その一撃は世界を捉う
ぽつり、ぽつりと。
気付けば雨が降り始め、その足は次第に加速していく。
全身がずぶ濡れになってやっと、そのことに気付いたぼくだが動く気が起きない。
昨日のあの光景―――美奈子と和弥のキスが、網膜に焼き付いて離れない。
もうどうだっていい。
ぼくはもう終わってるんだ。
むしろこのまま、雨と共に流れて消えてしまえれば。
それからどれくらい経っただろう。
熱が出てきた気がする。
息苦しい。
咳もとまらない。
ああ、これは風邪を通り越して喘息かな。
他人事のように・・・いや。
自分事だからこそ、もう病気になって死んでしまえればと考えてしまう。
どろどろとしたグラウンドの土に溶けるように、沈んでいくように。
意識を吹き飛ばしてしまいたいと。
そう思ったとき。
急に、雨がぼくに降り注ぐのが止まった気がした。
「はぁ・・・!はぁ・・・!」
誰かの吐息が聞こえる。
女の息遣いだ。
何者かは分からないが、ぼくに傘でもかけているのだろうか。
「ばっ・・・馬鹿じゃないのっ!?こんな日にこんなところで寝てるなんてっ!」
聞き覚えのない声。
気の強そうな感じだけはわかる。
そいつはぼくの胸ポケットに手を突っ込むと生徒手帳を取り出して名前を確認する。
「愛葉・・・幹・・・同じクラス・・・!・・・んんん~~~っっ!!」
誰に言うでもなくそう呟いた彼女は、今度は脱力しきっているぼくの腕を引っ張って、肩を貸すような体勢になると、かなり重いであろうぼくの身体を引きずって歩き出した。
何を考えているんだ。正気か?
女の細腕で172センチ65キロをそんな簡単に運べるはずないだろう。
「いい・・・ほっといてくれ・・・」
そう言ってみる。
遠慮じゃなくて本気だ。
ぼくは・・・ここで果てていいとすら考えていた。
でも。
「っ!!」
ぱしん、と。
意識がはっきりと目覚めるような平手打ちがぼくの頬に炸裂し、再度全身がグラウンドに落ちる。
その拍子に見た。
ぼくを運ぼうとした女の顔。
腰まで届くロングヘアをびしょびしょに濡らして、肩で息をしている彼女の姿を。
眉間に皺をよせて、釣り目がちな瞳をこちらへ向ける正義感の強そうな顔を。
彼女は言う。
ぼくの胸倉を引き寄せて。
「何があったか知らないけれど、自分の命を粗末にするんじゃないっ!」
それだけ言うと、またぼくの肩をかついで歩いていく。
少しずつ、少しずつ。
おたがいびしょ濡れになりながらも、校舎へと近づいていく。
「おいっ!何をしているんだっ!!」
そこへ、大柄な足音が水たまりを弾き飛ばしながら近づいてくる気配がした。
おそらく昨日見たいかつい保険医だろうか。
なんとなく覚えている限りはそこまでだった。
女生徒が先生にぼくの身柄を引き渡した気もするし、そのまま保健室へと運ばれた気もする。
彼女はちゃんと身体を乾かせただろうか。
自分のことを棚に上げてそんなことをふと思う。
ああ。
美奈子、おまえは。
濡れて身体を冷やしちゃいないだろうか―――。
※※※※※※
「・・・・・・」
「・・・・・・」
目を覚ますと、昨日垣間見た件の保険医の顔がめっちゃ近い位置にいた。
このまま顔をもたげればキスしかねないくらいに。
いや近い近い近い。ありえないでしょ。
どうしてそんなことになっているんだ。
「あ、あの、その」
「む、起きたか」
純粋に様子を見ていただけなのか、ぼくが目を覚ましたのを確認すると保険医はすぐにその巨体をどかしてくれた。
怖いよ。なんなんだよ。一気に目が覚めたよ。
身体を起こして、熱のせいか呆けた頭であたりを見回すと、自分はベッドの上に寝ていたらしく、周囲はカーテンで仕切られている。
わかりやすく保健室だな。
あの女生徒と保険医が運んでくれたんだろうか。
などと考えていると、保険医はのそりとでかい手にそぐわない、スキャン式の体温計をぼくの額へと向けてスイッチを押した。
「38.5度。保護者を呼んであるから今日は帰りなさい」
簡潔に診断結果を伝え、またぼくをベッドへと押し込んで近くの椅子へと腰かけた。
いや。
近くにいられると気が散って寝られないんですが。
名札をちらりと覗くと『熊田』と書いてある。まんまっておい。
ともあれ、熊田教諭に診てもらいながらでは落ち着かないので、ポケットに入っていたはずのスマホを取り出そうとして気付く。
ぼく、ジャージ着てる。
制服は雨と泥でぐちゃぐちゃになったから仕方ないとして、誰のジャージだこれ。
胸に書かれたネームをどうにか見てやると、そこには。
「幹、起きたか?」
どんなタイミングの良さか、ジャージの持ち主がやってきた。
昨日知り合ったばかりのイケメン正義超人、大塚 武だ。
「おお、友人が来たか。ちょっと診ていてくれるか、担任の先生へ伝えてくる」
言うが早いか熊田教諭はドスンドスンと足音を立てながら、武と入れ替わりに保健室を出ていく。
頷いた武はカーテンをよけてぼくの様子を見ると、椅子に腰かけて足を組んで苦笑いした。
「元気じゃないんだろうけど、元気そうでなによりだ。何があったかは・・・聞かない方が親切か?」
「・・・わるいな。ジャージも、ありがとう」
「いいさ。着替えさせたのは熊田先生だ」
「んぐ・・・」
あの教諭が着替えさせたのか。なんかちょっと嫌。
「姫川にも礼を言っておけよ。彼女、朝早くに登校したから真っ先にお前のことを見つけられたらしいからな」
「ひめかわ・・・?」
「まぁ覚えてないだろうな。姫川 撫子。うちのクラス委員長」
「いつそんなの決まったんだ・・・」
「お前が寝てる間。今もう2時限目終わったばかりだぜ」
そうか、あの髪の長い、ぼくをビンタした女の子か。
あの子もずぶ濡れだったろうに、随分とパワフルなんだな。
「まぁ二時限目っていっても退屈なオリエンテーションがメインだけどな。次の時限からは体育館で部活紹介だ。気になる部活があるならチェックしといてやるけど?」
「いい。部活入るつもりない」
「はは、同じだ。俺とおまえは本当に気が合うな」
肩を揺らして笑う武。
確かに・・・気が合うし、共通点も多い奴だ。
こうなると逆にそのベビーフェイスを引き剝がしてやりたくなるな。
いまは風邪のせいで無理だけど。
「・・・そういやぼくの制服は?」
「部室棟の乾燥機で乾かしてそこに置いてあるぜ。スマホと財布と眼鏡は俺があずかってる、ほら」
何から何まで・・・本当に気が利くやつだ。
しっとりとしているものの辛うじて水没していないスマホを受け取り、ラインの通知を見る。
死ぬほど妹から心配のメッセージが届いてた。
ブラコン過ぎるだろ。
あとは叔父から少しと、美奈子と和弥・・・。
・・・合わす顔が無いな。合わせるつもりも・・・ないけど。
「今日は帰るんだろ?ジャージはまた明日以降に返してくれればいいから、ゆっくり休め」
「・・・ありがとう」
「気にするな」
くっそ、本気で良い奴だな、武。
元気になったら菓子折りの一つでもくれてやるとしよう。
・・・。
待てよ、あの熊田教諭、ぼくの保護者を呼んだって言ってなかったか。
両親が海外赴任中の今、保護者と言えば―――。
「よぅ幹!元気かー!元気じゃねぇよな悪い悪い、不健康かー!」
ばーん、と保健室の扉を開けて陽気な声が響き渡る。
反射的に隠れるようにベッドの上で布団にくるまってしまうぼく。
あああ来ちゃったよ。仕事してりゃいいのに。
ぽかん、とする武をよそにぼくの寝ているベッドを嗅ぎ付けたその男は、のっしのっしと歩いて布団をひっぺがすと、相変わらずの懐っこい笑顔を浮かべるのであった。
「おう、帰るぜ!車回してあるからよ!」
「・・・おつかれアニキ」
叔父さん、アニキ。
そんな風に呼んでる、ぼくと妹に住む場所を提供している主。
母方の叔父であるところの草薙 桃次が、あろうことかぼくの高校へとやってきてしまったのだ。
騒がしいから苦手なんだよこの人。
「幹の、兄貴?初めまして、俺は幹の友達の大塚 武です」
「おおっ!?幹に和弥と美奈子以外の友達がいるなんて驚きだ!これからも仲良くしてやってくれよ!」
「いやアニキって呼んでるだけで関係は叔父だからなこの人。おじさんって呼ぶと拗ねるんだよ」
「いーや兄貴で合ってるね!実際兄貴みたいなモンだしな!ほいこれ、やるからいつでも来てくれよな!」
と、自称兄貴の叔父さんは、財布の中からチケットを一枚千切って武の掌に載せる。
それを眺めた武は少し黙った後に驚きに声をあげた。
「つけ麺 桃太郎のまかない券!?去年ラーメングランプリのつけ麺部門で優勝したっていう、あの店か!?」
「おっ、よく知ってるねぇ少年!さてはだいぶラーメンマニアだな?」
「いや、この辺で美味しい店をググってたらたまたま見つけて!ぜひ行かせて頂きます!」
そう、この叔父さん、つけ麵屋を営んで生計を立てているのである。
しかも一週間で一千万に届きそうな売り上げ出しちゃうような超有名店。
豚骨魚介をベースに自家製のトロ肉を乗せたスープはガチで絶品。
実際美味いのだ。超絶美味いのだ。美味いから混むのだ。
身内のぼくが食べに行くと手伝わされるのだ。すげぇ大変なのだ。
閑話休題。思い出したくもない。
「ほら早く帰り支度しろい。今日は滋養つけるために味玉たくさん乗せてやるからな!」
「あ、それはちょっと嬉し・・・じゃなくて!店長がこんな時間に抜けてきていいのかよ」
「はい大丈夫。そんなトラブルくれぇで揺るぐような基盤じゃねぇのよ、うちの店は」
ばんばんと遠慮なく病人たるぼくの背中を叩いてくるアニキ。
思わずむせ返るぼくの首根っこを今度は掴んでベッドから引きずり出し、制服などが入った湿気った鞄を手に取ってご機嫌そうに保健室から出ようとする。
ひ、ひとさらい!
「じゃあな武少年!うちの店に来てくれたらまた会おうぜ!」
「はい、是非!幹、早く治せよ!」
「善処する・・・」
呑気な武にそう返事するのがやっとなぼく。
ああ、なんか忘れてたな。
うちの一族はなんやかんやで暑苦しいんだ。
それこそ、ぼくが落ち込んでも無理やり引きずりあげてしまう程度には。
そして叔父さんの車、キャデラック・エスカレードの助手席に放り込まれ、病院まで直行することになったのであった。
帰り際、体育館へ向かう姫川さんとやらの姿が見えた気がしなくもない。