第3話
階段を降りるにつれ、空気が生温かく変化していくのがわかった。
冬の乾いた空気ではない。
まるで熱帯植物園に入った時のような、湿り気を帯びた空気。
(これが、ノイズ……)
レンはマスク越しにその赤い霧を見た。
ライトに照らし出された地下鉄のホームには、粒子状の赤い霧が薄く立ち込めている。
崩れ落ちた券売機。
白骨化し、衣服だけが残った者の眠る駅員室の残骸。
天井からぶら下がる蛍光灯。
それらすべてが、赤いフィルターを通したように非現実的で、まるで異世界にでも迷い込んだかのような違和感を覚える。
「うわ、すっげ……映画のセットみたい」
「おい見ろよこれ! まだ電車が残ってるぜ!」
カケルがホームの端に放置された車両の残骸に駆け寄る。
ダイキとタツヤもライトを振り回してはしゃいでおり、ミホはそれを見て笑っている。
レンもまた、スマートフォンを取り出して写真を撮った。
画面の中の自分たちは、まるで何かの物語の主人公になったようで、少し誇らしかった。
これをSNSに上げれば、イイネの通知が止まらなくなるんじゃないか?
そんな浅はかな期待が、皆の警戒心を麻痺させていく。
そんな中、ただ一つだけ奇妙なことがあった。
音が、響かないのだ。
いや、響いてはいる。
だが本来のこの場所からは想像できないほどに、反響していないのだ。
はしゃぐ彼らの声が、赤い霧に吸い込まれるように、すぐに消えてしまう。
「ねえ、ちょっとここ、気持ち悪いよ……もう帰ろう?」
さんざん笑っていたミホだったが、徐々にアビスの雰囲気に飲み込まれ始めていた。
だが、その声はマスク越しにくぐもり、高揚した男たちの心までは届かない。
「平気だって。なんか出たらダイキが吹き飛ばしてくれるしな!」
「おうよ。任せとけ」
ダイキが腕をまくってみせる。先ほどのワンダラーとの一戦の記憶が、自らを最強の戦士だと錯覚させていた。
その時だった。
「あー、わり。ちょっとションベン」
カケルが股間を押さえながら言った。
来る前にビールを散々煽っていたせいだろう。
「お前、こんなとこで?」
「しょうがねえだろ。向こうのトイレ借りてくるわ」
カケルはヘラヘラと笑うと、護身代わりのバールを片手に、ホームの奥――闇が濃くなっている方へと歩き出した。
ヘッドライトの光が、赤い霧の向こうへと、揺れながら遠ざかっていく。
「早くしろよー、置いてくぞー」
ダイキが冗談めかして叫ぶ。
「へいへい」と手を振るカケルの背中。
何気ない瞬間の、何気ないやりとりだと思っていた。
しかし、一向に戻ってくる気配がない。
誰もいないホームに、地下水が滴る音だけが、闇の底へと吸い込まれていく。
「……遅くね?」
タツヤが不安そうに呟く。
レンもまた、胸騒ぎを覚えていた。
静かすぎる。
用を足す音も、足音も、何かにつまずくような音もしない。
ただ闇が、そこに鎮座している。
「おーい、カケル! ふざけんなよ!」
ダイキが苛立ち交じりに声を張り上げる。
だが、返事はない。
霧に食われた叫び声が、虚しく消えていくだけだ。
「……俺、ちょっと見てくるわ」
さすがに心配になったのか、ダイキが舌打ちをして歩き出した。
レンたちも自分達だけでこの場に残されるのを恐れ、ダイキの後ろをついていく。
壁面に残った広告は湿気でドロドロに溶け落ち、かつての幸せそうな家族モデルの笑顔が、赤黒いシミとなって垂れ下がっている。
足元のタイルは至る所が剥がれ、その下から覗くコンクリートは、奇妙にぬめっていた。
ホームの奥、暗い入り口の横に男子トイレのマークを見つけた。
だが小便器の場所にはもちろん、扉を開けた大便器のところにも、カケルの姿はなかった。
いや。
「……これ」
レンが足元を照らすと、鉄の棒が転がっていた。
カケルが大事そうに持っていた、赤錆の浮いたバールだ。
それがトイレの個室の中に、ぽつんと落ちている。
しかし周囲に争ったような形跡はない。
血痕も、ない。
ただ、持ち主だけが静かに消えている。
「うそ、だろ……?」
タツヤの声が震えた。
急激に、酔いが醒めていく感覚。
楽しいパーティ会場だと思っていた場所に、突然、得体のしれない悪意が混ざり込んできた。
背筋を冷たい汗が伝う。
「とりあえず、出るぞ」
四人はトイレを出て辺りを見渡す。
直後。
突然、暗闇の先から音がした。
ゆっくりと、規則的に、砂利を踏む音。
全員がビクリと肩を跳ねさせ、一斉にライトを向けた。
音は、ホームの下――線路の暗闇から聞こえてくる。
光の束が闇を切り裂くが、その先には何も見えない。
……魔物か、と皆が警戒する中、光の届かなくなるギリギリの場所から、人影がヌッと染み出すように浮かび上がった。
「……なんだよ、ビビらせやがって!」
そこにいたのは、カケルだった。
線路の暗闇の中から、ゆらりと姿を現した。
見間違えるはずのない、見慣れた服装だ。
「おいカケル! どこ行ってたんだよ、マジで焦ったじゃねえか!」
ダイキが怒鳴りながら、安堵の息を吐く。
レンもまた、へなへなと座り込みそうになった。
なんだ、ただの悪ふざけか、と。
タツヤが「お帰り」と声をかけながら、カケルの顔にライトを当てた。
その瞬間、時間が凍りついた。
「…………え?」
カケルの頭部。
そこにあるマスクのバイザーが、粉々に砕け散っていた。
そして、露出したカケルの頭に、まるでおぶられているかのように「何か」がしがみついていた。
それは、幼児と工業廃棄物を融合させたような、異形の寄生体だった。
被覆の剥げた銅線の産毛に覆われた幼児の手足が、カケルのこめかみと首筋へ、深く深く食い込んでいる。
そして――カケルの首の後ろ、寄生体の尾骶骨にあたる部分から伸びた蛇腹状のチューブのような器官が、カケルの頬の横を湾曲しながら通り、強引にこじ開けられた口の中へと侵入していた。
さながら動力パイプのように連結されたその姿は、生物的な生々しさと、無機的な冷たさが同居する、死んだ都市が産み落とした悪そのものだった。
「カ、ケル……?」
カケルは――あるいはカケルだったモノは、虚ろな動きで首をかしげた。
頭にしがみついた寄生体の手足が乱暴にカケルの頭部を揺さぶる。
直後、口にねじ込まれたチューブ部分が伸縮し、カケルの声帯を外部から乗っ取るように強制的に震わせた。
「……メ、メリ……」
ギギ、ギ、と不快な摩擦音が、言葉らしきものを紡ぐ。
「……クリ……ス……マース」
死者から投げかけられる、祝いの言葉。
次の瞬間、カケルの体が人間には不可能な角度で前傾し、弾丸のように飛び出してきた。
「うわあああああああ!!!」
誰の悲鳴だったか分からない。
タツヤの目の前で、レンが壁へと突き飛ばされた。
寄生されたカケルが、獣のような唸り声を上げて暴れ始める。
「ダイキ! やれ! 吹き飛ばせ!」
タツヤが叫ぶ。
「ヒッ……!」
ダイキは顔面蒼白で、震える右手を突き出した。
だが、その腰は引けている。
相手は友人だ。
いや、その事実以上に――目の前の化け物が、自分を殺しに来るという現実が、彼の思考と動作を断ち切っていた。
「く、来るな! 来るなあああ!」
ブン!!
放たれた『衝撃』は、カケルの手前で霧散する。
恐怖で距離を取りすぎたのだ。
圧縮された空気は、標的に届く前に拡散し、ただの生温い風となってカケルの前髪を揺らしただけだった。
「……は?」
ダイキの目が点になる。
この距離では必殺の一撃が、通じない。
近づかなければならない。
近づけるのか?
あんな動きをする魔物に?
「……無理、だろ」
その事実は、彼の中の全能感を一瞬で粉砕した
「ひっ、あ……い、いやだ……!」
ダイキの顔が、恐怖で子供のように歪む。
「死にたくねえ! 嫌だぁぁぁぁ!!」
金切り声を上げて踵を返す。
彼は邪魔なタツヤを力任せに突き飛ばすと、仲間へ背を向け、一目散に逃げ出した。
リーダーのあまりにも醜悪な逃走は、全員の理性を焼き切った。
レンたちも判断力を失い、我先にとホームの奥へと雪崩れ込んでいく。
そこには『DANGER 立ち入り禁止』と書かれた黄色いテープが貼られていたが、恐怖で視野の狭まった彼らの目には入らない。
十数メートル走ったところで、足元から嫌な音がした。
ダイキの乱暴な足踏みが引き金となり、長年の湿気で腐食していた床全体が限界を迎えたのだ。
蜘蛛の巣状の亀裂が一瞬で走り、世界が底抜けた。
轟音と共に、広範囲の足場が消滅する。
不意の浮遊感が胃袋を襲う。
レン達の体は、瓦礫と共に暗闇へと吸い込まれていった。
その落下の中で、最後に見たのは、崩れゆく天井からこちらを見下ろすカケルの姿。
頭にしがみついた幼児が、楽しげに笑っていた




