ダンジョン大移動
台風十三号が町を直撃した。予報通りの暴風雨で、タイガの住むアパートは一晩中ぐらぐらと揺れた。地面から抜けてしまいそうで、結局一睡もできなかった。
家は助かったが、問題はダンジョンだ。この町には無数のダンジョンがあり、店や公共施設として使われている。そしてそのほとんどが、地盤の弱いところに埋まっているのだ。
町はずれにあった相撲部屋のダンジョンがアパートの右隣に、工事現場のダンジョンが左隣に、おにぎり軍基地のダンジョンが向かいに、いつの間にか飛ばされてきていた。
「すまないけど、しばらくはこの状態だよ」
大家に言われ、タイガは黙ってうなずくしかなかった。
朝、タイガは振動で目が覚める。餅ノ山の四股踏みか、乾麺ドリルのネジ回しか、最新型ニギニギ飛行機の訓練か、とにかく二度寝などできない環境だ。
「うう、背骨に響く……」
天気予報では、小柄な気象予報士が何か叫んでいる。台風十三号ではなく十五号でした、というところだけ聞こえた。そして気がつくと終わっていた。
「よし、今日も仕事だ」
タイガは掃除ギルドに勤めている。普段は遠くまで出向き、ペットショップのダンジョンやガスコンロのダンジョンなど、汚れの多いところを掃除する。しかし今は家の近くにダンジョンが集まっているので、主任が気を利かせて担当を変えてくれた。
「通勤時間は短いほうがいいでしょう。月曜は相撲部屋、火曜は工事現場、水曜はおにぎり軍基地。その順番でお願いしますよ」
これはラッキーだ、と最初は思った。家に掃除用具を置いておけば、出勤時間ぎりぎりまでゆっくりしていられる。
しかし家にいてもすることがない。絶え間ない揺れと地響きで音楽も聴けず、本も読めないのだ。
出勤するとさらに過酷な時間が待っている。ぶつかり稽古の間をぬって床を拭き、ブルドーザーから逃げながら瓦礫を集め、梅干しの撃ち合いをよけながらご飯粒を拾わなければならない。
「えーと……相撲部屋は全部で五十階か」
階段の上り下りをする間も振動は続く。終わる頃には膝の感覚がなくなり、汗だくになっている。
家に帰り、夜になっても振動は終わらない。ダンジョンは二十四時間稼働しているのだ。
ベッドに横たわり、タイガは本気で引越しを考えた。
「起きてる? タイガ」
「うわっ!」
天井から声をかけられ、閉じかけていたまぶたが完全に開いた。紺色のローブに水滴をまとった男が逆さまになり、タイガの顔を見下ろしていた。こうもりのように器用なポーズだ。
「水野さん! 何でここにいるんだよ」
「ここ便利だね。毎日相撲が見られるし、おにぎりも食べ放題じゃん」
水野は掃除ギルドの仲間だが、気が向いた時にしか仕事をしない。タイガと同じダンジョンを任されているのに、今日も来なかった。
「僕もここから通勤していい?」
「だめ。これ以上生活を侵食されてたまるか」
「まあまあ、そう言わず」
水野はベッドの横に下りてきて、ローブのポケットからおにぎりを出した。
「捕まえてきたよ。食べよう」
ニギ、ニギ、と手の中でおにぎりが暴れる。海苔の部分が鉄板でできており、海老天ぷらのかわりにライフル銃が突き出ている。
おにぎりが銃を撃つと、シーチキンが出てきた。茹でたパスタに混ぜ、大根おろしをかけると美味しかった。
次の夜、水野は力士を一人捕まえてきた。モンスターの血を引く魔天山という新米力士で、とても力が強い。手打ちうどんを素早く作り、鼻と口と髷から炎を出して焼うどんにしてくれた。
さらに次の夜、水野は工事現場のダンジョンから作業員を一人連れてきた。それはなんと、ぬいぐるみのブタだった。
「えっ。これ、俺の……!」
「誰がこれですって。あんたねえ!」
ブタは水野の頭からタイガの肩に飛び移り、思い切り耳を引っ張った。
「私が汗水たらして働いてるっていうのに、まったく気づいてないんだから。工事現場よ、工事現場。どれだけ大変だかわかってる?」
「何でそんなとこで働いてるんだよ。洗濯するほうの身にもなってみろよ」
動いて喋ることのできるブタだが、素材は普通のぬいぐるみと同じだ。すでに布が汚れ、縫い目がほころびかけている。
「直してあげるって言ったのに、嫌がるんだよ」
水野が言った。ブタはぷいっとそっぽを向く。
「あんたは細かすぎるから嫌い。あのね、工事現場のダンジョンってのは一生工事をしてるわけじゃないのよ。当然終わりがあって、出来上がりがあるの」
タイガはふと、部屋がまったく揺れていないことに気づいた。稽古をする声も、おにぎりの叫び声も聞こえてこない。
カーテンと窓を開けると、いつもの景色が消えていた。
ピンクのブタの鼻がびっしりと並び、アパートを覆いつくしている。水野はわっと声を上げた。
「ついにできたんだね。僕から見るとセンスが古いけど」
「わかってないわね、これだからゆとりは。センスより力が大事なのよ」
ちょっと待て、とタイガは二人の間に割って入った。
「これ、何だよ」
「ブタの鼻よ」
「見りゃわかるよ!」
ブタは小さな肩をすくめ、フンと鼻を鳴らした。窓の外でも一斉に鼻を鳴らす音が聞こえたような気がした。
「防音壁よ。振動も吸収するから夜もぐっすり眠れるわ。タイガ、あんたが元気に働いてくれないと困るのよ。新しいベッドも欲しいし、ぬいぐるみ専用のテレビも買う約束だったでしょ」
そんな約束はしていない。しかし、久しぶりに静かになった部屋は快適だった。騒音どころか、蚊の羽音までもブタの鼻たちが吸い込んでくれるのだ。
「ありがとう。お前がこんなことをしてくれてたなんて」
タイガはブタを抱き上げた。ブタは胸を張り、白目がちな目でタイガをじっと見た。
「で、テレビは?」
「俺のを見ていいよ。一日一時間まで」
それからというもの、タイガの部屋は様変わりした。
窓を開けるとブタの鼻がそびえ立ち、太陽の光も届かない。おかげで洗濯物の乾きがすさまじく悪くなった。
「人間ってぜいたくね。乾燥機でも買えばいいじゃない」
「どっちがぜいたくだよ。じゃ、行ってくる」
「今日は相撲部屋?」
「工事現場だよ」
勤務先を変えてほしいと頼んだが通らなかった。おかげで仕事中は以前と同じように振動にさらされる毎日だ。
「変ね。工事はもう終わったのに」
「フロアの数だけ工事があるんだよ。地下一階は水道管、二階はガス管、三階は電柱埋め」
ブタが手を振り、タイガは出かける。玄関を出て、アパートの階段を下りると、防音壁にぶつかる。道路に面したところに、やはりブタの鼻の形をした小さな扉があり、アパートの住人たちは何の疑問もなくそこから出入りしている。
これぐらい適応力がないとやっていけないよな、と思ったところへ水野が現れる。エアコンの室外機から飛び散った水滴が、あっという間に集まってタイガの横に立っていた。
「今日は働きたい気分」
「いや毎日働けよ」
通勤時間は数十秒、勤務時間は掃除が終わるまでずっと。危険なフロアはこっそり素通りする。危険でなくても適度に飛ばす。
自分も十分、たくましく生きているのかもしれないと思った。