第一話 桜色の逢着
突然、肝を掴まれるような視線を感じた。
生まれてこの方、オカルトの類いを信じもしてこなかった僕が、今、おそらくは超常的な存在に対して突然震え上がったことに、重ねて鳥肌が立つ。
脚が固まっている。
息も上手く吸えない。
町の賑わいも、桜並木が風に揺れる音も、全く耳に入らない。
ただただ、説明のつかない異様な不安感が、僕の意識を押さえつけて離さない。
今すぐにでも視線の主を確認しなければ、気がおかしくなってしまいそうだ。
かといってそれと目を合わせてしまえば、何だか、取り返しのつかないことになるような気もする。
冷や汗が止まらない。
眩暈がする。
右手に握ったカバンが妙に重い。
気持ち悪い。
寒い。
苦しい。
止めてくれ。
僕を見ないでくれ。苦しい。止めてくれ。
「泰斗?どうしたの!?」
母さんの声で、僕は正気を取り戻していた。
汗で制服の中が蒸れている。まだ鳥肌だ。
数秒間呼吸をしていなかったのか、息切れがする。空気が肺に入るたびに、徐々に落ち着きが取り戻されてゆく。
「…ごめん、急に気持ち悪くなって」
「大丈夫?汗がすごいわ…あ、ほら、あそこにベンチあるわよ、座る?」
「いや、もう大丈夫…何だったんだろう」
平常に返った僕は、再び歩き出そうとした。
その瞬間だった。
好奇心が働いたのか、それがまだ僕の意識を支配していたのか。
無意識のうちに僕は、夕暮れの町の、一際暗く深い一つの路地の奥を見ていた。
どこまで続いているのか分からないほど暗い路地から、それは、薄黄色に光る、獣のような目で、刺すように、抉るように、握り潰すように、
僕を、僕の眼を捉えていた。
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開いたままのリビングのドアの隙間から見える掛け時計は、僕たちが学校を出てから帰ってくるまでに2時間近くが経過したことを示している。
その事実を知って、疲れが倍になったように感じた。
入学式のためだけに購入した、27cmの革靴。それを足から取り外す気力すら湧かず、僕は荷物を投げ出し、玄関に座り込んだ。
「大丈夫?泰斗。やっぱり体調悪いんじゃ…」
僕以上に疲れているはずの母さんは既にリビングに上がっていた。他人の心配ができるほどに余裕があるようだ。
「…いや、大丈夫だよ。あれだけ動いたからもう疲れちゃって…」
なるべく元気に振舞ったつもりだったが、蚊の鳴くような声しか出なかった。
「ほんと、すごかったわね。今日はもう早く寝ちゃいなさい」
「そうするよ…」
そう言って、僕は玄関の冷たいフローリングに横たわり、数十分前のことを思い出し始めた。
あの時、喰い殺すほどの気迫で僕を見ていたのは。
一人の女の子だった。
着せ替え人形のように光り輝く金色の、カールした短髪に、クリーム色の猫のような目。そう認識したその一瞬だけ、僕は彼女のことを妖精だと思い込んだ。しかし。
路地の奥に潜んでいた彼女に近づいた時、僕は彼女の本性を見た。
先程の気迫からは想像もできないほど、顔は怯え、薄いぼろ切れのような物に包まり、隠れるようにうずくまっている体は驚くほど小さく、布の隙間から微かに見えた指は、息を吹きかけただけで折れてしまいそうなほど細かった。
彼女は、4月の暖かな気候の中、怯えと寒さに震えているようで、彼女の感じている恐怖と不安が、こちらにも伝わってきた。
明らかに異様なその状況に、僕はつい腰を抜かすところだった。
何とか踏みとどまり、つばを飲み込んだ。緊張と恐怖で詰まった喉で、叫んだ。
「…母さん!…救急車か警察呼んで!!」
僕の大声に、女の子は大きく震え上がった。君を怖がらせるつもりはなかったのに。
母さんも、異常にすぐ気が付いたのか、確認も取らないうちに電話をかけ始めていた。
「今119にかけてるわ!何が起こってるの!?」
背中から聞こえる叫び声に、自身の状況の確認も兼ねて、僕は箇条書きのように言葉を発した。
「…女の子がいる。10歳ぐらい…。見た目は…金髪で…欧米の顔。痩せ細ってて…布切れに包まってる。ずっと震えて…っ!?な、何も着てないこの子!」
またつい声を荒げてしまい、女の子が再び飛び上がった。それでも彼女と僕は、さっきから互いに、少しも視線を外していない。
何がどうなっているのか全く分からなかったが、とにかく、目の前の少女が生命的な危機に瀕していることは理解できた。僕に、もしくはその他の何かしらに対して、文字通り死ぬほど、怯えていることも。
もし僕に慄いているのなら、怖がらせないためにも一度その場から退きたかった。
それでもどういうわけか、どれだけ強い意志を持っても、いくら首に力を入れても、僕の視野から彼女が姿を消すことはなかった。
まるで彼女が、自分から離れてほしくない、と口で言ったかのように。言葉では説明できない力で、彼女が僕をこの路地まで引きつけ、そして今も惹きつけ続けている、という、とても非科学的なことを、なぜだか僕は考え始めていた。
そして沈黙のまま、数秒が経過した。母さんが後ろから駆け寄ってきた。
「今電話して…救急車が来るから。…ひっ」
母さんも、女の子の放つ不可思議な雰囲気に圧倒されたようだった。
「なっ…何なの…」
女の子の方は、母さんが現れたことは認識したように見えたが、目は僕と合わせたままだった。
救急車が来るまで、ずっとこの状況が続くのかと僕が焦り始めたその時、ふっと体が軽くなった。
数分前に味わった、それから解放された感覚。
それを感じ取った瞬間、僕は安堵するよりも先に、彼女が意識を失ったことを理解した。
慌てて駆け寄ったが、僕が手を伸ばすその前に、バランスを崩した彼女は地面に側頭部をぶつけた。
急いで抱え上げると、ぶつけた場所からは血が滴っていた。いや、そのことよりも先に、僕は彼女の軽さに驚いた。僅かに呼吸をしていることは分かるのだが、魂が抜け落ちたように軽い。さっき持っていたカバンの方が重く感じるくらいだ。
そして、ぼろ切れ越しでも分かるぐらいに、体の組織が弱く、脆かった。目は半分開いたままで、全くの生気を感じない。藁でできたマネキンを抱えているようで、僕はまた怖くなった。
何より、ここまで弱っている彼女に、これほど近くで見ても顔に一切のシワや傷が見当たらないことが怖い。
理解が追い付かない。こっちが狂ってしまいそうだ。
何とか正気を保って、彼女の怪我の部分に手を当てた。血を止めるつもりだった。僕の指に絡んだ髪は、驚くほど滑らかだった。
触れた瞬間、また背筋が振動を起こした。
かなりの勢いで出血していたはずの傷は、既に瘡蓋となっていた。いや、もう治っていた。瘡蓋が僕の手のひらにくっつき、皮膚を離れた。
「あっ!うわああっ!!」
思わず叫び、彼女を投げ出しかけた。もうこりごりだ。これ以上、こんなことには関わりたくない。
「泰斗!?本当にさっきから何が起こってるの!?」
「ぼっ…僕も分かんないよっ!!この子っ…何なんだよ…っ」
今、近くには人が大勢いるはずなのに。
僕と、母さんと、女の子。三人だけの閉鎖的な恐怖の空間が出来上がってしまっていた。
救急車のサイレンは、まだ聞こえない。
続く