一九八九年 冬
現実に違和感を抱き続けて生きてきた「ぼく」が、ようやく出逢った愛する人たち。煌くような大学生活の中にじわじわと押し寄せる時代の影。
これからどこに行けばいいのだろう?
どうやって生きていけばいいのだろう?
これは「黄昏の道を歩いているすべての人たち」に贈る青春小説です。
自由ヶ丘の古本屋のバイトは、初めは夏休みいっぱいという話だったけれど、奥さんの具合がなかなか快方に向かわず、親爺さんも何かと忙しそうだった。
「都合がつく時で構わないから、このまま続けて来てくれないか?」
八月の終わりに親爺さんから言われた時、ぼくは二つ返事で「お願いします」と答えた。
確かに時給は安かったけれど、仕事はあらかた覚えてしまったし、本は読み放題だし、好きな時に好きなジャズが聴けるし、ぼくとしてはむしろこっちから「このまま使ってもらえませんか?」と頼むつもりでいたのだ。
貸し本屋時代の古い漫画もまだ読んでいないものが山ほど残っていた。ぼくはそれも読みたかったし、それよりも何よりも、知識の吹き溜まりのような古本屋の雰囲気が好きだった。
店にはいろんな人が入って来て、本を買い、あるいは売り、物色し、立ち読みし、そして出て行った。彼らはぼくの生活にはまるで無関係な人達だったけれど、ぼくはフラリと店に入って来る人達のことが好きだった。次々と新しい本が新刊本を扱う店に並ぶ中で、誰かが読み潰した本を買うような人達のことが好きだった。中でも、「カバーをかけて」という人と、「枝折りをくれ」という人は特に好きだった。
ぼくは本を読む時に、表紙を外気にさらしたまま読むことはない。必ずカバーをつけて読む。カバーをつけずに表紙をさらして本を読むことは、素っ裸で人込みの中を歩くのと同じぐらい恥ずかしいような気がして仕方がない。それから斜め読みとか速読のたぐいは一切しない。最初のページから最後のページまで、一行一行、一字一句、必ずきっちりと読む。教科書やテキストのように、線を引いたり書き込みをすることはしない。ドッグ・イヤーもやらない。必ず枝折りを使う。好きな作家やどうしても読みたい本は初版本を買う。そして読み終わった本はカバーを外して本棚にしまう。
そのことについて、「どうして?」と聞かれても、「何となく」とか「ずっとそうして来たから」としか答えようがない。あえて言えば、ぼくの一番身近な読書人がそういう読書をしていて、ぼくは物心が着いた時から、好むと好まざるとにかかわらず、それを無意識のうちに眼にして来た。父からそうしろ、と言われた記憶は一切ない。それが当たり前のことだった。
そういうスタイルを持った父の遺伝子が、最初からぼくの細胞の中に組み込まれていたような気がする。
百人いたら百通りの読書スタイルがあるように、ぼくにはぼくなりの読書の仕方がある。別に他の人にもそうして欲しいなどとは思わない。人は人だ。ただ、自分と似たような感じで本を読む人がいるんだな、と思うと、ぼくはちょっと恥ずかしいような安心するような、そんな気分になる。
ぼくのこの時期の大学生活は、出席が必要な授業と自分が面白いと思った授業に出ることと、水曜日の午後と授業と授業の空き時間や昼休みに部室に顔を出すことと、この古本屋のバイトで時間が過ぎて行った。たまにバイトの帰りに武蔵野館に寄ってレイトショーを観た。機関銃を持ったフェイ・ダナウェイの脚はとても綺麗だったけれど、少しおでこが出ているロミー・シュナイダーがやっぱり一番魅力的だった。
星の数ほどいる女優の中で、国籍に関係なく、ぼくは昔からロミー・シュナイダーが一番好きだった。今でもそうだ。変わらない。銀幕の中で、成金の中年男と若い漫画家の男との間でふらふら揺れているロミー・シュナイダーに初めて逢った時、ぼくは一目で彼女のことが好きになってしまった。「どうして?」と理由を聞かれても、うまく答えられない。好きになるのに理由なんかない。好きなものは好きなのだ。
ぼくには昔からそういう所がある。
それが同性だろうと異性であろうと、その人を見た時に、あ、好きだな、嫌だな、と自分の中で瞬時に色分けがなされて、そういう感じで好きだな、と思った人を嫌いになったことはこれまでにはない。その人がぼくにどんなに理不尽な態度を取ったりしても、ほとんど腹が立たないし、腹が立ってもすぐ忘れてしまう。その人がどんなに悪いことをしたとしても、つい庇いたくなってしまう。その人が何をしても無条件で許してしまうのだ。そういう意味で『好き』な人が言うことは、それがどんなに馬鹿げたことでも信じたい。
例えば、「昨日、パンダが空を飛んでたよ」と言われても、「へえ、そうなんだ」とぼくは答えるだろう。もちろんパンダが空を飛ぶなんてことは、現実にはあり得ないことぐらいは分かっているけれど、「パンダが空を飛んでいた」ということを言いたい気分なんだろうなと思うのだ。ぼくにそう言ったその人の気持ちを受け容れたいだけだ。
極端な話、「事情があって人を殺しちゃったんだ。でもぼくが悪いんじゃないんだよ。どうしても警察に捕まりたくないんだ。一緒に死体を隠すのを手伝って。それで後は一緒に知らん顔をしてアリバイを作って」と、例えば真澄から言われたら、ぼくはもちろん悩むと思う。でも真澄がどうしてもそれを望めば、ぼくはきっと、『死なば諸共地獄の果てまで』と覚悟を決めて真澄が望む通りにするだろう。そして警察がぼくの所に来て、真澄のアリバイを確かめたら、「その時間はぼくと一緒にいましたよ」としらばっくれるに違いない。それは恐らくあらゆる意味で、不自然でおかしくて間違っていることなのだろう。自分でも分かる。例えば、の話だ。
でも、それは真澄に限らず、ぼくがそう感じる人達に対してもそうだ。
ただ、ぼくがそう想っているということが、その相手に対してきちんと伝わっているかどうかということに関しては、はっきり言って自信がない。ぼくは自分の感情をしっかりと相手に伝えるという、その正しい方法を知らない。良かれと思ってしていることが、実は相手にとっては本当はとても不愉快なことだったり、嫌悪の念を抱くことだったりするかもしれないという不安が、ぼくの中にはいつもある。だからつい腰が引けてしまうことが多い。
ただ少なくとも、ぼくにとって、人を『好き』になるということは、そういうことだ。
それ以外は、語学や必修科目の顔馴染のクラスメートから誘われた飲み会や合コンにたまに参加して、そこで知り合った条件に合った女の子と適当に遊んだりするぐらいだった。
女の子と事を起こすに当たり、ぼくは自分の中に一つだけ作った鉄の規律を絶対に破らないようにしようと固く心に決めた。それは彼氏のいない女の子とは絶対に寝ない、ということだ。
あの、初体験の時の『夏の女の子』みたいなわずらわしい思いをすることは、もう絶対に嫌だった。二度とごめんだった。そして彼氏がいても飲み会や合コンに来る女の子、というのは結構いた。成り行きやその場の雰囲気でそうなることもあったし、そうならないこともあった。でも、ぼくにとっては別にどっちでも良かった。「彼女はいるの?」と、事が終わった後でそう聞いてくる女の子もいたけれど、ぼくは適当に「いるよ」と答えておいた。
飲み会や合コンに来る女の子は、大抵は綺麗に化粧をして流行の洋服を着て確かにそれなりに可愛かったけれど、化粧を落として洋服を脱いでしまえば、みんなほとんど同じだった。
フェイ・ダナウェイと同じぐらい綺麗な脚を持った女の子もいなかった。少しおでこが出ている魅力的なロミー・シュナイダーもいなかったし、鏡子さんみたいなひともいなかった。
もちろん、いるわけがないのだ。
* * *
真澄から店に電話がかかって来たのは、大学祭が終わって間もない十一月の土曜の夕方で、ちょうど店に顔を出した親爺さんと交代して、ぼくが店から出ようとした時だった。
店の奥で飲み残しのコーヒーを流しに捨ててカップを洗っていると、レジの前に座った親父さんが、「弟くんから電話だよ」と声をかけてくれた。ぼくは洗い終えたカップを流しの横の食器入れに置き、リュックを持ってレジ横の受話器を取った。
「もしもし?」
「兄貴? ぼく」
受話器の向こうから笑いを含んだ真澄の元気な声が耳に入って来た。どこかの公衆電話からかけているらしく、真澄の声の後ろから人の気配が伝わって来た。
「どうしたの?」
「『百人斬り』はもう達成した?」
真澄は受話器の向こうでひどく嬉しそうな声を出してわけの分からないことを言った。
「え? なに?」
「聞こえなかったの? 『百人斬り』だよ」
「百人斬り?」
鸚鵡返しのぼくの返答を聞いた親爺さんはギョッとしてこっちを見ていた。
「そうそう。百人斬り」
「何のこと?」
「それにぼくは兄貴が絶倫だったなんて、全然知らなかったよ」
真澄は更に追い討ちをかけるようなことを言って、本当に面白そうに笑った。
「絶倫?」
「そうそう。絶倫」
「何でぼくが絶倫なんだよ?」
「違うの?」
「違うよ。ぼくは別に絶倫なんかじゃないよ。何だよ、それは?」
「そうなの?」
「そうだよ。何の話をしているんだよ?」
真澄の言っていることがさっぱり分からなかったぼくは、そう聞き返した。
「だから兄貴の話に決まってるじゃない」
「ぼくの話?」
「そうそう」
「何がなんだかさっぱり分からないよ」
ぼくが親爺さんの方を見ると、親爺さんは、自分は何にも聞こえてないよ、という感じで慌てて目をそらして頑張っていたけれど、ちょっと顔が変形していた。多分、ぼくの顔も変形しているのだろう。
「ねえ、今日はバイトは何時に終わるの?」
真澄はとにかく楽しそうだった。
「今終わったところだよ」
何となく嫌な予感がしたけれど、ぼくは取りあえずそう答えた。
「それならこれから一緒に晩メシ食べない?」
「いいよ」
「ぼくはね、今日は『つぼ焼き』が食べたいんだ」
「分かった」
「じゃあ、店の中で待ってるから。今、外苑前にいるんだよ。だから早く来てよね」
真澄は電話を切る直前までひどく嬉しそうに笑っていた。
「これから渋谷のロゴスキーで弟と二人で一緒に晩メシを食べることになりました」
受話器を置きながら、ぼくは親爺さんに何となく説明した。
「あっ、そうなんだ。あそこのピロシキは本当に美味いよね。ぼく、好きなんだ」
「ぼくも好きです」
「じゃあ、頑張って」
「はい、お疲れ様でした」
「あっ、明日、朝からだけど大丈夫だよね?」
「はい。大丈夫です。お疲れ様でした。親爺さんも頑張ってください」
「ありがとう」
何か変だな、と思いながら店を出たぼくは、とにかく渋谷に行くために東横線に乗った。
渋谷にあるロシア料理専門店の『ロゴスキー』は父と母の大のお気に入りのレストランだった。ぼくや真澄の入学式や卒業式など、何か節目があるたびにそれを理由にして、昔からよく家族で食事に来た。父と母は『ウクライナ風ボルシチ』が大好物だったけれど、ぼくと真澄は初めてこの店に連れて来て貰って以来、『きのこと鶏肉のつぼ焼き』のとりこになった。ここに来ると必ずそれを注文した。『つぼ焼き』のポットの上に被さっているパイ皮を崩すのがとにかく楽しいのだ。この料理はパイ皮を崩すために存在しているといっても決して言い過ぎではない。
そして食事の最後には、必ず、父とぼくと真澄は『ピロシキ』を一つずつ食べ、母は『ロシア風洋梨のババロア』を食べた。これは一種の儀式のようなもので、他の料理でどんなにお腹が一杯になったとしても、『ピロシキ』を食べずに食事を終えることは決してなかった。
ぼくは小さな頃からこの店がとても好きだ。理由は簡単だ。『つぼ焼き』以外に二つある。
一つは、この店に来る時は、いつもはエプロン姿の母が綺麗に装って良く笑ったからだ。もう一つは、いつどんな時に来ても味が違ったことがないからだ。
真澄が差し出した雑誌は女性誌で、最初ぼくには何のことやらさっぱり分からなかった。
「これはなに?」
「まあ、いいからその付箋がついているページを早く見てよ。そうすれば分かるよ」
真澄はひどく嬉しそうな顔をして笑っていた。頭の隅の方で何か嫌な予感がしたけれど、とりあえずぼくはその雑誌を手に取って、付箋のついているページを開いた。
「『きのこと鶏肉のつぼ焼き』と『ビーツとポテトのサラダ』と『ロゴスキーピラフ』をそれぞれ二つずつと、あと『野菜のピクルス』を一つと『ピロシキ』を二つ下さい。『ピロシキ』は最後でお願いします」
遠くから聞こえる真澄の声を聞きながら、ぼくは、そんなに頼んで全部食べられるかな、とちょっと不安になりつつ、目の前の、『私の彼は百人斬り』とか『一見優男風の絶倫な彼』とか『彼から教わったエクスタシーの達し方』などという見るに耐えない見出しと、なぜかそこに載っている、憮然としたぼくや、笑っている槇さんや島田さんや槌川さんの写真を茫然と眺めていた。
「兄貴は何を飲むの?」
ポンポンと肩を叩かれて、「え?」と顔を上げると、テーブルの向こうから身を乗り出した真澄がぼくを見て笑っていた。
「なに?」
「兄貴の飲み物を聞いたんだよ」
正直なところ、飲み物どころの騒ぎではなかったけれど、目の前で笑っている真澄の顔を見て急に現実に引き戻されたぼくは、とりあえず、「ウォッカ・ソーダにするよ」と言った。
「銘柄はどうなさいますか?」とウエイターに聞かれて、「なんでもいいです」と答えたぼくは、もう一度雑誌に目を落とした。「ぼくにも同じの下さい」と真澄が言っていた。
何回見てもやっぱりぼくの顔が載っていた。
もちろん名前は載っていなかったし、写真の下に小さく『イメージ資料』と出ていて、ページの隅の一番目立たない箇所にも、『記事と写真の内容は一切関係ありません』という注意書きがあった。でも、どう好意的に見たって、この記事は、ぼくや槇さんや島田さんや槌川さんが、『百人斬り』か『絶倫』か『エクスタシー』みたいな、その他もろもろのセックス記事の当事者に見えるように作られていた。
「なんだよこれ?」
ウエイターが行ってしまってから、ぼくは雑誌を閉じて表紙を裏返しにしてテーブルの隅に置いた。
「大学生活って楽しそうだね。ちゃんとぼくにも話してよ」
「勘弁してくれよ」
運ばれて来たウォッカ・ソーダを飲みながら、ぼくは事の次第をきっちりと説明した。真澄は『野菜のピクルス』と『ビーツとポテトのサラダ』をパクパクと食べ、ウォッカ・ソーダをちょっとずつ飲みながら、「なんだ、やっぱり嘘なのか」とつまらなそうに言った。
「当たり前だよ」
すっかり食欲がなくなってしまったぼくは、ウエイターが『きのこと鶏肉のつぼ焼き』と『ロゴスキーピラフ』を運んで来た時に、ウォッカ・ソーダのお代りを頼んだ。
「でも、その記事、友達に見せちゃったよ」
ぼくはウォッカ・ソーダを噴き出しそうになった。満面の笑みを浮かべた真澄は、『きのこと鶏肉のつぼ焼き』のパイ皮を崩してパクパクと食べ、更にピラフをモリモリと食べた。
「嘘だろ?」
「本当だよ。みんなびっくりしてたよ。『お前の兄貴ってすげえなあ』だってさ。馬鹿だねえ」
「馬鹿はこっちだよ」
昔、母がフライに使った後の冷めた油をプラスチックのコップに入れておいて、それをぼくは麦茶だと勘違いしてうっかり飲んでしまったことがある。その時の、何とも言えない、あの油がツーッと喉を通り過ぎた時の感触や嫌な匂いやひどい味のことを思い出した。何だかすべてが嫌になって来てしまった。
ぼくはうつむいて『きのこと鶏肉のつぼ焼き』のパイ皮を真ん中から少しずつ崩した。昔と変わらない、いい匂いがプンと鼻をついた。
鏡子さんはこうなることを知っていたのだろうか? だから顰蹙を買うのを承知で頑として拒絶したのだろうか?
ぼくは柔らかい鶏肉をゆっくり噛んで、ウォッカ・ソーダを飲みながら、あの時の鏡子さんの青白い顔を思い浮かべた。
「言ってないよ」
「え?」
ぼくが目を上げて真澄を見ると、真澄は照れ臭そうな顔をして笑っていた。
「本当は友達になんか見せてないから大丈夫だよ。だからそんなに深刻にならないでよ」
「そうか…、そうだね」
「そうだよ。こんなことぐらいで、『この世の終わり』みたいな顔することないじゃないか」
「そんな顔してたかなあ…」
「してたよ。ぼくが悪い奴みたいになっちゃうよ」
「そうかな?」
「そうだよ。だいたいそんな雑誌、まともな人間の読むもんじゃないよ。今は『人の噂も二十四時間』なんだからさ」
あっという間に自分の目の前の料理を平らげていた真澄は、ぼくのサラダとピラフに取りかかっていた。
「じゃあ真澄は何でこの雑誌見たの?」
ぼくがそう訊くと、真澄は頬張ったピラフを飲み込んでからニヤリとした。
「日誌を出しに職員室に行った時、英語の教師の机の横のゴミ箱の上に、袋に入ったまま捨ててあったんだよ」
「それは捨ててあったんじゃなくて、置いてあったんじゃないのか?」
「どっちでもいいんだよ。そんなのは」
「なんでそんなことしたんだ?」
「そいつさあ、大学を出たばっかりなんだけど、とにかくダサいし頭は悪いしうるさいし、なんか最悪に気持ち悪いんだよ。『六本木にいるチャラチャラした田舎のニイチャン』って感じでさ」
「え? 男?」
「そう、最低でしょ? わけ分かんないよ。だからまあ、ちょっとね」
真澄はぼくを見て嬉しそうに笑った。
また何か良からぬことでも考えているのだろう。頭が余っている人間というのも結構大変そうだ。
ぼくは運ばれて来た熱々のピロシキを食べて、それ以上は訊かなかった。
店を出る時、明日親爺さんに持って行くためにお土産用のピロシキを四つ頼み、バイト代で全部の料金を払った。
別れ際、銀座線乗り場の前で、「ご馳走様でした」と言った真澄は、ぼくが黒いダウンジャケットの下に着ている色あせたオレンジ色のヨットパーカーと今自分の着ている黒のヨットパーカーを取り替えてくれ、とその場でパーカーを脱ぎ出した。「買ったばっかりで体に馴染まなくて気持ちが悪いんだよ」とぼくに脱いだパーカーを渡した。
真澄は小さな頃から、洋服はもちろん、タオルやシーツなど、体に触れるものはどんなものでも新品のおろし立てのものは嫌がった。「いいよ」とぼくはその場でパーカーを脱いで真澄に渡した。
* * *
そんなことがあってから数日後、その女性誌を生協で買って部室に持って来てページを開いた槇さんは、ものすごく機嫌が悪くなった。
それを見た槌川さんと島田さんは満更でもないような顔で笑っていた。武田さんは「へーえ」と呟きながら雑誌を手に取って一通り目を通し、清水さんは武田さんの肩越しに雑誌のページを覗き込んで「おやおや」という顔をしただけだった。永倉はまるで興味がないようで雑誌を見ようともしなかった。鏡子さんは何事もなかったような顔をして、ピアノの上に放り出された雑誌をゴミ箱に捨てた。
その日以来、槇さんはソファーに寝転がってひっきりなしに煙草を吸い、思い出したようにビールを飲み、天井の海部俊樹の顔をした植木等のポスターを眺め、CDを聴き、誰かが何かを話しかけても、むっつりとして黙り込んでいた。そしてその間ずっと、貧乏揺すりをしていた。しかもそれのほとんどが『中速』か『高速』だった。
この貧乏揺すりは槇さんの機嫌の悪い時に出るいつもの癖で、『低速』『中速』『高速』『マッハ』のほぼ四段階に分かれていて、右足を揺する速度が速ければ速いほど、もちろん機嫌も悪かった。その場にいる人間はその速度を適当に判断して、当たらず触らず抜き足差し足喋りかけずに物音もさせず、といった具合で、それが治まるまでニヤニヤしながらほったらかしにしていた。
あれこれと理由を訊くのは逆効果で、とにかく好きなようにさせてほったらかしておけば自然と機嫌は治る。周囲の人間は静かにしていればいいだけだから、まあ考えようによっては楽なのだ。
『中速』と『高速』の間を行ったり来たりしていた槇さんは、その日も朝の十時頃から一人でソファーを占領して、バド・パウエルの同じCDばかりをかなり大きな音で延々と繰り返し掛け続けていた。ぼくもバド・パウエルは好きなピアニストだったから、最初は特に気にしないでいつものように聴いていたけれど、『ウン・ポコ・ロコ』のテイク1が五回目に突入して、マックス・ローチがチンチンやり出した時には、さすがにちょっと目が回り始めた。
昼の二時過ぎに、何も事情を知らない加嶋が久し振りに部室に顔を出した。
加嶋は大学祭の時に、通称『CJO』と呼ばれているカレッジ・ジャズ・オーケストラというサークルの人間と仲良くなったようで、最近では向こうの方に頻繁に顔を出しているらしい。『CJO』が性に合っているようで、加嶋はとにかくやたらと機嫌が良かった。
『CJO』は同じジャズを扱う部でも、ぼくのいるジャズ研のような少人数制のコンボ編成とは違ってビッグ・バンドの形式を取っているようだった。加嶋の話によると『CJO』は部員の数も多くて上下関係も厳しく、毎日のように部員全員で演奏の練習を行い、その際には出席を取ったりするらしい。その運営方法もうちとはずいぶん様子が違っていた。
「無断欠席すると、レギュラーメンバーから外されちゃう場合もあるんだよ。厳しいけど真剣に取り組んでる感じがしていいよね」
生協で買って来たらしいサンドイッチとお握りを食べながら、加嶋はぼくと永倉にそんなことをあれこれと楽しそうに喋っていた。
「練習のあとは、だいたいみんなで食事に行くんだよ。そこでその日の反省会をするんだ。一応それも練習に含まれてるから、みんなちゃんと参加するしさ。そういうのって良いよね。そう思わない?」
ぼくはそうは思わなかった。
そんな感じだったら窮屈でとてもじゃないけどやってられない。多分一日だって持たないだろう。出席? それでは楽しみではなくて義務になってしまう。
加嶋の話を耳にしながら、ぼくはパイプ椅子に座って永倉と百円将棋を指していたけれど、ちょっとまずいことになりそうだと頭の片隅で考えていた。目の前で腕組みしている永倉の様子を窺うと、その表情には微かな困惑の色が浮かんでいた。
どんなに目を皿のようにして一枚一枚ページをめくって探してみても、『出欠席』という言葉は、うちの部の辞書の中には、まず見つからない。そんな言葉自体が存在しないのだ。
誰がどこで何をしようと知りません。まあ警察のご厄介にならないようにしましょう。ご厄介になった時は自力で何とかしましょう。自力で何とかならない時は潔く諦めましょう。
それぐらい部員の動向には無頓着で、別に加嶋がこっちに顔を出さないで『CJO』に顔を出しているからまずい、というのではなく、加嶋がまったく今の槇さんの状態に気づかないでヘラヘラ笑って喋っているのが、まずいのだ。
永倉が加嶋に向かって、「お前少し黙っとけ」みたいなことを何度か目で訴えていたけれど、加嶋はそれに全然気づかずに、機嫌よく喋り続けた。よっぽど『CJO』が楽しいのだろう。
清水さんはドラムの前に座って朝日新聞を広げ、武田さんはぼくが古本屋から持ち込んだブーブー紙の『カムイ伝』を読み、椅子に座ってピアノに寄りかかった鏡子さんは友隣堂のカバーのかかった文庫本を読んでいた。槌川さんはパイプ椅子に座ってエレキベースの弦をいじっていた。
仰向けでソファーに寝そべった槇さんは、枕代わりに積み上げた雑誌の上に両手を組んで頭を乗せ、煙草をくわえてじっと目をつぶっていた。
困ったことになりそうだな、とぼくはマッハで揺れている槇さんの右足を目の端で見ていた。目の前の永倉は腕組みをして将棋盤を眺めていた。
サンドイッチとお握りを食べ終わった加嶋は満足そうに笑いながらこう言った。
「同じCDばっかりで飽きちゃいましたよ。他のに変えましょうよ。ぼく、エリントン持って来たんですよ」
もう駄目だ。
そう思ったぼくは永倉の顔を見たけれど、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。
満面の笑みで立ち上がってサンドイッチとおにぎりの包み紙をゴミ箱に捨てた加嶋は、デッキのスイッチをオフにしてバド・パウエルを止めてしまった。それと同時に、槇さんの物凄い怒鳴り声が部室の中に響き渡った。
「聴いてるんだよっ」
ソファーから起き上がった槇さんは、短くなった煙草を加嶋に向かって投げ付けた。部室の中は静まり返り、何の物音もしなかった。
ギョッとして振り向いた加嶋は、自分を睨み付けている槇さんと目が合うと、その太った体を縮み上がらせた。見る見るうちに白い顔が真っ赤に染まって行った。
将棋盤を眺めていた永倉は小さく舌打ちをした。チラッと目を上げた清水さんはすぐまた新聞を読み始め、武田さんはちょっと体をねじって壁の方を向いて『カムイ伝』を読み続け、鏡子さんは本のページに目を落として黙っていた。ぼくは「あーあ」と思いながら、助けを求めるようにしてこっちを見ている加嶋の視線に気が付かない振りをした。
「お前、そういう言い方はないだろう」
槌川さんはエレキベースを置いてそう言った。槇さんは不機嫌さ丸出しで「うるさいな」と吐き捨てるように言った。
「うるさいってなんだよ」
槌川さんは声を荒げた。
「うるさい奴にうるさいからうるさいって言ったんだよ。うるさいなっ」
槇さんも声を荒げて槌川さんの顔を睨みつけた。
よくまあそれだけ口が回るものだ。
槇さんの「うるさい」の連発技を聞いて、ぼくはちょっと笑いそうになって慌ててうつむいた。でもそうすると余計に笑いが込み上げて来た。ここで笑い出したらさすがに不謹慎だろう。真面目に怒っている槇さんと槌川さんに悪い。ぼくは将棋盤を睨んで次の一手を考えている振りをして、右手でがっちりと口元を押さえた。
「いくら気に入らないことがあったからって、関係ない奴に八つ当たりするなよ」
「八つ当たりってなんだよ?」
「八つ当たりだろう? そうじゃないのか?」
「そうじゃない。お前には関係ない」
「関係ないってなんだよ。こっちは心配して聞いてるんだよ。ちゃんと説明しろよ」
「心配してくれなんて俺は一度も頼んでない。ほっといてくれ。くだらない」
ソファーに寝そべった槇さんは、傍らにあった朝日新聞を広げて顔を覆ってしまった。
目の前で将棋盤を眺めていた永倉の視線がぼくの頬っぺたの辺りをウロウロしていた。そのうちぼくが必死で笑いをこらえていることに気付いた永倉は、初めのうちは怒ったような顔をしてぼくの顔を上目遣いで睨んでいたけれど、そのうち一緒になってニヤニヤし出した。その永倉のニヤニヤを見て、ぼくは更に笑いが込み上げて来た。脇腹が攣りそうだった。
「お前ちょっとおかしいぞ」
槌川さんは朝日新聞を被った槇さんにそう言ってから黙り込んだ。でも釈然としない様子ですぐにこっちを見てこう言った。
「みんなだってそう思うだろ?」
でも室内は相変わらず静まり返ったままで、誰も何も言わなかった。
真っ赤な顔をした加嶋は、溺れかけた金魚のようにパクパクと口を開けたり閉じたりしていたけれど声が出ないようだった。清水さんは新聞を読んでいたし、武田さんも壁の方を向いたまま『カムイ伝』を読み続け、鏡子さんも文庫本のページをめくっていた。
槇さんの怒鳴り声も、加嶋の動揺も、槌川さんの抗議もそこには存在しなかった。そんなものは全部なかったことにしてしまおう、という声にならない声がそこには満ち溢れていた。
ぼくはこめかみの辺りに槌川さんの視線を感じたけれど、とにかく笑いをこらえることに必死で言葉を発するどころではなかった。目の前で膝の上に両手をついて腕を伸ばして踏ん張り、顔が鎖骨にめり込むほどうつむいている永倉の分厚い肩が小刻みに震えていた。
こいつも相当ひどい奴だな。
そう思っただけで、ぼくはもうおかしくて仕方がなかったけれど、とにかく神妙な顔をして笑いを噛み殺して黙っていた。
「何で誰も何にも言わないんだよ」
沈黙が今度は逆に槌川さんを苛立たせたようだった。ぼくは横目で周囲の状況を窺った。
「鏡子、お前も黙ってないで何とか言えよ」
誰も何も答えないので、とうとう槌川さんは鏡子さんに矛先を向けた。鏡子さんは本のページから目を上げて、困ったような顔で槌川さんを見た。
「お前だっておかしいと思うだろう?」
鏡子さんはちょっと考えてから口を開いた。
「どうして私に聞くの?」
「え?」
「私に聞かないで。違うでしょう」
「違うって、何が違うんだよ?」
軽く溜め息をついた鏡子さんは、黙って活字に戻った。槌川さんは黙ってしまった。
「すいません、すいません」
加嶋はオロオロして何度も謝りながら逃げるように部室を出て行った。
「おい、ちょっと待てよ」
槌川さんは加嶋のあとを追いかけて行った。
ぼくはもう笑い死にする寸前だったけれど、取りあえず何事もなかったように顔を上げた。すると目の前で「どうかしましたか?」という感じの澄ました顔をしてこっちを見ている永倉と目が合ってしまい、とうとうこらえ切れなくなって笑い出してしまった。ぼくが笑い出すと永倉もつられて笑い出した。永倉の笑い声を聞くと、もっと笑いが込み上げて来た。いったん笑い始めるともう駄目だった。どんなに頑張っても止められなかった。
しばらくの間、槇さんと清水さんと武田さんと鏡子さんはいきなり笑い出したぼくと永倉を唖然として眺めていた。でも、笑いというものはどうやら伝染するものらしい。
「なんだお前ら? どうしたんだ?」
まず清水さんが笑い出した。
「いや、こいつが笑うから…」
永倉が笑いながらぼくを指差した。
「え? なんだよ?」
武田さんがぼくを見て笑い出した。
「なに? なんで笑ってるの?」
そう言って笑っているぼくを見た鏡子さんが笑い出した。
「槇さんが何度も『うるさい』って言うから」
ぼくが笑いながら言うと、槇さんは「なんだよ」と怒った。
「『うるさいな』『うるさいってなんだよ』『うるさい奴にうるさいからうるさいって言ったんだよ。うるさいな』だって。言い過ぎですよ。あははは。さて、ぼくは今、全部で何回『うるさい』って言ったでしょう?」
ぼくが槇さんと槌川さんの会話を再現して笑っていると、とうとう槇さんも、「なんなんだよお前は」と言って笑い出した。
* * *
十二月に入ってクリスマスで街が浮かれ始めた頃、ぼくは、その年最後の中国語の授業に出て、年明けに行われる学年末の試験範囲をメモしてから教室を出た。
そして急にどうしても甘いものが食べたくなって、学生達で混雑している生協のソフトクリーム売り場に行き、チョコマーブルにするかストロベリーマーブルにするかどうしようか、と考え込んでいた。その時、後ろからポンポンと肩を軽く叩かれたので振り向いてみると、鏡子さんが笑いながら立っていた。ぼくはどうにも恥ずかしくなり、「こんにちは」の挨拶のあとの言葉が続かなかった。
「一人?」
「そうです」
ぼくがそう答えると、鏡子さんはぼくの横に並んでメニューの看板を見上げた。
「それなら私も一緒にソフトクリームを食べようかな?」
「え?」
ぼくは焦った。
「あ、駄目?」
鏡子さんは笑っていた。
「そんなことないです」
ぼくは慌てて否定して、早くどっちにするか決めようと必死でメニューの看板を眺めた。
「四季くんはどれにするの?」
「え? あ、そうですね。どうしようかな。どれも美味しそうだから、そうですね」
隣に鏡子さんが立っていると思うと、ぼくは頭の中がカーッとしてソフトクリームなんてどうでも良くなってしまった。
「じゃあ、ストロベリーマーブルにします」
ぼくがそう答えると、鏡子さんは、面白そうな顔でやりとりを聞いていたらしいアルバイトの女の子に、「じゃあ、それ二つ下さい」と頼んでチョコレート色の革の鞄から財布を取り出した。
「ぼくが払います」
ぼくは急いでGパンのポケットから小銭を取り出した。
「あ、いいわよ」
「いいんです。バイト代も入ったし、大丈夫です。ソフトクリーム代ぐらい、ぼくにも払えます」
ぼくは頑張った。
「そうなの? じゃあ、ご馳走様」
鏡子さんはおかしそうに笑いながら財布を鞄の中にしまった。
そのあと、ぼくは鏡子さんと並んでソフトクリームを食べながら、キャンパスの中をブラブラと歩いた。よく晴れた気持ちのいい冬の午後だった。
「『ケニー・カークランドぐらいピアノが弾ける峰不二子みたいな女の子』は見つかった?」
ソフトクリームを食べていた鏡子さんはそう言って、面白そうにぼくの方を見た。
槇さんと鏡子さんはとても気が合うらしく、二人の間では結構いろんな情報のやりとりがあるようだった。ただそれが、場合によってはとんでもない話になっていることも多かったので、思わず舌打ちをしたぼくは慌てて否定した。
「ちょっと思いついただけで、別に峰不二子みたいな女の子が好きってわけじゃないです」
「そうなの?」
「そうですよ。あんまり槇さんの言うことを、そのまま鵜呑みにしないで下さい」
ふんふんという感じで頷いた鏡子さんは、しばらく黙ってソフトクリームを食べていたけれど、やがて、ポツリと口を開いた。
「でも、『ミッシェル・カミロぐらいピアノが弾ける丹下段平』にならなりたいなあ、私…」
ぼくはゾッとした。一瞬、その光景を想像してしまったからだ。『丹下段平』はダメだろう。ジョーだって力石だって、もちろんダメに決まっている。そういう問題ではないのだ。
「そんなのは絶対ダメですよ」
「そうお? いいじゃない」
「良くないですよ。鏡子さんは鏡子さんでいた方が、絶対いいですよ」
「そうかしらねえ…」
つまらなさそうに溜め息をついた鏡子さんは、ソフトクリームを食べた。
鏡子さんは、女性にしてはちょっと、というぐらい背の高い人だった。
その日は踵の高いブーツを履いていたから、身長が一七五センチちょっとあるぼくよりも、少しだけ目線が高かった。
薄い色の口紅を塗っただけの鏡子さんは、濃紺のハイネックの薄手のセーターと同じ色の細身のジーンズを履き、暖かそうなキャメル色のカシミアのブレザーを着ていた。ちょっと癖のある背中まで伸ばした髪を、いつものように全部後ろで一つにまとめて、キュッとひっつめにしていた。抜けるように白い額の生え際が柔らかく、金色の小さなイヤリングが光る耳たぶから顎にかけての線がとてもシャープで、ぼくはそのラインが好きだった。
「ミッシェル・カミロが好きなんですか?」
初めて鏡子さんに逢ったとき、あの濃密な春の黄昏の中に流れていたのも、そういえばミッシェル・カミロだった。
「好きよ」と頷いた鏡子さんは、「四季くんは嫌い?」とぼくに目を向けた。
「好きですよ。でも、ぼくは、同じミッシェルだったら、ペトルチアーニの方が好きです」
ぼくは答えた。
「なるほど…」
鏡子さんは頷いた。
「ペトルチアーニは嫌いですか?」
ぼくは訊いてみた。
「そんなことないわ。ブラジリアン・スウィートなんか好きよ」
「でも、ミッシェル・カミロが好きなんですね?」
「そうね、ミッシェル・カミロが好きなのよ」
「どうしてですか?」
「どうしても」
「どうしても?」
「そう、どうしても」
鏡子さんは笑いながら頷いた。その綺麗に手入れされたバックスキンのチョコレート色のブーツの踵が、アスファルトにぶつかってコツコツと音を立てていた。
「だってどうしても好きなんだもの。理由なんかないわ」
鏡子さんはそう言いながら、雲一つない晴れ渡った青空を見上げた。
この世にジャズ・ピアニストはたくさんいる。もう川を渡ってしまったピアニスト達も、ぼくらに素晴らしい演奏を残してくれた。もちろんぼくにも好きなピアニストはたくさんいる。思いつくままに好きなピアニストの名前を頭の中に思い浮かべてみた。でもぼくには、鏡子さんみたいに、「どうしても好き」と言い切れるピアニストはいなかった。
時折、すれ違う学生達が振り返って鏡子さんを見ていた。
やっぱり綺麗なひとだなあ。
目の端で鏡子さんの険のある色みのない横顔を時々見ながら、ぼくはしみじみとそう思った。それにただ綺麗なだけではなく、とにかく目に付くひとだった。でも鏡子さん本人は、彼女自身の綺麗さや人目を引く部分に対してはまるで無造作で、まったく分かっていないようだった。
「何の授業だったの?」
中央広場から少し離れたベンチに座りながら鏡子さんはぼくにそう聞いた。
「中国語です」
ぼくは緊張しながら鏡子さんの隣に座った。とにかく暑くて顔はほてるし、手の平は汗でベトベトしてるし、それにやたらと喉が渇いて仕方がなかった。ぼくはどんどんソフトクリームを食べた。ストロベリーの味なんかどこにもなかった。ぼくはあっという間にソフトクリームを全部食べてしまった。
「第二外国語?」
「そうです。鏡子さんは?」
「仏文精読。でも駄目。いい気持ちで半分ぐらい寝てしまった」
おかしそうに笑った鏡子さんは、「中国語で第二外国語を選択した人には今まで会ったことがないけど…。中国が好きなの?」とぼくを見た。
「特に中国が好きっていうわけじゃなくて…」
「中華料理が大好きとか?」
「いや、あ、中華料理は好きですけど、でもそんな大好きってほどでもなくて…」
「冗談よ」
鏡子さんはニヤニヤした。ぼくも自分の取り乱しように情けないのを通り越して可笑しくなって、笑ってしまった。
「ぼくの好きな作家が京大で中国文学を専攻してて、もう死んじゃった人なんですけど。でも、それで何となく…」
ぼくがそう答えると、鏡子さんはちょっと考えていたけれど、すぐに、「『高橋和巳』ね。李商隠でしょう? 違う?」と言ったので、驚いてしまった。
彼はぼくの父の学生時代に、『大学生のカンフル剤』などと持てはやされてかなり流行った人らしかったけれど、今は、『よってたかって無理矢理時代から葬り去られてしまったような作家』という感じの人だった。
ぼくは今まで誰にも「『高橋和巳』が好き」と言ったことはなかった。
ぼくは自分の読んだ本の内容について、誰かとあれこれ話をするのがあまり好きではなかった。そういうのは知識をどこかでひけらかしているような感じがしたし、何か自分の隠し所を見られるみたいで、いずれにしても『恥ずかしい』ような気がするのだ。
それにそういうことを話す相手もいなかった。この『トレンディ』な御時世に、『高橋和巳』はどう考えても時代遅れで、ぼくの世代では名前ぐらいは知っていても実際に読んでいる人間はまずいないだろう、と思っていた。
ぼくが本を読むことや読んでいる本に対して、これまで父はただの一度も口を挟んだことはない。父の書斎の本に手を付け出した時も、「読んだら戻しとけよ」と一言口にしただけだった。でも唯一の例外があった。それが『高橋和巳』だった。
ぼくが父の本棚から『邪宗門』を抜き出して読み耽っていた時、父は、「根っこはみんな同じだ」と言った。ぼくが驚いて父の顔を見ると、父はぼくからスッと視線をはずした。
いったいどういう意味なんだろう?
ぼくは父に聞いてみたかったけれど、どうしても聞くことが出来なかった。父の顔を見ると、喉元まで出掛かった言葉がどうしても形にならなかった。仕事で夜遅く帰って来て、キッチン・テーブルに座って食事を取っている父の顔と、「根っこはみんな同じだ」と言ってぼくから視線をはずした時の父の横顔が重なった。
ぼくは父の言葉の意味を考え、父にそのことを尋ねることが出来ない理由を考えたけれど、良く分からなかった。
別にぼくは何らかの目的があって『高橋和巳』を手に取ったわけではない。同じように父の本棚に並んでいた『漱石』や『鷗外』や『中島敦』や『ドストエフスキー』や『バルザック』や『デュ・ガール』や『サリンジャー』や、その他もろもろの作家と同じように、ただ読みたくて読んだだけだった。そしてその作家の『物を見る視線』が好きになっただけだ。
でも読み終わった後は、正直かなりのショックを受けた。
それは、ぼくにとっては現実味のない別世界のものだったけれど、父にとってはまぎれもない現実のものだった。その場所は、まだ現実世界の中に夢物語が実際に存在していた場所だったのかもしれない、と初めて思った。
同じ学生時代に読む本でも、父の世代とぼくの世代が読む本との間には、どんなに頑張っても飛び越えることの出来ない深くて暗い溝が横たわっていた。内容も、言葉の種類も、その重たさも、ぼくの日常生活の中には決して存在しないものだった。それは明らかに異質なものだった。
だから、『高橋和巳』の一連の作品を読み終えた後でも、『革命万歳』とか『体制打破』とか『新左翼』に傾倒して実際に何かをするとか、そんなふうにはならなかった。今のぼくがいる場所がそういう場所ではないことは分かっていたし、その世界は、ぼくにとってはあくまでも頭で理解する文字の世界の出来事だった。
それは何も小説に限ったことではなく、エッセイでも評論でも漫画でも、もちろんテレビでも映画でも、他のどんなメディアにも共通することだ。虚構の世界の出来事と現実の世界の出来事は違う。夢物語は夢物語に過ぎず、今ここに存在している現実とは違う。
ただ、ぼくは、「根っこはみんな同じだ」という父の言葉と、ぼくから視線をはずした時の父の顔を、時折ふっと何の関係もない時に思い出すことがあった。それは電車に乗っている時だったり、古本屋のレジでお釣りを渡している時だったり、街をブラブラ歩いている時だったりした。そういう時、ぼくは自分の心臓のドキドキという音が変に気になり、そしてちょっと息苦しくなり、何かわけの分からない大きな塊のようなものが胸の食道のあたりから喉元まで込み上げて来て、「わーっ」と叫び出したくなった。
「そう…。四季くんは『高橋和巳』が好きなの。でも本屋さんには『悲の器』ぐらいしか置いてないでしょう? あとはたまに『我が心』を見かけるぐらいじゃない?」
「うちの父の本棚に全部あるんです」
「なるほど…。実はうちの家にもある」
「本当ですか?」
鏡子さんもぼくの所と似たような感じのサラリーマンの家庭に育っていた。
「やっぱり父のなんだけどね。『我が心は石にあらず』なんて、最初に目にした時、なんて綺麗な題名だろうって思って、きっと素敵な恋愛の話なんだろうな、って勝手に内容を想像して読み始めたら、労働運動の話でしょう。ちょっとびっくりしちゃったわ」
甘い幻想に胸を膨らませた鏡子さんが、首をかしげながらページをめくっている姿を想像して、ぼくは思わず笑ってしまった。
「どうして恋愛小説だと思ったんですか?」
そう尋ねてみると、鏡子さんはぼくを見て険のある目元を細めた。
「私、『邪宗門』の阿礼が好きなのよ」
「そうなんですか?」
ぼくがちょっと驚いて鏡子さんを見ると、鏡子さんは軽く笑った。
「ああいうタイプの女性は男の人には嫌われるんだろうな。高飛車で高慢ちきで意地悪で自己主張が激しくて、しょっちゅうヒステリーを起こして…。違う?」
「まあ、確かに…」
ぼくは頷いた。
確かに一般的にはそうなのだろう。
高飛車で高慢ちきで意地悪で自己主張が激しくて、しょっちゅうヒステリーばかり起こしている『高嶺の花』の阿礼よりは、素直で大人しくて忍耐強くて従順で、人の意見を受け入れる妹の阿貴の方が好まれるだろう。
「阿礼のどこが好きなんですか?」
「すごく女性的でしょう? 見た目も言動も考え方も。でも、たいていの男の人は阿貴が好きなのよ。日本の男の人は特にね」
「ぼくは、阿貴よりは阿礼の方が好きですよ」
ぼくがそう言うと、鏡子さんは「へえ」と右の眉を軽く吊り上げて、「それは珍しいんじゃない? どうして?」と訊いた。
「ぼくは、『どうしよう、どうすればいいの? 誰か助けて』っていう女の人は嫌いなんです」
「どうして?」
「面倒臭いから」
ぼくがそう答えると、鏡子さんは「なるほど」と珍しく声をあげて笑った。
「自分のことぐらい自分で考えて決めて欲しいですよ。まあ、それは女の人に限ったことじゃないですけど」
「まあ、確かにねえ…。でもヒステリーは嫌いでしょう?」
「それはまあ嫌いですけど、でも、何も言わないで暗い顔でじっとして、『私耐えてます』みたいなのよりは、ヒステリーの方がいいですよ」
「そうなの? どうして?」
「あ、なんか気に入らないことがあるんだな、とか、怒ってるんだな、とか表面に出るから分かりやすいじゃないですか」
「なるほどねえ…」
「『私耐えてます』じゃ、何にも分からないし、こっちまで暗くなって来ちゃいますよ」
「まあねえ…」
「もちろん年中ヒステリーとか、単にギャーギャーうるさいのは大っ嫌いですけど…」
鏡子さんは頷きながら、ぼくを面白そうに見ていた。
「ぼく、変なんでしょうかね?」
「そんなことないと思うけど…」
鏡子さんはおかしそうに笑った。
「人の好みは人それぞれって言うでしょう。別にいいじゃない」
「そうですね」
「私も『高橋和巳』は好きよ」
鏡子さんはソフトクリームのコーンの尻尾を口に入れ、手についた粉をポンポンと払った。
「どうしてですか?」とぼくは訊いた。
「そうねえ…」
鏡子さんは軽く左手の指の爪を噛みながら、もう一度、「そうねえ…」と呟いて、目の前を通り過ぎて行く学生達を少しの間黙って眺めていた。鏡子さんは左利きだった。
ぼくは耳を澄まして鏡子さんの言葉を待っていた。
「あの人、あの作家、頑固で不器用だけど、でも、とっても誠実だったような気がするの。最後まで、いろんなことに対して…。逃げようと思えばいくらでも逃げられた人なのにね。でも逃げなかった。だから早死にしちゃったんでしょうけど…」
鏡子さんの声はとても静かで落ち着いていて、ぼくの耳の奥に心地よく染み込んで行った。でもそれと同時に、どこかとても不安定で何かに戸惑っているような響きがあって、それがぼくを不安にさせた。
「あの人をリアルタイムで経験した人って、また違ったいろんな想いがあって言いたいこともいろいろあるんだろうけど…。でも私はそう思ったのよ」
そう言った鏡子さんは軽く肩をすくめて、「コーヒーでも飲もうか」と立ち上がって、近くの自動販売機の方に歩いて行った。
キャンパスの中のポプラの木の葉は、もうほとんど落ちてしまっていた。ぼくのスニーカーの下の芝生は所々が剥げていた。遠くから剣道部の竹刀を打ち合う音が聞こえて来た。
大学祭の時の喧騒が、まるで遠い昔のように感じられた。
あの最終日の夜の一件以来、鏡子さんと槌川さんの間がどうなっているのか、ぼくは気になっていたけれど、部室にいる時の二人は特にこれといった変化もなく、今までと変わりがないようだった。二人の間であのような感じの言い合いがしょっちゅうあるのか、それともたまたまのことだったのか、ぼくには良く分からない。ただ、ぼくが見ている限りでは、加嶋の一件の時もそうだったけれど、鏡子さんと槌川さんは、物事に対する考え方が根本的な部分でずいぶん違っている気がした。
槌川さんは工学部の建築科に在籍し、確か新潟の方の開業医の家庭に育ったというとても口数の少ない人だった。責任感が強くて部員の信頼も厚かった。かなり強引なところがあったけれど、それは部長をやっているからだろう、とぼくは思っていた。
うちの部員はそれぞれ得意とする専門の楽器を一つ持っていたけれど、例えばぼくがピアノを弾きながらギターやベースを触るように、みんな結構、あっちこっちといろんな楽器に手を出していた。だけど槌川さんはベース一筋、という感じで、他の楽器に手を伸ばすことはしなかった。
正直に言って、ぼくはどうも槌川さんが苦手だった。同じ三年生でも、いつもろくでもないことばかり言っている槇さんの方が好きだった。槌川さんが『鏡子さんの彼』ということを別にしても、どこかで何かが違うのだ。
『十人十色』などという格言があるように、この世の中にはいろんなタイプの人間がいて、もちろん外見がみんな違うように、考え方や感じ方も違うことぐらいぼくにだって分かっている。でも何かが違うのだ。ぼくと槌川さんの間には、皮膚感覚というか生理的な『違和感』みたいなものがあるような気がした。
別にぼくが東京の人間で槌川さんが新潟の人間だから、ということではない。そういう『違和感』は地域性とはあまり関係がないような気がする。なぜなら、槇さんは雅の都の人だったし、清水さんは津軽の人だった。武田さんは仁義なき戦いの地の人だったし、宮本さんは確か明太子が自慢の人だ。永倉だって阿波踊りの専門家で、みんな一癖も二癖もあるような人間だった。けれどそういう『違和感』を持ったことはなかった。東京の人間の鏡子さんや地元の横浜の島田さんや柿崎さんとほとんど変わらなかった。
それから年齢ということも当てはまらないような気がする。バイト先の古本屋の親爺さんは父よりも年上の人だったけれど、槌川さんに持っているような『違和感』をぼくはほとんど感じたことがない。
まあ、ぼくの考え過ぎなのかもしれないけれど、槌川さんを前にすると何を話していいのか話題がまったく思い浮かばなかった。槇さんにするようなくだらない話はもちろん、世間話もあまり出来ないし、実際のところ会話を交わした記憶がほとんどない。「こんにちは」と「さようなら」の挨拶をするぐらいだ。
それに、槌川さんのことを「気持ちが悪い」と言ったあの時の国枝さんの言葉が、ぼくはどうしても忘れられなかった。そのことについて槌川さんはどう考えているのだろう。
ぼくが槌川さんに対して持っている生理的な『違和感』と、国枝さんが口にした『気持ち悪い』という言葉には、その表現は違うにしても根っこは同じところにあるような気がした。
ぼくは槌川さんの『何』に対して違和感を持っているのだろう。国枝さんは槌川さんの『何』に対して気持ち悪さを感じたのだろう。
そして、それをすぐそばで見ていた鏡子さんはどう思ったんだろう。
あの時、鏡子さんは泣き出しそうな顔をしていたけれど、それはなぜだろう。
槌川さんが国枝さんに、「気持ち悪い」と言われたことに対して鏡子さんが泣きたくなったのではないような気がする。もっと別の意味があるような気がする。
では、鏡子さんは一体、『何』に対して泣き出しそうな顔をしたんだろうか。
ぼくにはそれが分からなかった。分からなかったけれど、それを鏡子さんに聞くことは出来なかった。
鏡子さんは少し痩せたようだった。もともと線の細いひとだけれど、自動販売機の前に立っている鏡子さんの後ろ姿は、どこか不安定な感じがした。それが少し痩せたことに原因があるのか、それともそれ以外に何か原因があるのか、そのこともぼくには良く分からなかった。
『気持ちが悪い』の一件ももちろんそうだったけれど、それとは別に、ぼくは鏡子さんに訊いてみたいことが一つあった。例の女性誌の一件のことだ。ぼくはあの一件で本当に嫌な思いをした。そうなることを鏡子さんは分かっていて、あんなふうに強く拒絶したのかどうか、それを訊いてみたかった。
「どうしてあの時、写真を撮らせなかったんですか? ああいう使われ方をすることが分かってたんですか?」
ぼくのその質問に、コーヒーの入った紙コップのふちに微かについた口紅の跡を指でこすりながら、鏡子さんはしばらく黙っていた。
鏡子さんが買ってくれたブラックのコーヒーは、湯気を立てていて熱くて苦くて、少し寒さを感じていたぼくにはとても美味しかった。
「別にたいした理由はないのよ」
ぼくの問いかけに、鏡子さんはそう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「自分が読まない雑誌だったから」
「じゃあ、読んでいる雑誌だったら協力しましたか?」
ぼくは訊いてみた。
「しないわ」
鏡子さんはあっさりと答えた。
「どうしてですか?」
「どうして?」
そう聞き返した鏡子さんは、鞄の中から煙草を出して火をつけてから煙を大きく吸い込んだ。
「どうしてって、そうねえ…。どうして自分の知らない不特定多数の人間の前に、意味もないのに自分の姿をわざわざ晒さなくちゃいけないのかしら? その理由の方が私にはさっぱり分からないんだけど…」
「晒している人たちもたくさんいますよ」
「それはその人たちの自由でしょう。好きにすればいいと思うわ。でも、その人たちがそうしているからって、どうして私までそうしなくちゃならないのかしら?」
目を細めて煙草を吸いながら、鏡子さんはぼくをじっと見つめた。
「そういう行為をする人もさせる人も好きになれないわ。でもそれは私の考えでしょう。それを人に押し付けるのは失礼だと思うのよ」
鏡子さんはうつむいて左手の指先の爪を軽く噛んだ。
ぼくは目の前を通り過ぎて行く学生達を眺めた。
「そういう行為自体が嫌いなのよ。そういうことに抵抗を覚えない人間にはなりたくないわ」
「どうしてですか?」
「理由なんかないわ。理屈じゃないのよ。だから嫌だって言ったのよ」
「それが顰蹙を買うって分かっていても?」
「分かっていても」
鏡子さんは笑った。
「鏡子さんは、あの写真がああいうふうな使われ方をするって、分かってたんですか?」
「はっきりとは分からなかったけど…。でも、あの雑誌はそういう雑誌でしょ? 占いとファッションと流行りのお店とセックスを売り物にしてるじゃない。だったら、そのどこかに使われるんだろうな、って思っただけよ」
鏡子さんは体を乗り出して、近くの一本足の灰皿に煙草の灰をポンポンと落とした。
「どうしてあの時、そういうふうに説明しなかったんですか?」
ぼくが訊くと、鏡子さんはニヤリと笑った。
「面倒臭いから」
「え?」
「自分のことだから自分で考えて決めたんだろうって思ったのよ」
ぼくは黙り込んだ。
「すみません…」
「冗談だって」
笑いながらコーヒーを飲んだ鏡子さんは、短くなった煙草を紙コップの中にポンと投げ入れた。ジュッという音がして、紙コップの中から薄っすらと煙がのぼった。
「でもね、本当のことを言うと、四季くんにはこのことを聞かれるような気がしてたのよ」
「どうしてですか?」
ぼくは驚いて鏡子さんを見た。
「だって四季くん、写真を撮られている時、泣きそうな顔してたじゃない。それとも私がそう感じただけだった?」
鏡子さんは険のある目元を笑わせてぼくを見ていた。
傾き始めた冬の西日が法学部棟のガラス窓に反射して眩しかった。キャンパスを歩いている学生達の影が、オレンジ色に染まったアスファルトの上に長く延びていた。
ぼくはうつむいた。今すぐどこかに消えてなくなりたかった。
* * *
十一月の終わりに、父の仕事が忙しくて年末も日本に帰れないから真澄と一緒にこっちに来るように、と、ワシントンにいる母から連絡が入っていて、ぼくも真澄もそのつもりで用意をしていた。
でも、高校の終業式を迎えた二十日前後に、青い顔をして表参道の寮から帰って来た真澄は、家に入るなり、「気持ちが悪い」と玄関先で吐いてしまったあと、ひどい風邪を引いて寝込んでしまった。五日間ぐらい熱が四〇℃近くまで上がり、強烈な吐き気と悪寒に襲われて、かなり辛そうだった。
「病院は絶対に嫌だ」
ひどく震えながらベッドの中で頑強に抵抗する真澄を何とか力ずくで引きずり出したぼくは、セーターとオーバーを着せられるだけ着せて自転車の荷台に乗せ、隣町の松田先生の所に連れて行った。ぼくが自転車をこいでいる間、真澄は後ろで「兄貴の馬鹿」とか「お尻が痛い」とか何とか言ってずっと怒っていた。怒っている真澄がどうにもおかしくて、ぼくはニヤニヤしながらペダルを踏んだ。
松田先生はうちのかかりつけの内科医で、しばらく見ない間にすっかりお爺ちゃんになっていた。
「一人で入るのは絶対に嫌だ」
ブクブクに着膨れて真っ赤な顔をした真澄は、名前を呼ばれても診察室に入ろうとせず、待合室のソファーに張り付いてテコでも動こうとしなかった。
「じゃあ、ぼくも一緒に入るよ」
ぼくがそう言うと、しかめっ面をした真澄は恨めしそうにぼくの顔を見て、ようやくソファーから離れた。
「ふんふん」と昔のように頷きながら聴診器を当てて診察をしてくれたのは松田先生だったけれど、栄養剤の注射を打ってくれたのは跡を継いだ息子さんだった。
太い注射器を目にした時、真澄はとうとう泣き出した。そして最後に腫れ上がった喉にルゴールを塗って貰ってから、子供の時と同じように松田先生から飴を手渡された真澄は、泣きながら包み紙をむしって飴を口に入れた。
「風邪だね。とにかく水分を取って栄養のあるものを食べて、温かくして寝てれば治るから」
「ありがとうございました」
「お大事に」
ぼくが頭を下げると息子さんは笑った。
会計を済ませて薬を貰ったぼくは、真澄を自転車の荷台に乗せて家に帰った。ぼくが自転車をこいでいる間、真澄は後ろで「だから嫌だったんだ」とか「もう兄貴とは喋らないことにする」とか何とか言ってずっと泣いていた。ぼくは泣いている真澄もおかしくて仕方がなかった。必死で笑いを噛み殺しているぼくに気が付いた真澄は、ぼくの背中を手の平でバシンとぶった。
ぼくはお粥やおじやを作ったけれど、真澄は嫌がって食べたがらず、どうにか食べても胃に上手く収まらなくてすぐに吐いてしまった。
「気持ちが悪いんだよ」
真澄はトイレで食べ物をもどしてしまうたびに、泣きながらぼくのことを何度もぶった。
仕方がないのでとにかく紅茶やお茶やジュースなどの水分をたくさん取らせた。ためしにアイスクリームやヨーグルトを食べさせたらうまく喉を通ったので、次からはそこにミキサーで潰したバナナを入れて食べさせた。これも上手く喉を通ってくれた。そして時間が来たら体温を測って薬を飲ませ、氷枕を変え、汗をかいたパジャマと下着を着替えさせ、枕の上のタオルとベッドのシーツを取り替えた。額を冷やそうと濡らしたタオルを乗せると、「嫌だ」と取ってしまうのでやめた。
昼間は少し落ち着いていたけれど、夕方になると、真澄の体温はあっという間に上昇した。熱が高くなればなるほど、真澄の顔色は買って来たばかりの真っ白い画用紙のような顔色になった。そして「寒いんだよ」とベッドの中でガタガタと震え始めた。
ぼくは父と母が使っていた毛布と布団を寝室から運んで真澄の上にどんどん掛けた。
「重いから取ってよ」
真澄は布団と毛布を払いのけようとした。ぼくは掛けた毛布と布団を剥がして父と母の寝室に戻した。
「寒いんだよ」
真澄がベッドの中で震え始めたので、ぼくは居間の石油ストーブを持って来て真澄の部屋で炊いた。
「臭いからやめてよ」
真澄は泣いた。ぼくは石油ストーブを居間に戻した。
「寒いんだよ。何とかしてよ」
真っ白い顔の真澄はボロボロと涙をこぼしながらぼくに訴えた。
どうにも仕方がないので、子供の頃に使っていたぼくと真澄の湯たんぽを押し入れの中から引きずり出して、熱湯を入れて厚手のバスタオルで何重にもくるみ、それを二つとも真澄のベッドの中に入れてみた。すると「寒いんだよ」と言わなくなったので、それで寒気は何とかなったようだった。でも夜になると、真澄の体温は上がったままで一向に下がろうとしなかった。
熱が上がり始めると、真澄は一人で寝るのを嫌がるようになった。ぼくが居間や自分の部屋に引き揚げようとすると、「ぼくも一緒に行くよ」と言ってベッドから起き上がってついて来ようとした。「寝てないと駄目だよ」とぼくが部屋から出ようとすると、「一人で寝るのは絶対嫌だ」と真澄はベッドから降りてしまった。「寝てないと駄目だ」「一人で寝るのは嫌だ」という押し問答を繰り返しているうちに、真澄はまた泣き出した。仕方がないので自分の部屋からクッションと布団と毛布を運んで来たぼくは、真澄の部屋で本を読んだり、コーヒーを飲んだり、レポートを書いたりした。
三八℃を越えると、真澄はベッドの中から手を伸ばしてぼくの頭や肩をつかみ、布団と毛布をかぶってウトウトしているぼくが起きるまで延々と揺さ振り続けた。
「頭が痛くて眠れないよ」
眼を覚ましたぼくに真澄はそう訴えた。
「風邪を引いちゃったから仕方ないよ」
ぼくがそう言うと、真澄はひどく恨めしそうな顔をした。
「兄貴ばっかり寝ないでよ」
真澄はボロボロと涙をこぼした。
「じゃあ、起きてるよ」
ぼくがそう言うと真澄は頷いて目をつぶった。しばらく様子を窺っていると、呼吸が規則正しく聞こえて来たので、ぼくも眠りについた。でもぼくがウトウトし始めると真澄は目を覚ましてしまうようで、ベッドから手をのばしてぼくの頭や肩を突っついた。
「頭が痛いんだよ」
寝入りばなを起こされてぼんやりしているぼくに、真澄は泣きながら訴えた。
「何とかしてよ。死んじゃうよ」
「死なないよ」
「頭が痛くて気持ち悪い」
「トイレ行く?」
「行かない」
「ジュースは?」
「ジュースなんかいらないよ」
あんまり泣き過ぎたせいで、真澄の大きな目は目蓋が腫れ上がって糸のように細くなってしまった。かわいそうだったけれど、ぼくが出来ることには限界があった。
三九℃を越えると真澄は泣かなくなった。その代わり、時間に関係なくいきなり目を覚まして奇妙なことを口走るようになった。
「窓からコビトが見ているよ」
凄い力で肩をつかまれてウトウトしていたぼくが目を覚ますと、真澄は半分起き上がって窓の外を指差していた。眠っていたぼくは何だかわけが分からなかったけれど、取りあえずカーテンをめくって窓の外を見てみた。もちろん『コビト』なんていなかった。
「コビトなんていないよ」
ぼくがそう言うと、「変だなあ…」と呟いた真澄は、腑に落ちない顔をしたまま眠ってしまった。『コビト』って何だろう? そんなことを考えながら眠っている真澄の顔をぼんやり見ているうちに、ぼくも眠りに落ちた。でも今度は力一杯髪の毛を握られて目を覚ますと、目を開けた真澄がぼくの顔をじっと見ていた。
「どうしたの?」
「コビトが入ってくるからドアを閉めてよ」
ぼくがぼんやりしていると、ベッドから手を伸ばした真澄は、今度は閉まっているドアを指差した。
「ドアは閉まってるし、誰もいないよ」
「でもコビトが入って来るんだ」
「コビトなんか入って来ないよ」
「そうかなあ…」
真澄はちょっと変な顔をしてぼくの顔を眺めていたけれど、すぐに眠りに落ちた。何となく不安になったぼくはドアを開けて外の様子を見てみた。でも特に変わったことはなかった。
ぼくは目が冴えてしまって眠れそうになかったので、真澄の机のスタンドをつけて読みかけの開高健のエッセイを開いた。でも活字が全く頭に入って来なかった。しばらくすると、真澄は今度は大きな叫び声を上げた。いつの間にか眠りに落ちていたぼくまで、真澄と一緒になって大声で叫んでしまった。
「大変だ。コビトが来るから早く逃げよう」
ベッドから急いで起き上がろうとする真澄を、ぼくは慌てて止めた。
「コビトなんか来ないよ。だから逃げなくてもいいんだ」
「でも今は来なくても、コビトは必ず来るんだ。来るって決まっちゃったんだよ。来たらどうしよう? どこに逃げるか決めておこうよ」
あんまり真澄が真剣な顔をしているので、ぼくはちょっと恐くなってしまった。
「コビトなんか来ないよ」と何度なだめても、「大変だよ。コビトに捕まったらもう駄目なんだ。どうしようか?」と真澄はとにかく必死で起き上がろうとした。額に手を当てるとひどい熱さだった。
「コビトが来たら朝になるまで二人で庭の物置に隠れよう。朝になったらコビトはきっといなくなるよ。そうしたらもう大丈夫だよ」
ぼくがそう言って頭を撫でると、「そうだね、そうしよう、それがいいよ」と真澄はようやく納得して眠りについた。
ぼくは真澄の言う『コビト』が一体何なのかあれこれ考えてみたけれど、一向に分からなかった。本当に夢の中に『コビト』が出て来ているのか、それとも何かの暗示なのか、それもぼくには分からなかった。
ようやく熱が下がってヤレヤレと一息ついた時は、真澄の風邪の菌がこっちに移動したらしく、今度はぼくが高熱にうなされてひどい吐き気と悪寒に襲われた。
『コビト』は出て来なかったけれど、扁桃腺が腫れ上がってひどい後退性鼻づまりになり、右の鼻が通っている時は左の鼻がつまり、左の鼻が通っている時は右の鼻がつまって、ぼくはあまりの鬱陶しさに、ベッドの中で悪寒に震えながらヒステリーを起こしていたらしい。
「『こんな鼻はいらないから早くハサミを持って来い』と何度も怒鳴っていたよ」
ぼくの熱が下がると、真澄は指で作ったチョキで自分の鼻をはさんで笑っていた。
そういうわけで、結局、ぼくと真澄のワシントン行きは中止になった。
ぼくが寝込んでしまうと、病み上がりの真澄は青い顔をしてフラフラしながら松田先生の所に薬を貰いに行き、適当に買い物を済ませ、石油ストーブを炊いて居間を暖め、台所に立って慣れない手つきで二人分の食事を作った。
大晦日の夜、ようやく頭痛と吐き気と悪寒が治まって来たぼくは、何とか起き上がって居間に下りることが出来た。そして、フワフワしている体をコタツに入れてじっとしていた。
ぼくが始まったばかりのレコード大賞をぼんやり眺めている間、真澄は台所で何やらガタガタやっていた。手伝おうとしたけれど、どうにもだるくて体が動かなかった。
レコード大賞が終わるころ、真澄は大きな鍋になみなみと入ったモヤシ入りのサッポロ一番とお酢の瓶をコタツの上に置いた。それからキューリのQちゃんをてんこ盛りにした皿と、永谷園の『ごはんですよ』の瓶をコタツの上に乗せ、茶碗と丼と箸とレンゲを運び、最後に炊き立ての御飯が入った炊飯器を持って来た。
ぼくと真澄は紅白歌合戦を見ながら、サッポロ一番とキューリのQちゃんと『ごはんですよ』とオカズにして、炊き立ての白い御飯を黙々と食べた。後退性鼻づまりのせいで、どれを食べても何の味もしなかった。
そんなふうにして、ぼくの一九八九年は終わった。