姉の教え其の一、男は女を守るべし!
「じじい! 今日こそ引導を渡してやる!!」
「あらあら、澪さん、女の子がそんなはしたない言葉使っちゃいけません」
「婆さん、こんな尻の青い娘に何言うても無駄じゃ、わしが身をもって教えてやるわい!」
「ほほう……上等だ! 今すぐ御先祖様に会わせてやる! こい妖怪じじい」
東の空がうっすらと明るくなり、微かな朝霧が漂う中、ここ御坂市の小高い丘にある、宮本道場の早朝稽古が始まった。
時間にして午前六時。
いつものように変わらぬ罵詈雑言と近所迷惑な騒音が、宮本道場付近に住む近隣住民の目覚まし代わり。 早いもので、それも今年で五年目になる。
「司郎、私は朝ご飯の用意をして来ますから、お爺ちゃんと澪の事、頼みましたよ」
柔和で穏やかな笑みを浮かべた宮本家の祖母、宮本 静は、孫である司郎にそう言うと、そそくさと道場を出てゆく。
「うん、任せておいて」
にっこり、と爽やかな笑みを浮かべ返事を返す司郎。
柔和な笑みが祖母の静に良く似ている。
くるりとした大きな瞳、真っ直ぐな意志の強さを感じさせる眉毛。 ただし童顔で背が低いのが悩みどころ。
女装でもすれば、女の子に間違われてもおかしくない顔立ちだ。
これでも一応今年の春、高校一年生になったばかり。
「おじいちゃん達ほどほどに、」
と、苦笑いを浮かべたままの司郎がそう言いかけた瞬間、
「ひよっこめが!」
祖父の豪快な掛け声と共に、司郎の姉、澪の体が空中で弧線を描きつつ、道場の畳に背中から叩きつけられるように落ちた。
畳に寝転がるようにして荒い息を吐く澪。 胴着からはみ出た白い肩が、ほんのり赤く染まり蒸気している。
学校では才色兼備、気品ある物腰の女子生徒。
都立御坂高校、生徒一同が憧れる生徒会長にして高校二年、宮本 澪。
が、今はそんな言葉が一つも当てはまらない程、その美しい顔が怒りの形相で歪んでいる。
「ちっ……!」
澪はゆっくり立ち上がると、苦々しく舌打ちしながら、腰まである髪を邪魔そうに掻き上げた。
艶のある黒髪がサラサラと揺れる。
一呼吸し乱れた胴着を正すと、間髪いれずにまたもや祖父に飛び掛かり、とても華奢な体とは思えない力で胴着に掴みかかった。
「何度やっても無駄じゃい! わしの瞬獄○を受けてみよ!!」
とても齢七十を越えた老体とは思えない剛腕で、澪の奥襟を掴む祖父の宮本 宗光。
言っている事は意味不明だが、丸めた頭と長く伸ばした白髭がかなり特徴的お爺ちゃんだ。
鋭い眼光と共に、掴んだ手に更に力を込める。 が次の瞬間、見計らったように澪が不適な笑みを浮かべ、
「かかったな……妖怪じじい!」
澪の鋭い瞳が、妖しい眼光を放つ。
「むっ!? ちょこざいな!」
奥襟を取った宗光の手が一気に澪を胴ごと持ち上げたその刹那、
スルリ、という音と共に澪の体から胴着だけが脱げた。
これには宗光も唖然、視界から澪が消えたのだ。
「ぬおっ!?」
「ちぇすとぉぉっ!!」
正に電光石火、一撃必殺。 突如タンクトップ姿の澪が真下から現れ、宗光の金的に鋭い膝蹴りを一発。
さすがに歴戦の宗光も、大海原に沈没してゆく船のように、ぶくぶくと沈んでゆくしかない。
「ふん、つまらぬものを蹴ってしまった……。」
まるで捨て台詞のような言葉を吐くと、澪は腕を組み朝日を眩しそうに見つめる。
「お、おじいちゃん大丈夫!? うわっ白目向いてるし!」
司郎があたふたと宗光に駆け寄り、青ざめた顔で安否を確かめる。
「姉さん! 今のはやりすぎだよ!」
同じ男としてこの痛みは痛感できるのだろうか、さすがに温厚な司郎も澪にレッドカードだ。 と言っても、こんな事は今に始まった事でもなく、毎朝稽古か殺し合いか分からないような事を、宮本家では毎度繰り返えされている。
これも日常茶飯事、いくら言ったところで澪が聞きもしない事は司郎にも分かっているようだ。
だがそれはそれ、弟として姉を戒めるのは自分の使命、といったところだろうか。
「ふっ、倒れた時に胴着の帯を少し緩めておいたのさ、じじいも寄る年波には勝てぬと言うことよ。 そんな事より……ふふ、司郎の涙目はいつ見ても可愛いな、」
弟の抗議を華麗にスルーした澪のしなやかな手が、司郎の頬にまるで陶器でも撫でるような手付きでそっと触れた。
「ちょ、ちょっと姉さん?」
澪はうっとりとした表情を浮かべると、司郎の耳元に口から漏れる吐息を、ふぅ、と吹きかけた。
「うわあ……やめてってば!」
そのまま澪の形のよい唇が、徐々に司郎の、
「なにやっとんじゃい!!」
突然、司郎と澪の真下から、さっきまで悶絶していたはずの宗光が、天を突くかのようなアッパーカットを放つ。 だが、 轟音を立てながら襲い来るアッパーを、澪はヒラリと上体を反らすだけで交わす。
しかし、交わしたその先には司郎の顔が、
「ぐへっ!!」
「ノーッ!! 司郎!?」
宗光の顔がムンクの叫びのように歪む。 司郎の体は高々と宙を舞い、そのまま錐揉みしながら畳に突っ伏すように墜落。
ボクシングなら間違いなくTKOものだ。
「おのれ! よくもわしの可愛い孫にこんな酷い事を!」
「やったのはお前だ!! それに私だって孫娘だボケじじい 」
澪は怒鳴ると、溜め息をつきながら踵を返し、構えをとったたままの宗光に背を向け出口に向かって歩きだした。
「ん? なんじゃい、今日はもう終わりか? まだ稽古は終わっとらんぞ! さあこい。 わしの秘奥技天翔龍のなんちゃらで、」
だが、そんないきり立つ宗光を無視して、澪はそそくさと帰り支度を始めている。
「生憎どこかのオトボケじじいと違って私は多忙でな。 朝から全校集会で生徒会挨拶もあるんだ。 悪いが先に行く。 司郎の事頼んだぞ」
澪は投げやりにそう答えると、置いてあったバッグを手に取り立ち去ろうとした。 が、何かを言い忘れたのか司郎の方に振り向くと、
「司郎、続きは帰ってからな」
と言って澪はウインクをしながらいそいそと道場を出てゆく。
その澪の背中を、宗光は睨みつけながら中指を立て、
「ふん! ブラコン娘め、どこぞなりと行ってしまえ」
と、年甲斐も無く子供の様に舌を出し挑発。 だが次の瞬間、
──ブン、という風切り音。
それと同時に、
──ゴスッ、という鈍い音が道場に響いた。
「ぐおっ!」
澪が振り向きざまに投げた下駄が宗光の顔面にクリーンヒット、そのまま顔面に下駄をめり込ませたまま、スローモーションのように倒れてゆく。
澪はふん、と鼻を鳴らしながら靴を履くと今度こそ道場を後にした。
「いてて……あれ? 姉さんは? わぁっ! お、おじいちゃん!?」
目覚めた司郎の目の前に、無残に横たわる宗光。 慌てて転がっている宗光に駆け寄る司郎、 本日二度目。
「だ、大丈夫じゃ司郎。 ううむ、相変わらず良い肩をしとるわい。 流石我が孫よ」
下駄を顔面にめり込ませたまま吐く台詞ではないが、どうやら生きている。 安心したのか司郎はホッと胸を撫で下ろした。
「もう、おじいちゃんがあんな事言うからだよ、大丈夫?」
そう言って司郎が肩を貸すと、倒れていた宗光がゆっくりと起き上がった。
「う、うむ。 しかし司郎、お前も大変じゃな」
「へっ? 何が?」
司郎が大きな双眸をキョトンとさせながら小首を傾げる。
宗光はそんな司郎の頭に無造作に手を置くと、豪快な笑い声をあげながら強引にわしゃわしゃと撫でた。
「わっ、ちょっと何おじいちゃん!? ちょっやめてよ」
「わっはっはっ! 惚けおって。 さっきのわしの昇竜○だって、交わそうと思えば交わせたじゃろうが?」
「え? あ、いや、それは……」
宗光にそう言われ司郎は言葉に詰まると、やがて力なく俯いてしまった。
「澪に自分の強さを悟られまいとする為か……?」
司郎は俯いたまま何も答えない。
そんな司郎を見ながら、宗光は言葉を続ける。
その表情に先程のおちゃらけた様子はなく、一人の祖父として孫を優しく見守っているような、そんな優しげな目をしていた。
「澪は強い。 あ奴は努力型の天才じゃからな。 ああやって文句ばかりぬかしよるが、朝の稽古もサボらず続けておる」
「うん」
と、司郎が短く頷く。
「じゃが、お前は違う。 そうじゃな……言うなれば天賦の才。 過去の文献を見る限りでは、お前程才能に恵まれた者は、御先祖様達の中にもそうおらんじゃろう」
司郎は押し黙ったまま道場の壁に立てかけられた白黒写真に、ふと視線を移した。 宮本流古武術の先代にあたる人物、宗光の父、宮本 宗鷹、生前の写真である。
チュンチュン、と鳥達のさえずり声だけが響いてゆく。 今朝の騒音はすっかりどこかへ消え去ってしまい、今や陽光差し込む静寂の宮元道場に戻りつつある。
「僕は天才なんかじゃないし、御先祖様の足元にもおよばないよ」
ふいに司郎はそう言って苦笑いを浮かべた。
「はははは、謙遜するな、うちはそれなりに古い歴史をもつ宮本流道場じゃ、脈々と受け継がれる宮本の血筋の中に、希に四郎のような使い手が生まれてもおかしくはないわい」
そもそも宗光の言う宮本流とは、遡ること室町時代から続く、徒手を主体とした流派である。
将軍家御用達の護衛役を使命としていたが、江戸時代にその役割を終え、現在は技のみが受け継がれる形となっていた。
その宮本流において司郎は、歴代のご先祖達の中でも類い希なる才能の持ち主だと、宗光は語っている。
だが司郎自身、その力を今のように見せようとはしない。
その為か、普段は頼りない弟を演じ、なるべく目立たない学校生活を送っていた。
だが、司郎の師でもある宗光は、とうにそのことに気づいていたのだった。
「戦うな……澪からそう言われておるのじゃろう?」
「お、おじいちゃんどうしてそれを!?」
信じられないといった表情で四郎は宗光の顔を見た。
「まあな、婆さんから聞いたよ。 拓海君と弥生が亡くなった時に、澪が司郎とそう約束したと」
宗光の出したその名前に、司郎は体を少し強張らせるように反応し顔を伏せた。
司郎の両親、父の拓海と母の弥生は、既にこの世にはいない。 とある事件をきっかけに他界していた。
澪はその時の事を今でも悔やみ、亡くなった両親の墓前に誓ったのだった。 司郎を守ると。
以来、澪は喧嘩や争いから司郎を遠ざけるようになり、武術を習うことさえも禁じるようになった。
「で、でもそれだけじゃないよ。 情けないけど、僕実戦だとすぐ震えちゃって何もできないし。 隠すどころの話じゃないから」
そう言って頭を掻きながら情けなく司郎は笑ってみせた。
「対人恐怖症か……やっかいな病じゃの」
宗光の神妙な言葉に、司郎が同調するように深く頷いた。
「ははは、本当にね……」
司郎は力なく笑いながらそう呟く。
その笑顔を見て宗光は複雑な表情だ。
宗光は過去、司郎が他人と接する際に、余りに様子がおかしい為、知り合いの医者に見せた事があった。
結果、医師からは何らかの精神的な影響による対人恐怖症ではないか? という診断となった。
対人恐怖症といってもその症状は人によって様々で、司郎の場合は相手に威圧的な態度とられた時に限る。
慣れしたんだ相手になら問題はないようだが、少なくともそれが武術の達人である司郎の、大きな足枷となっている事には明白だった。
「だから僕は強くなんか……」
司郎は言葉を濁しながら、庭から見える空け始めた空に目をやった。
弟を必死に守ろうとする澪。 そんな姉を守ってあげたいと思うのもまた、弟である司郎の本心だった。
だがそれすらもままらない体質に、司郎はただ歯がみするしかなかった。
「まあ、お前がそれでいいんなら、わしもこれ以上は言うまい」
宗光は笑みを浮かべながら司郎の肩に手を置くと、力強くその肩を叩いた。
人一倍姉思いの司郎の事、おそらく他にも何か思うことがあるのだろう。 宗光もそれを察してか、それ以上は何も聞かなかった。
「ほれ、笑顔じゃ笑顔。 婆さんがいつも言っとるじゃろ? 笑顔を忘れるなと」
そう言うと、宗光は自慢の真っ白な歯を見せながらニカっと大きく笑う。 それにつられるように、司郎の顔に若干の笑みが戻っていた。
幼くして両親に先立たれ、姉と二人悲しみに暮れる日々を支えてくれていたのは、宗光のこの笑顔なのかもしれない。 もちろん祖母、静の支えもあってだ。
「さてと、婆さんの飯の支度もすんだ頃じゃろう、行くぞ司郎! 腹が減ってはなんとやらじゃ、わっはっはっ!」
宗光の豪快な笑い声が、閑静な住宅街に高らかに響きわたる。 そんな宗光の姿を見て、司郎が徐々に笑顔を取り戻していく。
今はこの祖父と祖母が親代わりなのだ。
だからこそ司郎にとってこの笑顔はとても安心出来るのだろう。
「うん!」
司郎は口元をほころばせると、満面の笑顔で返事を返した。