一九八九年 秋
現実に違和感を抱き続けて生きてきた「ぼく」が、ようやく出逢った愛する人たち。煌くような大学生活の中にじわじわと押し寄せる時代の影。
これからどこに行けばいいのだろう?
どうやって生きていけばいいのだろう?
これは「黄昏の道を歩いているすべての人たち」に贈る青春小説です。
ジャズ研の狭い部室には、アップライトの黒いピアノが二台あった。
それはぼくの家にあるアップライトのピアノのように、椅子に座って蓋を開ける前に自分の顔がピアノの胴体に映るようなそういう代物とはまったく違っていて、二台とも、とにかく古びていて傷だらけで汚かった。
うちのピアノは母が父に嫁いだ時に一緒に早乙女家に来たピアノで、ぼくよりも数年長く世田谷の家の客間に住んでいる。でも別にうちのピアノが特別な高級品とかそういうことではなく、だいたいどこの家にあるピアノでも、大抵は綺麗に磨かれて、例えばテレビやタンスやサイドボードのような他の備品とは一線を画す感じで、比較的大切に扱われるものではないだろうか?
まあ、いろんな事情があるのだろうけれど、多くの家庭では子供が成長して行くと同時にピアノはだんだんと弾かれなくなって行き、やがてはぬいぐるみやガラスケースに入った日本人形の生活の場所になったり、父親の洋酒コレクションなどを展示する場所になったりして、本来の目的とは違う使われ方をするピアノもあるみたいだ。うちの場合は母が家事の合間を見てピアノを弾いていた。
ぼくにピアノを教えてくれたのは、母の音大時代の知り合いの知り合いで、隣町に住んでいた田所先生という芸大の作曲科を出た男の人だった。幼稚園に入ったぼくは、週に二回のペースで田所先生の所に通った。
その当時で三十歳を過ぎていた田所先生は、プクプクと太っていて、顔なんかもフクチャンみたいで一見優しそうに見えたけれど、そういう見た目とは違ってひどい癇の虫だった。レッスンはスパルタ式でとにかく厳しかった。いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていて、ごくたまに笑うことがあっても、こめかみには青筋が立っていた。お手伝いのおばさんが毎日通って来ていたけれど、一人暮らしだった。
母は真澄にもピアノを弾かせたかったらしく、真澄が幼稚園に通うようになると、ぼくと一緒に田所先生の所に行かせた。
ある日、何かの都合で、ぼくと違う日に田所先生の所に一人で行った真澄は、帰って来るなり空っぽの鞄を放り出した。
「ぼくあの人大嫌い。ちょっとよそ見をしたりつっかえたりするとすぐに手や頭を叩くんだもん。全然面白くないからもう行かない」
母の前ではっきりとそう宣言した真澄は、ニ、三回通っただけで、すぐに田所先生の所に行くのを止めてしまった。母が無理矢理行かせようとしても、「嫌だよ」と頑として拒んだ。
実はこの日、練習をサボったことがばれて田所先生に頭を叩かれた真澄は、譜面台にあった楽譜を先生に向かって投げつけてその逆鱗に触れ、家から叩き出されてしまったらしい。
夜中にトイレに起きた時に、母が父にそう説明しているのをぼくは立ち聞きした。「あいつも仕方のない奴だな」と父の低い声がした時に居間をそっと覗いてみると、泣きそうな顔をしている母の前で、父はアイスクリームを食べながら笑っていた。
ぼくも田所先生にはずいぶん叩かれて、ひどく痛い思いをした。ピアノの埃を払う羽ぼうきの柄の部分で手の甲をビシッとやられると、そこは必ずといっていいぐらい青いアザになった。機嫌の悪い時はやっぱり羽ぼうきの柄の部分で頭をコツンとやられた。それをやられると目の中がチカチカして、どういうわけかいつも火薬の匂いがした。これも本当に痛かった。痛かったけれど、ぼくは田所先生が好きだった。ぼくを叩く時の田所先生はいつも真剣に怒っていた。怒っていたけれど、どこか哀しそうだった。
叩かれる原因は、きっとぼくの方にあるんだろうな。
田所先生の哀しそうな顔を見ると、ぼくはいつもそんなふうに思った。
ぼくが高校を辞めたことを知ると、田所先生は、「ピアノを弾ける時間が増えたことは実に幸せなことだ」とひどく喜んだ。
大検に合格して大学受験の準備に取り掛かり始めたころまで、ぼくは週に二回のペースで田所先生の元に行ってレッスンを受けていた。
先生がウィーンにいる恋人のところに行ってしまった後も、ぼくは受験勉強の気分転換と称してしょっちゅうピアノを弾いていた。そういうわけで、うちのピアノは本来の使用目的からは大きく外れることはなかった。
大学に入って、ジャズ研のその二台のピアノを目にするまで、ピアノというものは年に一回は必ず調律をして、綺麗に磨かれて、大切に扱われるものだと思っていた。
もちろん部室の二台のピアノが作られた時は、ピカピカに光っていたのだろうけれど、「このピアノは元からつや消しだったんだよ」と誰かに言ったら、その人が、「あ、そうなんだ」とあっさり納得してしまうぐらい、今は煙草のヤニや埃やなんかで曇りに曇っていた。
二台あるうちの一台は、普段セッションをしたり、誰かが音階練習をしたり、コードを作ったり、ただ鍵盤を鳴らして遊んだりして、日常的に蓋が閉まっていることは少なかったけれど、もう一台のピアノは、楽譜やCDやテープや本などが山積みになっていて、ぼくはそのピアノが使われているところを見たことがなかった。
「どうしてあっちのピアノは使わないんですか?」
秋も深まって来た十一月の初めに、大学祭の準備で、いつも使っているピアノや楽器やその他もろもろを会場にする教室に運び出した後、ガランとした部室の真ん中でパイプ椅子に座り、ミュートをつけたり外したりしてトランペットを吹いて遊んでいる清水さんに訊いてみた。
「あのピアノは半分ぐらい壊れてるんだ」
「壊れてる?」
ぼくがそう訊き返すと、清水さんはトランペットを指でくるくると回しながら笑った。
「何回か調律もしたらしいんだけど、どうも駄目で、すぐ音が狂っちゃうみたいなんだ」
「へえ……」
「俺が入ったころには、もう今みたいな感じになっていて、全然使われてなかったんだよ」
「じゃあ、ずいぶん古いピアノなんですね。やっぱり部費で買ったんですか?」
「まあ買ったんなら、多分安い中古品を誰かが見つけて来たんだろうなあ。今使っているピアノみたいな感じで……」
「今使ってるピアノも中古で買ったんですか?」
「そうみたいだね」
頷いた清水さんは、柔らかそうなフラノ地のベージュのブレザーの内ポケットから煙草を出して火をつけた。
「今使ってるピアノは、どっかのジャズ喫茶だかライブハウスだかが潰れたときに、そこにあったのを二束三文で譲ってもらったって話だよ。それが確か十年ぐらい前って聞いたような気がするけど……」
「へえ……」
「でもそのピアノの出どころはちょっと分からないなあ……」
清水さんはポンポンと煙草の灰を床に落とした。
「ひょっとしたら柿崎さんあたりは知ってるかもしれないよ」
「でもまあ、中古品を買ったんでしょうね」
「もしくは誰かがどっかから持って来たとか……」
「あるいは自分でここに来たとか……」
ぼくがそう言うと、清水さんは笑った。
「まあ古い話だからよく分からないね。誰が作って、誰と逢って、どんな時間を過ごして来たのか、それはそのピアノと神のみぞ知るってところだな」
ぼくは荷物置き場になっている誰も弾かなくなったピアノを眺めた。
「でも最後にたどり着いた場所がこの場所だったってことを考えると、幸せな一生を送ったとは、まあ、ちょっと言えないだろうね」
清水さんも同じように古い傷だらけのピアノを眺めていた。
「それにね、そのピアノは音の出ない鍵盤がずいぶんあるんだ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。確かブルー・ノートとその近くのナチュラル・ノートは、どこもほとんど音が出ないんじゃないかな?」
「本当ですか?」
ぼくが目を丸くすると、清水さんは、「そんなことで嘘をついたって何にも面白くないさ」と煙草をくわえて立ち上がり、ピアノの上にあったビールの空き缶やら雑誌やらを適当に移動した。そして蓋を開けて、『B♭』と『E♭』と『G♭』の鍵盤をあちこち押して音が出ないことを確かめると、「ほらね」と笑った。清水さんが押した鍵盤をぼくも押してみると、ブカブカしていて何の手ごたえもなかった。
清水さんは、今度はその近くにある『B』と『E』と『G』の鍵盤をあちこち押して、「ね?」と笑った。ぼくがその鍵盤を押すと、やっぱりブカブカしていたり鍵盤が途中までしか下りなかったりして、全然音が出なかった。
「どうして音が出ないんですか?」
「多分、中でピアノ線が切れちゃってるかなんかしてるんだろうなあ」
「どうしてですか?」
こういうピアノを見るのは初めてで、ぼくは本当に驚いてしまった。
「本当かどうか知らないけど、昔のOBが弾いてるうちに壊しちゃった、って話だよ」
清水さんは短くなった煙草を床の上に落として、靴で踏んで火を消した。
そのOBが国枝さんだった。
ぼくが国枝さんに初めて逢ったのは、大学祭の最終日の夜だった。
* * *
毎年十一月の初めに三日間に渡って行われる大学祭は、まあ、多分どこの大学でも似たような感じなのだろうけれど、それでも、「この大学って、こんなに人がいたっけ?」とおかしくなるぐらい、キャンパスの中には人が溢れ、各サークルが営業するたこ焼や焼き鳥や焼きそばやおでんなどの屋台がずらりと並び、空手部が瓦割りや板割りなどのパフォーマンスをしたり、どこかのサークルのイベントの企画で『ミスコン』や『女装コンテスト』が行われたり、著名人を呼んで講演させたり、人気アイドルを呼んでライブを開いたりと、それなりの盛り上がりを見せた。
横浜という場所柄なのか、何か特別なルートがあるのか、それはよく分からなかったけれど、中華街から専門の料理人がやって来て、肉まんや水餃子やシュウマイや春巻きなどの本格的な点心を出す屋台なども幾つかあった。さすがにプロが作るだけあって、とにかく何でも美味しかった。中でも厚い皮がモチモチした茹でたての水餃子は一度食べると癖になって、ぼくは大学祭の三日間、お腹が減るとこの水餃子を中心に、中華街の屋台の点心ばかりを食べていた。
大学祭でのジャズ研は、他の音楽系のサークルがやるように、キャンパスの中に出て行って演奏のパフォーマンスをすることは全くなかった。その手の演奏パフォーマンスをやりたかったらしい加嶋は、何人かの人間に「うちはやらないんですか?」と訊いて回ったらしい。
「でもほとんど誰も真面目に相手になってくれなかったんだよ」
会場作りが一段落したあと、生協の学食で二人でカレーライスを食べている時に、加嶋はそう言って溜め息をついた。
加嶋の問いかけに対して、清水さんは「俺はマイルスやリー・モーガンじゃないからね」と笑い、島田さんは「エルヴィン・ジョーンズのかぶり物があるんなら俺にくれよ。フィリー・ジョーでもいいよ」と右手を出し、武田さんは「コルトレーンやロリンズみたいに吹けるのかい? そりゃすごい」と拍手をし、宮本さんは「ケニー・バレルの指が欲しいなあ。どれでもいいから俺に買って」と答えたらしい。
「あとは?」
「え?」
「槇さんや鏡子さんはなんて言ってたの?」
ぼくがそう尋ねると、「あの二人には訊いてないんだ」と加嶋は言った。
「どうして?」
「俺はあの二人が一番苦手なんだよ」
カレーライスを綺麗に平らげた加嶋は、そう言って喉を鳴らしてゴクゴクと水を飲み乾した。
「そうなの?」
ちょっと口ごもった加嶋は、ぼくの方を上目遣いで見た。
「俺は槇さんに話しかけられたり、何か言われたりすると、ドキドキしてうまく答えられないんだ。だからすごい焦るんだよ。そうすると逆に変なことばかり口走って、まるで会話にならないんだ」
「へえ……」
「槇さんの言ってることが良く分からないことも多いし……」
「ふうん……」
ぼくは今まで槇さんの口にしたことをあれこれと考えてみたけれど、いずれにしてもろくでもないことしか思い浮かばなかったので、加嶋が槇さんの言葉の何が分からないのか、が良く分からなかった。
「鏡子さんも、俺は苦手なんだ」
「なんで?」
「すごく神経質な感じがするだろ? いつもどこかがピリピリしててさ。俺、あの人が部室にいると、ちょっと憂鬱になるんだ。なんか緊張して息がつまってすごく疲れるし……」
「へえ……」
「そういうふうに感じたことはない?」
確かにそういう部分はある。
でもぼくは鏡子さんのそういう部分もとても好きだった。もちろん緊張もするし息も詰まるけれど、憂鬱になったりするようなことはもちろんなかった。
黙ってそんなことを思っているぼくの顔を、加嶋は心配そうに覗き込んだ。
「別に悪い意味で言ってるんじゃないんだよ」
「うん」
ぼくは頷いた。
「槇さんはいつも本当なんだか嘘なんだか分からないことばかり言ってヘラヘラしてて、鏡子さんはほとんど喋らないでしょ。ちょっと見ると全然違うような感じがするけど、でも種類が同じって感じがするよね」
「種類?」
「種類って言うか、人種って言うか、ちょっと上手く言えないんだけど……。でもね、はっきり言って嫌なんだ。ああいう感じ。槇さんとか鏡子さんがいる時のああいう感じ……」
「え?」
「高校時代の吹奏楽部の女の先輩はさ、何て言うのかな、もっとこう、可愛らしい感じだったし、気さくで話しやすかったんだよ。でもそれって、女の先輩に限らず、誰でもそうだったんだけどね。みんなが誰にでも優しかったし……」
高校時代は楽しかったな、と加嶋は笑った。
「へえ……」
「本当だよ。意地悪をするような人もいなかったしさ……」
『みんなが誰にでも優しい』ってどういうことだろう?
本当にそんなことがあり得るのだろうか?
ぼくはその言葉を聞いて不思議な気持ちになった。
ぼくはみんなに優しくなんか出来ない。とてもじゃないけど無理だ。自分の好きではない人間にどうすれば優しく出来るのだろう? そんなことが本当に出来るのだろうか?
ぼくが自分の好きではない相手に対して出来ることは、例えば、本を買ってくれた古本屋のお客さんにお釣りを渡して、「ありがとうございました」と言うように、可もなく不可もなく、相手に失礼のないようにごく普通に接すること、それぐらいしか出来ない。せいぜい頑張っても、『優しいふり』ぐらいだ。
だいたい、『優しい』ってどういうことなんだろう?
「なんか、同じ楽器を扱うクラブなのに、全然違うよね。そう思わない?」
「そう思わない?」と言われても、高校の部活動なんて全然経験したことがないぼくには、何がどう違うのか分かるわけがない。だからぼくは「よく分からない」と答えた。
それから加嶋は嬉しそうに高校時代の吹奏楽部のことを話し始めた。
先輩の家にしょっちゅう泊りがけで遊びに行ったとか、同級生とみんなで部活の帰りによくファミレスで食事をしながら何時間もいろんな話をしたとか、顧問の先生は厳しかったけれど本当は優しい人だったとか、後輩の女の子でとても可愛い子がいて思い切って告白したけれどフラれてしまったとか、そんな話だ。
ぼくは「へえ」とか「ふうん」とか「そうなんだ」と相槌を打つ以外は、黙って彼の話を聞いていた。そして、自分と加嶋は同じ世代なのに、ずいぶん違う環境でここまで来ていて、感じ方もかなり違うんだな、と思った。
ぼくは現役でこの大学に来たけれど、加嶋は確か一年浪人していた。
四月の終わり頃、多分、槇さんか清水さんあたりに担がれた腹いせに、永倉と加嶋とぼくの三人は徹夜で大酒を飲んだことがあった。
その時に加嶋が、「自分は本当はもっといい大学に行きたかったんだ。でも親が浪人はもう駄目だって許してくれなかったんだよ」と言っていたことを、ぼんやりと思い出した。
「将来、大蔵省にでも入りたかったの?」
ぼくはその時そんなふうに加嶋に聞いた。
「そんなんじゃないけど……」
加嶋は口を濁した。
「お前ね、上を見たらきりがないし、下を見てもきりがないんだよ」
珍しく永倉がそんなことを口にした。
「そりゃあそうだよ。でもね、どんなに綺麗ごとを言ったって、しょせん日本は学歴社会だからね」
加嶋は急に不機嫌になってしまった。
『いい大学』というのは、真澄のような頭の良い人間しか受け容れない偏差値の高い大学、例えば『東大』のような大学のことだ。もちろん『東大』のような大学に行くことが出来ればそれに越したことはない。ぼくの知る限り、日本はどこまで行っても学歴社会だ。そこを中心にして世の中は回っている。そういうシステムで成立している社会なのだ。
加嶋は嘘はついていない。それはある意味では真実だ。『キャリア』と『ノンキャリア』なんていう言葉が厳然と存在しているように、いい大学を出れば、社会的にも押し出しが良く、収入もいい仕事につける可能性は高くなるし、世の中を渡って行くことがずいぶん楽になることも確かなことだ。
黄門様の印籠は、いつの時代でも魅力的なものだ。そういうシステムで成立している社会の中で生きている人々は、その目の前に差し出された印籠を見る時、印籠そのものの価値を見るのではなく、その背後にある様々な付加価値を見るのだ。
そして人々は、それを持っている人たちの小さな声には耳を傾けるけれど、そうではない人達の大きな声にはあまり耳を傾けない。ぼくの声も届かない。
でもぼくがどんなに頑張って努力してみても、まず『東大』には入れない。残念ながら、百人いたら百人とも顔が違うように、頭の良し悪しもやっぱりどうしても違うのだ。そこにはどう頑張っても越えられない壁が存在する。悲しいことだけれど、それはどうしようもないことなのだ。
ぼくは身近に恐ろしく頭の良い人間がいたから、それが身に染みて良く分かる。
例えば、ぼくは『十』を聞いて『一』を理解するのに相当な時間を必要とするけれど、真澄は『一』を聞いて『百』を即座に理解してしまうのだ。頭の構造やその働きがどうやらぼくとは全く違うらしい。
同じ親から生まれて、どうしてこんなに頭の出来が違うんだろう?
ぼくは中学一年生の時に、自分と真澄を比較して、実はそんなふうに密かに悩んだことがある。『算数』が『数学』になって、毎日のように『立っておれ』になり始めた時期だ。
ぼくも真澄みたいに頭が良かったらどんなにいいだろう。そうすれば『立っておれ』にならないですむのにな……。
ぼくは真澄が羨ましくて仕方なかった。
ちょうどその頃、ぼくは中学に上がって始めての中間テストの数学で七点しか取れなくて、放課後に『立っておれ』に職員室に呼び出されて、やっぱり『立っておれ』の状態のまま、「ふざけていないでもっと真面目にやれ」とこっぴどく説教をされて相当落ち込んだことがあった。
その日の夜、真澄はぼくの部屋でぼくと一緒に人形焼を食べながら、部屋のステレオの配線をいじって遊んでいた。
「ねえ、真澄……」
ぼくは真澄の名前を呼んでみた。
「なあに?」
真澄はうつむいて配線コードをいじっていて、ぼくはその次の言葉が上手く出て来なくて、真澄の小さな背中が動くのを眺めていた。
「どうしたの?」
配線コードを離した真澄はこっちを向いて笑った。ぼくは思い切って聞いてみた。
「どうして、ぼくは、真澄みたいに頭が良くないのかなあ?」
そう口にした途端に、ボロボロッと涙がこぼれた。自分でもどうしてこんなに涙が出るのかと驚くぐらい、ぼくは泣いていた。
「ぼくは、ぼくは確かに兄貴より頭がいいけど、でも、そういうことは良く分からないよ」
泣いているぼくを見た真澄は、目を丸くして驚きながらそんなことを言った。
「そうだよね」
ぼくは泣きながら頷いた。
「何でそんなこと聞くの?」
真澄はぼくの顔を覗き込んだ。
「数学のテストで七点しか取れなかったんだ」
ぼくは真澄にテストの答案を見せた。
「怒られたの?」
真澄はぼくの顔を見て表情を曇らせた。
「うん」
「誰に?」
「学校の数学の先生。ふざけてないでもっと真面目にやれって言われたんだ」
ぼくが泣きながらそう言うと、真澄の顔は険しくなった。
「何だよ、そいつ。嫌な奴だなあ。兄貴はいつだって真面目じゃないか。真面目にやっても出来ないんだから仕方がないよ」
「授業中も、指されて質問に答えられないと、『立っておれ』って言われて、ずっと立っていなくちゃいけないんだよ」
ぼくは中学に入学してからすぐに『立っておれ』になった。でもこれまでそのことを誰にも言ったことがなかった。真澄にそのことを話しているうちに、自分が『立っておれ』になっている時の恥ずかしさとか悔しさとか情けなさがありありと蘇って来た。
ぼくは恐らく、自分でもそうと意識しているよりも遥かにずっと、『立っておれ』になっていることが嫌だったのだ。
「何なの、それ?」
「知らないけど、そういう授業なんだ」
「嫌な授業だなあ。そんなの絶対おかしいよ」
口をへの字に曲げた真澄は、ぼくの数学のひどい答案を手に取って黙って眺めていた。
「その先生、女の先生なんだけど、『立っておれ』っていうあだ名なんだよ」
「ふうん……」
不機嫌そうに顔を歪めた真澄は、泣いているぼくをしばらく黙って見ていた。
「立たされるのは嫌だなあ……」
「でもそれは仕方がないんだよ。数学が出来ないぼくが悪いんだから」
ぼくがそう言うと、真澄は左の眉毛を吊り上げて、「兄貴は悪くないよ」と言った。真澄は怒っているようだった。ぼくはちょっと驚いて真澄の吊り上がった眉毛を眺めた。
「兄貴は悪くないよ。数学が出来なくたって、そんなの別にいいじゃない。関係ないよ。その分ぼくが出来るんだから、それでいいんだよ。だから兄貴は本をたくさん読んだり、ピアノを上手に弾いたりすればいいんだよ」
小学生だった真澄はぼくにそんなことを言った。
ぼくはこれからも数学の時間は『立っておれ』になってしまうだろう。でも、そういうこととは別にして、「兄貴は悪くないよ」と真剣に怒っている真澄の可愛い丸い顔を眺めているうちに、真澄に対していつも心の奥底で感じていた羨ましさとか妬みとか、そういった様々な負の感情が、ふわっとした真綿のような白い柔らかい塊になって体の外に出て行ったような気がした。涙がスーッと引いていった。
「そうだね。そうするよ」
ぼくが笑うと、「そうだよ。そんな馬鹿な奴の言うことなんか気にすることないよ。そいつが一番頭が悪いよ。本当になんて嫌な奴なんだ」と真澄は手に持っていたぼくのひどい数学の答案をクシャクシャに丸めた。
高校時代の話をしている加嶋は生き生きとしていて、とても楽しそうだった。
そんな加嶋をぼんやりと見ているうちに、案外加嶋のようなタイプの人間が、『足踏み・ハイハイ・両手パンパン・世界のみなさんこんにちは』の世界に簡単にハマってしまうのではないかと、ぼくは思った。
「ぼくの話をまともに聞いてくれたのは槌川さんだけだったよ。やっぱりあの人は優しいよ」
「へえ……」
「俺もそういうのをやってもいいと思うんだけど、みんながああいう感じだから上手くいかないんだ、って槌川さんは言ってたよ」
そんなことを二人で話していると槇さんがブラブラと入って来て、ぼくらを見つけると、なんだ、という顔をしてこっちに歩いて来た。そして空になったカレーライスのお皿を見て、「きみ達、メシ食うんだったら、俺にも一声かけてくれてもいいじゃないか」と言った。
「槇さんもご飯食べに来たんですか?」
ぼくは訊いてみた。
「学食はメシを食うところでしょ。他に何をするって言うんだい? ナンパでもしようっていうの?」
「ぼくは槇さんとは違いますよ」
「俺はこんな所で女を引っかけたりしないよ」
そんなことを言った槇さんは、食券の自動販売機の前に行って何やらゴソゴソやっていた。
「俺、先に会場に戻ってるよ」
加嶋はそそくさと学食を出て行った。
味噌ラーメンと炒飯と三本の缶コーヒーをトレーの上に乗せて戻って来た槇さんは、「あれ? 加嶋は?」とぼくに聞きながら椅子に座った。
「会場に戻りましたよ」
ぼくはそう答えた。
「あらあら、すっかり嫌われちゃったみたいだわ。なんて可哀想なのかしら、あたしって……」
槇さんは暗い顔をしてうつむいた。
「別に嫌われてないですよ」
ぼくは笑いながら槇さんを慰めた。
「まあどうでもいいさ」
肩をすくめた槇さんはトレーの上の缶コーヒーを一本ぼくの目の前に置いた。カレーを食べ終わって口の中が気持ち悪かったぼくは、「いただきます」とさっそくそれを飲んだ後、「そっちのカフェオレのも下さい」と二本残っていたうちの一本に手を伸ばした。
槇さんは優雅に弧を描いている右の眉をちょっと吊り上げてぼくを見てから、軽く溜め息をついて割り箸を割った。
「四の字、コロッケ食う?」
槇さんはトレーの小皿に乗っているコロッケを指差した。
「相変わらずですねえ……」
ぼくは呆れてしまった。
「だって、おばちゃんがくれるって言うからさ。断ったら悪いでしょ? でも、俺はあんまりコロッケとかイモ類は好きじゃないんだよ。胸焼けするから」
うちの生協の学食のラーメンは、醤油でも味噌でも塩でもトンコツでも、種類にかかわらず、『チャーシュー・コロッケ選択制度』を導入していた。丼の中にスープと麺が入った後、自動的にシナチクとワカメとコーンが乗っかって、最後の仕上げに、「チャーシュー? それともコロッケ?」とおばさんが聞いてくれる。それで、「あ、チャーシューで」と言えばチャーシューを乗っけてくれるし、「コロッケお願いします」と言えばコロッケを乗っけてくれる。「コロッケ別皿で」と頼むと、コロッケが丼ではなくて小皿に乗っかって出て来る。
槇さんはここでも女性に異様にモテまくった。別に愛想を振り撒いているわけではない。周囲の人間と同じように仏頂面でトレイを持って普通に立っているだけで、チャーシューを選んでも、五回に四回の割合で、おばさんがわざわざ別の小皿に乗せたコロッケをおまけにつけた。天麩羅そばの食券一枚で油揚げやいなり寿司のおまけがついて来た。ひどい時には『鳥の竜田揚げ乗せ海老の天麩羅入りカツ丼』という、それこそ見ているだけで胸焼けしそうなスペシャルメニューを食べていたこともある。
「そういえば、あの頭とお尻の軽い女の子、どうした?」
ラーメンと炒飯を食べ終えた槇さんは、煙草に火をつけながら、ぼくに聞いた。
「別にどうもしませんよ」
コロッケを食べ終えたぼくが二本目の缶コーヒーを飲みながらそう答えると、槇さんは、ふうんと頷いた。
ぼくにあの子を押し付けられた永倉は別に何も言って来なかったし、ぼくも聞かなかった。まあ、適当にやっているのだろう。
槇さんは煙草をくわえて缶コーヒーを開けながら、「加嶋はデモ演奏みたいなことがやりたかったんだって?」とぼくを見た。
「そうみたいですね」
「四季くんはどうなの?」
「ぼくはあんまりそういうのはちょっと……」
「なんで?」
「なんか恥ずかしいですよ」
ぼくはさっき見かけたどこかの軽音楽部のバンドが、派手な衣装と奇抜な化粧でマイクに向かってローリング・ストーンズを絶叫していた姿を思い浮かべた。普段は冴えない人間でも、その時だけはロック・ミュージシャンになれるのだ。
「なるほど……」
「槇さんはどうなんですか?」
「なにが?」
「そういう、デモ演奏みたいなことは、好きじゃないんですか?」
「嫌いだね」
槇さんはあっさりと答えた。
「どうしてですか?」
ぼくは訊いてみた。
「俺は見知らぬ人様の前で、自分のマスターベーションを公開するほど悪趣味じゃないよ」
槇さんは目を細くしながら右手で煙草の煙を払って缶コーヒーを飲んだ。
「でも公開している人達はたくさんいますよ」
「それは向こうの自由だよ。好きにすればいいさ」
ぼくは缶コーヒーを飲みながら、昨夜風呂に入っていてふっと思いついたことを槇さんに言ってみたくなった。
「今の話と全然関係なくて、すごいくだらないことなんですけど……」
ぼくがそう口を開くと、槇さんはニヤニヤしながらこっちを見た。
「くだらないことが俺は世の中で一番好きだよ。聞いてあげるから言ってごらん」
「『ケニー・カークランドぐらいピアノが弾ける峰不二子みたいな女の子』はいないけど、『峰不二子ぐらいピアノが下手くそなケニー・カークランドみたいな女の子』って、探せば結構いると思いませんか?」
そう言ったぼくの顔をしばらくじっと見ていた槇さんは、「本当にくだらないなあ」と言いながら笑い出した。
「で、峰不二子はピアノは弾けるのか?」
「どうなんでしょうねえ?」
ぼくが首を傾げていると、槇さんは本当におかしそうな顔をして笑った。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
ぼくは笑いながら抗議した。
「お前は何を考えてるんだよ?」
「昨夜風呂に入っている時にちょっと思いついたので、今話してみました」
ぼくも一緒になって笑っていると、「世の中はくだらないことだらけだけど、俺はその手のくだらない話はかなり好きだよ」と槇さんは短くなった煙草を灰皿で消した。
* * *
大学祭でのジャズ研の活動は、小さな教室を会場に借りて、一応は『Jazz喫茶』みたいな体裁を取って、ソフトドリンクやアルコールなどの各種飲み物と、ポテトチップスとかポッキーなどのスナック菓子を出していたけれど、一般の学生やお客さんが会場に入って来ることは、ほとんど皆無に近かった。
ただ、人の出入りはやたらと激しかった。出入りするのは、うちのOBとか、普段から交流のある他の大学のジャズ研の現役部員とそのOBなどで、ほとんどが何かしらの関係者ばっかりだった。自称プロミュージシャンというような人も時々出入りしていた。
そして部室にある楽器やら何やらを持ち込んで、日が出ている間は、各自が適当に組んだバンドが交互に演奏し、日が暮れるあたりから、『さて、これからが本番』という感じで、続々と集まって来た関係者が手当たり次第に入り混じって朝方までアルコール漬けになり、延々とセッションを繰り返した。
うちの部は都内にあるいくつかの大学のジャズ研と昔から縁が深いらしく、ゴールデンウィークに横浜のライブハウスで開かれる『新入生歓迎セッション』や、年明けに部室で開かれる『新年おめでとうセッション』などには、大学祭と同じように、いろんな人間が顔を出して楽器を演奏しに来た。そんな感じだったから、ぼくにとってお馴染みの顔もあれば、一度も見たことのない顔もあった。
「すいません、つい飲み過ぎてしまいました。トイレってどこでしたっけ?」と顔面蒼白でフラフラしているやたら童顔の男の子が、他の大学の顔馴染の一年生部員の磯村くんだったり、「これ、少ないけど差し入れです」と一万円とシャンパン二本を渡してくれた人が三年前に卒業した他の大学のOBだったり、「こんばんは」と上品な女性にニコニコと挨拶されたので、「こんばんは」とぼくも笑って答えながら、この人はいったい誰の母親だろう、と考えていると、ステージでギターを弾いている他の大学のOBが連れて来た奥さんだったりした。
うちのOBでも、ぼくが名前と顔の一致している人は、普段から割と頻繁に部室に顔を出している柿崎さんとゴールデンウィークの時に見かけた何人かぐらいで、それが他の大学にまで及んで来ると、ほとんど誰が誰だか分からなかった。
だから、「きみはここの部員ですか?」と国枝さんに話しかけられた時、彼がうちのOBだとは分からなかった。
その時のぼくは、前夜祭から始まった連日連夜のアルコールの摂取と点心の食べ過ぎと睡眠不足が祟ってかなり疲れていて、仮設バーで鏡子さんが入れてくれた熱いコーヒーを飲みながら、セッションが続いている会場の隅っこの目立たない席に座っていた。
「そうです」
ぼくはそう答えて、目の前の国枝さんを何となく眺めた。
彼はとても痩せていた。全体的にゴツゴツとずいぶん骨ばった体つきをしていて、首が長くて極端な撫で肩だった。綺麗に坊ちゃん刈りにした頭が、アンバランスなほど大きかった。そして薄汚れてあちこちに綻びがある茶色いコーデュロイのダボダボのズボンに、真っ白なマジックテープのズック靴を履き、喉元まできっちりとボタンをはめた白いワイシャツの上に薄いベージュの作業服のような古びたジャンパーを着ていた。その古びたジャンパーにはあっちこっちに黒いインクの染みがついていて、胸のポケットのところに『国枝印刷』というオレンジ色のミシンの縫取りネームが入っていた。
ジャズ研の人達は『トレンディ』や『オシャレ』ではなかったし、『ブランド』にこだわる人もほとんどいなかったけれど、まあ、それなりに洗練されている人が多く、この目の前にいる国枝さんのような感じの人はいなかったので、ぼくはちょっと軽く戸惑ってしまった。だけど国枝さんは、ぼくのそんな戸惑いにはまったく気がつかないようだった。
「楽器はなんですか?」
国枝さんは綺麗に髭を剃った顔をほころばせた。笑うと目尻と口の両側に深い皺が寄って、とても無防備で人懐っこい顔になった。でも、国枝さんが年をとっているのか、それともまだ若いのか、ぼくにはよく分からなかった。
「ピアノです。あと、ギターとベースもちょっと弾きます。でも一番好きなのはピアノです」
ぼくがそう答えると、国枝さんは嬉しそうに頷いた。
「ぼくもピアノが一番好きなんですよ。ピアノはいいですね」
「でも、ピアノが一番難しくないですか?」
ぼくは思い切って訊いてみた。
「どうしてですか?」
国枝さんは不思議そうにぼくの顔を眺めた。
「ぼくはピアノを弾いている時に一番迷子になるし、コードもテンションを入れようとするとなかなか上手く押さえられないし、ソロの時は左手がお留守になることが多いんです」
ぼくがそう言うと国枝さんは面白そうに笑って無防備な顔を見せた。
「でも楽器の中ではピアノが一番簡単ですよ。そうは思いませんか?」
「どうしてですか?」
「管楽器や弦楽器と違って、鍵盤を押せば正しい音を出してくれるでしょう? ピアノはとても素直で優しい楽器ですよ」
それは確かにそうだ。でもそこから先が難しいのだ。音を出すだけだったら子供でも出来る。変な人だな。ぼくは目の前の人懐っこい笑顔を見ていた。
「コードは三つぐらい知っていれば大丈夫ですよ。押さえる時もソロを取る時も指が六本あれば何とかなるでしょう」
国枝さんは左右の親指と人差し指と中指を伸ばしてぼくに見せた。ぼくはギョッとしてしまった。国枝さんの言っていることにも驚いたけれど、もっと驚いたのが、彼の両手だった。
ぼくはそんな手を見たことがなかった。
国枝さんの両手は骨ばっていて相当ゴツゴツしていた。カサカサに乾いて白い粉みたいなものが浮き出していて、手の甲にも手の平にも、それから十本の指にも、ありとあらゆるところに無数のひび割れがあった。その十本の指の関節の皺には黒いインクが染み込み、爪はほとんどが割れるか潰れるかしていて、その割れるか潰れるかしている部分にも黒いインクが染み込んでいた。それは、単に手を洗っていないからインクがついている、というのではなくて、もうその黒いインクが皮膚に染み込んでしまい、幾ら手を洗っても取れるものではない、といった感じだった。ぼくは彼の手から目が離せなかった。
「ちょっとやってみましょうか?」
国枝さんはぼくを見てニコニコ笑うと、ヒョイと立ち上がり、ステージの脇で忙しそうに次のセッションの段取りをしている槌川さんのところに歩いて行った。ぼくは国枝さんのヒョロヒョロした後ろ姿をぼんやりと見送った。
彼の後ろ姿は、微かに斜めにかしいでいるような感じがした。
「早乙女くん」
ポン、と肩を叩かれたぼくが目を上げると、そこには缶ビールを持った背広姿の柿崎さんが立っていた。
柿崎さんの頬っぺたは相変わらず髭の剃り跡が青々としていて、ぼくはそれを見て何だかホッとして、軽く溜め息をついた。
「いつ来たんですか?」
「今来たんだよ。どうかしたのかい?」
「え? どうしてですか?」
「いや、何かぼんやりしていたみたいだから。何でもないんなら別にいいんだよ」
笑いながらステージに目を向けた柿崎さんは、「あれ?」と首を伸ばした。
「国枝さんじゃないか」
「国枝さん?」
「ほら、あのベージュのジャンパーを着て槌川と話している人がいるだろう」
「ぼくと今までここで話をしてました。柿崎さん、知ってるんですか?」
ぼくがそう訊くと、柿崎さんは、「なんだ。知らなかったのかい?」と面白そうに笑った。
「国枝さんはうちのOBだよ」
「そうなんですか?」
「そうだよ。俺が一年生だった時に四年生だったんだ。でも国枝さんは三年留年したからね。良く知ってるよ」
「そうなんですか」
ぼくが驚いていると、柿崎さんは頷きながら缶ビールを飲んだ。
「それにね、俺の姉貴と国枝さんの姉さんが高校時代のクラスメートだったんだ」
「へえ……」
「ずいぶん久し振りだなあ……」
リフ帳を渡そうとした槌川さんに、いらない、という感じで首を横に振った国枝さんは、何にも持たずに手ぶらのままピアノの前の椅子に座り、うつむいて背中を丸め、右手の人差し指で鍵盤をあっちこっち押していた。
「あれ? 国枝さんがピアノを弾くのかな? それなら俺も入って来よう」
テーブルの上に飲みかけの缶ビールを置いて背広の上着を脱いだ柿崎さんは、大急ぎで鞄の中から自分のスティックとブラシを取り出し、槌川さんのところに行ってちょっと話しかけてからドラムを指差した。槌川さんが頷くと、柿崎さんはピアノの前の国枝さんのところに行ってあれこれと話しかけていた。柿崎さんが口を開いて何か言うたびに、国枝さんはニコニコして何度も頷いていた。
田所先生は本当はプロのピアニストになりたかった人だった。でも、ある時、自分は駄目だなと感じたことがあったという。それは誰かの演奏を聴いてそう感じたとか、技術的に劣っているとか、何か具体的なきっかけがあったから、ということではなかったらしい。
「どうして駄目だと思ったんですか?」
ぼくは田所先生に聞いてみた。
「ある日、食事をしていた時に、ふと、『あ、プロのピアニストにはなれない。私は駄目な方だ』と分かってしまった」
「何が駄目なんですか?」
そう尋ねたぼくに、田所先生はこんなことを言った。
「何かが足りない。楽譜を忠実に音に直して行くだけでは、プロとしてはやっていけない。よく言われることだが、ある場所に到達するためには、血の滲むような訓練以外に、絶対的な『何か』が必要とされるんだ。技術よりもむしろその『何か』の方が重要だ。でもその『何か』は努力して手に入るものではない。ピアノに限らず、一流の表現者には、その『何か』が必ず備わっている。そして本人はそのことに気付いていない場合が多い。口には出さなくても、自分には『何か』がある、という意識を持っている表現者はとても多いが、それはだいたい自意識過剰なニセモノだ。そういう人間はとても恥ずかしい存在だ。残念ながら私もその中の一人だった」
「それじゃあ、ピアノの練習をすること自体、何だか無駄なような気がします」
ぼくがそう言うと、田所先生は恐い顔をして、「それとこれとは別問題だ。練習を疎かにしてはならない。特に基礎練習をさぼることを私は絶対に許さない」とぼくを睨んだ。
「自分には『何か』がないと自覚していてそれを持続することにも、また別の大きな意味がある。何をするにも継続が必要だ。決してそれを忘れてはいけない」
「大きな別の意味って何ですか?」
ぼくは田所先生の言葉の意味が良く分からなかった。
「それは時期が来れば自然とわかる。今のきみに必要なことは、考えることではなくて練習をすることだ。練習をしなさい。特に基礎練習をしっかりやりなさい。それをやらなければ何も始まらない」
最後に田所先生はそんなことを言った。ぼくは「はい」と返事をした。
国枝さんの演奏を聴いた時に、ぼくは田所先生と交わしたやりとりを思い出した。先生が言った『何か』を、ぼくははっきりと見たような気がした。
それは簡単な十二小節のFのブルースだったけれど、ぼくは今でもその時の演奏をはっきりと思い出すことが出来る。
同じ楽器でもそれを弾く人が代わるとこうも違うのか、とぼくは圧倒された。国枝さんのピアノの弾き方は、ぼくのようにクラシックから入った人間から見れば、もう滅茶苦茶もいいところだった。もしも癇の虫の田所先生がこの場にいたら、頭の血管が切れて憤死してしまうかもしれない。
でも、そんな『弾き方』なんて、国枝さんにとってはまるで関係のないことなのだ。田所先生が口を酸っぱくして言う『基礎練習』なんてどうでもいいことなのだ。ぼくが読んでいる、赤本青本みたいな教則本に書いてある細かい音楽理論などは、つまらない些細なことなのだ。そんなものはあってもなくても、まったく関係のないことなのだ
もちろん十本の指を全部使ってはいたけれど、きちんと動いていたのは、国枝さんがぼくに見せた六本の指だけで、残りの四本はその補助的な役割を果たしていただけだった。国枝さんはその言葉通り、三つのコードを基本にして、あとは周りの楽器の音に合わせてテンションを加え、状況に応じてあらゆる音を作った。国枝さんは、その音の選び方と音を出す時のタイミングが絶妙だった。
恐らくそういうものは、一流ミュージシャンの演奏をコピーするとか、毎日何時間もかけて音階練習をするとか、メトロノームに合わせてリズムを覚えるとか、そういったことよりも遥か以前のものだとぼくは思った。
例えばそれは、ある種の画家が目の前に広がっている海の色を一目で決めてしまうように、ある種のバッターが飛んでくるボールの中からその一球を選び出すように、野生動物が獲物を仕留めるタイミングを遺伝子の中にあらかじめ持っているように、彼にとっては音を選んで出すことは、ごく自然なことなのだ。
トランペットやサックスやトロンボーンやギターが入れ替わり立ち代り入って来てはソロを取って行き、その場は何か異様な熱気に包まれていた。
引っ切りなしに押し寄せてくる音の洪水に飲み込まれて、『B♭』や『E♭』や『G♭』を含んだピアノの音が鳴る度に、ぼくの胸の奥底で何かがざわめき、『B』や『E』や『G』を含んだピアノの音が鳴る度に、ぼくの全身は波立った。
部室に残っているあのピアノを壊した人は国枝さんだ、とぼくは思った。
「あれ国枝さんじゃない?」
「本当だ。いつ出て来たのかな?」
ふと我に返ったぼくがその会話の方に顔を向けると、すぐ横に何となく見覚えのあるうちのOBが二人で立っていた。
「すごいよね」
グレーの背広を来たOBがぼくに言った。
ぼくが黙って頷くと、今度は黒いタートルネックのセーターを着て煙草を吸っていたOBが、煙草を挟んだ指先で自分の右のこめかみを軽くトントンと突っついた。
「でも、あの人、ちょっとここがイカレちゃってるらしいよ」
「え?」
「いくら才能があったって、頭がおかしいんじゃ、どうしようもないよね」
黒いタートルネックのセーターは言葉を失っているぼくを見て軽く笑った。
国枝さんが精神病院の入退院を繰り返していることを、そういう言い方ではなくて、ぼくにきちんと教えてくれたのは、やっぱり柿崎さんだった。
「黒いタートルネックのセーターが言っていたことはどういうことですか?」
そう問いかけたぼくに、「国枝さんは精神病院に何回か入院したことがあるんだよ」と柿崎さんは言った。
「でも、国枝さんの病状がどういう種類のものなのか、詳しいことは俺にもよく分からないんだ」
そう言って柿崎さんは黙った。ぼくもそれ以上は訊かなかった。というよりも訊きたくなかった。ただ、黒いタートルネックに対してぼくはひどく腹を立てていた。そういうことを口にする人間が本当に嫌だった。自分が耳にすることも嫌だった。でも本当はそれを柿崎さんに訊いた自分が一番嫌だった。とにかく不愉快だった。
「まあ、いろんな奴がいるからね……」
「でも国枝さんのピアノが凄いのと、そういうのとは関係がないと思いますけど……」
「まあね……」
柿崎さんはぼくの言葉に頷いていたけれど、ちょっと歯切れが悪かった。
「国枝さんに失礼ですよ」
「それは、まあ、そうだね。でも……」
柿崎さんは少し困ったような顔をして、青々とした頬っぺたの髭の剃り跡をポリポリと掻いていた。
「でもね、まあ、国枝さん本人は、多分、全然気にしてないと思うんだよ」
「そうなんですか?」
柿崎さんは「うん」と頷いてネクタイを外しながら、「どうも仕方がないなあ……」と言って軽く溜め息をついた。
この「どうも仕方がないなあ……」という言葉を柿崎さんは実によく口にした。ぼくはゴールデンウィークの一件の時もそう言われたし、今も耳にした。ぼくが「本当に仕方がないですよね」と言うと、柿崎さんはまたポリポリと頬っぺたを掻いて、もう一度、「どうも仕方がないなあ……」と呟いてからトイレに行ってしまった。
柿崎さんと話して少し気持ちがおさまったぼくが、セッションが続いている会場に戻って、コーラでも飲もうと仮設バーの冷蔵庫をガタガタいじっていると、すぐ近くの裏口から鏡子さんが真っ青な顔をして入って来て、目隠し変わりに机を積み重ねて作った楽屋に入りかけた。ぼくが驚いて見ていると、その後から槌川さんが、「おい、ちょっと待てよ」とすぐに入って来て、鏡子さんの肩をつかもうとした。近くのテーブルで、差し入れのシャンパンを飲んでいた永倉や武田さんや宮本さんも、驚いて二人に目を向けていた。
鏡子さんと槌川さんは一年生のころから付き合っているようだったけれど、みんながそのことについて特に話をしたり噂をしたりすることはなかったし、鏡子さんも自分のプライベートなことを口にしたり匂わせたりすることは、決してしなかった。槌川さんも、まあ、大体そうだったけれど、ソファーに座っている鏡子さんの隣のスペースが空いていたりすると、他に座るところがあっても、たまに横に座ったりすることがあった。ただ、ぼくが見ている限りでは、鏡子さんはそういうことに抵抗があるようで、槌川さんが横に座るとさりげなく少し離れた場所に移動したりしていた。
鏡子さんと槌川さんがどういう付き合い方をしているのか、ぼくはあまり知りたくなかったし、実際のところ、ほとんど知らなかった。
槌川さんは鏡子さんがベージュのトレンチ・コートに袖を通して黒いショルダーバッグを肩にかけると、「お前、ちょっといい加減にしろよ」と鏡子さんの左腕をつかんで、「だから俺の所に泊まればいいじゃないか」と小さな声だけれどかなりきつい言い方をした。「だからそういうのは嫌なのよ」と鏡子さんも小声ではっきりと言い返した。
ぼくは永倉や武田さんや宮本さんと一緒に、お地蔵のように凍りついて二人のやりとりに耳を澄ませていた。
どうやら鏡子さんは終電がなくなる前に家に帰ると言い張り、槌川さんはOBや他の大学の人達がまだたくさん残っているのに迎える側の人間が先に帰るのは失礼だ、と怒っているらしかった。
前夜祭の夜も初日の夜も、そして昨日の夜も、鏡子さんは終電がなくなるギリギリの時間まで会場にいて、タイムリミットが来ると一人で自宅に帰っていた。鏡子さんの自宅は東急の東横線沿線にあって、大井町線沿線にあるぼくの家と近かった。
前夜祭の夜、会場の裏口からトレンチコートを着てショルダーバッグを持った鏡子さんと、茶色い皮ジャンを来た手ぶらの槌川さんが出て行くのをたまたま見かけたぼくは、てっきり槌川さんが鏡子さんを送って行くものだと思い込んでいた。キャンパス内には酔っ払った学生がたくさんウロついていたし、大学から最寄駅までは結構距離があったし、鏡子さんの自宅がある場所は閑静な住宅街で、夜になると極端に人通りが少なくなるような所だったからだ。
でも、わずか数分後に槌川さんは会場に戻って来た。そしてうちのOBや他の大学の人達から、「津田さんは?」と訊かれて、「すいません、帰りました」と頭を下げていた。
槌川さんはずいぶん強引に鏡子さんを引き止めていた。
「最終日ぐらい朝まで残ったっていいだろう」
「最終日ぐらいとかそういうことじゃないのよ。とにかく嫌なのよ」
「なんで嫌なんだよ」
槌川さんが鏡子さんに詰め寄った。
「だからそれはさっきちゃんと説明したでしょう。みっともないことをするのはいい加減にやめてよ」
青ざめた鏡子さんはつかんでいた槌川さんの右手を振りほどこうとしたけれど、槌川さんはその手を離さなかった。
鏡子さんは本来はピアノのひとだったけれど、ベースやギターやドラムもそこそこ弾いたり叩いたりすることが出来たから、もちろん居てくれた方が何かと都合が良かった。槌川さんは部長だし、そう考えたくなるのも分からないではなかった。
でも、ぼくは槌川さんが鏡子さんをしつこく引き止める理由がどうもそれだけではないような気がした。その理由が何なのかは、ぼくにも良く分からなかったけれど、ただ漠然と何か違うんじゃないか、何か変だな、と感じたのだ。
「帰った方がいいですよ」
ぼくは本当はそう言いたかった。青ざめた鏡子さんの顔を見るのはつらかった。
でも、何しろそういう間柄の二人のやりとりだし、口を挟むのもどうかと思って黙っていた。永倉や武田さんや宮本さんも、戸惑った顔でじっとしていた。
結果的にこの場を救ってくれたのは、柿崎さんと国枝さんだった。
「ビール貰える?」
柿崎さんが国枝さんと一緒に仮設バーにやって来た時、張りつめていた空気がホッと緩んだ。真っ青な顔で立っている鏡子さんの腕をつかんで黙りこくって憮然としている槌川さんを、柿崎さんはチラリと見たけれど別に何も言わなかった。国枝さんは柿崎さんの隣でぼんやりと立っていた。
ぼくは冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して一本を柿崎さんに渡した。国枝さんは受け取らなかった。
「ありがとう。でもぼくは、明日の朝早くから仕事があるのでこれから帰るんです。だからビールはいらないですよ」
首を横に振った国枝さんは、トレンチコートを着ている鏡子さんに目を向けた。
「あなたも帰るところですか?」
「はい」
鏡子さんは青い顔で頷いた。
「一人で帰るんですか?」
国枝さんは妙な顔をして鏡子さんを見た。
「そうです」
鏡子さんが頷くと、また妙な顔をした国枝さんは、今度は槌川さんをしげしげと見てからこう言った。
「きみは気持ちが悪いですね」
国枝さんは人懐っこい顔でニコニコと笑った。
ぼくを含めて、その場にいた大方の人間は凍りついた。柿崎さんは青々とした髭の剃り跡をポリポリと掻きながら黙ってビールを飲み、鏡子さんの青い顔はいっそう青くなり、槌川さんは驚いたような顔で国枝さんを見ていた。
首をかしげた国枝さんは、また妙な顔をして槌川さんをしげしげと見ていた。槌川さんはつかんでいた鏡子さんの腕を離した。
「やっぱり、きみは気持ちが悪いですよ」
槌川さんは唖然として言葉が出て来ないようだった。まるで棒でも飲み込んだようにその場に立っていた。それはぼくもそうだったし、もちろん周りのみんなもそうだった。違うのは当の本人の国枝さんと、その傍らに立って黙ってビールを飲んでいた柿崎さんと、泣き出しそうな顔をした鏡子さんだった。
ぼくが見る限り、国枝さんは槌川さんを非難しているという感じではなかった。
ご飯を食べていない小さな子供が、「おなかが減った」と言うように、自分が感じたことをそのまま「気持ちが悪い」と素直に言葉にしたような、そんな感じだった。柿崎さんは黙っていたけれど、その沈黙は、槌川さんや鏡子さんや、ぼくや周りのみんなの沈黙とはかなり質が違うような気がした。でも、何がどう違うのか、ということが、ぼくには分からなかった。
槌川さんに向かってそんなことを言った国枝さんは、鏡子さんを見てニコニコと笑った。
「まあ、いいですよ。あなたはぼくと一緒に駅まで行きましょう。女の人がこんな時間に一人で夜道を歩くのは危ないですから。ちょうど良かったですね」
ニコニコと笑っている国枝さんを、鏡子さんは涙をこらえたような顔で黙って見ていた。
「それじゃあ、みなさん、お休みなさい」
国枝さんは坊ちゃん刈りの大きな頭をペコンと下げた。そして、「それでは行きましょう」と言って、あっという間に鏡子さんを連れて会場を出て行ってしまった。
* * *
会場のある三号館の入口の階段に腰を降ろして、ぼくはぼんやりとコーラを飲みながら、凍りついていた永倉や武田さんや宮本さんの顔や、唖然として立ちすくんでいた槌川さんの顔や、黙ってビールを飲んでいた柿崎さんの顔を思い返した。
あのひとは一体何なんだろう?
ぼくは、国枝さんの不思議な容貌や、『国枝印刷』の刺繍の入ったジャンパーや、不自然過ぎるほど大きな頭や、ボロボロに荒れ果てた十本の指や、ピアノの音色や、「気持ちが悪い」と言った時の無防備で人懐っこい笑顔や、風のようにあの場から鏡子さんを連れ出した時の少し傾いだ枯れ木のようなヒョロヒョロした後ろ姿を思い返した。
キャンパスのあちこちで小さな焚き火がチラチラと揺れていた。恐らく解体した屋台の骨組みの木か何かを、一斗缶に入れて燃やしているのだろう。
目の前では最終日の打ち上げをしているテニスやスキーサークルの学生達が、屋台の前で大酒を飲んで大騒ぎをしていた。その中にはかなりの数の女子学生の姿もあった。酔っ払って黄色い声をあげているとても楽しそうな彼女達を、ぼくは見るともなしに見ていた。
その喧騒の中を、ひときわ背の高い、均整の取れた体つきをした一人の男がうつむいてゆっくりと歩いて来た。槇さんはぼくに気がつくと、よおといったような顔をしてぼくの隣に腰を降ろした。そしてぼくが持っていたコーラを見ると、「ちょっとくれ」と手に取って、ゴクゴクと喉を鳴らして全部飲んでしまったあと、目の前で延々と続いている馬鹿騒ぎを黙って眺めていた。
缶ビールを持った三人の女の子がぼくと槇さんの方に歩いて来て、ちょっと離れたところで何やらコソコソと話を始めたのは、それから三十分ぐらい経ってからだった。隣に座っていた槇さんは、深く折り曲げた自分の両膝の上に頬杖をついて、じっと目をつぶっていた。
ぼんやりと彼女達を眺めていたぼくは、その中の体にピッタリとあった赤いニットのセーターを着た女の子と目が合った。彼女はぼくに向かって笑いかけると、残りの二人の女の子と一緒にこっちに歩いて来た。
「あの、良かったら一緒に飲みませんか?」
ぼくは黙って彼女の顔を眺めていた。それを聞こえなかったのだろう、と勘違いした赤いニットは、どこかのブランドらしいスカーフをヒラヒラさせた女の子と、大きな金ボタンがやたらとついている黒いワンピースを着た女の子の方を見てから、もう一度、「良かったら、私たちと一緒にビールでも飲みませんか? この子、ミスコンで入賞したんですよ」とヒラヒラを指差した。ヒラヒラは、「もう、それは言わないでって、約束したでしょ」と言った。風が吹いていないのに、スカーフはヒラヒラしていた。
「ビール飲んでからどうするの?」
それまで頬杖をついて目をつぶっていた槇さんが、ヒラヒラに向かって口を開いた。
「え?」
「ビール飲んで、終わり?」
槇さんの綺麗な顔にじっと見つめられたヒラヒラは、顔を赤らめて少し口ごもった。
「それは飲んでみてからじゃないと……」
ヒラヒラは恥ずかしそうに笑った。
「飲んでみてから、するかしないか決めるの?」
槇さんは綺麗な顔を崩しながらヒラヒラの顔を覗き込み、ウールの黒いズボンの後ろポケットから煙草を取り出して火をつけた。
ぼくは槇さんを横目で見た。
槇さんは世間で言うところの、いわゆる『ザル』『底なし』の部類の人で、いくら飲んでも顔色一つ変わらないし、ぼくは槇さんが本当に酔っ払っているところを今まで一度も見たことがなかった。大酒を飲んでろくでもないことを言ったり、馬鹿騒ぎをしたりしていても、ぼくはいつも、ああ、見られているな、と槇さんの笑いを含んだ視線を体のどこかに感じた。槇さんはいつもどこかで醒めていた。
でも、ぼくの隣にいる今の槇さんは本当に酔っているようだった。呂律が少し怪しかったし、ヒラヒラを見ている槇さんの目は妙に平坦で表情がなかった。
「幾ら?」
槇さんは面倒臭そうに煙草をくわえたまま、ウールの黒いズボンの後ろポケットから今度は財布を取り出した。
「え?」
ヒラヒラは槇さんが何を言ったのか分からないようだった。ぼくも分からなかった。
「きみは幾らなの?」
ヒラヒラは赤いニットと金ボタンの方を見た。赤いニットと金ボタンは顔を見合わせて硬直していた。ぼくも硬直していた。
「どっちにしてもするんでしょ? 四の字、今、幾ら持ってる?」
槇さんは煙草をくわえたまま、目を細めてぼくの顔を見た。
「え?」
ぼくは言われるままにGパンのポケットに入っていたお札と小銭を引っ張り出した。
「きみだったら、これぐらいが相場かな?」
槇さんはぼくの手の平から百円玉をつまみあげてヒラヒラに見せた。
「きみたちも、まあ、こんなもんでしょう」
自分の財布から二つの百円玉をつまみ出した槇さんは、唖然としている赤いニットと金ボタンにそれを見せた。
「どういう意味ですか?」
赤いニットは憤然と怒り出した。
なんてまあすごい顔だろう。ぼくは目の吊り上がった赤いニットの顔を眺めた。
「そういう意味なんですけどねえ……」
槇さんは黙って赤いニットの顔をじっと眺めていた。ぼくは黙って槇さんの表情のない綺麗な横顔を見ていた。
このひとは、今、猛烈に怒っている。
槇さんの怒りの対象は、槇さんが意識しているのかしていないのかは分からないけれど、目の前の赤いニットやヒラヒラや金ボタンなどではなくて、何かもっと、正体の分からない、目に見えない、ぼくや槇さんの手には負えないような、何かわけの分からない大きなモノなのではないか、とぼくは漠然と感じた。そしてそれに対していくら怒りをあらわにしても、例えば大声でわめき叫んだり、何かを滅茶苦茶に壊したり、立ち直れないぐらい人を傷つけたりしても、結局はどうにもならなくて、そのどうにもならないことに対しても、槇さんは怒っているのではないか、と思った。
ただ、その怒りの対象の正体が一体何なのか、という一番肝心な部分が、ぼくには分からなかった。
ヒラヒラと金ボタンが、「この人おかしいよ」「もうあっち行こうよ」と赤いニットの腕を引っ張った。それでも赤いニットはぼくと槇さんを睨みつけていたけれど、結局、ヒラヒラと金ボタンに引きずられるようにして喧騒の中に消えて行った。
「馬鹿どもが」
槇さんはそう吐き捨てるように呟いたあと、短くなった煙草を空になったコーラの缶の中にポトンと落としてぼくに百円玉を返し、「よっこらしょ」と立ち上がった。
「俺はアパートに帰って寝るよ」
槇さんはぼくを見下ろして笑ってから、ブラブラと階段を下りて行った。ダークグレーのVネックのセーターに包まれた広い肩幅が遠ざかって行くのをぼくは黙って眺めていた。それはまもなく喧騒に紛れ、次第にぼんやりとして行き、やがて見えなくなった。
外はずいぶん冷え込んでいた。会場になっている教室からは相変わらずトランペットやサックスの音が聴こえて来たけれど、もうそこには戻りたくなかった。
ぼくは大きく深呼吸をしてから立ち上がり、そのまま会場には戻らずに部室に行った。そして誰もいないその場所で、ソファーの上に放り出されていた寝袋の中にもぐり込んだ。
「きみは気持ちが悪いですね」
「やっぱり、きみは気持ちが悪いですよ」
国枝さんの声が耳から離れなかった。体の芯が熱を帯びていた。そしてひどく頭が痛かった。