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姉の教え其の一、男は女を守るべし!(4)


「み、みみみ、美桜ちゃん!!」



一枚の鋭利なブレードに、溝の付いた二分割されたグリップ。

一昔前に流行ったバタフライナイフだ。 そのナイフを右手に持ち、美桜に向かって突き付ける男。

中肉中背、上下青のジャージ姿。 ボサボサの髪はみすぼらしく、年はまだ二十代といったところ。

鼻息の荒い声で喚きながら、じりじりと美桜ににじり寄っていく。

手に持ったナイフの切っ先が、獲物を威嚇する蛇のように美桜を鋭く狙っていた。



「いやあ! 来るなアホ! バカ! クズ!  変態! ジャージ! 近寄るなぁ!!」



火に油とはまさにこの事。 ジャージに罪はないが、考えつく限りの悪態を吐く美桜。

しかし、艶やかだった桃色の唇は精気を失い、今や恐怖の為か小刻みに震えている。

何か喋っていないと恐怖に押し潰されそうなのだろう。 彼女なりの精一杯の強がりなのかもしれない。



「デビュー当時からずっと見てたんだよ。  なのに一人でどんどん遠くにいっちゃうし……僕から離れちゃだめじゃないか美桜ちゃん」



ジャージ男はそう言うと、ふらふらと不気味に体を揺らしながら、ゆったりとした歩調で美桜との距離を縮めていく。


愛情は時として狂気に変貌する事がある。

正常な人間なら、そんなものを愛情とは呼ばない。

だが、自己陶酔によってのみ行動するこのジャージ男には、それらの常識的一般意見など耳に入るはずもなく。 一方通行の想いは最悪の形となって今この時、美桜に向けられてしまったのだった。



「し、知るか!」



美桜が近寄るなとばかりに、ジャージ男に椅子を投げつける。 が、か細い美桜の力では、大した抵抗にもならず。



「痛いなあ。 駄目じゃないかそんな物投げちゃ。 こりゃお仕置きしないとだねえ」



ジャージ男は言いながら、左手をゆっくり伸ばし、追い詰めた美桜の肩を掴もうとする。 が、その時、



「や、やめろ!」



突如聞こえた声。 しかしジャージ男が辺りを見渡すが、それらしい人影は無い。



「気の……せいか?」



ジャージ男はボソリと零しながら小首を傾げた。



「あ、危なかった……はぁはぁ」



溜め込んだ息を吐くように小声で言う人物。

駅弁を販売していたであろう簡易式の屋台のカウンター下。 そこに潜り込むようにして隠れる人影がある。


そう、司郎だ。


一度は止めに入ったものの、臆したのか思わず近くにあった屋台に隠れてしまっていた。


その距離ジャージ男と僅か十メートル。



「ど、どどど、どうしようっ! 勢いでここまできちゃったけど」



顔面蒼白。 ただでさえ朝っぱらから青かった司郎の顔が、更に青ざめる。


気づけば手足もガクガクと震えだし、小刻みに震える体のせいで、奥歯がガチガチと小さく音を立てていた。


司郎は思わず口元を押さえた。 音でバレたら殺される。 そう思ったのだろう、体を強張らせ身を固める。



「た、助けなきゃ……」



そう言いつつも、司郎の目には涙が滲んでいる。


武術の達人でありながら、その体には恐怖という足枷がつきまとう。

深層心理による本能の拒絶。 思いとは反対に、脳が勝手にブレーキをかける。



「で、でも」



司郎は漏らすように言って、その場にうずくまるばかり。 が、その時だった。



「うわぁぁぁん!!」



劈くような声。 いや、泣き声だ。 見るとジャージ男がいるすぐ隣。 無人となったタクシーに、身を隠すようにしゃがみ込んでいる人影が二人。

子供だ。 小学生ほどの女の子と、幼稚園児程の男の子。 その男の子が溢れんばかりの大粒の涙を零しながら泣いていた。 姉弟だろうか。 気丈にも女の子が男の子を必死に庇う様にして抱きしめている。


おそらく逃げ遅れたのだろう。 せめて見つかるまいと、じっとその場に身を隠していたのかもしれない。



「くそっ! まだ誰かいたのか!? 僕と美桜ちゃんの仲をそんなに邪魔したいのかお前ら!!」



ジャージ男の罵声に、その場にいた姉弟と美桜がビクリと身を振るわせた。


男の子の泣き叫ぶ声が、更にその激しさをましてゆく。



涙で滲む司郎の視界に、その姉弟の姿が映る。 気が付くと司郎の目はその二人に釘付けになっていた。



「姉……さん」



ポツリ、と司郎の口からそう漏れた。


ぼんやりと映る姉弟の姿。 幼き日、両親の墓前で司郎を守ると強く約束してくれた姉、澪の姿とだぶって見えたのかもしれない。


司郎の震えが、ゆっくりと収まっていく。


固まっていた体を見回す。

手が動く。 足もだ。 涙で滲む視界も、今では鮮明に辺りの状況を映し出しているようだ。



「や、やめて!!」



美桜の悲鳴のような声。 幼い姉弟にゆっくりと近づこうとしたジャージ男を呼び止めるものだった。

男の歩みが止まる。 が、代わりにその足は再び美桜の方へと歩み寄っていく。



「あ……い、嫌! 何で、何で誰もいないの!? どうして」



美桜の目端にうっすらとした雫が浮かぶ。 やがてそれは大粒の涙に変わり、零れ落ちるように頬を伝って流れた。


さっきまで美桜を囲んでいた人だかりも、まるで蜘蛛の子を散らすようにいつの間にか消え失せていた。 仕事仲間である撮影スタッフやマネージャーの姿も勿論無い。


誰も本心から自分を必要としていないのだと、まざまざと思い知らされた瞬間なのかもしれない。



「だ、誰かぁぁぁ!!」



押さえていた恐怖が体の内から噴き出るように、美桜の口から悲鳴が上がった。

それが合図だったかのように、男はニヤリと口を歪め、持っていたナイフを泣きじゃくる美桜へと振り上げた。


が、その刹那、


──バシッ、


鈍い打撃音と、カラン、と金属が跳ねる音が同時に響いた。



一瞬だが美桜の目の前で、銀色に光る金属が、回転音を立てつつ虚空を舞ったのが見えた。


ナイフだ。 確かにさっきまで男が持っていたはずのナイフが、宙を舞い荒々しく地面に転がったのだ。


涙でぼやける美桜の視界、その先にボンヤリと映る四角い顔の形をした人影、



「だ、誰? 四角い……顔?」



美桜は急いで涙を拭くと、もう一度その人影を、今度はまじまじと確認する。



確かに四角い、 だが顔が四角いのではなく、頭から覆っているものが四角いのだ。



茶色の紙袋に開いた丸いのぞき穴が二つ。

先ほど女性が逃げる途中、投げ捨てていったミカンの紙袋と同じ物。



「だ、誰だお前!」



怒りと悲痛の入り混じった顔で、実に悪役らしい言葉を吐き捨てるジャージ男。

その右手の甲が、痛々しく赤く腫れている。



「誰?  あっ、考えてなかった。 え、ええと……」



小声でそう呟く明らかに怪しすぎる紙袋を被った謎の人物。


何かを閃いたのか、自分の右の手の平を、左手で軽く、ポン、と叩く。

続いてコホン、と小さく咳払い。


そして右拳を前に突き出し左拳はやや腰に引いてのオフェンススタンス。



「す、すす、スーパーミカンだ!!」



そしてこの声このセンス、そう、間違いなく宮本 司郎本人だ。


いろんな意味での衝撃に言葉を失ってしまったのか、二人とも水揚げされた鯉の様に口をパクパクとさせている。



「あ、あれ? ど、どうかしましたか? や、やっぱりウルトラミカンの方……それとも和名? 愛媛ミカンZとか、」



慌てて言い直しながら考え込む司郎。 愕然としていた二人の顔が、見る間に険しくなってゆき、同時に大きく口を開いた。



「ふ、ふざ――」


「ふざけんじゃないわよ!!」



同時に叫ぶ二人だったが、ジャージ男の叫びは見事に美桜の怒声に掻き消されてしまった。


信じられない表情で、ジャージ男が美桜を二度見。 美桜はそんな事おかまいなしにスーパーミカン、もとい司郎を鬼の形相で睨みつける。


先程までその大きな双眸を涙で腫らし、怯えていた人物とは到底思えない形相だ。



「ちょっ、み、美桜ちゃん!? 僕がまだ喋って──」



余りの美緒の変貌ぶりに、ジャージ男がすかさず声を荒げた。


だが、



「あんたは黙ってなさい!!」


「は、はひ!」



と、一喝。 ジャージ男は直立の姿勢のまま固まってしまった。

自分の崇拝してきたアイドル象が、180度覆った瞬間である。


美貌の眉間に、瞬時に皺を刻んだかと思うと、バッと司郎に向き直り、



「そこの紙袋被った変質者!」


「変質者!? あ、いや僕はスーパーミカン──」


「どこから見てもただの変質じゃない! 」


「い、いや。 僕はその、」


「口答えする気? 人の話はちゃんと聞きなさいって習わなかった!?」


「は、はいっ!」



と、またもや美桜が一喝、そこで返事をしてしまうのがまた司郎らしい。

狼狽しながら、司郎はなぜか背筋を伸ばして直立ポーズ。



「あんたこんな美少女が、悲壮感漂わせながら殺されそうになってんのよ!? それを紙袋被って 『スーパーミカンだ!』 って、あんたバカ? 脳みそわいてる!? どんだけ空気読めてないのよ!!」



酷い言われようだ。

助けた相手にこれだけ罵詈雑言を浴びせられるとは、誰が予想できようか。


あたふたと戸惑い続ける司郎を余所に、言い足りないとばかりに、美桜はなおも言葉を続けた。



「私はね、ん? 何よ?」



そんな美桜に、蚊帳の外だったジャージ男が、申し訳無さそうな顔で美桜の背後から肩をトントン、とノックする。



「あ、あの美桜ちゃん? ぼ、僕の事忘れてない?」



そう言ってジャージ男は、おずおずと自分を指差して見せた。



「あ……ごめん、忘れてた」



と、美桜は男をバッサリ斬り切り捨て、苦笑いで舌をチロリ。


それを見てその場にうずくまり泣き崩れるジャージ男。

最早、事態は収拾のつかない方向へ。



「ていうかあんたも何なのその格好。 若い男がそんなボサボサの髪で、朝っぱらからみすぼらしい格好でこんなとこうろついて、恥ずかしくないわけ? だいたい何そのジャージ?」



「ぐすっ……え? あ、いやこれは近くのデパートのセールで買ったやつで……あ、アデダスっていう、」



ジャージ男は美桜に言われ、俯き縮こまりながらも返答する。

先程の威勢はどこへやらだ。


「はあ?  アデダス? 何よそれどこのパチモンよ!  あんた本当に私のファンなの? そんなファッションで? マジで信じられない! 最悪。 逝くなら一人で逝けっての!!」



そう言って美桜は、



「ふんっ」



と、腕組し、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


これでもかという罵声の雨。 涙目を通り越して、もはや号泣するジャージ男。

哀れとしか言いようがない。



「だいたい何であれだけ人がいて他に誰も助けにこないのよ……しかも来たのがよりにもよってこんな紙袋を被った変質者って……まじ最悪!」



額に人差し指を当て、美桜はその場で深い溜め息を一つ。

そして思い返すとますます腹がたってきたのか、美桜は振り返ると、またもや司郎をひと睨み。



「あわわっ! ごご、ごめんなさい!」



美桜の視線に堪えきれず、司郎は謝りながらその場からすかさず飛び退いた。

触らぬ神に祟りなし。



「なっ! 何逃げてっ……あれ?」



突如、美桜の顔色が一変し、口振りが先ほどの勢いとは逆に見る間に弱々しくなってゆく。


司郎もすぐさまその異変に気が付いた。


美桜の背中に、冷たく尖ったものが押し当てられていたのだ。


そう、ナイフだ。


さきほど司郎に弾き飛ばされたのを、どさくさに紛れてジャージ男が拾いなおしたのだろう。



「ええっと、さっきのはなし! って……ダメ?」



美桜は引きつった笑みを浮かべ、両手の人差し指を掛け合わせて小さくバツを作って見せた。


だがジャージ男は静かに首を横に二回振って見せた。 そして重苦しい口を開く。



「もういい……お前なんかと一緒に逝くもんか! その変わり、お前もミカン男も一緒に殺してやる!!」



ジャージ男の目には怒りを通り越し、もはや明確な殺意の光が宿っていた。

こうなるともう何を言っても無駄だ。


美桜の背後から、その殺意が司郎にまでひしひしと伝わってくる。



「くっ!」



司郎はすぐさまジャージ男の殺気に反応し、美桜に飛び掛かろうとした、だが、



「動くな!!」



後一歩というところで司郎の動きが止まった。

間合いが離れすぎていたのだ。

このまま制止を振り切ることもできるのだが司郎は思い止まった。


ジャージ男の声に迷いがないからだ。


怒りという闇雲な感情を捨て、殺意という明確な目的を得たせいか、ジャージ男が妙に落ちついて見える。



「動くなよ。 まずはお前からだミカン男! 目障りなお前から殺して、ゆっくり美桜ちゃんを料理してやる……!」



鬼気迫るジャージ男の声に、美桜の全身が恐怖により震えた。

強張る体。 白い肌からは見る間に血の気が引いてゆく。



「さ、さっきのは冗談だから。 い、嫌! お、お願い助けて……」


「もうダメだよ。 絶対に許さない! 美桜ちゃんも……そしてお前も!!」



男が司郎を向いて怒鳴るのと同時に、我慢していた美桜の涙腺が一気に開いた。

青ざめた頬を伝って、大粒の涙がとめどなく次から次へと溢れ落ちる。



(あのナイフをどうにかしないと)



司郎は内心そう呟くと、美桜の方をじっと見つめた。

恐怖のためか全身が小刻みに震えている。 口からは、小さくカチカチという音が漏れていた。


先程までの威勢のいい美桜の姿はそこにはない。 あるのは死という絶望に身体を支配された、か弱い一人の少女の姿だけ。


このままではまずい。 最悪の結果が訪れる前に。 そう思ったのか司郎の足が一気に大地を蹴った。 が、



「えっ……?」



不意に漏れた司郎の声、自分の足に何やら違和感を感じたのか、司郎はふと足元に視線を移した。



飛び掛かろうとした足が、地に着いたまま小刻みに揺れていた。

ハッとして司郎は手元に視線を移した。 いつの間にか両手もブルブルと震えている。



「はははっ! 何だミカン男。 お前もしかしてビビってんのか? はっ! 格好つけてヒーロー気取ってんじゃねえよこのチキン野郎!!」



男の激しい罵声が司郎に浴びせられた。

震えは収まらず、更に増してゆくばかり。



(こんな、こんな時にまで・・・・・・僕は女の子一人も守れないのか!?)



怒りまかせに握った拳に自分の爪が食い込んでゆく。


自分の意志とは反対に震え続ける体。

そんな自分に、司郎は唇を噛み締め怒りを露わにしていた。

こんな事はめったにない。


ジャージ男の薄気味悪い笑い声、だが次の瞬間、



「あんたなんかに……」



うつむいたままボソリ、と小さく呟く声、美桜だ。

ジャージ男がすかさず美桜の背中越しに耳を傾ける。



「な、なんだ? 何て言った!?」



ジャージ男が美桜に聞き返した。 けれどその質問に美桜は応えない。

代わりに美桜は閉じた口を開き、大きく息を吸い始めた。

胸が一瞬だけ膨らみ、やがて引いていく、深呼吸。

そして一連の動きが止んだと同時に、



「あんたなんかに、私は負けない」



顔を上げ揺らぎのない声で美桜はハッキリと言った。

しかも口許を弛めて、そう、笑っていたのだ。


だがそれも口許だけ。

他は先ほどと変わらない。

全身は震え、目には涙を溜めている。

白かった肌は青ざめたままだ。


強がりにしかみえない。

けれどただの強がりではない、恐怖に屈しない美桜の渾身の強がりだ。


芸能界という殺伐とした世界で培った度胸、もしくはハッタリ。

いや、それよりもさらに、心の奥深くにあるもの。 美桜が胸の内から振り絞った最大級の勇気なのかもしれない。


司郎はそんな美桜を見て驚きを隠せないでいた。

先ほどまであんなに怯えていた美桜が、今、目の前で笑みを浮かべている。


屈しない、負けないという美桜の思いが、司郎にもひしひしと伝わってきそうな程。



と、その時、司郎の顔がハッとなった。



(お爺ちゃんが言っていた、笑顔……)



何かを思い出したかのように司郎は噛み締めるような表情。 その様子から震えが和らいでゆくのが分かる。



次の瞬間、司郎は突然手を上げ紙袋の端をつまんで見せた。

あどけない幼さが残る顔がチラリと見える。


そのまま徐に額の高さまで紙袋を捲り上げ、目を瞑って一呼吸。 そして目を開けるとゆっくりと口を開いた。



「守りますから……どんな事があっても僕があなたを絶対に守ります。 だから、僕を信じてくれませんか?」



司郎はそう言うと、飛びっきりの穏やかで柔和な笑みを浮かべて見せたのだった。 それはまさしく、祖母、静や、祖父、宗光が司郎に見せた笑顔とソックリだった。


突然の笑顔。 一部始終を見ていたジャージ男も思わず司郎を見たままポカンとしている。


美桜もだ。 普通ならこんな時に正気かと疑いたくなる行動だが、なぜかその時だけは、不思議と美桜もその笑顔に落ち着きを取り戻したかのようだった。


同時に美桜の体中の震えが、まるで憑き物が落ちたかのように徐々に収まってゆく。



(なんなの、この気持ち……私殺されちゃうかもしれないのに。 何で? この人の笑顔……凄く安心する)



美桜がそう心の中で葛藤する中、いつの間にかさっきまで強張っていた表情が自然と和らぎはじめていた。


こんな状況なのに、なぜか目の前の司郎の笑顔に惹かれてゆく美桜。 やがて司郎につられるかのように、美桜の表情にも自然と小さな笑みがこぼれていた。



(この笑顔に見つめられていると何か……安心しちゃう……)



美桜は心の中で呟く。

そして目の前の男の子に、まるで意を決したかのように小さく一度頷くと、笑みを浮かべたまま、



「う、うん!」



と、今度ははっきりと頷いて見せたのだ。


そしてそれが全ての合図となった。



「破っ!」



と小さく鋭い掛け声が、司郎の胚から一気に駆け抜け口から放たれた、息吹だ。



同時に恐ろしい程の速さで身をかがめると、そこから繰り出す閃光のような司郎の左掌底。



しかし、掌底は男にではなく、美桜の真正面から心臓付近に放たれたのだ。



「きゃあっ!? あ……あれ?」



突然の事に小さく悲鳴を上げる美桜。 しかし掌は美桜に直撃する瞬間、寸前で胸に軽く触れる程度で止まった。


呆気に取られていた男が、我に気付いたようにはっとする。

握っていたナイフに力を込め、殺意の衝動と共に美桜の背中から心臓を突き上げた、はずだった。


男の意思とは反対に、手が動かない。

正確には肘から下が痺れるようにまったく動かない。


そして突如、


ビシッ、という鈍くひび割れるような音。


信じられない事に、男が握っていたナイフにひびが入り、音を立てて砕け散ってしまったのである。



「う、嘘だろ……セラミック製のナイフが!?」



男が顔色を真っ青にさせながら喚いた。



「今のうちにこっちへ!」


「は、はい! ……ってあれ?」



そう言われ美桜は素直に司郎の背後へと回る、だがふと考え込むような仕草。



(あれ? 私ってこんなに素直だったっけ……?)



心の中で自問自答し、美桜は自分でも驚いている様子だ。



(うぅ……何だろ、なんか悔しいんですけど)



無論、悔しがっているような状況ではないが、それだけ素直になれない美桜が、なぜか司郎の笑顔を見て、今だけは素直になれているということだ。



逃げながらも美桜は、尚も納得いかないといった顔で頭を捻る。



「くっ、くそーっ! お、お前さえ、お前さえ邪魔しなければ!!」



ジャージ男は吐き捨てるように叫ぶと、痛む右手を押さえつつも司郎に飛びかかる



たが遅い、構えが、飛び込むタイミングが、それら全ての一挙一動が、落ち着きを取り戻した司郎にはスローモーションのように見えていただろう。



「姉の教え其の一!」


「へっ?」



突然の司郎の一喝する声に、男は驚き間抜けな声をだしながら動きを止めた。



「男は女を守るべし!!」



司郎がそう言い終えると同時に、凄まじい速さで男の懐に潜り込んだ。


電光石火とはまさしくこの事か。

司郎の手が、いつの間にか男の左腕を掴んでいた。

すると突然、男の体が力を失ったかのようにガクン、と崩れ落ちる。


柔らでいう崩しの一種。

力場を失い力なく倒れかけた男の目の前で、旋風が吹き荒れた。


次の瞬間、ジャージ男の天地は逆転していたのである。

轟音を立てながら、男の背中がコンクリートの地面へ、が、


コツン、と地面に触れる音。 無論、頭から落ちた音ではない。


靴だ。 ジャージ男の履いていた靴の踵が地面に触れていた。


司郎はジャージ男の上腕を掴む事により、頭からの直撃を防いで見せたのだ。


しかも茫然とする男に対して、



「もういじめちゃダメですよ?」



と、あどけない明快な声で一言。 これもまた司郎らしい。


ジャージ男は口を魚のようにパクパクさせ、視点の合わない目をグルグルお泳がせながら気を失ってしまった。



(す、すすすごーいっ!)



美桜は目の前で起こった一部始終を見て、口元を両手で覆いながら驚愕していた。 言葉では言い表せないといった様子だ。


一瞬にして、自分よりも大きな相手を投げ飛ばしてしまったのだ。

しかも、怪我をさせる事なく相手を気絶させてしまった。



(まあ私なら遠慮なく頭からズドン、だけどね)



と、口元に不適な笑みを浮かべつつ、美桜は心の中で付け加える。

まったくもってアイドルらしくない。



「美桜ーっ!?」



遠くから美桜を呼ぶ複数の声、司郎と美桜が声の主に振り向くと、そこにはマネージャーとスタッフ達の姿が見えた。


その後方にはやや離れて、警官らしき人物も見える。



「だ、大丈夫だった、美桜!?」



マネージャーは状況が掴めないのか、司郎と倒れた男を見ながら困惑した様子で二人に駆け寄ってきた。


まあ紙袋を被った怪しい奴が悠然と美桜の横にいるのだから、不審がるのも仕方のない事。


マネージャーは心配そうに美桜の肩に手を伸ばす、が、



「触んないで!」



パシッ、と軽く肌を叩く音が響いた。

駆け寄り伸ばしたマネージャーの手を、美桜は吐き捨てるように言いながら叩いたのだ。



「み、美桜……?」


「何よ! 肝心な時は皆逃げ出して、もう大丈夫だと思ったら戻って来る……私が無事なら、これからも私を使って金儲けできるもんね。 本当に私のこと心配してくれた人なんてこの中にいるわけ!?」



マネージャーとスタッフ達を交互に見ながら、美桜はキッとした目で睨みつけた。

余程泣きはらしたのか瞳が少し赤身を帯びている。


すると突然、美桜の腕が後ろから急に、ぐいっ、と引っ張られた。  突然の事にビックリして美桜が振り返ると、


司郎だ。 勿論紙袋は被ったまま、だが何かを言いたそうにしている。



「な、何よ?」



そんな司郎に気づき美桜は、言いたい事があるなら言えと言った感じで聞き返す。



「あ、あの。 その人達は警察の人を呼びにいったんだと思います。 それは正しい事です。 だ、だから、」


「だから……何?」



すると司郎は申し訳なさそうに、



「そ、そんな酷い事言っちゃダメです。 ちゃ、ちゃんとありがとうを言わなきゃですよ?」



「え? そ、そんななんで私……」



私がそんな事言わなくちゃいけないの。 と言いたかったのだろうが、それ以上言えず美桜は言葉を飲み込んだ。


普段なら思い通りにズバッと言ってしまうのが美桜だ。

思った事をぶつけてせいせいする。 これがいつものスタイル。



がしかし、美桜は言い返さなかった。 いや、言い返せなかったのである。 



(何で、何でなの? 何で逆らえないのよ! うぅ……そういえばさっきちらっと見えた顔、可愛い顔してたな。 あ、でも凄く強いし、それに優しかったし……)



と、悶々とそんな事を浮かべているうちに美桜の顔がほんのりと朱色に染まる。



(何だろう……この気持ち)



「み、美桜? あなたやっぱりどこか怪我してるんじゃ?」



顔を赤くしたまま押し黙り俯いてしまった美桜を見て、マネージャーが心配そうな声を上げる。



すると美桜は、顔を上げマネージャー達の方を向くと、上目遣いで口を開く。



「ご、ごめんなさい。 そ、それと、ありがとう……心配してくれて」



なぜか静まり返えるスタッフ一同。


それもそうだ。 あの天下のグラビアアイドル、今や国民的にも認められつつある朝霧 美桜。


良く言えば天真爛漫。 悪く言えば鬼のようなわがまま娘。

しかも負けず嫌いで、プライドもこれまた高い。


そんな傍若無人な美桜が、頭を下げてごめんなさい。 しかもありがとう、だ。

これにはスタッフ一同ご乱心。



「おい、病院だ病院! 救急車回せ!」



「いっ、一般の病院でいいんですかね!?」



慌てふためくスタッフとマネージャー、



「ちょっ、何それ! せっかく人が謙虚な気持ちになってやってるのに!」



大声でスタッフ達に怒鳴る美桜。 いつもの美桜だ。



(今のうちにっと……)



どさくさに紛れて立ち去ろうとする司郎、だが、



「どこ行くのよ?」


「あうっ!?」



美桜に襟首を後ろから掴まれ呼び止められた。 そして腕組みして司郎の後ろで仁王立ち。



申し訳なさそうに振り返る司郎。

美桜を見て完全に萎縮してしまっている。



「本当はあなたに一番に言わなきゃなのにね……ありがとう。  変質者とミカン男は取り消してあげるわ」



美桜の明るい声が緩やかに響いた。



美しい輪郭に白い肌。

さらりとした前髪から覗きこむ少し潤んだ大きな瞳。



司郎はその目に見つめられ、助けた相手が、やはりかなりの美少女だと再確認した。


すると美桜がほんのりと頬を染めながら、照れた様子で、



「ね、ねえ、一つ聞いてもいいかしら?」



と、聞いてきた。



「は、はい、何ですか?」



首を傾げる司郎。



「何で、何で私の事助けてくれたの?」



美桜はどうしても知りたかったようだ。

普通ならまずあの状況で飛び込んでくる人間はそうはいない。

少なくとも美桜の周りの人間には、



「えっ? 助けるのに理由がいるんですか?」



と、逆に何でそんな事をわざわざ聞くのか? といった様子で聞き返す司郎。



そう、司郎にとってはごく当たり前の事をしたまで、そうやって育ててもらってきたのだから。


だが美桜はなおも納得いかないといった様子で司郎に食いつく。



「だ、だって、もし仮にあいつに殺されたりしたら、後悔しても遅いのよ!?」



そう言いながら気絶した男を指差す美桜、自然と声が荒くなっていた。



しかし司郎は相変わらず穏やかな優しい声で、



「あなたを助けられなかったら、多分僕は死ぬ程後悔すると思います」



胸を打ち抜かれたかのような顔で美桜の顔がハッとなった。


これから続く長い人生の中で、一体どれだけの人が、こんな事を言ってくれるのだろうか? いや、もしかしたらいないかもしれない。


だが今目の前にいる少年は、それを至極当たり前のように言ってくれたのだ。


美桜の顔が、何かに満たされるかのように和らいでゆく。


もう一度美桜はまじまじと司郎を見つめる。 すると美桜の表情がハッとした顔になった。



「あの……君もしかしてうちの学校の生徒じゃ?」


「へ? ええっ!? ち、ちち違いますよ! 絶対に違います!!」



あからさまに怪し過ぎる反応。 今時小学生でもこの反応はないだろう。



「だって、その制服……」



そう言って、美桜は司郎が着ている制服を指さした。



頭隠してなんとやら。

ミカンの紙袋で顔は隠したとはいえ、着ている服は見事に学生服。

しかもご丁寧に、校章まで付いている。



「あ、あいや。 ぼぼ僕はスーパーミカンです!! 次の任務があるので失礼します。 さ、さらばです!」



早口で言ってから、司郎はその場から逃げるように駆け足。 だが、



「待てい!」



立ち去ろうとする司郎の前に立ちはだかる人物。



「へっ?」



間の抜けた声を上げ、司郎がその人物に目をやる。


渋い紺色に統一された上下の制服に、帽子に着いた桜の代門がこれでもかと主張している。


そう、ご存知警察官だ。

だがしかし、少し雲行きが怪しい。 かなりの敵意を感じさせる目で、司郎を睨みつけている。


美桜が不審者に襲われている。 警察官駆けつける。 紙袋を被った男が被害者の近くにいる。


現場証拠の方程式。


なるほど、とばかりに、片方の手の平にもう片方の握り拳を、ポン。



「ぼ、僕は怪しい人じゃありませーん!!」



両手を上げて降参のポーズ。 そのまま司郎はまたたく間に逃げ出した。



「怪しさ爆発に決まってるだろうが! 待たんかー!!」



警棒を振り上げ職務をまっとうする警察官。


こうして、殺伐としていた御坂駅前広場に、いつもの朝の姿が戻りつつあった。



「同じ学校……か」



などと呑気に傍観する美桜。

その愛くるしい唇を少しだけ歪めて見せる。


その笑みはまるで天使の微笑み、いや、小悪魔の微笑なのかもしれない。

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