第2話
ゲートタウンの喧騒が、背後で遠ざかっていく。
華やかさの象徴であった「一番街」のアーチをくぐり抜け、北へ向かうにつれて、街灯の数は減り、代わりに闇の濃度が増していく。
そこはかつて新宿と呼ばれた街の外縁部。
アスファルトはひび割れ、雑草がわがもの顔で繁茂している。
ふと、視界が開けた場所に出ると、闇に沈む廃墟群の遥か向こう、南東の空だけが、まるで別世界のように青白く輝いていた。
港区――通称「統括区」。
R.I.N.G.S.の本社機能と一部の富裕層が住まう地だ。
ゲートタウンが単なる「入り口の廃墟街」へと成り下がって以来、そこは正規ダイバー組織『R.I.N.G.S.』の要塞であり、同時に物好きな市民が住まう居住区ともなっている。
ここから直線距離にしてわずか数キロ。電車なら十数分。
最も汚らわしいこの場所に、あの場所は寄生し、肥え太っている。
死と隣り合わせの金脈に群がり、安全圏から富だけを吸い上げる搾取の構図。
この異常な「近さ」こそが、東京アビスの抱える残酷な歪さだった。
「……ケッ、眩しいねえ」
ダイキがその光を睨みつけ、足元の泥に唾を吐き捨てる。
「あっちの連中は今頃、安全地帯で乾杯でもしてるんだろうよ。……リスクを背負えねえ臆病者どもが」
彼は振り返り、自分に言い聞かせるように笑った。
「見てろよ。俺たちはここから這い上がって、いつかあいつらをアゴで使ってやるんだ」
その瞳に宿っているのは、不公平な社会への怒りなどではない。
自分だけは特別な結末を迎えられるという、根拠のない万能感だった。
風が変わる。
生ゴミとアルコールの臭いが消え、代わりに鉄錆とカビ、そしてどこかツンとするオゾンのような無機質な臭気が鼻をつく。
前方の闇の中から、低い風切り音が聞こえてくる。
アビスの大穴から吹き上げる風が、廃ビルの隙間を笛のように鳴らしているのだ。
「……おい、何かいるぞ」
先頭を歩いていたダイキが足を止めた。
彼が懐中電灯を向けた先、ブロック塀の影から、人影がゆらりと姿を現した。
衣服はボロボロで、肌は土気色。
右足を引きずり、不規則な乾いた足音を立てながら近づいてくる。
徘徊者。
アビスの表層に湧く魔物だ。
「ヒッ……!」
ミホが短い悲鳴を上げてタツヤの背中に隠れる。レンもポケットのナイフを握りしめた。
だが、ダイキだけは鼻で笑った。
「新入り2人は引っ込んどけな。あんなの、ただのザコだ」
ダイキはタバコを吹かすような気軽さで、ワンダラーの正面に立つ。
魔物がうめき声を上げ、緩慢な動作で腕を伸ばしてきた瞬間――ダイキの右腕が動いた。
「『インパクト』」
ダイキが掌を開き、眼前の空間を鷲掴みにするように握り込む。
その瞬間、拳の中の空気が無理やり圧縮され、陽炎のように歪んだ。
直後、開放された空気塊が衝撃となって炸裂する。
まるで腐ったスイカをバットで殴ったかのように、肉片と黒い体液が周囲に撒き散らされる。
腹部をごっそりと吹き飛ばされた魔物は、数歩よろめき、ドサリと崩れ落ちた。
「……へへ、一丁上がり」
ダイキは衣服を払う動作を取ると、得意げに振り返った。
「見たか? 俺のこの靴も、ジャケットもよ。こいつら狩って集めたお宝を換金して買ったもんだ」
彼は真新しいトレッキングブーツのつま先で、動かなくなった死骸を蹴飛ばした。
「アビスっつっても、等活なんてこんなもんだろ? なら黒縄ってのも、大した場所じゃねぇよ」
その言葉には、圧倒的な説得力があるように思えた。
恐怖対象だった魔物が、ダイキの前ではただの資源に見える。
レンたちの目には、リーダーの背中が今まで以上に輝いて見えた。
「ほら、こいつから取れるものはレン、ミホ、お前たちの好きにしていいぜ」
ダイキが太っ腹なところを見せようとしている。
分かっているのだろう。
大したものなど手に入りはしないと。
それでも。
レン達はワンダラーを切り開き、その体内に含まれているであろう僅かに価値の付きそうなものを探す。
手に入れなければならないのだ。
「僅かな価値」でもいい。
それを手に入れて、この場所で生きていく理由を、力を、証明しなければならない。
やがて彼らは、目的の場所にたどり着いた。
ゲートタウンにほど近い、旧地下鉄入口。
バリケードテープの向こう側で、錆びついたシャッターが冷ややかに彼らを見下ろしていた。
シャッターの隅には、先人たちがこじ開けたであろう人が一人通れるほどの隙間が空いている。
普段の彼らなら、そこからコソコソと侵入していただろう。
だが、今のダイキは違った。先ほどの勝利が、彼の万能感を肥大化させている。
「見てろよ。さっきみたいに吹き飛ばしてやる」
ダイキがシャッターの前に立つ。
「え、ダイキ? 横の穴から入れるけど……」
「馬鹿野郎、聖夜のパレードだぞ? 正面から堂々と行くに決まってんだろ」
「誰か動画撮っとけよ!」
そう言い放ち、ダイキの右手が、錆びた鉄板にかざされる。
「任せろリーダー!」
応じたのはカケルだった。
ムードメーカー気取りの彼は、ここが死地への入り口であることなど忘れているかのように端末を取り出し、ヘラヘラとレンズを向ける。
暗視補正された画面の中では、ダイキは英雄のように輝いて見えた。
(引き返すなら、今しかない)
レンの本能がそう囁いた。
だがその声は、ダイキが放った『衝撃』の炸裂音にかき消された。
大きな軽い金属音が響き、シャッターが悲鳴を上げて歪む。
「もう一丁!」
再びダイキの衝撃を受けたシャッターは大きくひん曲がり、その隙間を大きく広げた。
その奥から漏れ出したのは、錆びた鉄の臭いと――一層甘い金木犀のような香りだった。
「うぇ……なんだこの匂い」
レンが鼻を押さえる。
アビス特有の濃い、ノイズ臭。
「ビビんな。『直ちに人体への影響はない』ってT.A.M.O.も発表してる。いいか?ただちに、だぞ?」
ダイキは政府の言葉尻を捉えて笑うと、デコレーションされたマスクを取り出した。
「ほら、ちゃんとつけとけよ。俺らはまだまだこれからだしな」
彼らは一斉にマスクを被ろうとする。
しかし、そこで問題が起きた。
「……痛っ! クソ、入らねぇ!」
酔った勢いでゴムバンドまでテープでガチガチに固めてしまったせいで、伸縮性が死んでいるのだ。
レンも自分のマスクを広げようとしたが、まるでギプスのように硬くなっている。
「お前ら気合で被れ! 押し込め!」
ダイキの無茶な指示に従い、彼らは顔の肉をはみ出させながら、窮屈なマスクに無理やり頭をねじ込んだ。
ミシミシと頭蓋骨が締め付けられる感覚。
一度被れば、容易には外せないのではないかという閉塞感。
だが、目の前で見せられた圧倒的な力と、通販で買った装備。
その二つへの盲信が、彼らの足を前へ進ませていく。
「ほら、行くぞ」
ダイキを先頭に、一行は地下構内へと降りていく。
この先は、アビス第2層『黒縄』。
かつて都市の動脈だった極太の送電ケーブルや配管が腐食によって垂れ下がっており、隆起や地殻変動によって、地下鉄網そのものがまるで巨人の腸のように複雑に絡み合った迷宮だ。
彼らはまだ知らない。
自分たちが踏み込もうとしているのが、ただの地下通路ではなく、侵入者を絡め取り消化する、死んだ都市の「胃袋」であるということを




