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コカコーラ・ベイビーズの黄昏  作者: 早乙女四季
9/10

一九九〇年 夏 Ⅰ

 槇さんが大学を辞めてブエノスアイレスに行ってしまったのは、一九九〇年の七月の半ばのことだった。


 人が道を歩いて行く時には、その人なりの歩き方があり、どういう歩き方をするかという最終的な選択はもちろんその人自身に決定権があって、他人がその選択に対して異存を唱える権利はどこにもない。その時もそう思ったし、今でもそう思っている。

 でも、槇さんがぼくのいる世界から姿を消してしまったことは、本当に寂しいことだったし、目の前に存在しているこの世界の現実感とか実感のようなものが、また一歩、ぼくから遠退いて行った。

 そしてその時のぼくは、自分が混乱していることにばかり気を取られていて、槇さんがいなくなってしまうことが、鏡子さんにとってどれほど大きな痛手だったのか考えようともしなかった。

 槇さんがいなくなってからの鏡子さんの身に起こったことは、それは無残なものだった。多分、槇さんは、状況がそういう形で変化するとは考えていなかっただろう。鏡子さん自身も自分の身に起こったことが、槇さんの不在によるものだとは今でも思っていないだろう。

 ただ、端から見ていたぼくには、もちろん槇さんがいなくなったことが単なるきっかけに過ぎなかったとしても、その不在がまるで波のようにじわじわと周囲に伝わって広がった結果、起こったことのような気がしてならない。

 鏡子さんは槇さんが隣にいて当然という時間を過ごして来て、その時間はぼくなんかとは比べものにならないぐらい長くて深いものだった。二人の間には他の誰にも入り込めないような密なものが流れていた。言ってみれば二人は本体と影のような関係で、それは状況に応じて入れ替わった。

 鏡子さんと槇さんの間に、そういう男女の関係があったのかどうかということは、ぼくには分からない。

 でもそれがあったにしろなかったにしろ、どちらにしても、そういう部分とは関係なく、二人の間には、『男』と『女』という性別を超えて、もっと違う部分での人としての『何か』が存在していたのではないだろうか。二人はそういう『何か』で繋がっていたような気がする。その『何か』がどういうものであったのか、それはぼくには分からない。二人にしか分からないことだ。でも、恐らく鏡子さんも槇さんも、その『何か』が二人にとってはあまりにも自明のこと過ぎて、そのことについて深く考える必要がなかったのではないだろうか。空気があることが当たり前すぎて、ああ、今自分は空気を吸っている、と人がいちいち考えたりしないのと同じように、そのことについての自覚がなかったのではないだろうか。

 鏡子さんにとって不幸だったのは、槇さんも鏡子さんもそれぞれが自分にとってそこまでの存在だったことに気付いていなかったのだろうということと、自身を取り巻く世界の変質の真っ只中にいて、その変質に対する防波堤の役割を果たしていた槇さんを失い、その状況を正確に把握出来ないままそれを受け容れようとして、無理に無理を重ねてしまったことだった。


 * * *


 今年のぼくの前期試験は去年と違って飛び石のダラダラ状態で、七月半ばの試験期間の最終日にようやく近現代文学Ⅱと社会学と中国語Ⅱの試験が終わった。

「これから試験終了の打ち上げコンパをやるんだけど、一緒にどう?」

 教室を出ようとした時に顔馴染のクラスメートが誘ってくれたけれど、ぼくはあまり気が進まなかった。

「今日はバイトがあるんだ。でも声をかけてくれてありがとう」

 今日はバイトはなかった。

 こういう言葉は物事や人間関係を円満に運ぶための手段なのだ。いつの間にか、ぼくは自分でも気が付かないうちにそんな感じで人と対峙するようになっていた。

『嘘も方便』とか『嘘もまことも話の手管』などという古の格言は、この二十世紀においても十分に通用する。

 ぼくがそう言うと、彼は、「じゃあまた今度ね」と罪のない笑顔を見せた。ぼくも笑った。


 語学演習塔を出て時計台を見ると、ちょうど六時になったばかりだった。一人になったぼくは、誰もいない運動場の脇道をブラブラと歩きながら田所先生のことを思い出した。

「本当に大切なことほど、学校の教師は教えないものだ。どうでもいいことばかりを熱心に教える。実にくだらない奴らだ」

 高校を辞めた直後のぼくに田所先生がそんなことを言った時があった。その時のぼくは、その言葉の意味が良く分からなかったので曖昧に頷いていただけだった。あれは田所先生なりのぼくに対する精一杯の慰めの言葉だったのかもしれない。ぼくはゆっくりと歩きながらそんなふうに思った。確かにそういう部分はある。ぼくが大学に入って学んだことは、こういうことがほとんどだった。

 恐らく、とぼくは空っぽの運動場に長く伸びた自分の影を眺めながら思った。

 街を彷徨っていたホールデンからしてみれば、ぼくはイノセンスな人間ではないのだろう。彼が一番忌み嫌うタイプの人間なのかもしれない。でも、そのことについて、ぼくは別段悲しいとは思わない。この世に存在する人間のほとんどは、最初からイノセンスな存在ではないのだ。人間は言葉を獲得してしまったその瞬間から、既にイノセンスな存在ではあり得ない。あの本を読み終えた時に、まだ高校生だったぼくはぼんやりとそんなことを考えた。


 キャンパスにはあまり人影がなかった。試験期間中のお祭り騒ぎがまるで嘘のようだった。多分去年のぼくのように、早々と試験を終わらせて夏休みに入った学生達が多かったのだろう。夏の夕暮れの中で、狂ったように鳴いている蝉の声ばかりが耳についた。

 今日は水曜日だった。

 六月の末から、家や喫茶店やバイト先のレジの机の前で、教科書の細かい字を読んだりレポートを書いたりする時間を過ごして来たぼくは、久し振りに誰かと音を合わせたくなった。バウンシング・バドやコンファメーションのご機嫌なバップのコードをピアノやギターで押さえたかった。今日が試験の最終日だし、部室に顔を出せばきっとセッションをやっているだろう。

 学生の姿がパラパラしている中央広場の自動販売機で缶コーヒーを買い、学食の地下に通じる階段を下りたぼくは、いつものように西日が射し込んでいる長いコンクリートの廊下を歩いた。


 途中で空手着を纏った同級生の比嘉くんとすれ違った。比嘉くんはお腹の前で両手を握りこぶしにして、「押忍!」と軽く頭を下げてぼくに挨拶をしてくれた。「やあ」とぼくは答えた。

 空手部と応援団の人達は、この廊下を通る人間には、それがたとえ知らない人間であっても「押忍!」と必ず挨拶をする習慣を持っているようだった。彼らの挨拶は、「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」も全て「押忍!」の一つだけだった。

「ひょっとして今日まで試験だったの?」

 比嘉くんは丸い目をいっそう丸くした。

「今やっと終わったんだよ」

 ぼくが笑いながら答えると、比嘉くんは「お疲れ様でした」とまた軽く頭を下げてから、ぼくは五日前に終わったよと白い歯を見せた。彼は永倉と同じ工学部に籍を置いていた。

「これから練習?」

「今終わったところなんだ」

「この暑いのによく頑張るなあ…」

 ぼくがしみじみと汗を含んだ重そうな白い空手着を眺めていると、そんなことないよと比嘉くんは照れ臭そうに顔を赤らめた。

「お盆には田舎に帰るの?」

「帰りたいけどお金がかかるからね。夏にバイトして正月に帰る予定なんだ。また泡盛とちんすこうを持って来るよ。これからシャワーと洗濯なんだ」

 丸顔の比嘉くんはニコニコして、「じゃあまたね」と持っていたバスタオルとくるくる回しながら廊下を歩いて行った。

 沖縄出身の比嘉くんは、去年の夏の初めに、「家からたくさん送って来たから良かったらどうぞ」とわざわざうちの部室に泡盛とちんすこうを持って来てくれたことがあって、その時に対応したのがぼくだった。たまたま部室にはぼくしかいなかったのだ。

 泡盛を飲んだことがなくて興味津々だったぼくは、その場ですぐに封を切った。舌にピリッと突き刺さるような辛さがかなり刺激的で強烈だった。「相当きついんだね」とぼくが目を丸くすると、「そうでしょう」と比嘉くんは面白がった。

 それ以来、廊下ですれ違ったりすると、何となく今みたいな感じで二言三言、罪のないやりとりを交わすようになっていた。ぼくはこういう関係が好きだった。


 強く照り返している西日を浴びながら廊下を歩いて青ペンキの扉を開けた時、ぼくは奇妙さと不自然さを感じて戸惑った。何かが微妙に変だった。

 何がおかしいんだろう?

 そしてその奇妙さの中で、ブラシを持った鏡子さんが一人でドラムの前に座り、『マイ・フェバリット・シングス』のエルヴィンと一緒にパシンパシンとスネアやタムタムやシンバルを叩いて遊んでいた。

「こんにちは」

 ぼくが声をかけて中に入ると、鮮やかなオレンジ色のポロシャツに黒いジーンズをはいた鏡子さんは、ちょっとだるそうにこっちに顔を向けて、「試験は終わったの?」と訊いた。そうです、と頷いたぼくがピアノの椅子に座ると、鏡子さんはおかしそうに笑った。

「え? 何ですか?」

「どうしてそれに座らないの?」

 鏡子さんは黄色い革張りのソファーをブラシで指した。ぼくはちょっとためらってから答えた。

「消極的反抗です」

 消極的反抗。

 ぼくには昔からそういう偏屈で意固地なところがあった。自分でも馬鹿みたいだと思うけれど、一度嫌だと思ったら、「嫌だ」と絶対に口には出さないくせに徹底的にそれを拒否するのだ。

 夕食の金目鯛の煮付けを食べなかった時に、ぼくは初めてこの『消極的反抗』という言葉を耳にして、そして覚えた。

 今の痩せの大食いの真澄からは想像もつかないけれど、小さな頃はひどい偏食だった真澄と違ってぼくはほとんど好き嫌いがなかった。ただ、どうしても金目鯛だけは駄目だった。

 初めて食卓のテーブルに並んだ金目鯛の煮付けを見た瞬間に、ぼくはそれを成長し過ぎた金魚だと思った。金魚は食べたくない。どうしても嫌だ。金魚ではなくて鯛だと父から教えられても、一度食べたくないと思ったら、もう絶対に嫌なのだ。

「ちゃんと金目も食べなさい」と母から何度も注意されるたびに、ぼくは「はい」と返事をして自分の目の前の金目鯛を黙殺し続けた。

「お前みたいなやり方を消極的反抗と言うんだ。よく覚えておけ」

 父はまだ子供だったぼくにそう言った。五歳前後の子供に向かって、『消極的反抗』などという言葉を使う父親もどうかと思うけれど、父は子供向けの言葉を決して使わない人だった。言葉の意味を尋ねると辞書を引けと言われた。ぼくが辞書を引くようになったきっかけは、父の放った言葉の意味を調べるためだった。

 試験が終わった解放感も手伝って、ぼくは鏡子さんにそんなことを話した。ぼくが金目鯛のことを「成長し過ぎた金魚」と言った時、鏡子さんは珍しく声をあげて笑った。

 鏡子さんが声をあげて笑うことは滅多にない。でもそういう時、鏡子さんの目元からはいつもの険が消え、その代わりに、不意に射し込んだ強い太陽の光を避けた時のような眩しげな表情が浮かんだ。ぼくはそういう時の鏡子さんの眼差しがとても好きだった。

「一人ですか?」

「そう」

「他の人間は?」

「カラオケに行った」

「カラオケ?」

「試験が終わった打ち上げですって」

「鏡子さんは行かなかったんですか?」

「カラオケはちょっとね。駅前に新しくカラオケボックスが出来たでしょう? まだみんないるだろうから、行ってみたら?」

「ぼくはいいです」

「そう」

 鏡子さんはうつむいた。ぼくは壁に掛かっているカレンダーを確認した。

「今日、水曜日ですよね」

「私もそう思って顔を出したんだけど…。ほとんどが向こうに行っちゃったわ」

 鏡子さんは左手に持ったブラシで青白い頬を何度か軽くこすった。

「鏡子さんは試験はなかったんですか?」

「自由選択が二つ。でも両方ともレポートだったから。あとは卒論だけ」

「園田教授のゼミですか?」

「そう。でも私一人しかいないの。おかしいでしょう。十年ぶりのゼミ生ですって」

「へえ…」

「四季くんは園田先生の単位は取ったの?」

「はい。まあ、一応は…」

 曖昧に頷いたぼくを見た鏡子さんはニヤニヤしていた。いい加減に授業を受けていたことを知っていたようだった。

「さっきまで永倉くんがいたのよ」

「永倉、来てたんですか?」

「これからバイトに行くからって帰った。二十分ぐらい前だったかな?」

 軽く首をかしげた鏡子さんは、半分ぐらい中身の減った足元の白ワインの瓶を手に取った。鏡子さんはワインは白しか飲まなかった。

「赤は嫌いなんですか?」

「嫌いじゃないけど…」

 鏡子さんは少し考えてから、赤はしつこいからあんまり口に合わない。でもそれは単なる趣味の問題だと言った。

「スーパーの国産の安物だけど、結構美味しいわよ。飲む?」

 無造作にぼくに瓶を差し出した鏡子さんの指先は、あの時と変わらずひどい深爪だった。

 ぼくはたった一度だけ触った鏡子さんの絹のように滑らかな指先の感触を思い出した。あのひどい二日酔いに苦しんだ春の明け方の中で感じた不安と恐怖が、ふっと体の中を横切った。ぼくの全身はひどく強張ってじっとりと汗をかき、心臓の鼓動が急に早くなった。

「どうかしたの?」

 鏡子さんは険のある目元を細めてぼくの顔を覗き込んだ。

「いえ、別に…」

 微かに震える指で白ワインの瓶を注意深く受け取ったぼくは、そこら辺にいつも転がっている学食のプラスチックのコップを探した。でもどこにも見当たらなかった。というより、転がっているコップなんて一つもなかった。

「その中のウグイス色のカップが四季くんのみたいよ」

 鏡子さんは、冷蔵庫の上に伏せて並べられている幾つものカラフルなマグカップをブラシで指した。

「それで、私はこれなんですって」

 そんなことを言いながら、鏡子さんは、国枝さんが壊したピアノの上に置いてあった赤いマグカップを手に取ってぼくに見せた。

「え?」

 冷蔵庫の上のそれぞれのカップの丸底には、色とりどりの油性マーカーで部員一人一人の名前が書いてあった。なるほどウグイス色のカップにはぼくの名前があったし、隣のオリーブグリーンのカップには『永倉』という名前がついていた。そしてご丁寧なことに、カップの下にはちゃんと綺麗なタオルまで敷いてあった。

「なんですか、これ?」

「さあ…」

 鏡子さんはまた軽く首をかしげた。ぼくは永倉の逆隣にいる『槇』と命名された紫色のカップを手に取った。

「一年生の女の子達が買って来たんですって。一個百円。安いわよね」

 ぼくは『槇さん』を元の位置に戻した。

「どうしてぼくがウグイス色なんですか?」

「カップの色がその人のイメージ・カラーだそうよ」

「イメージ・カラー?」

「そう。イメージ・カラーですって」

 鏡子さんは笑っていた。

「ぼくはウグイス色みたいですか?」

「私はそうは思わないけど」

 鏡子さんは赤いカップの中から白ワインを飲んだ。ぼくは不愉快だった。別にウグイス色が嫌なのではない。ただ自分のことを勝手に決め付けられたみたいで嫌だった。

「学食のコップはどうしたんですか?」

「知らない。きっとどこかに行っちゃったのよ。ぼくの出番はもうないなって…」

 ぼくはウグイス色のカップに白ワインを注いだけれどそこで終わってしまった。どうしても飲む気持ちにはなれなかった。いつもの使い慣れた学食のコップで飲みたかった。ぼくはウグイス色のカップをピアノの蓋の上に置いた。

「飲まないの?」

「今はいいです。すみません」

 ぼくが謝ると、別に四季くんは謝るようなことなんか何もしてないじゃない、と鏡子さんはまた赤いカップの中の白ワインを飲んだ。

 ゆっくりと動いているその白い喉元を眺めながら、一体何が奇妙に感じられるんだろう、とぼくは考えた。

「今日、槇さんは来ますか?」

「どうして?」

「これ見たら、絶対怒りますよ、槇さん」

「もう見たわよ」

「え?」

「もう見た」

「怒ったでしょう?」

「全然」

「全然?」

「怒らなかったわよ」

「嘘ですよ」

「本当よ」

 軽く肩をすくめて笑った鏡子さんは、ドラムのブラシを丁寧に指で梳かし始めた。

 部室の中は、金網がはまった西側の明り取りの窓から射し込む夕陽の名残でまだぼんやりと明るかったけれど、夜の闇がじわじわと入り込んで来ていた。うつむいて黙り込んだ鏡子さんの横顔はひどく青白かった。やっぱり何かが不自然で奇妙で変だった。

 それからぼくは鏡子さんと一緒にエブリタイム・ウィ・セイ・グッドバイを聴き、サマー・タイムを聴き、バット・ノット・フォー・ミーを聴いた。その間、鏡子さんは数本の煙草を煙に変えながら白ワインの瓶を空っぽにし、時々思い出したようにスネアやタムタムやシンバルをブラシでポンポン叩いたり、バスドラのペダルを踏んでドンドンと音を出したりしてエルヴィンと一緒に遊んでいた。

 コルトレーンは強いアルコールと同じだ。

 無防備な状態でその演奏に耳を澄ましていると、知らず知らずのうちに彼の世界に引きずり込まれ、気が付いた時にはフラフラになってしまう。

 ぼくはリュックの中から缶コーヒーを出して飲み、天井の海部俊樹の顔をした無責任男の植木等を眺め、シンディーと名付けられた金髪青目のヘアヌードポスターを眺めた。彼女が本当はなんという名前なのかぼくは知らない。ぼくがここに来る前から彼女はずっとシンディーだった。みんながそう呼んでいた。

 そしてぼんやりと黄色い革張りのソファーを眺めた。部室はかなり小奇麗になっていたけれど、ぼくにとってはその小奇麗さはどこか不自然で、でもその不自然さの中に置かれた黄色いソファーは以前ほど浮いた存在ではなくなって来ていた。少しずつ、でも確実に、それはこの空間に馴染んで来ているようだった。

 青ペンキの扉を開けた時に感じた戸惑いの原因が、何となく分かったような気がした。

 多分、鏡子さんがこの空間にいなければ、ここは不自然な自然さがまかりとおるのだ。鏡子さんがいるから不自然さが際立ってしまうのだ。奇妙なのは鏡子さんなのだ。この不自然な空間に馴染めないまま、ふわふわと彷徨っているのは、もう黄色い革張りのソファーではなくて鏡子さんの方なのだ。

 足元の床は綺麗に掃除されていた。潰れたビールの空き缶はどこにも転がっていなかったし、踏み潰された煙草の吸殻の絨毯もどこにもなかった。ぼくは息苦しくなった。

 マイ・フェイバリット・シングスに戻った時、部室は夕闇にすっかり寝食されていた。黒い人影になった鏡子さんが手を伸ばして電気のスイッチを入れると、部屋は一気に明るくなり、ぼくの目の前にチカチカした光の虫が飛んだ。

「槇くんはもうここには来ないのよ」

「え?」

「だからそんな紫色のカップなんて使わなくてもいいの」

『マイ・フェイバリット・シングス』はその名の通り、槇さんのお気に入りで、柿崎さんのお気に入りで、鏡子さんのお気に入りだった。永倉のお気に入りで、ぼくのお気に入りだった。かつてここに出入りしていた人達みんなのお気に入りだった。でもそれがそうじゃなくなってしまいそうだった。

「どういうことですか?」

 鏡子さんはドラムの椅子の破れ目に貼ってあるガムテープをむしっていた。

「槇くんはね、大学を辞めたのよ」

「えっ?」

 ぼくの周りに存在していたあらゆる物が、ぼくからすっと遠ざかった。鏡子さんのポロシャツの鮮やかなオレンジ色も、ジーンズの黒い色も、その手の中にあるカップの赤い色も、スッと色が浅くなった。

 ぼくの感覚が本当に変わって行っているのか、それとも周りの世界が本当に色味を失ってぼくから遠ざかっていっているのか、ぼくには分からなかった。ただ、ぼくに分かっていたことは、自分の体の中が気持ちの悪い違和感で満ち溢れているということだけだった。

「槇くんはブエノスアイレスに行くのよ」

 ブエノスアイレス?

 なぜ槇さんがそんな場所に行くんだろう?

 一体何しに行くんだろう?

「何しに行くんですか? 観光だったら大学を辞めたりする必要はないですよね?」

「ギターの勉強をしに行くのよ」

「ギター? ブエノスアイレスで?」

 ぼくは混乱した。何がどうなっているのかまるで分からなかった。ジャズをやるのなら普通はアメリカを選ぶのではないのだろうか?

「槇くんの神様はピアソラなのよ。名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう?」

「ピアソラって、あのタンゴのピアソラのことですか?」

「そう」

 鏡子さんは頷いた。

 でもぼくが知っているのはそこまでで、その人が一体どういう人間なのか、その人と槇さんがどういう関係があるのか、ぼくにはさっぱり分からなかった。

「別に何の関係もないのよ。槇くんが一方的に好きなだけ」

「鏡子さんがミッシェル・カミロが好きなように?」

「意味合いがまるで違うと思うわ。私と一緒にしたら槇くんが可哀想よ」

 鏡子さんはむしり取ったガムテープの切れ端を床に捨てていた。

「向こうで働きながらタンゴ・ギターの勉強をするんですって。四季くんと永倉くんによろしく伝えて欲しいって言ってたから」

 よろしく伝えて欲しいって何のことだろう?

 それはお別れということなのだろうか?

『さよなら』ということなのだろうか?

 そんなのは嫌だ。

「槇くんが四季くんのことを、『四の字』って呼ぶことがあるでしょう…。槇くんが…」

 ぼくに向けられたその後の鏡子さんの声も、色気たっぷりなマッコイのピアノの音色も、全部一緒くたになってぼくの頭の中をぐるぐると回り続けた。『マイ・フェイバリット・シングス』がぼくのお気に入りではなくなろうとしていた。


 * * *


 ぼくに出来ることは何があるだろう?

 槇さんが明後日まで今のアパートにいることを鏡子さんから聞いたぼくは、混乱している頭を何とか落ち着かせようと必死だった。

 槇さんは既に大学に退学届けを出してしまったらしい。

 家と大学と古本屋という三角地点をうろちょろしながら平々凡々と暮らしているぼくにしてみれば、槇さんの取った行動はあまりにも唐突で過激過ぎた。

 確かに今はお金さえあれば簡単に外国旅行が出来るような時代になっていたし、ぼくの両親もワシントンなどという一昔前では完璧な異国に行って生活していることを考えても、そんなに大騒ぎするようなことではないのかもしれない。でも飛行機に乗ってワシントンやブエノスアイレスに行くことは、ロケットに乗って月に行くことと同じぐらい、ぼくにとっては現実味に欠けることだった。

 ピアソラとタンゴ・ギターのこと以外、槇さんのブエノスアイレス行きについて鏡子さんは具体的なことは何も言わなかった。槇さんが鏡子さんにどんなことを話したのか、ぼくには分からない。

「そういうことになったから、後は直接槇くんに聞いてみて」

 鏡子さんはそう言ったきり口をつぐんだ。

 居間のソファーに座ってぼんやりしていると、突然電話のベルが鳴り出してぼくは飛び上がった。だから電話は嫌いだ。いつも人を驚かせる。

 うまく言葉が出て来なくて、「はい」と言った後は受話器を握ったまま何となく黙っていた。

「兄貴? ぼく」

 受話器の向こうから明るい声が聞こえて来た。真澄だった。

「もしもし、兄貴? ぼくだよ」

「真澄?」

「うん、ぼく」

 ぼくは受話器を握ったまま、まだぼんやりとしていた。蛍光燈の明かりが眩しかった。

「ねえねえ、『金閣寺』ってどんな話?」

 金閣寺。ブエノスアイレスと金閣寺。アルゼンチンと京都。全く変な組み合わせだ。ぼくは笑いたくなった。頭がおかしくなりそうだった。

「真澄は元気?」

 取りあえずそんなことを聞いてみた。

「全然元気じゃないよ」

 真澄は明るい声で答えた。元気そうだった。

 この連日の猛暑の中、受験生の真澄は高校側と契約している予備校の受験講座に毎日のように出席していて、夏休みに入っても世田谷の家に帰って来ることが出来なかった。でもそれは去年も同じで、真澄の通う高校では、受験生でもそうでなくても扱いは大して変わらないようだった。

「この間一回講座をサボったら、親父の所に連絡されちゃったんだよ」と真澄はぼやいてから、「それで『金閣寺』ってどんな話?」とまた訊いた。

「三島の金閣のこと?」

「そうそう。夏休みの課題。早く話してよ」

 小説のたぐいを一切読まない真澄は、小学校の時から、学校の読書感想文の宿題はぼくが書いたものを原稿用紙に写して提出していた。それは高校に入ってからもほとんど変わらず、ぼくは一昨年は漱石の『草枕』について書き、去年は中島敦の『山月記』について話した。

 ぼくが簡単なあらすじを話すと、真澄は、ふうん、とか、へーえ、などといいながら受話器の向こうでメモを取っているようだった。「変な奴だなあ」と主人公のことを笑っている真澄にあらすじを話しているうちに、混乱していた頭が少しずつ落ち着いて来た。

「兄貴の感想を早く話してよ」

 真澄は先を促した。少し考えてからぼくが思いついたことを口にすると、真澄はまた適当に相槌を打ちながら、「今のところは良く分かんないよ」とか、「もっと簡単に言ってよ」などとあれこれと注文をつけた。思いついたことがなくなって「ネタ切れだよ」と言うと、「もういいよ」と笑った。「受験校は決めたの?」とぼくが聞くと、「東工大にしたよ」と真澄は答えた。

「東大じゃないの? 真澄ぐらい頭が良かったら普通は東大に行くだろう?」

「兄貴まで親父と同じこと言わないでよ」

 受話器の向こうから不機嫌な声が返って来た。

「ぼくは古文を見ると気持ちが悪くなるんだよ。この間の期末テストの古文なんか二十点だったんだ。すごいでしょ」

「二十点? 真澄が?」

「そうそう、二十点。だから東大は無理」

「でも真澄ならセンター試験用にちょっと勉強すれば何とかなるだろう?」

「嫌だよ。だいたい、き、って何だよ?」

「き?」

「そうだよ。き。男ありきの『き』」

「なんだ。過去の『き』のことか」

「過去だか現在だか何だか知らないけど、何でぼくがそんなことをわざわざ勉強しなくちゃならないんだよ。やってらんないよ。嫌だよ」

 受話器の向こうの真澄は本当に怒っていた。古文の試験問題の前でしかめっ面をしている真澄を想像したぼくは、つい笑ってしまった。

「笑わないでよ」

「ごめんごめん。それで親父は納得したの?」

「してないよ。電話の向こうで何か色々言ってたけど、でも別に大丈夫だよ。親父はこっちにいないんだからね。ぼくの勝ち」

 受話器の向こうで真澄の笑い声がした。相変わらずの真澄だった。

 この弟だったら、こんな時は一体どうするだろう?

 ぼくは思い切って槇さんの話をしてみた。ぼくの話を面白そうに聞いていた真澄は、「そんなの決まってるよ」とまた笑った。

「決まってる?」

「餞別。お金だよ、お金」

「お金?」

「そうそう。お金。その人がどういうつもりなのか分かんないけど、先立つものはお金でしょ?」

「まあ、そうだけど…」

 でも正直なところ、お金を渡すという行為には抵抗があった。素直に頷けなかった。

 ぼくが黙って考え込んでいると、「行って終わりじゃないからね」と真澄は言った。

「どういうこと?」

「だからさ、テレビドラマの最終回とかで、チャラチャラした主人公が簡単に外国に行っちゃったりするでしょ?」

「そうなの?」

「そうだよ。兄貴はテレビはニュースとスポーツ番組しか見ないから分かんないだろうけど、最近はそういうのが多いんだよ」

「へえ…」

「でも現実は違うからね。向こうに行ったら行ったなりの生活があるんだよ。場所が変わったって、そういうことは変わんないと思うよ」


「行って終わりじゃないからね」

 真澄のその言葉が重かった。

『行く』ということばかりにとらわれていたぼくは、『行ったあと』のことを全然考えようとしなかった。そうだ。槇さんには『行ったあと』の生活があるんだ。ぼくは改めてそのことを考えてみた。

 電話の前から離れたぼくは、馬鹿げたことだと思いながら家中のお守りを集め、『家内安全』『学業成就』『交通安全』『安産祈願』の文字をしみじみと眺めた。はっきり言ってぼくは無神論者だったし、槇さんも神様を信じているとは思えない。

 でも、まあ、あっても邪魔にはならないだろう。ないよりはあった方がいいだろう。

 ぼくはそんなふうに考えた。

 次の日、ぼくは朝一番で口座のある自由ヶ丘の銀行に行った。父は毎月の生活費をきちんと振り込んでくれていたし、ぼくの生活も変わり栄えのないものだったから、生活費の口座には去年の四月から今年の七月までの生活費の残りと、アルバイト用の口座には去年の八月からのバイト代がほとんど手つかずで残っていた。Gパンのポケットの中の金額を確認すると、一万二千円と小銭が少しだけあった。

 ぼくはアルバイト用の口座の中の紙幣を全額引き出した。ぼくはまだ父の庇護の元にいる。人に餞別を渡せるような立場の人間ではない。でも、取りあえずは自分で稼いだお金を餞別にするのなら、それ以外のことは棚上げにしてもいいだろうと考えることにした。

 少し考えてから引き出した全額をアメリカ・ドルに替えてもらった。日本の紙幣がアメリカの紙幣に変わってしまうと、ぼくの中から『金』という意識が綺麗に消えた。

 それからコンビニで便箋と封筒を買い、風月堂に寄って十二枚入りのゴーフルを買い、そこで紅茶を飲みながら便箋を広げた。何かを書こうと思ったけれど、ペンがどうしても動かなかった。真っ白い便箋を眺めながらあれこれと文面を考えた。

 ぼくの中には槇さんにどうしても伝えなければならないことがある。でもそれがうまく言葉としてまとまらなかった。

『槇修二郎様』とぼくは便箋の一行目に書いてみた。でもその後が続かなかった。文字にしてしまうと全てが白々しいものにしかならないような気がした。

 ぼくは諦めてペンを置き、アメリカの紙幣を銀行の封筒から事務用の白い封筒に入れ直してゴーフルの入った風月堂の紙袋をぶら下げ、電車に乗って槇さんのアパートに向かった。

 自由ヶ丘のホームで電車を待っている時、軽い眩暈を覚えた。


 * * *


 槇さんのアパートのドアをノックした時、大学の時計台が正午を告げるベルを鳴らしていたけれど、室内からはウンともスンとも対応がなかった。

 もう行ってしまったのだろうか?

 ぼくはしばらくドアの前でぼんやりと立っていた。

 アパートの前には小さな公園があったけれど、暑さのせいで人影なんかどこにもなかった。遠くで鳴った車のクラクションの音を聞いてから、周囲の静寂が急に嫌になった。何でもいいから音が欲しかった。何かから置き去りにされ、取り残されたような気がした。

 恐る恐るドアのノブを回してみると、何の抵抗もなくドアが開いたので、「こんにちは」と言いながらぼくは中に入った。「こんにちは」と言った自分の声が赤の他人のようだった。

 窓が開け放たれた1LDKの部屋は綺麗に掃除され、ピカピカに磨かれたフローリングの床に真夏の強い陽射しが反射していた。そこには人が生活するために必要なものが一切ない代わりに、大きな二つの紙袋と使い古されたスーツケースと見慣れた槇さんのギターケースがポツンと置かれていた。ぼくはその周りをうろうろと歩いた。

 実際にそれを見るまで、ぼくは槇さんのブエノスアイレス行きを信じていなかった。これは久し振りの悪意たっぷりの担ぎや騙しだと心の片隅で思っていた。そう思いたかった。

 それから三十分ぐらい、ぼくは主人不在の部屋の中でぼんやりと立っていたり、うろうろと歩き回ったりしていたけれど、ふと思いついてリュックの中から便箋を出した。そしてそこに『餞別』とだけ書き、それをたたんで四つのお守りと一緒にアメリカ紙幣の入った封筒に入れ、槇さんのギターケースの中の内ポケットの中にしまった。

 その作業を終えた時、ぼくの白いポロシャツはじっとりと汗ばんでいた。

 出過ぎた奴だ。偽善的な奴だ。

 これを見つけた槇さんは腹を立てるかもしれない。でもそう思われたら思われたで仕方がない、とぼくは諦めた。


 ドアのノブが回る音のあとにコンビニの袋をぶら下げて入って来た槇さんは、部屋の真ん中に立っているぼくを見て、「あれ、四の字じゃないか」と綺麗な顔をほころばせた。

 槇さんに逢ったらまず何を言えばいいのだろう?

 この場所に来るまで何度もそのことを考えて落ち着かなかったけれど、実際に槇さんと顔を合わせたぼくが最初に口にしたことは、「こんにちは」という何とも平和でまぬけな挨拶の言葉だった。

「鍵がかかってなかったから…。勝手に入ってす

 みません」

「別に構わないよ。どうしたんだ?」

「これ、一緒に食べようと思って…」

 ぼくは風月堂の紙袋を槇さんに見せた。


「本当にブエノスアイレスに行くんですか?」

 槇さんと二人でゴーフルを食べている間、ぼくはずっと迷っていた。

 いろいろと訊きたいことはあったけれど、どこまで訊いていいものなのか、自分の中に明確な線を引くことが出来なかった。ぼくがどんなに気をつけたとしても、問い掛けるという行為それ自体が、結果的に槇さんの内面に土足で踏み込むことになってしまうのではないか。それがぼくには恐かった。ぼくはやっぱり槇さんに嫌われたくなかった。

 何も訊かずに、「気をつけて行って来て下さい」「向こうに着いたら連絡して下さい」ぐらいの方がいいのかもしれない。ぼくはそんなふうにも考えたけれど、結局はそんなことを口にしてしまった。

「ずいぶん前から考えてたことだったんだ。最近になってやっと決心がついたんだよ。周りの連中と一緒に俺も就職活動に専念しなくちゃいけないんだ、って頭では分かっていても、どうしてもそういう気持ちになれなかったんだ」

 ぼくの隣に座った槇さんは、壁に寄り掛かって長い足を伸ばした。

「二年の夏に、一ヶ月ほど一人で南米を回ったんだよ。やっぱりブエノスアイレスは良かった」

「どこが良かったんですか?」

「美人が多かった」

 槇さんは笑った。

「へえ…」

 ぼくも笑った。

「小学生の時、爺さまの家に遊びに行って、そこで初めてピアソラのレコードを聴いたんだ。俺の家が古い和菓子屋だってことは知ってるよな?」

 去年の夏に食べたあの落雁は美味しかったとぼくが言うと、槇さんはその綺麗な顔をほころばせて天井を仰いだ。

「俺の兄貴で五代目になる。伝統と格式と慣習で出来上がった古くて面倒臭い家だ。俺の親父の親父、つまり俺の父方の爺さまっていうのが、ちょっと変わった人でね。そういう古い家のあり方を全く受け付けない人で、稼業を継がずにさっさと家を出て美大に進んだ。でも美大もすぐに辞めて放浪生活を始めた。それであっちこっちに女を作って、一人だけ出来た子供が俺の親父だったんだよ。爺さまは赤ん坊だった俺の親父と婆さまだけを家に寄越して、自分は戻ろうとしなかった。爺さまの親父、つまり俺の曾爺さまっていうのが、家父長制度の権化みたいな昔気質の頑固一徹な職人でね。乳飲み子を連れた婆さまを見て激怒した曾爺さまは、婆さまを問い詰めて息子の居場所を聞き出した。そしてそこに乗り込んで無理矢理爺さまを家に連れ戻そうとした」

「おじいさんは何をしてたんですか?」

「あっちこっちにいる女の所を渡り歩いていたらしい。自分を連れ戻しに来た父親に向かって、『跡取り息子を作ったんだから、俺の義務は果たしたよ。文句はないだろう。後はそっちで煮るなり焼くなり好きにやってくれ』と居直った。それで父親は息子と縁を切って、自分の孫を徹底的に跡取として鍛え上げたのさ。それが俺の親父だ。曾爺さまにとって幸いだったのは、親父が曾爺さまに見た目も性格も良く似ていたことだ。親父は曾爺さまに従順だった。俺の兄貴も親父にそっくりだ。それで御家は安泰で、今に到るというわけだ。曾爺さまと爺さまは、とにかく折り合いが悪かった。俺と親父の関係が最悪だったようにね」

 平凡なサラリーマン家庭に育ったぼくにとって、槇さんの形のいい唇から紡ぎ出される言葉は、とても不思議で、どこか遠い遠い国の昔々の出来事のような気がした。

『昔々あるところに、とても見目麗しい一人の若者がいました…』

 そんな感じで始まるおとぎ話を子供の頃に読んだ気がした。でもそのおとぎ話は作り物ではなくて、現実にぼくの目の前にいる槇さんと繋がっているものだった。

「昔から親父は俺に対して必要以上に厳しかった。俺のやることなすことを、片っ端から否定しまくった。何から何まで気に入らなかったようだ。俺は小さな頃から見た目も性格も爺さまそっくりだったらしい」

「そうなんですか?」

「実際そうなんだ。爺さまの若い頃の写真を見た時、俺はちょっと気持ち悪くなったよ。どっかで見たことがある奴だなと思ったら俺なんだからな。隔世遺伝って本当にあるんだよ」

「へえ…」

「多分、親父は自分の息子が自分の父親みたいになるんじゃないか、って心配だったんだろうな。でも子供の頃の俺はそんなことは分からない。だから反発しまくったよ。近親憎悪って感情は本当にあるんだ。小学校に上がってしばらくしてから、古くからいる従業員が爺さまのことを話しているのを偶然小耳にはさんだ。爺さまは死んだって聞かされていたから俺は驚いたよ。親父に内緒でその従業員に爺さまのことを聞き出すと、爺さまは隣町に住んでいた。それで俺はさっそく爺さまの所に行ってみた」

「逢ったんですか?」

「もちろん逢ったよ。俺が言うのもなんだけど、これがまたいい男だった。女も引っ掛かるさ」

 ぼくは頷いた。それは目の前の槇さんを見れば誰でも簡単に納得するだろう。

「一緒に暮らしていたひとが資産家の娘さんで、骨董の方の商才があってね。彼女に食わせてもらいながら、爺さまは絵筆を持ったり彫刻刀を握ったりしてのんびり暮らしていた。いきなり訪ねて行った俺を見るなり、爺さまはひどく喜んだ。『良く来た良く来た。さあ、上がれ上がれ』と歓待してくれた。俺は驚いたよ。俺を見てそんなに喜んでくれた人は今までにいなかったからね。物心がついた時から親父は俺に冷たかったし、お袋も兄貴も親父に遠慮して俺とは距離を置いていた。だから爺さまにも、『何しに来たんだ』って言われて追い返されるんじゃないかって、内心ビクビクものだった。ところが爺さまは俺がいつ遊びに行っても喜んでくれた。『さあ、今日は何をして遊ぶ? 将棋か? 競馬か? 酒か? 女か? それとも映画を観に行くか? どうする修の字?』って俺に聞くんだ。俺が迷っていると、『人生は短いんだ。いっそのこと全部一緒にやってみようか?』って張り切るんだ。それで俺が『そうしよう』って言うと、爺さまはひどく困った顔をして、『やっぱり全部は無理だよ、修の字』って悲しそうにうなだれるんだ」

「あはは…」

 ぼくは声を出して笑った。槇さんも苦笑いしていた。

「俺は本当に嬉しかった。俺は三日と空けずに爺さまの所に行くようになった。俺が爺さまの所に出入りしていることを知った親父は、ますます俺と距離を置くようになった。まあ、兄貴がいたし仕事も忙しいし、構ってる暇もなかったんだろう。中学に入る頃になると、俺はほとんど爺さまの元で生活するようになって、あまり家には寄り付かなくなった。爺さまはそういう俺に酒や女や絵や彫刻や楽器の手ほどきをした。とにかく本物志向で基本を大切にする人だった。そういう所はやっぱり曾爺さまの職人気質を受け継いでたんだろうな。ピアソラのレコードを聴いた俺がギターをやりたいと言ったら、どういうわけかひどく喜んだ。そしてその日のうちにギターを買いに行こうと俺を街に連れ出し、タンゴもジャズもロックもポップスも、とにかくどんなジャンルだろうと基本が大切だからと、次の日にはプロのスペイン人のクラシック・ギターの教師を見つけて来た。そういう方面にはやたらと顔が広くてね」

 ぼくは頷いた。槇さんは煙草に火をつけて煙を大きく吸い込んだ。

「俺の原点はその遊び人の爺さまなんだよ。極道モノと家族から忌み嫌われた人だったけど、俺はあの人が好きだった」

「おじいさんはまだご健在なんですか?」

「俺が大学二年の春に死んだよ」

「…すみません」

「別に四の字が謝る必要なんかないさ。人間、いつかは死ぬんだ。あの人は幸せだったと思うよ。好きなことをして好きなように生きたんだからね」

 確かに好きなことをして好きなように生きたことも幸せなことだっただろう。でも、好きなことをして好きなように生きただけでは、多分、本当に幸せだったとは言えない。

『死はそれが何処で人に襲おうと、それ自体にたいした意味はないと思います。…むしろ、問われるべきは、人が如何なる内実を持った人間関係の中で死んでゆくのか、あるいは死に得るのかということです』

 ぼくは高校に入学した年に、かつて、ひどいことに巻き込まれて死んでしまった一人の大学生の日記が、本として出版されたものを読んだことがある。その中にあった一節をぼくは思い出した。

 恐らく、槇さんのおじいさんは、自分にそっくりな孫の中に心の琴線に触れる何かを見たのだろう。

 それが何かはぼくには分からない。でもそこで、槇さんのおじいさんは、二人にしか分からない確かな関係をじっくりと紡ぎ、自身の中にある蓄積された何かを孫の中に注ぎ入れて向こう岸へと川を渡ったのだろう。

 そういう関係を築けたことは、生涯放蕩を続けた男にとっては何よりも幸せなことだったのではないか、とぼくは思った。

「それに俺は、もう一度、どうしてもあの充足感が欲しいんだ」

 槇さんはそう言ってぼくを見た。

「充足感?」

「そうだ。今年の春先のセッションの時に感じた充足感だよ」

「ああ…」

 ぼくは曖昧に頷いた。何と言っていいのか分からなかった。ぼくの中ではあの出来事についての整理が今でも出来ていなかった。

 でも、槇さんは槇さんでやっぱりあの時に何か感じるものがあって、槇さんにとってはそれが充足感という言葉で表せるものだったのだ。

「多分、あれは、国枝さんがいたから味わうことが出来たんだ」

「やっぱりそうなのかな?」

 ぼくは呟いた。

「あの人はどこか何かが特別なんだ。でもね、俺は自分自身であの充足感を生み出したいんだよ。四の字は俺がやろうとしていることを、馬鹿げたことだと思うかい?」

 ぼくは黙って首を横に振った。

 ハッピー・エンドで終わらないおとぎ話はたくさんある。でもぼくはこのおとぎ話がハッピー・エンドで終わると信じたかった。王子様は必ず最後にはお姫様を手に入れる。自分の望んだものを手に入れるのだ。

 大学の時計台が三時を告げるベルを鳴らしていた。槇さんは立ち上がって流しの水道で短くなった煙草を消したあと、コンビニの袋からコーラを出してぼくに渡してくれた。

 汗をかいている赤い缶を受け取った時、ぼくはあの大学祭の最終日の夜の出来事を思い出した。

「言葉の方は大丈夫なんですか?」

「俺の専攻は一応スペイン語だったんだけどね。忘れちゃったのかい? 四季くん?」

「忘れてはないですけど…」

 ぼくはコーラを飲んだ。隣の床に腰を降ろした槇さんは、パリパリと音を立ててゴーフルを食べた。その音を聞いていると『ジョンとヨーコ』のことを思い出した。

 それはつい数ヶ月前の出来事なのに、ずいぶん遠い昔に起きたことみたいだった。ぼくはあの時の槇さんのひどく慌てた顔を思い出した。

「日常会話程度なら、まあ何とかなるよ」

 そしてぼくにはまるで分からないスペイン語を綺麗な発音で喋った。ぼくが何とか聞き取れたのは一番最後に槇さんが口にした『テ・キエロ』という短いフレーズだけだった。

「テ・キエロ?」

「そうそう。四の字は耳がいいんだな」

「そんなことないですよ」

 人から褒められたことがほとんどなかったぼくは、照れ臭かった。

「一度でちゃんと聴き取れるっていうのはいい耳を持っている証拠だよ。耳だけだったらすぐにでも調律師になれるよ」

 槇さんはこっちを見て笑っていた。綺麗で優しい笑顔だった。

「最後のスペイン語はどういう意味なんですか? 『こんにちは』じゃないですよね?」

「『あなたが好きです。私を好きになって。お願いよ』っていう意味だよ」

「え?」

「愛の告白。可愛い四季くんに対する俺の切ない気持ち」

 槇さんはぼくを見てニヤニヤした。

「嘘だ」

「嘘じゃないよ。俺を信じなさい。信じるものは救われる。迷える子羊。南無阿弥陀仏」

 槇さんは真面目な顔で合掌した。嘘だと思った。

「それにね、ここにいたって言葉が通じるとは限らないさ」

 槇さんは煙草に火をつけてぼくを見た。

「どういう意味ですか?」

「四の字の言った言葉はただの文字のことだよ。文字と言葉は違う。文字は表記と発音と意味とそれに必要な法則を覚えれば、取りあえずは何とかなるんだ。それから先は慣れだと思うよ。そんなに心配することはない」

「じゃあ、言葉ってなんですか?」

 良く分からなかった。

 文字も言葉も同じものではないのだろうか? どこが違うというのだろう? 

 ぼくはそんなことをこれまで考えたことがなかった。槇さんはしばらく黙って煙草を吸っていた。

「言葉はね、それを使う人間が問題なんだ。同じ言葉を使っていても、それを使う人間の中に同じ基準がないと意味は通じない。ただの悪戯書きや雑音になるんだよ」

 ぼくは槇さんの言葉の意味を考えてみた。

「それは例えば、コード記号の意味を知っている人間が『C』を見ればドミソになるけれど、知らない人間が見たら『C』のままで何の意味も持たない、みたいなことですか?」

 ぼくがそう言うと、槇さんはコンビニの袋からコーラを出して飲みながらちょっと考え込んでいた。

「『敵討ち』について、四の字はどう思う?」

「かたきうち?」

 驚いたぼくを見て、槇さんは笑った。

「そう。江戸の敵を長崎で討つ『敵討ち』。赤穂浪士の『敵討ち』。もちろん例えば、の話だよ」

 ぼくは少し考えてから口を開いた。

「やっぱり良くないと思いますけど…」

「けど」

「まあ、気持ちとしては分からなくはないですよ。結構好きなのかもしれません。忠臣蔵を見ると、良くやった、えらい、って思うから…。槇さんはどうなんですか? 敵討ち」

「俺も四の字と同じようなもんだ。良くはないけど気持ちは分かる。そこに迷いがあることは分かるだろう?」

「そうですね」

「でも江戸時代の人間には迷いがない。『敵討ち』という言葉の中に内包されている意味と行為が、それを使う人間達の中で一致していて、敵を討てばお見事って世間は納得するんだ。上の思惑なんて関係ない。もちろん大義名分は必要だし、敵を討った後は自分達も同じように死ななければならない。そうせざるを得ない社会だったんだよ。でもそれで彼らは納得していたし、纏まっていたんだ」

「そうですね」

「『敵討ち』という言葉の根底には、共通する同じ基準が横たわっているんだよ。その時代はある共通する基準で一つに纏まっているんだ。それは『敵討ち』という言葉に限ったことじゃないんだよ」

「それが今はないってことですか?」

「そうだね。もちろん全部とは言わないよ。俺の爺さまの世代には戦争と天皇っていう二つの大きな共通感覚があると思うからね。それが親父の世代になるとかなり怪しくなってくる。そこから下の世代になると多分駄目だな。少なくとも自分の属しているこの世代の中には、『我々』という共通感覚はもう存在していないような気がする。そこにあるのはそれが存在しているという心地良い錯覚とか幻想なんだ」

「ブエノスアイレスにはそれがあったんですか?」

「さあ…、どうかな…。仮に今はあったとしても、遅かれ早かれ、多分、いずれはなくなる」

 槇さんは短くなった煙草をコーラの缶の中に落とした。ジュッと音がして飲み口から煙が細く上がった。

「あるいは、俺が、実際に、あの場所で見たり聞いたりしたことも、ひょっとしたら、この場所で感じる以上に、心地良い錯覚や幻想だったのかもしれない…」

 ぼくはブエノスアイレスを知らない。知っているのは、それがアルゼンチンという国の首都だということだけだ。

「ただ、あそこの国の基本はタンゴなんだ。もちろんジャズやクラシックやロックやポップスもあるし、それと融合もする。でも突き詰めて行くと最後は必ずタンゴに行き着くんだ。自国の文化が日常の生活の中に深く根付いていて、それが崩れていないような印象が強かったんだよ。異国の文化を受け容れても、余計なものまでは取り入れない。最後の一線は越えさせない。なぜだろう? それが意識的なものなのか、あるいはそうじゃないのか、俺には分からない。その民族固有の資質とか地理的条件とか、そこに到るまでの歴史とか、恐らくそういうものと深く関わっているんだろうね。それぐらいのことしか、今の俺には分からない。ただ、あそこには、本物を本物として大切にする節度があるような気がした。俺はそれが羨ましくて仕方がなかった。俺もそれが欲しいと思ったし、そういう場所で生活したいと思った」

「槇さんにとって、ここはそういう場所じゃないんですか?」

「そうだね。少なくとも今は…」

 槇さんは軽く溜息をついた。

「人間は生まれて来る時代は選べない。でも場所や環境は、月に住みたいとか、バッキンガム宮殿やホワイト・ハウスで暮らしたいとか、そういう無理なことさえ望まなければ、ある程度までは自分次第で何とか出来るんだよ。俺にとってはそれがたまたまブエノスアイレスだったのさ」

 恐らく槇さんはその場所で、槇さんにしか感じることが出来ない何かを見つけたんだろう。ぼくは槇さんの端整な横顔を眺めた。

「俺にはきちんとした背骨がないんだ」

「背骨?」

「そう、背骨。自分が歩いて行くために必要な背骨。人と向き合う時に必要な背骨。それがないのに我が強過ぎるんだ」

 そんなことはない、とぼくは思った。

 ぼくが今まで出逢った人間の中で、槇さんのように自分の価値基準を明確に持っている人はいなかった。ぼくは槇さんにそう言った。

「嫌だ嫌だと拒絶することも、そうだそうだと迎合することも、知らぬ存ぜぬを決め込むことも、一見まるで別々のように見えても実は同じことなんだよ。根っこがないことには変わりないんだからね。だからどれかを選んだとしても、実は選んだと錯覚しているだけで、本当に選んだことにはならない。自分が消耗して行くだけだ。だいたい選ぶという行為自体が違うような気がする。一体何を選ぶというんだろう? 実は選ぶものなんか何もないんだよ。大切なのは選ぶことじゃなくて作ることだ。そしてどうしてそれが嫌なのかということを説明できるかどうか、拒絶しても押し寄せてくるものに飲み込まれずに済ますにはどうすればいいのか、多分そこなんだ。もうこの場所には共通する価値基準なんて存在しない。安住できる場所はないんだよ。個人がそれぞれ強固な自分の背骨を持っていないと、人ときちんと対峙することは出来ない。それがないとどうなるか? 周囲の環境が変わったら、自分の意志とは無関係に右向け右でどこまでも流されっ放しになる。そういうのが性に合っている人間もいるだろう。でも俺はそういうのは嫌なんだ。我を押し通すには背骨が必要なんだよ。俺の言っていることは分かるか?」

 ぼくは曖昧にしか頷けなかった。

 ぼくに向けられた槇さんの言葉の本当の意味を正確に理解することが出来たなんて、とてもじゃないけれど言えない。一人の人間が考えに考え抜いたことを受け止めるには、ぼくはあまりにも準備不足で不用意過ぎた。

「背骨のない軟体動物が、これでいいのか、これでいいのか、と考えながら、いつまでたっても止まらない金ぴかのメッキで塗りたくられたメリーゴーランドに乗り続けて来たんだ。これから俺はこの場所で何をするというんだろう。俺がこの場所ですることなんか果たしてあるのだろうか。そんなふうに思う一方で、贅沢を言ってはいけない、これでいいんだ、このまま行くしかないと思った時もあった。でもやっぱり駄目だった。このまま行くには先が長過ぎる。俺には耐えられない」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう? 一体何がいけなかったのだろう?

「別にブエノスアイレスに行ったって、俺が背骨のない軟体動物だってことは変わらないと思うよ。日本人だということからも逃げられない。でも止まらないメリーゴーランドから飛び下りることぐらいは出来るんじゃないかって思ったんだ。もちろん恐かったけどね」

 槇さんの言葉を聞いているうちに、ぼくはひどく悲しくなった。

 綺麗に掃除された空っぽの部屋はとても清潔で、ピカピカに磨かれたフローリングに床に反射する夏の西日を眺めていると、自分がどこにいるのか分からなくなった。

「まあ、いずれにしても、俺が物理的にここから逃げ出すことには変わりないさ。俺が言ったことは、単なる言い訳だよ」

「言い訳?」

「そう。言い訳だ。都合のいい言い訳」

 槇さんは笑った。

 止まらないメリーゴーランドから飛び下りたあと、どういう生活をしようと思っているのか、どうやってギターの勉強をしようと思っているのか、というような具体的なことを槇さんは何も言わなかった。飛び下りることで精一杯だったのかもしれない。

 槇さんがぼくに対して向けてくれた言葉を、言い訳だなんてぼくは決して思わない。それは真摯で真面目な言葉だった。

 ぼくは黙った。もう何も訊けないと思った。ぼくは槇さんが心の奥底にしまっていた一番大切なものを明るみに引きずり出してしまった。槇さんは誠実過ぎた。そしてぼくは無神経過ぎた。

 ふと目を落とすと、傍らに槇さんの指があった。それは細くて長くて、端整な槇さんの顔立ちと同じようにとても綺麗な指だった。

 ぼくは手を伸ばしてちょっとだけその指を触った。槇さんは少し驚いたような顔をしてぼくを見た。ぼくだって驚いた。そんなことをするつもりなんてなかった。

「すみません」

 ぼくは謝った。

「何となく触っちゃいました。別に変な意味じゃありません」

 ぼくがそう言うと、槇さんは黙って笑っていた。


「ちょっとそこまで買い物に出るから」

 そんなことを口にした槇さんは、スーツケースとギターケースの隣にあった大きな二つの紙袋を持って空っぽの部屋を出た。

 ぼくは大きな二つの紙袋をぶら下げた槇さんと一緒に、駅までの道をゆっくりと歩いた。でも体がふわふわと浮き上がっている感じで歩いているという感覚が希薄だった。

 夏の西日が綺麗に整備されたアスファルトの上に反射して眩しくて仕方なかった。

 ぼくの体は汗ばんでいたけれど暑さはまるで感じなかった。歩いている間、ぼくは槇さんの履き古した白いデッキシューズばかりを見ていた。ぼくが歩く速度を落とすと、隣で歩いていた槇さんも同じように歩調を緩めた。

 何度も口から飛び出しそうな言葉をぼくは必死で飲み込んだ。そしてぼくの中にある、槇さんに伝えなければならないことはどうしてもうまく言葉にならなかった。

 信号待ちをしている間、槇さんの足元に潰れたコーヒーの空き缶が転がっていた。

 大学祭の準備に追われていた去年の秋に、槇さんが買ってくれた缶コーヒーの味を思い出した。あの時、槇さんは何も言わずにぼくと加嶋の分まで缶コーヒーを買って来た。

 買い物なんて嘘だ。

 このひとはいつもそうだった。今もそうだ。

 ひどい照れ屋で繊細で、傷つきやすくて優しすぎて、そういうふうにしか自分の柔らかい気持ちを表に出せないのだ。

 なんて不器用なひとなんだろう。

 駅に着くと、槇さんは入場券を買ってぼくをホームまで送ってくれた。立場が全く逆だった。本当はぼくが槇さんを空港まで見送りに行く立場なのに。ぼくは情けなかった。

 電車を待っている間に、槇さんはぶら下げていた大きな二つの紙袋を「良かったらあげるよ」とぼくに渡してくれた。紙袋は両方ともかなり重かった。「なんですか?」とぼくが聞くと、槇さんは黙って笑っていた。

「いつ帰って来るんですか?」

「まだ俺は向こうに行ってないんだよ。少し気が早いんじゃないのかい? 四季くん」

 ぼくが黙り込むと、「帰って来るよ」と槇さんはその綺麗な顔を崩した。

「本当は行かないで欲しいんですけど…」

 目の前の広い肩幅を見ているうちに、ぼくは絶対に言うまいと固く心に決めていたことをとうとう口に出してしまった。でも、本当に伝えたいことは最後まで言葉にならなかった。

「そんなに可愛いことを言うんじゃないよ。四の字」

 槇さんはぼくの頭をポンポンと軽く叩いた。そして、落ち着いたら連絡するよ、と笑った。ぼくは槇さんの綺麗な笑顔に頷くのが精一杯だった。結局、最後まで何も言えなかった。


『さよならを言うたびに、私は一瞬、死んでいる』


 最初にこの言葉を目にした時、ぼくはその意味が良く分からなかった。『私は一瞬、死んでいる』という状態がどういう状態なのか、いくら考えてみても分からなかった。

『さよなら』という言葉が抱えている意味を本当に理解するには、それがどんな形であれ、『さよなら』を自分で実際に経験してみないと何も分からない。

 ひとと別れることは本当に難しい。

 特にそれが自分にとって大切なひとであればあるほど難しい。何をどうすればいいのか分からない。

 最後まで何も言えず何も出来ず、沈黙の中で別れを迎えてしまうことが、『さよなら』を言うことなのかもしれない。その何も出来ない空白の時間が、『私は一瞬、死んでいる』状態なのかもしれない。

 もしそれがそうであるならば、人間とは何と無力な存在なのだろう。

 かつてマーロウにそう言わせたチャンドラーは、彼の永遠の死を迎えるまでに、一体何回の『さよなら』を言ったのだろうか?

 コルトレーンは彼の大切な誰かに『さよなら』を言うかわりに楽器を手にしたのだろうか?

 ぼくはこれから何回の『さよなら』を言うのだろう?

 あとどれぐらいの『一瞬の死』を迎えるのだろう?


『槇くんが四季くんのことを『四の字』って呼ぶことがあるでしょう? 槇くんがあの呼び方をする人は滅多にいないのよ。知ってた?』

 知らなかった。

 気が向いた時や面倒臭いことを押し付ける時にそういう呼び方をするのだろうと思っていた。混乱していたぼくは、鏡子さんのその言葉が信じられなかった。

『よっぽどその相手のことが好きじゃないと、槇くんはそう呼ばないのよ』

 ぼくは今まで他人から好かれた記憶がほとんどない。あれこれと他人から構われた記憶がほとんどない。家から一歩外に出ると、いつもぼくは一人だった。

 だから、槇さんがぼくにろくでもないことを言ったりやったりするのも単なる暇潰しに過ぎないと思っていた。

 ぼくは物事の表面しか見ていなかった。何にも分かっていなかった。

「優しくしてくれてありがとうございました」

 ぼくが槇さんに本当に伝えたかったことはたったそれだけのことだ。何も難しく考える必要なんかなかった。

 どうしてぼくは槇さんにその言葉を言えなかったんだろう。

 電車の窓から射し込む夕陽と槇さんの綺麗な笑顔が重なった。ちょっとだけ触った槇さんの綺麗な指の感触が蘇った。ぼくの頭をポンポンと叩いた槇さんの手の重さがまだ頭の上に残っていた。

「そんなに可愛いことを言うんじゃないよ、四の字」

 槇さんの声が聞こえたような気がした。

 ぼくは声をあげて泣きたかった。



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