そんな覚悟など、今の今までしていなかった。
その煮え切らない様子を見かねたタツヤが、レンの手から武器を乱暴にむしり取った。
「ああ! もういい! 俺がやってやるよ!」
タツヤは開き直ったように、アビスの闇に向かって大声を張り上げた。
「クソったれ! ほら! かかってこいよ!!」
その怒号に反応し、徘徊者たちが一斉にこちらを振り向いた。
ゆらり、ゆらりと距離を詰めてくる。
腐り落ちた唇の隙間から、黄色い歯が覗く。
喉の奥からひゅう、ひゅう、という乾いた音が漏れている。
「狙うなら首か頭だ! 見とけよ!」
タツヤは無事な右足だけで無理やり体を跳ね上げた。
バランスなど度外視した、倒れ込むような一撃。
全体重を乗せたナタが、先頭の徘徊者の頭蓋へと吸い込まれる。
鈍い音を立ててめり込んだナタは、その衝撃で徘徊者を一瞬で沈黙させた。
だが、タツヤが戦えたのはそこまでだった。
「っ、ぐぁ……ッ!!」
着地の衝撃が折れた左足に走り、タツヤは悲鳴を上げて地面に転がった。
「クソ! いっ、てぇ……!! ほら! 後はお前がやるんだよ!」
ハメられた、などと思う暇もなかった。
自ら手本を見せ、自ら囮になった男がそこにいる。
戦わざるを得ない状況に追い込まれ、レンに迷っている時間はもう一秒もなかった。
「ゾンビ映画と一緒だ! 急所を狙え!」
タツヤが見せた死に体の一撃が、凍りついていたレンの体を何とか動かした。
「う、うわあああああ!!」
レンは半泣きで徘徊者の頭からナタを引き抜くと、大きく振り上げた。
タツヤに向かって、徘徊者が腕を伸ばしている。
腐った指先が後退りするタツヤの上着を掠める。
早く助けないと、そんな重圧が視界を狭める。
狙いなど定まらない。
ただ、死にたくない一心で、レンは目をつぶり、力任せにナタを振り回した。
「死ねっ!死ねっ!死ねっ!!」
直後、鈍い感触。
硬いものが砕ける、生々しい音が聞こえた。
レンがおそるおそる目を開けると、徘徊者の動きが止まっていた。
ナタの刃が、魔物の首筋――頸椎の隙間に、深々と食い込んでいたのだ。
完全にまぐれだった。
滅茶苦茶に振った軌道が、奇跡的に急所を捉えていた。
徘徊者は糸が切れた人形のように膝から崩れ落ち、ビクン、ビクンと痙攣して沈黙した。
「や、やった……!?」
レンの声が裏返る。
倒した。
自分の手で、化け物を殺した。
その高揚感が、一瞬だけ恐怖を上回ろうとした。
だが、現実はすぐに彼を裏切った。
「あ、あれ?ぬ、抜けない……ッ!?」
レンはナタを引こうとしたが、刃がびくともしなかった。
素人の力任せな一撃のせいで、刃が骨と軟骨の間に深く噛み込み、完全にロックされてしまっていたのだ。
その隙に、残りの二体が呻き声を上げて迫ってくる。
「おい! 何やってんだよレン! 早く構えろって!」
「抜けないんだよ! クソッ、なんなんだよ!!」
レンはパニックになりながら、死体の胸を足で蹴りつけた。
グズリ、と靴底が腐肉にめり込む不快な感触。
「うあああああ!」
渾身の力でグリップを引く。
バキッ、という骨が砕ける音と共にようやく刃が外れたが、その勢いで傷口から黒い体液が噴き出した。
ヘドロのような悪臭を放つ液体が、レンのマスクとジャケットに降り注ぐ。
「う、げぇ……ッ」
吐き気がした。
勝利の味などしない。
ただただ、汚くて、臭くて、重い。
これが「殺す」ということなのか。
ダイキ達は、こんな感触が平気なのか。
レンの戦意は、この一撃で、完全に挫かれた。
もう一度あれをやれと言われても、絶対に嫌だ。
「に、逃げよう! タツヤ、立って!」
レンはナタを構えるふりをして威嚇しながら、タツヤの腕を掴んだ。
「お、おい! 全部倒さないと……」
「無理なんだって! なぁ頼むよ!」
レンはミホの手も強引に引き、踵を返した。
背後で徘徊者たちの足音が強まる。
レンは無我夢中で走った。
どの道が正しいのか、どこへ向かえば助かるのか、考える余裕などなかった。
ただ、あの腐った臭いと、黒い血の感触から遠ざかりたい一心だった。
どれくらい走っただろうか。
タツヤの足に限界が来て、三人は崩れるようにその場に座り込んだ。
周囲は静まり返っている。追って来てはいないようだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
三人の荒い呼吸音だけが響く。
レンは震える手で、それでもしっかりとナタを握りしめていた。
刃には、べっとりと黒い脂のような血が付着している。
それを拭う気力すらなかった。
ふと、レンは顔を上げた。
「……ここ、どこだ?」
ライトで周囲を照らす。
自分たちが落ちてきたあの場所ではない。
先ほどよりも天井が低く、圧迫感のある狭い通路。
逃げることに必死になりすぎて、自分たちがどこから来たのか、完全に分からなくなっていた。
上へ戻る道はおろか、さっきの広間に戻る道すら分からない。
本当の「迷子」。
その絶望的な事実に気づいた時、レンの目から涙がこぼれ落ちた。
マスクの内側に溜まった涙と鼻水、そして外側にこびりついた徘徊者の血。
内と外、両方から汚れきった自分が、ひどく可哀想な存在に思えた。
暗闇の奥で、何かが蠢く音がした気がした。
だが、彼らにはもう、立ち上がる力は残っていなかった。




