Side: タリヤ 王都にて
クラウディア一行がグラーツェルへ向かっている頃、王都の大通りは、朝から人であふれていた。
香辛料の匂い、魚を捌く音、客引きの声。雑多なざわめきの中で、タリヤは陽気な笑顔を振りまきながら歩いていた。
「おやまあ、タリヤちゃんじゃないかい。久しぶりだねえ」
市場のおばちゃんが、野菜かごを並べながら声をかけてくる。
「おばちゃん! お久しぶりっす。店の大将が“そろそろ人参が切れそうだから買ってこい”って。中でも質のいいやつを選んでこいって、うるさいんすよ~」
タリヤは肩をすくめながら笑った。
「そりゃ大変だねえ。……でも最近は困るよ。肉も質の悪いもんが混じってきてね。しかも値上げの話まで聞くしさ」
「え~最悪っすね……」
「でも今日はちょうどいいのがあるよ。帰りに持っていきな」
「お、ほんとっすか! 大将、遅くなるとすぐ怒るんで……帰りに寄るからとっといてください。おばちゃん最高っす!」
「はいはい、任せときな」
軽口を交わしたあと、タリヤは屋台の隅にいる八百屋のおじさんに近づいた。
「おじさん、人参十本ちょうだい。いつもので」
おじさんはちらりとタリヤを見ると、短く答える。
「銅貨十枚だ。袋はいるかい?」
「お願いね~」
おじさんは黙々と人参を袋に詰め、最後にひょいと薄い紙片を忍ばせた。
「はい、出来たよ」
「ありがと~」
タリヤは銅貨を差し出す。その中の一枚に、折りたたまれた指令書を忍ばせて。
おじさんは受け取ると、わずかに目を伏せて「毎度」とだけ言った。
路地に入ると、朝の喧騒はすっと遠のき、石畳に薄い影が伸びていた。タリヤはふと立ち止まり、小さくため息をつく。
「一人……」
角を曲がり、薄暗い通りを進んでいくと背後から低い声が響いた。
「おい姉ちゃん、こんなとこ歩いてちゃダメじゃねえか」
タリヤが振り返ると、ガラの悪い男がこちらを窺っていた。口元には下卑た笑み。じりじりと間を詰めてくる。
そのとき、路地のさらに奥から新たに二人がにじり寄るように現れた。
「へへ、カモが自分から入り込んできやがったな」
両側から3人に挟まれる形となり、薄暗い通りは急に息苦しいほど狭く感じられた。
「持ってるもん全部出せ。さもなきゃ、わかってるよな〜」
男の一人がにやりと笑い、手にした短剣の刃先を金袋に向けた。
「や、やめてくださいっ……!」
潤んだ瞳で震えながら、タリヤは両手を前にかざした。
その怯えた声は、路地の湿った空気にかすかに響き、男たちの下卑た笑いをさらに誘った。
タリヤはぎこちなく足を滑らせ、金袋を床に落として尻もちをつく。
はだけた裾の隙間から、白い足首がちらりと見える。男たちの目に別の光が灯る。
「お、よく見りゃいい体してんじゃねえか」
男が舌打ちしながら近づき、袋をひょいと拾い上げる。
「これは頂いていくぜ〜」
男が舌なめずりし、視線をタリヤに戻したとき――そこにはもう、彼女の姿はなかった。
ほんの一瞬前まで地面に尻もちをついていたはずなのに、影も形も消えている。
「……あ?」
怪訝に眉をひそめた刹那、背後の闇がわずかに揺らいだ。
細い――光をほとんど反射しない黒い線が、するすると男の首元を這うように回り込む。
男は顔をゆがめ、手で首を押さえる。
驚愕と恐怖が入り混じった声が喉から漏れるが、次の瞬間には足取りがもたつき、やがて膝を折って前のめりに倒れた。
ただ呼吸が浅くなり、動きが止まる。
あまりにも一瞬の出来事に、残る二人は声を失った。
目の前で仲間が崩れ落ちたというのに、何が起こったのか理解できず、口を開けたまま固まっている。
恐怖が追いつくより先に、静寂が路地を支配した。
「いるよね?」
そうタリヤが短く問うと、その顔からは先ほどまでの怯えも笑みも消えていた。
冷え切った仮面のような顔で、路地の奥を見据えると、低く抑えた声が、路地の奥——瓦屋根の影の向こうから聞こえた。
「はい」
冷静な返事。諜報部だ。数歩の距離もなく、新たな人影が男たちに近づいて息を潜める。
残りの二人は慌てて後退しかけるが、同じ黒い線が一人ずつ首筋に回り、すぐにその場に崩れ落ちた。
派手な殺戮ではない。静かで効率的な、機械のような処理だった。
タリヤは息を整えながら、小さく呟く。
「王家の影ではなさそうだね。処分しておいて」
「はっ」
影の中の諜報員たちは無表情に頷き、手早く倒れた男たちの処分を進める。
タリヤの心臓はまだ速く打っている――だが表には何事もなかったように、彼女は再び陽気な微笑みを作り直す。
食堂へ戻るべく、静かに路地を出ていった。
食堂に戻ると、すぐに厨房の奥から大将の声が飛んできた。
「おい、タリヤ戻ったか! 人参、剥いとけ!」
「了解っす~!」
元気に返事をしながらも、店に入る直前に報告書を懐へ仕舞っていた。
人気のないキッチンに入ると、まな板の影で素早く紙を取り出す。
清掃員に化けた者。学院に潜り込むメイド。王宮の宴席に出入りする給仕。活動家に紛れた潜伏者――。
彼らから寄せられた情報が、細かな断片となって記されている。
「……食糧搬入ルートの改竄……騎士団の配置変更……王子派、金の流れが不自然……」
タリヤはぶつぶつと呟きながら、すべてを頭に叩き込む。
「タリヤー!」
「はーいっ!」
奥から再び大将の声。返事をした直後、タリヤは報告書を火にくべた。
炎が一気に紙を呑み込み、黒い灰が舞い上がる。
その顔には、先ほど市場で浮かべていた陽気な笑顔はなかった。
ただ一人の令嬢に届けるべき情報を、胸に刻み込んだ諜報員の顔がそこにあった。
最終話でたくさんのリアクションをもらったお礼です。
以前話の展開上、ボツにした短編を追筆したものになります。
序盤で端折った賊討伐作戦やキミトフと館の新人さん、ティルフォードでのタリヤの諜報日記からマイルズと国王の治療、赤子の未来……上げればきりが無い程、書こうと思えばまだまだネタはあるのですが、それらはまたどこかの機会に。