第二話 土色の指
やっと救急車が到着した頃には、僕の精神はすり減り切っていた。
救急隊員による質問に母さんが答えている間に、女の子は担架で搬送されていった。
少女が座り込んでいた場所に、今度は僕がうずくまっている。
この数分の間に、僕の世界観は強く揺さぶられた。こんなにも奇妙なことが、ここまで急激に襲いかかってくるだろうか。個人的にはえらく平凡な人生を歩んできたつもりだが、16年目にしてその平凡が崩れ去るだなんて思いもしなかった。
「君、大丈夫?手当てが必要なら…」
憔悴しきっている僕を心配したのか、救急隊員の一人が声をかけてくれた。
「いや…大丈夫です。疲れただけなので…」
「本当に?少しでも気分が悪かったら」
「いいですって。大丈夫ですから…」
優しい気遣いも、今は鬱陶しく感じてしまう。こういう辺りが自分の駄目な所だと思う。
何とか重い腰を上げると、母さんが近寄ってきた。
「今救急の人に事情は説明したけど、もしかしたら改めて警察が話を聞きに来るかもしれないって。あなたの方があの子を見てたから、その時はあなたの力を借りるかも」
たった数分見ていただけの僕が、彼女の何を知っているというのか。母さんの無責任な発言に少し腹が立ってしまったが、ここは冷静でいなければならない。
「…分かった」
「ありがとう。今日は一旦帰っていいそうよ。」
「うん…」
納得がいかないまま、僕は地べたに投げ捨てられたカバンを拾い上げ、制服とカバンについた砂を払い落とし、母さんの後ろをついていった。
去り際に救急車の方を振り返ったが、既に発車の準備が出来ているようで、彼女の姿は見えなかった。
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まさか華やかな高校生活の始まりの日にこんなことになるとは。
…本当なら今日は、無事第一志望の鈴城第一高校に受かった祝いに、回転寿司にでも行くつもりだったのに。もう今日の為に用意したエネルギーは完全に使い切ってしまった。
しかしまあ、不思議なこともあるものだ。思えばあの少女は一体何だったのか。あの雰囲気や様子からして、何となく…この世界とは釣り合いが取れていない存在というか。そう感じた。何も知らない僕があの少女と広大な世界を語るのはおこがましいかもしれないが、少なくとも、あまりに平凡な僕と、あまりに非凡な彼女とでは、住む世界が違った。
…いやいや、違う。今は彼女の正体について考察を巡らせるのではなく、彼女の無事を願うのを優先するべきじゃないのか?
まともな人間なら、こんな下らないことは考えずにまず彼女の心配をするはずじゃないのか?
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
僕の混乱を止めるように。
小さい頃からずっとそうだ。普段のリズムを崩されると、不必要なことばかり考えてしまう。母さんは常にポジティブな人だから、これは父さん譲りなのかもしれない。
「泰斗ー?多分宅配だから受け取ってー。」
リビングから声がした。まったく、そんなに元気な声が出せるなら母さんが動けばいいじゃないか。こっちは今体が鉛のように重いのに。
仕方なく、300kgのバーベルを持ち上げる男のようなゆっくりとした動作で体を起こし、肩についた埃を払って、立ち上がった。
玄関の鍵を捻り、ドアを押すと、母さんの予想通り宅配の人が居た。
僕は二つ返事で荷物にサインをして、人生史上最も無愛想な挨拶をして彼を見送った。
後悔の気持ちが少しだけ湧いたがもうどうだってよかった。
眠ろう。明日、明後日と休みなんだから、今日はもう寝てしまっても問題ないだろう、と。そのことで頭がいっぱいだった。
荷物を持って玄関に足を踏み入れ、ドアノブに手を掛けた僕は、ようやく少しだけ安堵した。今日は終わりだ。やけに変だった今日という日は。
もちろん。
僕の日々に突然降りかかった非凡は
この程度で終わるはずがなかった。
勢い良くドアノブを引いたはずが、ドアは閉まりきっていなかった。建て付けが悪いのかと思い、少しドアを押した。
視界の端に、指が見えた。
どこまでも細く、弱々しく、息を吹きかけただけで折れてしまいそうな指が、ドアが閉まるのを妨げるように、3本だけそこにあった。
僕が閉めたドアに挟まれたのだろうか、指は出血していた。
もう、叫び声すら出なかった。
息が止まるほどの恐怖に苛まれたまま、僕は呆然と立ち尽くした。
理解が追いつかない。夢でも見ているのか、と自分を疑う余裕すらない。
あの指だ。紛れも無い。
何故。いや、ありえない。僕は確かに、あの金髪の彼女が救急車の中に運ばれるのを見たんだ。いやしかし、目の前に、いる。
その指は、頭が真っ白になった僕を軽蔑するように、血を流しながらも指を動かさなかった。
いや、もう血など流れていなかった。生々しい出血をした跡などなく、赤い絵の具を指に塗って怪我をしたふりをする子供のように、小さな赤い斑点がドアのサッシに付着しているだけだった。
何度冷静になろうとしても、目の前の事象を受け入れられない。
落ち着け。清水泰斗。あり得るかあり得ないかなんて、今は関係ない。
それよりも今、ドアを隔ててすぐそこにいるそれは、明らかに僕たちの家に入ろうとしている。
何故?
理由など知らない。今はただ、それから家を守らなくてはならない。
ようやく頭が回るようになったのか、気付けば僕はドアノブを握る手を右手から左手に変えていた。蜂を部屋から逃がすように、ほんの少しドアを押して、その瞬間に指を追い出そうと判断して。
僕は鉄のように重いドアを押した。
「イ……ヤ………ヤメ…」
少しだけ大きく開いたドアの隙間の向こうに、それはいた。直感通り、さっき見たばかりの非現実的な少女が。先ほどと同じく穴だらけの布を纏って立っていた。しかし、僕が思っていたよりもそれは弱々しかった。薄汚れた金髪に垣間見えるクリーム色の目からは、涙が溢れていて…怯えは感じたが、僕や母さんに対する敵意は無いように見えた。
…違う。何を落ち着いている?こいつは今こっちに入ろうと、今もサッシに指をかけている。凡庸で平和な僕の家庭に、こんなアブノーマル存在を介入させるわけにはいかない。いや、でも。彼女は今何かを口にした。
「嫌」?「やめて」?
無駄な抵抗をやめて、私を入れさせろということだろうか。違うか。彼女の様子からは明らかに、こちらに危害を加えようとしているとは読み取れない。助けを求めているのかもしれない。
待て。待て待て待て。彼女は救急車で搬送されたはずで、日本の救急機関がしっかりと機能しているならば、彼女は今頃しかるべき対応をされているはずだ。なのに目の前のこいつは。おそらく、方法は分からないが、あの救急車から抜け出して。たまたま出会った僕の家に、たまたま辿り着いた。…いやいやいや、そんなことはありえない。
何を考えようとも、こいつを僕の中の現実に落とし込むことができない。
やめてくれ。僕のささやかな日々を、約束された幸せを、頼むから壊さないでくれ。
入って来るな。
願いは届かなかった。
僕が彼女の指を跳ね除け、ドアを閉めようとする間も無く、それは既に玄関に足を踏み入れていた。僕は恐怖と混乱で立っていられなくなり、壁に頭をぶつけ、そのまま座り込んだ。
そして、図々しく入り込んだ、襤褸を纏ったみすぼらしい少女が、少女の首が、徐々にこちらを向いた。彼女の身長は小学生程だったが、座り込んだ僕を見下ろすような姿勢は、小心者の僕を恐れさせるのに十分なものだった。
支えるものが無くなったドアが勝手に閉まると同時に、彼女と目が合った。やはり、涙を浮かべている。
何をされるのか。この異形の存在は、何が目的でここに来たのか。考えれば考えるほど、恐怖が強くなっていく。歯がガチガチと音を立て、視界が霞む。体に力が入らず、動けない。
目の前の異物は、獲物を見定める虎のように慎重な動作で、徐々に顔を近づけてきた。
食われる?殺される?
嫌だ、やめてくれ。
声も出ない。
嫌だ。
母さん、助けて…
「タスケ…テ…」
僕に覆い被さった少女は、蚊の羽音のように弱い声でそう囁いて、力を失った。
彼女は僕を殺さなかった。




