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第2話『ブラッディ・エリサ』

「血も涙もないばけもの──って、ところかな」


 笑う絵里沙。彼女が私を助けて負った切り傷には、綺麗に肉の断面が見えている。しかし一切の出血がない。噂は本当だったのだ。


「ふざけないでッ! 血がないなんて、そんなふざけたこと……!」

「自分も化け物のくせによく言うね!」


 刹那、絵里沙が口裂け女の隙を突き、渾身の蹴りを叩き込む。女の体が宙を舞い、電柱に激突した。強かに後頭部を打ち付け、ある程度ダメージを受けたらしい女だが、それでも立ち上がる。


「ぐ……! なんで邪魔をするの……ただの食事だっていうのに……!」


 怒りを露わにする口裂け女。再び刃で絵里沙を切りつける。狙いが定まっていないせいか、それ以降刃が絵里沙を傷つけることはなかった。隙の大きい大ぶりな攻撃の直後、絵里沙に腕を捕まれ、関節をへし折られていた。そのまま流れるように刃物を叩き落とし、脚を踏み折りにかかる。またしても鈍い音がすると、女はよろめき、追い討ちと言わんばかりに顔面に一撃。後方に倒れ込んで、立ち上がろうにも脚を折られて立ち上がれない。


 さすがにこれは過剰防衛ではないかと心配したが、私の心配は無用だった。女もまた、人間では有り得ない現象を起こしたのである。


「欲しい……血が欲しい……」


 なんと、彼女の肉体がほどけ、無数の羽虫となって動き始めたではないか。耳障りなモスキート音からして、これは蚊だろうか。ともあれ、羽虫の群れは絵里沙ではなく、相変わらず私を狙っているらしい。


「その綺麗な血……寄越しなさいよォ……!」


 黒い虫の塊となった相手が飛来するのに、立ち上がってすらいなかった私は呆然とするばかりだった。それ以前に、目の前で起きていることを理解できていなかった。


 ……そんな私でも助けてくれるのが、絵里沙だった。いつ脱いだのか、制服の上着をふわりと広げ、蚊の大群を包み込んで捕まえてしまう。そして出口を探して布の中で蠢く蚊の群れに対し、絵里沙がポケットから取り出したのはなにかのスプレーだった。布の上から何度も噴霧し始めると、あたりに強烈な匂いが立ち込める。

 この匂いは、ニンニク……だろうか。布の中から、あの口裂け女のものであろう呻き声がする。次第に、蚊への変身を保っていられなくなったのか、布の中が膨らみ、先程の女が慌てて飛び出してくる。這いずり苦しみながら、こちらへの敵意は失っていないようだ。


「あぁ、臭い臭い。ニンニクがほんとに虫除けになるなんてね。効くとは思ってなかったんだけど」

「許さない……許さない……っ」

「私だって2回も刺されて痛かったんだけどなぁ。じゃあお互いに許さないってことで」

「……!? な、なにを……っ!」


 再び懐に潜り込む絵里沙。その手が女の胸に突き立てられた。そして、布越しに皮へと爪を立て、胸の肉のその向こう側へと侵入してゆく。女はすぐさまそれを止めにかかるが、絵里沙の方が力が強い。蚊となって霧散する能力は、先のニンニクによって使えなくなっているのか。そのまま女の胸部が抉られ、血が流れる中、絵里沙の手は心臓を掴む。抵抗虚しく、引きずり出された心臓は、血管が繋がったまま晒され、脈打っている。それでも女はまだ生きており、必死に手を伸ばして取り返そうとしては、ひらひらとかわされてしまっていた。


「っ、や、やめっ、か、返してっ」

「やだね」


 抵抗も虚しく、絵里沙は掴んだ心臓を握り潰し、そこから滴る血を口の中に流し込んだ。ごくんと飲み下す音を合図に、かすかに残っていた女の心臓の鼓動は止まり、残された肉体は灰となって崩れていく。


「ぁ、あぁ……お、お願い……誰か、綺麗だって……言って……」


 女の断末魔は届かず、灰に還っていった。ようやく敵対者がいなくなったことで、絵里沙がため息をつき、少し離れたところに落ちていた私の鞄を拾ってくると、私の方に差し出した。


「はいこれ。浦戸さん、無事?」

「わ、私は無事だけど……貴方の方が余程重傷でしょ」

「もちろんそうだね。でも、浦戸さんも怪我してる」


 ここでいきなり顔を近づけられ、唇を奪われたのかと勘違いしかけたところで、彼女は私の首筋に舌を這わせた。傷口から垂れた血を残さず舐め取ってくる。首筋をなぞられるのはぞわぞわして、変な感覚だった。そして、執拗に傷口の周囲を舌先でくすぐられ、私は思わず身じろぎする。ようやく離れてくれた時には、額に冷や汗とも違う少し火照った汗が滲んでいた。


「……おっと、危ない危ない。ごめんね、美味しくてつい」

「変態」

「ごめんって。はい、絆創膏貼ったげるね。名残惜しいけど」


 絵里沙は私の首に付着した唾液をそっと拭き取ると、ポケットから取り出した大きめの絆創膏で傷口を覆った。


「はー、そうだそうだ。私の目的は達したけど、まだヤバい奴いるかもだし、送っていこうか」

「それは嬉しいけど……」


 いきなり人の血を舐め出すのも十分にヤバい奴ではないか。私は冷静になってそう思ったが、不思議と嫌悪感よりも、どこか純潔に触れられたようなむず痒い感覚が強かった。


 それから、私は絵里沙に付き添ってもらい、家までの道を歩いた。その途中、絵里沙は何事もなかったかのように雑談を挟んできて、二ヶ所もできたばかりの、それも深い刺し傷がある人とは思えなかった。


「その、貴方の傷は、本当に大丈夫なのかしら」

「うん。ほっときゃ治るよ。それよりにんにく臭い上着洗わなきゃねぇ」


 見ると、あれほど深かった脇腹の刺し傷は既に塞がろうとしており、断面の肉が蠢いて元に戻ろうとしている瞬間だった。なんとなくその様に目を奪われていると、絵里沙に冗談めかして手で隠される。


「そんなに見つめられたら恥ずかしいって!」

「そ、そうなの? 悪かったわね」


 そんな他愛ない会話を繰り返していると、気がつけば自宅の近くまで来ており、いまだどこか現実感のない帰路は終わりを告げる。しかし、私にはもう少し絵里沙を引き止めたい気持ちが強くあった。彼女には、まだ聞きたいことが山ほどある。

 いったい絵里沙は何者なのか──それを聞いて、もし答えてくれたとしても、今の自分には理解できないだろうけど。


「無事到着! それじゃ、私も帰ろっかな」

「……もしよければ、だけど。シャワーでも、借りていったらどうかしら。ほら、返り血も浴びてしまったでしょ」

「え、いいの? 家主がそう言うと、私、真に受けちゃうよ〜」

「真に受けてどうぞ。受けた恩に比べたら、小さなことよ」


 私は絵里沙を家に招き入れた。玄関に入って、ようやく落ち着いて息をできる気分になった。とはいえ、落ち着いていられない者は、家の中の方にいた。私がただいまと声を出すや否や、廊下の向こうからどたばたと音がして、慌てて走ってくる。大慌てで髪を振り乱したこの男は、私の父、『浦戸 竜騎(りゅうき)』である。


「おぉ……紅麗愛! 無事だったのか、よかった……!」

「ただいま、お父様。私はこの通り、少し人の手伝いをしてきただけよ」

「あぁ、わかっているとも。さすが自慢の娘……ん? その首の絆創膏は……!?」

「っ、えっと、ちょっと転んじゃったの。大丈夫よ、友達が手当してくれたから」

「そうかそうか、友達が……ん?」


 涙目の父の顔が勢いよく絵里沙に向いた。これでも製薬や食品で活躍するブラム・グループの代表取締役社長なのだが、こうもやかましくていいものか。


「な、なんと! 紅麗愛が友達を連れてくるとは! しかもこんな夜遅くに! 悪い友達はお父さん許しませんよ!」

「あはは、ども、夜遊び友達の絵里沙でーす」

「なにぃ!?」

「いや、普通にクラスメイトだけど……少し、事情があって」


 遅くなった事情は真面目に説明をするとあまりにもややこしいので、私は父には委員会の手伝いで時間がかかったとだけ伝えた。絵里沙が一緒にいる理由に関してはぼかしつつ、なんとか納得してもらう。ついでに絵里沙はここ何日も親が帰ってきていないから人恋しいと言い出して、私もその話に乗っかった。

 父は私に甘い。説得にそれほど労力はかからず、今晩だけならもう泊まっていくといいという話になる。


「今晩はもう泊まっていきなさい。最近、行方不明になる人も多いと聞くからね」

「いいんですか、お父さん! やったー!」

「ありがとう、お父様。それじゃあ、夕飯ができるまで、シャワーにしましょ」

「おっけー」


 絵里沙は素直に喜び、保護者の許可も出たところで、私たちは一緒に浴室に行くことにする。

 荷物を置いたら、揃って脱衣所に入って、脱いだ制服を片っ端から洗濯機に放り込んでいく。私はその間、ずっと絵里沙のことを見ていた。下着は大人な黒で、細い肢体は抱きしめたら折れてしまいそうだ。……いや、違う、私が見たいのは傷の方だ。


「……なんか今日、めっちゃ私のこと見てない? 気のせい?」

「え、あっ、そうね、気のせいではないと思うわ。どういう体してるのかなと……」

「あぁ、血の話? じろじろ見ても私が美少女なことしかわかんないと思うし、私もよくわかんないよ。人間の解剖学は当てはまらないからね」


 確かに血色はいい方だし、私の目にはただ色白な美少女にしか映らない。だが血が出ないのは事実だし、生物の根幹から違うように思える。


「口、開けてもらえる?」

「んー? いいよ」

「……そういえば、私を舐めてる時にもついてたし、よだれはあるのね」


 ますます彼女の体がよくわからない。考えても意味は無いし、結局、最終的には直接的な質問をするしかない。


「絵里沙、あなた、何者なの?」


 最後に下着を脱ぐ最中だった彼女は、私の質問に動きを止めた。それからやはりくすりと笑って、大きな胸を隠そうともせず、いきなり私に抱きついて、耳元で舌なめずりしてくる。唾液の水の音がして、囁きに鳥肌が立つ。


「私と貴方だけの秘密にしてくれる?」

「……えぇ」

「じゃあ教えちゃう。私はね、吸血鬼なの。あの口裂け女もそう。私は吸血鬼を殺して食べてる。共食いだね」


 吸血鬼──その言葉を聞いて脳裏に浮かぶ、ふーちゃんの語っていた『ドラキュラ』の本。暗い夜に現れ、婦女の血を飲む。まさに今日、紅麗愛は彼女に、首の傷から流れ出た血を舐め取られた。

 そして、心臓を潰し血を飲む行為の意味は、あれこそが吸血鬼の捕食行為ということだと理解する。あの口裂け女も、虫への変身や尋常ではない身体能力も、死に際して灰になったのも、吸血鬼であると言われれば無理やり納得できてしまう。


「じゃあ……貴方は、クラスメイトも食い殺すつもり?」

「まさか。そんなことしないってば。だって……ぐっ……」


 いきなり絵里沙がうずくまる。眉間に脂汗もかいている。何事かと心配になるが、どうやら腹を押さえているらしい。腹痛か。裸のまま脱衣所に引き止めすぎたか。


「……この通り……血を飲むと、お腹壊すんだ、私……」

「え、嘘、本当に? さすがに吸血鬼として致命的じゃないかしら」

「実は血は必須じゃないんだ。そこは大丈夫。大丈夫だけど、美味しいのに腹を壊すの、つらいよね……油物に弱い人が焼肉食べるみたいな」

「なんというか、夢のない例えね」


 とりあえず、腹は温めてもいいのだろうか。私は手早く服を脱いだら、腹の痛そうな絵里沙の手を引いて浴室に連れていく。そこから彼女の体を洗うのはほとんど私の仕事で、絵里沙はごめんねぇごめんねぇと言いながら、ひたすら洗われていった。傷は完全に塞がっていたし、返り血はあっさりと落とせたし、肌はすべすべで洗っていて少し楽しかった。今まで彼女が冗談と笑顔で和ませてきたぶん、こんな顔もするんだと新鮮で、裸の付き合いもしてみるものだな、と思う。


 ふと、浴室内の姿見に目を向ける。そこには首に傷跡の残る私と、全身綺麗な肌のままボディソープの泡に包まれた絵理沙が映っているのだった。

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