靴とスズとくず
ひだまり童話館「とろとろな話」参加作品
小さな平屋の家がちまちまと並ぶ下町の細い道を、スズは必死な顔で、ケンケンと片足で飛び跳ねていました。上げた足には、靴を履いていません。
「やーい、のろまのくず!」
男の子たちに靴を片方取られて「お化け屋敷」と言われている空き家の庭に放り込まれてしまったのです。
スズは、ギッと錆びた音をさせて「お化け屋敷」の黒い鉄の門を押してみました。
門から顔をのぞかせて庭を見渡してみると、あまりにも草が多くて、靴がどこに落ちたかわかりません。
「あのお」
スズは小さな声で呼びかけました。誰もいる気配はありません。やっぱり空き家なのでしょう。
「あのお、すみません。靴をとらせてください」
スズはそう言うと、ケンケンをして庭に入っていきました。そして、靴の飛んだと思われるあたりに行き、かがみこんで靴を探しました。
靴はなかなか見つかりませんでした。
とにかく草がぼうぼうで、しかも草は庭の外から見るよりもずっと背が高く、足元も見えないほどです。
はじめのうちは、かがんで探していましたが、しだいにそれでは見つけられず、スズは這いつくばるようにして靴を探さなければなりませんでした。
伸びた草の中で、一生懸命に靴を探しているスズの耳に、風鈴の音がチリンと聞こえました。
それから、
「お嬢ちゃん、これかい?」
というしわがれた声がしました。それは、生きているのが不思議なほどに、ガリガリに痩せたおじいさんでした。
「あ、あの、くつ、を」
「あっちの縁側の方に落ちてたが、これじゃないかね?」
真っ赤な顔をして額に汗を光らせているスズに、おじいさんは靴を渡してくれました。
「あ、ありがとうございます」
どうやらこの家には人が住んでいたようです。スズはホッとして靴を受け取りました。
「そこの小学校の子かい。赤い顔して。どれ、縁側で冷たいもんでも飲んでいきなさい」
おじいさんは、スズを縁側のほうへ連れてきました。
「お、お邪魔します」
スズは断ることができずに、縁側に座りました。
「まあまあ、可愛いおじょうちゃん、いらっしゃい」
家の中には、小さなおばあさんが座っていました。蚊取り線香の香りがします。それに風鈴が時々チリンと鳴っていました。
「そこの小学校の子かねえ?」
「はい」
おばあさんにゆっくりと問われて、スズはコクンと頷きました。
「お名前は?」
おばあさんはニコニコ笑っています。だけど、スズはギュっと口を引き結びました。
「あら、ごめんなさいね。根掘り葉掘り聞こうと思ったんじゃないのよ。お名前がわからないとなんて呼んでいいかわからないでしょう?そうそう、ウチのじいさんはね、骨川のじいさんって呼んでやってね、ねえ、じいさん」
ちょうど、おじいさんがお盆を持って戻ってきました。
「お、なんだい?またわしのこと骨川のじいさんって言いふらしたな?」
おじいさんはゲラゲラ笑いました。
このおじいさんと来たら、本当に骨と皮だけでできているくらいガリガリなのです。腕や首には血管が浮き出ていて、皮膚にはシミがいっぱいできていて、目も飛び出しそうなくらいやせ細っていて、お化けみたいです。
「さ、おあがり。骨川のじいさんの特製だよ」
おじいさんは、スズの横にガラスの器を置きました。
スズには冷たいものを持ってきてくれたのでしょう。おじいさんたちは温かいもののようでした。
ガラスの器にはゼリーのように透明で、ですがトロトロとしたものが入っていて、木のさじが付いていました。
ひと口食べると、冷たくてトロッとした優しい甘みが口の中に広がりました。何かの風味を感じますが、それが何の味だか思い出せません。だけど懐かしい味だと思いました。
「おいしい」
「おいしいかい?良かった良かった。わしらは温かいほうが好きだが、夏になると時々冷やしたものも食べたくなってね。こうやって冷やしておくんだよ。甘みがさっぱりするだろう?」
「うん」
スズはもうひと口食べました。
それから、おじいさんが食べている温かい方のを見ていて、気づきました。この味は、葛湯です。
小さなころ、お腹が痛いとお祖母ちゃんが作ってくれた、あの葛湯です。冷やして食べても美味しいなんて初めて知りました。
おじいさんは、それはそれはゆっくりと葛湯を食べました。その間に、これまたゆっくりと話をしてくれました。
「わしらが食べられるのは葛湯だけなんだよ。野菜も肉ももうずいぶん長いこと食べていない。噛む力もないし味が濃くてとても食べられない。
だから、もうずっと葛湯だけを食べていてね。これがわしらを生かしているんだよ。こんな、骨と皮だけになっても、この味は変わらず美味い」
庭の雑草がさわさわと音を立てて揺れていました。
「骨川さんは、骨川のおじいさんって呼ばれるの、嫌じゃないの?」
「骨川のじいさんって?呼ばれても嫌じゃないねえ。みんなすぐにわしのことを憶えてくれる。こんな、骨と皮だけのじじいを覚えて呼んでくれたら、そりゃ嬉しいねえ」
「ふうん」
スズはじっと庭の草を見ていました。雑草だらけですが、淡い紫色の花がいくつも見えました。
「私、学校でくずって呼ばれてるの」
スズはポツリと言いました。
「のろまで、ぐずぐずしていて、何にもできないから、くずなんだって・・・」
スズは下を向いて、独り言のようにつぶやきました。
「なんにもできない、くずちゃん、か」
骨川のおじいさんはゆっくりと言いました。学校の子がバカにして呼ぶのとは違う優しい響きでした。
「骨川のじいさんも、くずちゃんって呼んでも良いかい?葛湯の葛だよ」
葛湯の葛と言われて、スズは冷たい葛湯を見つめました。きらきらと光っています。
チリンと風鈴が鳴りました。
「名前はそりゃあ大事だ。名は体を表すと言ってねえ、名前はその人の性格まで表すと言われているだろう?自分のことを何にもできない屑だと思っていたら、そうなっちまうさ。だが、くずちゃんの葛は、わしらを生かす葛だ。そう思って胸を張ってそう呼ばれてごらん」
おじいさんのしわがれた声が、まるで風鈴の音のように優しく胸に響きました。
「うん」
少しぬるくなった最後のひと口が、甘く広がります。
スズは、くずと呼ばれることが嫌ではなくなりました。
のろまでぐずぐずしていた「くずちゃん」は、おっとりトロトロした、ほんのり甘い「くずちゃん」になろうと、その時から変わったのです。
◇◇
スズは、二度と骨川のおじいさんに会うことはありませんでした。
あのお化け屋敷の前を何度通っても、誰もいない空き家にしか見えませんでした。草はぼうぼうと生えて、あの薄紫の花も見当たりませんでした。
それでもあれは夢ではありません。あのひんやりと甘い葛湯の味は本物です。
時折、チリンと風鈴の音が聞こえると、スズは、骨と皮だけの骨川さんのやさしさと、あの時のとろりと冷たい葛湯のことを思い出すのでした。