13.幻覚と幻聴
激しい頭痛は、嘔吐を催すほどひどいものだった。
ただ、こちらの世界に来てから物を食べていないので、そういう感覚になるだけである。そもそも食べることが出来るのかは疑問だが。
男は、「異能力『死に至る病』」と言った。それは、黒死病を想起させた。
中世の欧州等で大流行したいわゆる黒死病は、その名の通り、死に至る病である。記憶の中から当時の本の挿絵がポッと浮かんでくると、そこから鎌を持ったドクロが連想され、僕の頭の中でそいつの姿が大写しになる。
ドクロたちは、家の中で、道ばたで、苦しむ人々の首を狩る。
この死後の世界に、うってつけな光景ではないか。
そう思うと、ほら、目の前の男がすっかり骸骨になっている。
おや? その両側に立っている、確かデデキントとガロアも、骸骨じゃないか。しかも、大きく三日月状にカーブする鎌を持っている。
いやいや、それだけではない。向こうの建物付近に、黒い鎖を持った骸骨もいるぞ。右隣には、ライフルを持った骸骨までいる。あれは、確かエイダとポアンカレかな?
あれれ? 目の前の骸骨が消えた。今度は、すぐ後ろにいた骸骨がシャドーボクシングを始めたぞ。しかも、ジリジリと迫ってくる。こいつは、アーベルだろう。
そうだ、男は「――それは絶望」とも言った。
うん。これは間違いなく絶望だ。
五体の骸骨が、武器や素手で僕を殺そうとしているのだから。
いかにも、秘密結社の同士みたいなことを言っておいて、なんだよ。
ほら、やっぱりみんな、死んでいたではないか。現に、骸骨になってるし。
いかにも肉体があるかのように、僕を騙していたんだ。
そうか、これが死後の世界か。
確かに、絶望だ。
『死……ね……』
「えっ?」
『『死ね……』』
「死ねって……僕? もう死んでいるんですが」
『『『死ね……』』』
「はいぃ? みんな、何を言っているんですかぁ?」
『『『『死ね……』』』』
「もしもしー」
『『『『『死ね……』』』』』
「やだなぁ、骸骨のくせに、死ね死ね、うるさい!」
僕は、無性に腹が立ってきた。この五体の骸骨を、僕の異能力でバラバラにしてやる。
そうだなぁ、この異能力の名前を何にしよう? 千手観音みたいだから「千手拳」とでも名付けようか。
うん。今、楽にしてあげる。死にきれないんだよね。
――僕の千手拳でね。
僕は木箱をすり抜け、正面のシャドーボクシングを続ける生意気な骸骨に近づいた。
その刹那――、
ヒュウウウウウッ……
風が僕の髪の毛をかき乱した。僕は右手で髪を掻き上げる。
と、その時、どこからか声がした。
『セッキー……』
それは、ちょうど、指がこめかみ付近を通過したときだった。
ん? ということは、もしかしてテレパシーが聞こえたのか?
僕は、こめかみに右手の人差し指と中指をしっかりと押し当てる。
『目を覚ませ!』
ポアンカレの声だ。
『えっ? 目を覚ませって、どういうこと!?』
『今、見えていたり聞こえていたりするのは、全て幻影と幻聴だ!』
急に、僕は冷静になってきた。灰色っていうか、肌色の脳細胞が、キーンと冴え渡る気分だ。
『今聞こえているのは、ポアンカレの声? まさか、幻聴じゃないよね?』
『幻聴!? とんでもない! この術は破れる! 心の中で希望という言葉を唱えろ!』
『ラジャー!』
僕は、こめかみから指を外し、深呼吸をする。まだ胸がムカムカするが、こんなことで負けていられるか!
「それは絶望だって!?
ざけんなよ!!
僕たちには『希望』があるんだあああああっ!!!」
すると、急に目の前が真っ暗になった。そして、深い眠りから揺り起こされて闇の中から引きずり出される感覚になる。それはそれは長いトンネルを、高速に通過する気分だった。
――うわっ、一気に眠りから覚めた!
僕は、目の前に険しい顔をしたデデキントとアーベルとガロアがいることに気づいた。彼らは、僕の眼に輝きが戻って安心したのか、一斉に笑顔になった。
デデキントが、親指を立てる。
「おめでとう! 自力で幻覚状態から脱出したね!」
アーベルが、ウインクする。
「一時はどうなるかと思ったぜ」
ガロアがサーベルの刀身で手のひらをポンポンと叩く。
「奴の幻影と幻聴には、僕らも散々悩まされたからね」
僕は、彼らに問う。
「僕の姿って、見えています?」
三人とも頷いた。インビジブルが、いつの間にか解除されていたらしい。
僕は、三人を順繰りに見た後、彼らの背後に男の姿を探す。
「奴は?」
エイダが近づいてきた。
「すんでの所で逃げたわ。いつものことよ」
ポアンカレがライフルを肩に担いで歩み寄ってくる。
「奴は同士討ちを狙ったけど、セッキーが動かなくて助かったよ」
僕はその言葉の意味がわからず、聞き返した。
「どういうことですか?」
「つまりだな――」
ポアンカレが立ち止まり、ライフルを肩の上で二、三度弾ませた。
「僕らを身動きできないようにして、セッキーだけを幻覚で惑わし、僕らを攻撃するように仕向けたのさ。
いわゆる、同士討ちって奴」
ガロアは肩をすくめる。
「好きだよねぇ、キェルケは」
僕は、聞き慣れない名前を問いただす。
「誰ですか、そのキェルケって?」
「セーレン・オービエ・キェルケゴール。
フィロソフィー屈指の幻術師さ」
死後の世界では、心臓が動いていない他は、痛覚などの感覚がある設定です。




