第1話
一九九九年、七月。
日本の首都に突如として巨大な肉の塊が現れた。
何の予告もなく、不条理な暴力として地上に出現したのだ。
初めはただの巨大な地面の陥没かに思われた。
しかしそれはただの穴ではなかった。
穴から伸びた触手が、地表にあったビルやアスファルト、全ての物質を粘性の高い巨大な消化器官に引きずり込むように飲み込んだ。
さらに地下に眠っていた者達をも血肉に変えるように飲み込み、内部で生々しく捻り上げると、次の瞬間にこの世ならざる者たちを吐き出し始めたのだ。
当時、この巨大都市に住んでいた人々のほとんどはその日のうちに、あるいは数日のうちに、理解不能な事態の中で命を落とした。
首都機能は瞬時に麻痺し、国家としての体裁と機能は完全に停止した。
突如として訪れたこの未曾有の事態に対し、世界は当初、傍観の姿勢を取った。
しかし、事態が地球規模の危機へと拡大する可能性が示唆されると、各国からの援助が始まった。
その援助を受けながら、どうにか立ち直った日本が最初に行ったのは、首都機能を大阪へと緊急移転することだった。
そうして沢山の命を飲み込んだ巨大な異物は、しばらくした後、便宜上の呼び名として「東京アビス」と名付けられた。
東京アビスはその後も悪性の腫瘍のように脈動し、拡大を続け、東京全体を、かつての栄華の残骸もろとも飲み込んでいった。
旧東京は、異形の生命体(後に「魔物」と総称される)が闊歩し、一切の常識が通用しない魔境と化した。
派遣された自衛隊は初めこそ練度の高さで善戦していたが、魔物たちが操る不可思議な力の前には無力だった。
電波は乱され、兵器の照準は狂い、弾薬の尽きたアサルトライフルはただの鉄の塊と化した。
人間とは対照的に、空腹と疲れを知らない魔物達からの襲撃は止まず、数週間の戦闘の後、自衛隊は壊滅的な損害を被った。
日本政府は自身での統治能力を完全に喪失。
この状況は「東京事変」と称され、国際社会は日本を事実上の崩壊国家として認識するに至った。
しかし、日本という巨大な経済圏と地理的な重要性は無視できない。
その後も国際社会からの援助は続き、その援助は国際連合主導の「東京アビス対策機構(T.A.M.O.)」の設立という形で具体化する。
T.A.M.O.は日本国内の暫定政権として機能し、海外の軍事・技術支援を受けた連合軍は、魔物達の脅威を旧東京都内の半分にまで封じ込めることに成功する。
この再建の過程で、迷宮やその付近から特殊なエネルギーを発する資源「アビス・ストーン」が見つかる。
光を吸収し、奇妙な振動を放つこの黒い石は魔物達の力の源ではないかと予想された。
アビス・ストーンの研究は脅威的なスピードで進み、結果、その力を人間にも「異能力」として発現させることが認められた。
その瞬間から、世界の構造はガラリと変わった。
人々は、幸運にも、あるいは不幸にも現れる、その無作為で不可思議な力に魅了された。
彼らは、異能力という新しい特権を求め、こぞってアビス・ストーンを求めるようになったのだ。
その結果、アビス・ストーンの収集を行う異能力者集団「ダイバー」が発足し、公的な職種として確立された。
アビス・ストーンの存在は、もはや国家経済の根幹となった。
この新しい資源が、旧日本を再建するための唯一の燃料となったのである。
アビス・ストーンによる恩恵により復興が進むにつれて、複合企業であるファイブ・リングスが運営するダイバー組織、通称「R.I.N.G.S.」に資源の利権が集中していく。
ファイブ・リングスはもともとあった莫大な富と権力を使い、ますますその存在を巨大なものへと膨れ上がらせていった。
そうしてダイバーとその支援を行うファイブ・リングスが富を独占し始め、その一方で、普通の市民との間には、もはや埋めることのできない極端な経済格差と社会的な断絶が発生した。
東京アビスの内部に眠る富は、人々の心に希望ではなく、新しい種類の階級意識を植え付けていったのだった。
国内の政治的な緊張も高まっていた。
T.A.M.O.の国際的権威に対して、日本自身での完全な主権回復を求める国内の民族主義勢力「弥生の理」との間で政治的な対立が激化。
また、裏社会ではアビス・ストーンにより異能力を手に入れた非公認ダイバー、スクレイパーらによる資源の闇取引が横行し、治安は不安定な状態が続いた。
最終的に、T.A.M.O.とファイブ・リングスは実質的な統治協定を結び、半ば無理やりに混乱を収束させるに至った。
そしてその後、ファイブ・リングスの中で技術開発を担うネクサステックによってアビス・ストーンを利用した全能的な監視システムとデータ管理体制が構築されることで、治安は表面上、安定を取り戻した。
東京アビスは、もはや恐怖の対象だけではなくなった。
それは富を生み出す巨大な金脈へと地位を転換させ、日本の中央で人間達との「共存」という名の管理下に置かれた。
そうして異形のテクノロジーと魔物達の残骸は、人々の生活インフラに完全に組み込まれた。
街を走るリニアは魔物の骨格を参考に作られ、公共施設の電力はアビス・ストーンで賄われている。
異物は日常へと変わり果てた。
これはつまり、数々の犠牲と引き換えに手に入れた、自由の担保がない脆弱な安定であった。
人々は平和を享受する代わりに、異能力という新しい階級制度の中で生きることを強いられることとなったのだ。
ニ〇ニ五年十二月
東京アビス。
その周辺にいくつも点在するかつて栄えた街の残滓。
その中の一つである、今は「ゲートタウン」と呼ばれる荒れ果てた元歓楽街。
東京アビスへの探索が最盛期を迎えていた頃、この都市は日本中の若者と金、そして欲望を吸い上げていた。
駅前には、R.I.N.G.S.の最新鋭の支部が建ち、鏡面仕上げのガラスを輝かせ、一獲千金を夢見たダイバーたちが、最新鋭の装備と、安酒と、抑えきれない喧騒を撒き散らしていた。
だがしかしそれはいつまでも続かなかった。
探索が進むにつれ、東京アビスの内部は採算に見合わないほどに危険になり、アビス周辺の粗末なストーンでさえもT.A.M.O.やファイブ・リングスによって徹底的な管理と回収が始まったからだ。
そして何よりも人々の士気を挫いたのは、メディアが報じる熱狂的な英雄譚が、最後にはいつも消耗品としての悲劇で終わったということだった。
熱狂が去った後には、半ば廃墟と化した巨大な施設と、それでもまだ情熱を持ち続ける僅かな者達、そして大量の「成れの果て」と呼ばれる者達だけが残された。
彼らは世間に戻ることができない。
異能力を持たない者がアビスの富に魅了され、全てを失ってこの街に辿り着いた。
かといって、装備も資金もなく、積極的にアビスへと挑むこともできない。
そうした者達はスクレイパーへと身をやつし、小さなアビス・ストーンを拾い集めて未来への幻想を抱き続ける。
そんな、希望と諦念の混ざった臭いが充満する街、それがゲートタウンだった。
その一角にある寂れた酒場「ラスト・オーダー」は、東京アビスを遠くに見ることができる小高い丘の上に建っている。
酒場の中は薄く溜まったホコリが舞い、昼夜の区別もつかないほど薄暗く、点滅する蛍光灯だけが世界を照らしている。
カウンターの奥には酒瓶を並べただけの棚があり、その正面には顔色の悪い老人が一人座り、虚ろな目でジョッキを傾けている。
壁際のテーブル席では、古びた防護服を着た男がぼんやりと天井を見上げていた。
カウンター席の、奥から二番目。
片桐宗介は、安酒のグラスを握りしめていた。
彼の黒く、しかしどこか虚ろな瞳は、この薄暗がりに溶け込もうとしているかのようだ。
無精髭の生えた顎と、くたびれたシャツに皺の寄った顔は、四十四という実際の年齢よりもずっと老けて見える。
そしてその手は微かに、震えていた。
グラスの中の琥珀色の液体は、彼の胃袋を満たすと同時に、その脳髄にこびりつく残渣を一時的に抑え込むためのものだった。
前回の仕事を終えてから三日。
未だにその時に蘇った感情を忘れることができないでいる。
彼はその重い過去を、二日酔いという手頃な現実で覆い隠そうとしているのだ。
しかし先ほどからグラスを傾けるたびに、魂を焼くような英雄の断末魔が脳の奥でざらついていた。
「年々、酷くなっていくな」
片桐は独りごちる。
直後、ギイと重い扉を押し開け、見慣れた男が入ってきた。
男は、まるで酒場の沈滞した空気を切り裂くように、鍛え抜かれた体躯を惜しげもなく晒している。
引き締まった顔立ちには、この荒廃した世界でも何かを成し遂げようとする強い意志と情熱が宿っていた。
片桐と同い年の彼だが、むしろ最近では年々若返っているようにすら見える。
彼がダイバーの装備を完全に脱ぎ捨てた姿は珍しい。
昔馴染みの彼――六條は、片桐の隣に腰を下ろすなり、呆れたようにため息をついた。
「またここで飲んでいるのか」
そう言いながら昔馴染みも「同じものを」と注文する。
「奢らないからな」
そう言って最後の一口を飲み干すと、片桐も「同じものを」とグラスを傾けた。
「それで」
片桐は、六條の来訪がただの世間話ではないことを知っている。
近年は仕事の話以外で訪ねてきたことなどないのだ。
「わざわざこの街まで来るってことは、急ぎなんだろ?」
まばらな客を内包する酒場という開けた場は、むしろ二人だけの壁となり、言葉の裏側で真実を交わすための装置となる。
「猫をな、見つけてほしいんだ」
六條はカウンターに肘をつき、声のトーンを落とした。
「また、なのはお前のほうじゃないか」
片桐は皮肉な笑みを浮かべる。
猫探し。
それは、これまでにも何度かこなしてきた依頼だった。
このダイバーは時折、こうして「下働き」を依頼しにやってくるのだ。
「今回はな、飼い主のところから攫われちまったんだよ」
「攫われた」という単語に、片桐の目が僅かに動く。
それは企業に雇われた通常のダイバーでは手が出せない、より闇に近い部分の依頼なのだ。
「攫ったのはスクレイパーだと、推測されている」
直後、点滅する蛍光灯の不規則な周期が一瞬止まったかのような静寂が訪れた。
薄暗い店内に残る数少ない客、カウンターの老人も、壁際の古びた防護服の男も、正体が分からない以上スクレイパーである可能性は否定できない。
スクレイパーにとって、その単語は、T.A.M.O.やファイブ・リングスが築いた価値観によって定められた不名誉な呼び方なのだ。
六條という「公式」のダイバーが、その言葉を不用意に口にした瞬間、彼らは即座にその意図を探り、警戒態勢に入ったのだ。
壁際でぼんやりしていた男が、かすかに身じろぎしたのがわかる。
「おっと、どうやら失言したようだ」
六條が背中越しに後ろに向かって手を振ると、張り詰めた空気は微かに緩和した。
「お前、少し安易すぎるんじゃないか」
どっしり構えた六條とは対照的に、落ち着かないのは片桐の方だった。
「お前はいいだろうがな、俺は一般人なんだぜ」
僅かに立ち上る吐き気を酒で無理やり抑え込み、大きくため息をついた。
「それで、飼い主は首輪をつけてたんだろうな?」
片桐は尋ねた。
首輪。
それは、その「猫」が特別なものであり、その特別を「管理」する為の重要な器具だ。
「ああ、そのおかげで場所は特定できている」
六條の言葉に、片桐は無精髭に埋もれた顔をわずかに動かした。
「ならその情報だけでいい。端末に送っておいてくれ」
片桐はグラスに残った安酒を飲み干した。
その琥珀色の液体が、一時の間だけ過去を忘れさせてくれる。
片桐はどんな仕事も引き受ける、この街の「何でも屋」だった。
だからこそ、必要以上の情報など求めてはいない。
手に余る情報は、自らの首を絞める結果を招きかねないと知っているからだ。
片桐は、グラスをカウンターに軽く置き、正面を見据えたまま続ける。
「猫は無傷で確保する。報酬はいつもの通り振り込んでくれればいい。そして……」
彼は言葉を切り、テーブルの向こう、壁際で微かに身じろぎを止め、息を殺して警戒しているスクレイパーであろう男の気配を感じ取った。
「俺の仕事はそれで終わりだ。それ以上のことは何もしない。俺には、何もできないからな」
分かっている、と六條は答えると、酒を一口流し込んで静かに息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「むしろ深く踏み込んでこないからこそ、お前にはいつも助けられているよ、調律者」
昔の呼び名で呼ばれ、片桐は自嘲するかのように小さく顔を歪ませる。
「居場所は今から三十分後に送る。スクレイパーどもに気をつけろ、なんてお前には必要のない言葉だったか?」
片桐はグラスを静かにカウンターに置き、立ち上がった。
「そうだな、忠告は不要だ。俺は、俺一人であれば何だってこなしてみせるよ」
そう言い残すと、片桐は酒場ラスト・オーダーの重い扉を、六條が来た時とは対照的に、静かに押し開けて、薄暗い街へと消えていった。
「そうだな。それがお前の、贖罪だもんな」
そう言って片桐を見送った六條は、グラスを空にすると軽口を叩きながら新しい酒を受け取り、見えない誰かにグラスを傾けるのであった。




