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魔力至上主義世界編 - 113 正義の味方ごっこ

「は? はああああああ!?」

「ほわあああああ!?」


 ヒグリス村に大人たちの絶叫が響き渡った。

 9歳以下の子供たちが一寸動子を使い、食べ物を作り出したのである。


 噂は電光石火のごとく村中を駆け回った。


「ほ、本当か?」


 大人たちはそう言って確かめようとする。

 9歳以下の子がいる者は我が子の、そうでない者は近所の子を捕まえ、一寸動子を使わせる。


 子供たちは「うん、いいよ」と言い、あっさりとパンや果物を作ってみせる。

 その光景を目の当たりにした大人たちは、信じられない光景に、あんぐりと口を開けてしまった。


 大人たちの感覚としては、こうである。


 10歳のガキどもが、何やら妙な技(一寸動子のこと)を使っている。手をかざすとパンや肉が出てくる怪しげな技である。

 教団が言うには、悪魔の技らしい。正義の教団がそう言うからには、きっとそうなのだろう。

 この怪しげな技の使い方が、村中に響く大声、つまりラジオで流れてきた。

 悪魔の技ではあるが、今年は不作ぎみで、このままだと餓死者が出てしまうかもしれない。ちょっとくらいなら……そう、ちょっとくらいなら大丈夫だろう。なあに、あんなガキができることだ。自分たち大人にできないはずがない。


 ところが、実際にやってみたところ、自分たち大人はさっぱり一寸動子が発動せず、発動したのは9歳以下の子供たちだったのである。


(……な、なぜ!? なぜ、子供だけが? い、いったい、どうして……)

 と、大人たちは混乱する。


 一方そのころ、空からこの光景を眺めていた弾正は、実に楽しそうに笑っていた。


「わはは、愉快愉快。実にめでたい」


 まさにこの瞬間、何百年と続いてきた中世という時代が終わりを告げようとしていたのだった。

 弾正だけが、それに気づいていた。


 ◇


 中世という時代、人口の9割は農民であった。

 農民たちは畑を耕し、食糧を作る。

 彼らの人生の大半は農作業に費やされる。


 農作業は苛酷である。

 手がボロボロになる。腰や膝がズキズキと痛む。ついには歩けなくなることも珍しくない。

 そこまで苦労しても、感謝も賞賛もない。ただただ苦痛があるばかりである。

 ひたすらに、つらい。


 そのつらい仕事を、大人たちは子供たちにやらせる。

 (くわ)や鎌の使いかた、種のまきかた、雑草の取りかた、灌漑施設の手入れのしかた、収穫のしかた、などなど言われた通りにやれと言う。

 自分たちと同じようにやれと言う。

 昔からのやり方を変えることなど、決して許されない。創意工夫などもってのほかである。


 中世という時代は、長々と続いた割に、文明はさほど発展していない。

 発展がないわけではない。ただ、その年月の長さの割に、あまりにも発展の速度が遅々としているのである。


 もし、中世に生きる者が100年後の未来にタイムトラベルしたとしよう。その者は、あまり世の中変わっていないな、と思うだろう。

 これが近代以降であれば、そうはいかない。100年も未来にタイムトラベルすれば、世の中はまるで別物である。例えば自動車が道を走るようになっている。飛行機が空を飛ぶようになっている。インターネットという不思議なものを、誰もが使うようになっている。あまりにも世の中が変わってしまっていて、あぜんとするだろう。


 このように、中世というのは文明の発展しない時代である。

 文明が発展しないということは、『貧しく、ひもじく、人がバタバタと死ぬ世の中のまま』ということである。


 飢饉が起きれば、人が大勢死ぬ。

 病が流行れば、人が大勢死ぬ。

 ことあるごとに、人がバタバタと死ぬ。


 弾正に言わせれば「これを放置するのは人殺しと同じじゃ」となる。


 が、教団は、これを放置している。

 現状を変えるつもりなど欠片もない。

 もし変えようとする者がいたとしたら(たとえば、食糧事情の改善のために新農法を試そうとする者がいたとしたら)、怒り狂う。

 新しいものを嫌悪するという点で、教団は群を抜いている。


 なぜなら、教団はこう信じているからだ。


 聖典の教えは正しい、と。

 ゆえに、聖典の教えを熟知している我々もまた正しい、と。

 そんな我々が『清く正しく』治めているこの世の中に間違いなどあるはずがない。

 世の中を変えようとするやつは悪魔だ。処刑してしまえ!


 これが教団である。


 要約するなら「正しいのは俺たちだ。お前たちは余計なコトするな」である。


 では、民衆はどうか?

 そんな教団に対してどう思っているか?

 一言でいうなら『教団の正義に便乗』しているのである。


「うちの村の神官様の言うことは正しいんだ」

「そうよ、神官様を疑うなんてとんでもないわ」

「神官様は正義なんだ。だから、神官様を信じているおれたちも正義なんだ」

「そうだ、俺達は正義だ! さからうやつは殺せ!」


 多くの民衆は、こう考えている。


 学校で例えるなら、教団が先生、民衆がいじめっ子の生徒、泥草がいじめられっ子の生徒、といったところか。

 先生は自分の教えが絶対に正しいと信じている。

 生徒たちは、先生には逆らわない。

 いや、何から何まで言いなりというわけではない。こっそりと授業中にスマホで遊ぶ、といった程度のことはやる。村の大人たちがこっそり一寸動子の練習をしていたのも、そんな感覚によるものだ。

 別段、先生(つまり教団)の言うことに真っ正面から逆らうつもりはないし、先生の言う『正義』を否定するつもりもない。


 さて、先生は教師だから授業をする。生徒によって成績に差が出る。

 先生は、成績の悪い生徒を思いっきり「お前らはクズだ」と罵倒する。ダメな生徒だ、と見下す。

 いじめっ子たちは、先生に便乗する。「そうだ、お前らはダメなやつだ」と言って、成績の悪い生徒たちをいじめる。ニヤニヤ笑いながら虐げる。


 民衆が泥草を虐待するのも、それと同じである。

 教団は、泥草を思いっきり「お前らはクズだ」と罵倒する。ダメなやつだ、と見下す。

 民衆は、教団に便乗する。「そうだ、お前ら泥草はクズだ」と言って、泥草をいじめる。教団の正義に便乗し、ニヤニヤ笑いながら虐げる。

 良心の呵責(かしゃく)など、まるでない。

 自分たちは正義だと信じているからだ。


 弾正はこう言う。


「つまるところ、教団も民衆も、いい歳こいて、正義の味方ごっこに夢中ということじゃな。

 ほれ。童どもが、そんな遊びをするじゃろう。英雄なんかの格好の真似をして、聖剣と称した棒きれを振り回して遊ぶアレじゃ。『ぼくは、せいぎのみかたなんだぞ』とか言ってな。

 教団と民衆もそれと同じじゃ。教団が聖剣……つまり魔法を振りかざし、民衆がその太鼓持ちをして、泥草をいじめておる。

 いや、童どものほうがまだマシじゃな。何しろ、あやつらは遊びだと自覚しておるからじゃ。

 教団どもは本気じゃ。本気で聖剣(笑)を振り回しておる。神官連中が汚い木の枝を振りかざして『みろ、これはでんせつのせいけんだぞ!』と言い、民衆どもが『わあ、さすがです。すごいですね!』とほめる。そして泥草に向かって『おまえは、せいけんをもっていないから、クズなんだ』と言って罵倒する。

 妄想もここまでいくと痛々しい。うぬらが大まじめにふりかざしとるソレはただの棒きれじゃぞ、と教えてやるのが武士の情けというもの」


「それでも、妄想から覚めなかったら、どうするのですか?」


 アコリリスがたずねれば、弾正はこう答える。


「その時はもう知らぬ。ごっこ遊びがしたいのなら、あやつらだけで勝手にやるがよい。わしらは、そんな阿呆な妄想にかまけているヒマはないのじゃ」


 ◇


 さて、その『正義の味方ごっこに夢中』な大人たちである。


「は、はあああああああ!?」

「な、な、なんだよ、おい、いったいどういうことだよ?」


 彼らは、子供たちが一寸動子を使うのを見て混乱した。


 とはいえ、時間がたてば、混乱もしだいに落ち着いてくる。

 すると、次のことがわかってきた。


「お、おい……あの妙な技(一寸動子のこと)を使うのは、9歳以下のガキどもだけらしいぞ……」

「9歳以下? ど、どういうことだよ……?」

「ど、どういうことって、そ、そりゃあ……」

「ま、ま、まさか……」


 大人たちの顔が次第に青ざめていく。

 声が震えていく。


 大人たちもバカではない。

 弾正に言わせれば「あやつらは、頭の回転はそれなりじゃが、頭の使い道が致命的に間違っておるのじゃ」というだけで、頭のキレそのものは決して悪くない。


 その悪くない頭を持つ大人たちの目の前に、いくつかの事実が示された。


・大人たちと子供たちは、同じように一寸動子の練習をした

・ところが、一寸動子を使えたのは9歳以下の子供だけだった。というより、9歳以下の子供は、言葉も理解できないような幼児をのぞけば、みんな一寸動子が使える。

・魔法の実を食べて魔法を覚える儀式を行うのは、10歳の時である


 さて、これらの事実から導き出せる答えは何だろうか?

 そう問われれば、大多数の大人たちは、答えにたどりつけるだろう。


 事実彼らはたどりついた。

『魔法の実を食べれば、一寸動子が使えなくなる』という答えに。


 とはいえ、答えを導き出せることと、信じることは別物である。


「う、うそだ……うそだ……」

「そんなわけはない……あるわけないんだ……」


 茫然自失としながら、導き出した真実を否定しようとする。

 頭では理解しつつも、心では必死で否定しようとする。


 そう、否定しなければならないのだ。

 何しろ、自分たちは『正しい』のだ。

 正しくなければいけないのだ。

 でなければ、これまでの人生は一体何だったんだ、ということになってしまう。 


 その時である。

 ちょうどタイミング良く、狙い澄ましたかのように(事実狙い澄ましたかもしれない)、泥草ラジオが流れてきた。


「みなさん、こんばんは。泥草ラジオパーソナリティのシェナです。今日は皆さんに耳寄りの情報をお届けしたいと思います」


 シェナはそこで一拍おくと、こう続けた。


「魔法の実、ありますよね。10歳になると聖堂に行って食べるアレです。食べると魔法に目覚めるアレです。

 実はですね、アレを食べると一寸動子が使えなくなってしまうんです。

 一度でも食べるとダメです。

 代わりに魔法が使えますけれども、魔法なんて一寸動子の力があれば簡単に防ぐことができちゃうのは、みなさん何度も見てますよね。

 そして一寸動子があれば、どんな食べ物だって作れます。食べ物だけじゃなありません。服だって家だって作れます。

 わたしたちに一寸動子を教えてくれた松永弾正様という方がおっしゃっていたのですが、一寸動子を捨てて魔法を選ぶのは『宝石を捨てて、ゴミを拾うようなものじゃな』だそうです。


 というわけで、9歳以下の良い子のみんな。教団の口車に乗って魔法の実なんて食べちゃダメですよ。お姉さんとの約束ですからね。

 あ、そうそう、魔法の実を食べると一寸動子が使えなくなると言いましたが、泥草の皆さんは例外です。泥草のみなさんは強力な一寸動子の力を生まれつき持っていますから、魔法の実くらいでは力を失わないんです。

 そういうわけですので、村の皆さん、今までは泥草の人達に散々ひどいことをしてきましたけれども、これからはちゃんと礼儀をわきまえて接してくださいね。じゃないと復讐されちゃいますよ。ふふふ。

 あ、いきなり、泥草さんがすごいなんて言われても、信じられませんよね。

 そんな疑い深い皆さんのために、村の広場で、今から泥草の皆さんによる一寸動子ショーが始まります。是非とも、ふるってご見学にいらしてくださいね」


 そんな泥草ラジオが流れる。

 村の大人たちは、なかば呆然としつつ、「そんなわけはない……泥草ごときが、俺たちができないことができるわけがないんだ……」とつぶやきながら、村の広場に集まる。

 そして、そこで泥草たちが華麗に服や食べ物を次々と生み出していく姿を見る。


 村中に、阿鼻叫喚の悲鳴が巻き起こった。


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