鉛筆の物語
泣いたのは悔しかったからだ。
12才のユズリは帰り道で腫れぼったい顔をハンカチで拭った。
今日は2ヶ月に一回くらいある囲碁の大会で、2勝3敗の負け越しであった。
初めての大会。
2ヶ月前からこの日のためにユズリは自分でも信じられないくらい一生懸命囲碁の勉強をしてきた。
学校の宿題なんて全くやらないのに、家に帰ってからは囲碁のテキストをかりかりと解き、毎日なんと10ページもやったのだ。
それなのに、それなのに。
まず今日の自分は朝からガチガチであった。朝ごはんも食べれなかったし、お父さんには心配されて会場に来るまで手を引かれる始末だ。
初戦は頭の中が真っ白で、自分が黒で打ったか白で打ったかも憶えてない。
気付いたら自分の石が相手に沢山取られてて、もうどう打っても逆転ができないのにずっとそのまま打ち続けてしまった。
そのあとも最初の対戦を思い出して上手く打てなかった。
何とか3回戦目と4回戦目は調子を取り戻したけれど、5回戦目がまさかだった。
簡単なルール違反。
初心者の人がやるような反則をユズリはやった。頭の中では、確かにその反則を回避していたのだが、それを省いてしまった。
盤の上ではユズリの方が大分良かったように思えた。勝てる。と気持ちが逸り、冒してしまったミスだった。
思い出すとぐすりとまた目が潤んでくる。
夕方になって少し和らいだ気温もまだ暑く、そのせいか、オレンジに染まった道がゆるゆると揺れてみえた。
いつもはこんなふうに緊張したときは、とっておきのおまじないがあったのだが、今日はそれが出来なかった。
それもユズリを落ち込ませる要因の一つである。
去年にお別れした友達、凄く仲が良く毎日のように遊んでいた。
その子がくれた鉛筆がユズリのとっておきの宝物であり、おまじないだった。
もうあと3センチくらいになったそれを、ギュッと握りしめるとどんな場面でさえユズリは乗り越えられる勇気が出た。
どんなに落ち込んでいても、その宝物さえあればまた笑うことが出来た。
けれども大会の一週間前。
その鉛筆が見当たらなくなってしまったのだ。
「何だ。珍しく泣きそうになってんじゃん。おっかしいでやんの」
ユズリが公園のブランコに座りぐじぐじしていると、そんな声が聞こえてきた。
顔をあげるとユズリより二つは年下であろう男の子が、先ほどの乱暴な言葉とは裏腹に心配そうに眉を寄せてこちらを覗き込んでいた。
「うっさい。あっちいけ」
落ち込んでいて、しかもそんな言葉を掛けられたのだ。ノートにぐりぐりと書いた真っ黒のかたまりみたいにユズリは言った。
「何で泣きそうなんだよ。俺に言ってみ?」
「しつこいな。あっちいけ、関係ないでしょ」
橙に染まった公園には、もう2人の姿しかなかった。
少年はどれだけユズリが言おうとブランコの周りをうろちょろしていた。
でっかい虫がいただの、ブランコでどっちが遠くまで靴飛ばせるかやろうぜだの、時々忘れてた頃に、なんで落ち込んでるんだ。とユズリに問いかけた。
あまりにもしつこくて、少しばかばかしくなっていたユズリは少年に根負けした。
「囲碁の大会で負けたの! 悔しかったの!」
聞いた少年はへぇーと笑うと、公園の滑り台の近くを指差した。
「大会出るなんてすげえじゃん! ちょうど良かった、俺も囲碁っていうのを少しは出来るからさ、あそこで勝負しようぜ!」
なんの変哲もない公園の片隅には、何故か机と椅子と、碁盤が置いてあった。
ユズリは自然と男の子と盤を挟んで向かい合っていた。
挨拶の声が公園に響いて、そのあとはしばらく石を碁盤に打つ音だけがあった。
「降参だよ、負けました!」
「ありがとうございました!」
男の子はユズリといい勝負だった。
お互いの石の生き死にを掛けた戦いになったが、ユズリが詰碁を読みきり、勝利した。
ここのところ勉強した碁の技をしっかりと活かせた戦いに、ユズリは、ほうと満足気なため息をついた。
男の子はにんまりと笑うと
「やるなぁ、勉強してたからなぁ……。そういえばさユズリはなんで囲碁始めたの?」
と言った。
あれ? 名前教えたかな? とユズリは一瞬思ったけど気付けば素直に答えていた。
その問いかけはユズリにとっての急所だ。
「凄くね、仲のいい友達がいたの。その子には、もう会えないんだけど囲碁が大好きだった。いつも囲碁の大会にでると賞状もらってきてた。……でも、その子はもう囲碁が出来ないから代わりにね、わたしが囲碁強くなろうって。それで始めたの」
勝ちたかった。
もちろん、囲碁を始めて勝負で負けることは今まで何回もあった。悔しくて悔しくて、何回も挫けそうになりながらここまできた。
初めての大会はユズリにとっては、負けられない特別な勝負だった。
だから、弱い自分が悔しかった。
緊張にやられて負ける自分が許せないし、勝ちがみえて負ける自分が情けなかった。
「今日の大会は負けちゃダメだったのに。でも……、本当に悔しい」
ユズリの目の前は、もうなんだかわからないくらいにボヤけていた。
ついでに盤に幾つもの水の跡がついた。
「そんなに悔しいなら辞めちゃえばいいじゃん。その友達もユズリが苦しそうにするのは嫌かもしれないよ」
じっと吸い込まれそうな深い黒。
今まで浮かべてた笑みを消して、真剣な表情で男の子は言った。
そうかもしれない。
私たちは2人で笑いあっている時が一番楽しかったし、悲しそうにしてたら凄く辛かった。でも…、でもね。
「わたしが決めたの。囲碁で強くなるって。だから、諦めないし、あの子がそう言っても辞めてあげない」
ユズリは強く男の子を睨みつける。
この想いはわたしのもんだ。
誰にも止められないし、あの子のためでもない。わたしのために、わたしがやるんだ。と、
男の子はにへらと微笑んだ。
「うん、すっごく元気でたね。それでこそユズリらしいよ」
うんうん、と頷きながら男の子は満足そうに笑う。
「どこかの誰かさんが一生懸命に囲碁勉強するもんだから、側で見てた俺もつい囲碁を覚えちゃった。ユズリと囲碁を打てて、本当に楽しかった」
「ユズリのこと応援してるからな、俺」
強い風が公園を吹き抜ける。ユズリの視界一面がオレンジ色に瞬き、眩しくてユズリは目を閉じた。
気付いたらユズリは元の公園のブランコに座っていた。
思い出したかのように、蒸し蒸しと粘りつく空気と夏特有の草の匂いが身体を覆う。
ブランコを飛び降りて先ほどまで男の子と囲碁をしていた場所まで走るも、そこには机も椅子もましてや碁盤もなにもなかった。
少し呆然としてると、視界の隅になにか映った。ユズリにとってはなによりも大事なものだった。
短くなった、3センチの鉛筆。
スッと心をぐちゃぐちゃにしてた黒いかたまりが、ユズリの中で一本の綺麗な線になった。
わたしがあまりにも情けないから、心配しちゃったのかな。
くすくすと笑いが止まらない。
また、頑張ろう。あれだけ大見得を切ったのだ。
次の大会では、誰にも負けない。
ユズリは笑顔を浮かべて、走り出した。
もちろん、その手の中には鉛筆がある。