夜の電車で聞いたのは“普通の愚痴”じゃなかった!?
残業帰り。
小田原行きの最終電車。
車内には、俺を含めて七、八人。
揺れる蛍光灯の下、乗客たちは皆、疲れた顔を伏せている。
窓に映る表情も、どれも同じように暗かった。
スマホを眺めていると、正面に座った男女の声が耳に入って来た。
A(女性)
「今日、仕事疲れたね」
──妙に平板な声。
まるで“誰かの台本”をなぞるように。
B(男性)
「うん。部長が細かすぎて、もうやってらんないよ」
A
「家に帰ったら、0時過ぎるよ……」
B
「……俺もだ」
Bは爪先で窓枠をコン、と叩いた。
だが、その音はなぜか俺の“背後”から響いた。
(普通の愚痴……のはずだ)
気にせず、Yahooニュースをスクロールする。
A
「でも、今日のは楽しかったね」
B
「そうだな。なかなか上手にできた」
(……楽しかった? 残業が?)
眉をひそめる。
だが、まだ聞き間違いだと思おうとした。
A
「今日も部長、同じこと言ってたよね」
B
「“お前ら言わなくても分かるよな!”ってやつ?
あれ、もう何百回目だよ」
そのフレーズ。
俺の会社でも、何度も聞いた言葉だった。
キィーン……
耳鳴りが走る。
A
「今日は……ずいぶん血の匂いがしたね」
B
「うん。靴の裏に、まだついてる」
スマホを持つ指が止まった。
心臓が跳ね、汗がじわりと滲む。
鼻を抜ける鉄のような匂いが、
まるで自分から発せられているかのように感じられた。
A
「次は、もっと時間かけたいね」
B
「そうだな。――今回は急ぎすぎた」
耳鳴りが強くなり、呼吸が浅くなる。
スマホが手から滑り落ち、
カツン、と乾いた音が床に響いた。
車内に沈黙が満ちる。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
A
「いい歳して泣いてたけど、途中から声も出なくなっちゃった」
B
「最後はみんな静かになる。……顔、笑ってるみたいだった」
(……え?)
ふと足元に目を落とした瞬間──
床に“赤黒い靴跡”が見えた。
その足跡の続く方へ視線を向ける。
A
「ねえ……ひとつ、気になることがあるんだけど」
足跡は、乗車口から伸び、
俺の足元でピタリと止まっていた。
B
「ん、なに?」
心臓がドクン、と跳ねる。
前の二人は、まだ平然と話し続けている。
慌てて自分の靴裏を見た。
赤黒い……? 俺の靴裏が?
A
「……前の人……」
(……?)
キィィィン……
耳鳴りが、金切り声のように突き刺さる。
A
「──気づいてるかな!」
B
「もう気づいてるよ。──聞かれてる」
(──!!)
顔を上げた瞬間、電車はトンネルに入った。
バチン。
蛍光灯が落ちる。闇。
暗闇の中で、耳鳴りに混じって……
低い笑い声がした。
次の瞬間、明かりが戻る。
慌てて正面を見る──
そこに二人はいない。
息を呑んだその時、
正面の窓ガラスに視線が吸い寄せられた。
そこに映っていたのは──三人。
真ん中に俺。
その両隣に、あの男女。
その顔は、**笑っていないはずの“顔”**だった。
──血の気が引く。
だが次の瞬間、さらにおぞましいことに気づく。
窓に映る俺自身の顔。
それもまた、罪悪感や後悔に苛まれた、
二人と同じ──
“笑っていない顔”だった。
その時――車内がざわりと揺れた。
他の乗客たちが一斉に顔を上げた。
そして、その全員も……
同じ“笑っていない顔”で、俺を見つめていた。
――完。
――あの二人が見た光景は、誰の記憶だったのか?
――あの会話は、誰の声だったのか?
最後に残っていたのは、
俺の靴裏にこびりついた“赤黒い跡”だけだった。




