魔力至上主義世界編 - 133 中世の終わり (5)
教団の教えというものは、簡単に言えば、「愛を忘れずに生きれば、天国に行けるよ」である。
天国とは、平和で、食べ物で満ち足りていて、暖かくて……というそんな場所である。
実際は、教団の教祖である神の子は「天国に行ける」なんて言っていないし、彼女の言っていた『愛』の意味も本当は一般的な愛とは違うものなのだが、ともかく、今の教団の教えはそういうことになっている。
この世界の人々がつらい現実を我慢しているのも、教団の言う通りにしているのも、教団が強くて逆らえないという理由もあるが、なにより天国に行けると信じているからというのが大きい。
かつて、弾正によってクリームパンを振る舞われた者はこのような反応を示した。
――その甘さに驚き、感動し、涙を流し、「ここは天国でしょうか……」と泣き、味わって食べる。
かつてセイユでは、泥草たちの生活がこのように評されていた。
――行けばそこは天国である。
――おいしい食べ物。
――きれいな服。
――ほとんど働かなくてもいい生活。
つまるところ、それだけこの世界の人々が天国という者に憧れ、切望しているということである。
◇
さて、イリスである。
教団の本拠地であるイリスにて、3ヶ月ぶりに何万人もの住民達が地上へと一斉に帰還した。
彼らは大神官ザリエルの就任祝いのパレードの最中、突如として現れた謎の多数の天空城に吸い込まれ、ずっと泥草たちに監禁されていたのである。
それがこのたびようやく、全員地上へと帰れる運びとなったのである。
事情を知らぬ者が聞けば「野蛮で下賤な泥草たちにずっと監禁されていたんですって? さぞおつらかったでしょう」などと言うかもしれない。
が、つらいなんてことは全くなかった。
帰還した住民達は、感涙にむせび泣いたりなどしなかったのだ。
むしろがっかりしていた。
何しろイリスの住民たちは全員ついさっきまで、まさに教団の言う『天国』のような場所にいたのである。
暖かいふかふかのベッド。この世のものとは思えぬほどの蕩ける美食。美しい音楽。恍惚とさせる香り。
中世という、貧しくて苦しい時代に生きる人々にとって、桃源郷に他ならない。
まさに天国である。
そんなところで3ヶ月も過ごしていたのである。
働かず、食べて寝て、ひたすらニート生活をしていたのである。
それがどうか。
今や、自分たちは元の場所に戻ってきてしまったのである。
まずい飯、固いベッド、不衛生で臭い環境。
かつての天使騒動(泥草たちが天使のふりをして美味い飯を配っていた事件)においても、イリス市民たちは美食を味わうことは出来たが、今回は、生活環境を24時間まるごと快適なものに置き換えられたのである。それも3ヶ月間、どっぷりと。
快適さの次元がまるで違う。
その次元が違う快楽にすっかり浸りきってしまい、すっかり慣れきってしまい、すっかりそれが当たり前になってしまったところで、中世の現実に引き戻されてしまったのである。
「……お、お、おお! や、やっと、我らの祈りが神に通じたのだ! 見よ、正義は勝つのだ! ついに我らは悪しき泥草の呪縛から解き放たれ、神の地上へと舞い戻ることが出来たのだ!」
大神官ザリエルは、地上に戻るとそんなことを叫んだ。
「お、おお、そうですな! まさに我らの勝利ですな!」
「は、は、ははは! さすがは大神官様! 就任早々、大戦果でございますな!」
取り巻きの高等神官たちもそんなことを言う。
が、イリスの住民達は、誰もそんな話は聞いていなかった。
彼らはみな、どこか空虚な顔で呆然としていたのである。
◇
数日後、ふたたび大神官ザリエルのパレードが行われた。
前回のパレードはうやむやになってしまったし、『泥草を打ち破った戦勝記念』も兼ねて、あらためて盛大に行われたのだ。
が、人々の反応はどこか冷めていた。
数日前の熱気が嘘のようである。
ザリエルもそれを敏感に感じ取る。
(くっ……高貴なる私の一世一代の晴れ舞台だというのに、どうしてこんなことに……)
ザリエルは屈辱を感じるが、といって人々に「笑え!」だの「感動しろ!」だのと叫ぶのも格好悪くてできない。そんなことをしては大神官の威厳が台無しである。
といって、状況を打開する上手い手も思いつかず、屈辱をこらえることしかできない。
パレードが終わると、中央門広場でイリスの人々を集め、大神官ザリエルがありがたい言葉を聞かせた。
演台の上に立ち、何万という人々に向けて、新たなる大神官として高貴にして稀少なる説法を聞かせることになっている。
本来なら、人々は最高位の神官様のありがたいお言葉ということで、感動して聞き入る。
が、そこでも人々の反応は冷めていた。
「あなたがたの御霊が、死後、天国に行けますように」
ザリエルは最後にそう言って締めくくった。
これは神官の説法の末尾を飾る決まり文句のようなものであり、特にどうこう言うものではない。「ご清聴ありがとうございました」と言うようなものである。
が、ザリエルのこの言葉に、人々の間からざわめきが起こった。
「天国か……」
「あれは天国だったよな……」
「そうだよなあ……」
「また、天国に行きたいなぁ……」
そんな声が上がってきたのである。
「あれは天国だった」とはまぎれもなく天空城のことである。
あの天空城での出来事が天国であったと、人々は語っているのである。
「誰だ、今、あれが天国などと言ったのは!」
ザリエルの側に控えていた高等神官が叫んだ。
ザリエル自身がみっともなく叫ぶわけにはいかないから、こういう時は取り巻きがその役を買って出ることになっている。
教団としては見過ごせない言葉である。
死後、天国に行けるというのが教団のうたい文句である。
その天国に易々と、それも教団の力を借りずに行くことが出来るのであれば、教団の力が……存在自体が不要になってしまうではないか!
そんなこと、断固として認めるわけにはいかなかった。
だが、人々の反応は鈍い。
人々は戸惑っていたのだ。
教団はずっと天国というものを約束してきた。
天国に行くためというのは、人々が教団の言うことを聞く理由の全てではなかったが、それでも大きな理由のひとつとなっていた。
ところが今、人々は完膚なきまでに天国を味わわされてしまったのである。
それも教団によってではない。
よりにもよって、ゴミだと見下していた泥草たちによって、である。
「今まで自分たちが教団を信じてきたのは何だったんだ……?」という気持ちになる。
「なんで泥草にあんなことができるんだ……?」という気持ちになる。
「もしかして教団を選んだのは間違いだったのか……?」という気持ちになる。
彼らはすっかり混乱してしまい、どう反応していいのかわからなくなってしまったのだ。
(くっ、おのれ……)
ザリエルは怒りで歯ぎしりをする。
見せしめに何人かぶち殺してやりたかったが、就任早々のめでたいこの時期にそんなことをしては、大神官になった自分の未来が早くも前途多難だとアピールしてしまうようなものである。そんなことはできない。
かわりにザリエルはこう言った。
「皆の者。よく聞くのだ。皆が味わったあれは悪魔に魂を売って得た力によるものである。あれは天国などではない。偽天国だ。どれだけ本物の天国に近くても、偽物なのだ。
偽物であるから、まもなく力を失う。
あれはもともと忌まわしき元大神官ジラーたちが悪魔に魂を売って得た力である。ジラーたちが力を失った今、もはや泥草たちは無力なのである。
あの怪しげな城も間もなく消えるであろう。偽物の天国も間もなく消えるであろう。
正しいのは教団である。我々教団である。あなたがたは引き続き我らが神の教えを信じ続けるのだ」
ザリエルがそう言うと、人々はようやく納得し、「大神官様がそう言うなら……」とうなずくのだった。
翌日、減るどころかより一層増えた城がイリス上空を飛び交っていた。