一九八九年 春
『黄昏の道を歩いているすべての人たちへ』
◆コカコーラ・ベイビーズ
①コカ・コーラを日常生活の中で当たり前のように飲むようになった世代。
②空虚さと違和感を抱えた分裂・拡散・浮遊の世代。
(V・V・アプサンス著/園田博一訳『統一的明日はあるか?』一九七二年より一部抜粋)
ジョン・レノンの奥さんがオノ・ヨーコだということを、ぼくがいつから知っていたのかということを、ぼくは知らない。
もちろん学校で習ったという記憶は全くない。だから『ジョンとヨーコ』をどうして知っているのか、と誰かに尋ねられたら、いつからビートルズを知っているのか、と尋ねられるのと同じように、ぼくはきっと戸惑ってしまうだろう。気がついたら知っていた、という表現が一番ぴったり来る。ビートルズや『ジョンとヨーコ』をリアルタイムで経験した人達には、その存在に相当な思い入れがあるようだけれど、ぼくの中にはそういうものはほとんどない。
ぼくにとって、『ジョンとヨーコ』を知っているということは、太陽が東から昇って西に沈むとか、春になったら桜が咲くとか、喉が渇いたら水を飲み、お腹が減ったら物を食べる、というようなことを知っていることと同じことだ。
だからジョン・レノンの奥さんがオノ・ヨーコだということを知らなかった人に初めて逢った時は、ぼくは本当に心の底からびっくりした。例えばそれが、百歳を過ぎているお爺ちゃんとかお婆ちゃんとか、生まれたての赤ちゃんとか、そういう人が知らなかったらぼくも驚かないだろう。でも、その人はぼくよりも数年だけ長く生きて来て、曲りなりにも楽器を演奏する人だった。だから余計にその人が、『ジョンとヨーコ』を知らなかったということが、ぼくにとってはかなりの衝撃だった。
ぼくが大学に入った年に、父がワシントンに転勤になった。母は日本に残りたいと言ったけれど、夫婦は一緒にいるものだ、一緒に来なさいという父の鶴の一声で、母は父にくっついて泣く泣くアメリカ行きの飛行機に乗った。
「ぼくは兄貴と一緒にこの家に住んで、ここから学校に通うよ」
ぼくが高校を辞めた次の年に、東京のど真ん中にある父の母校の都立の進学校に入学した真澄はそう訴えたけれど、父は頑として首を縦に振らなかった。
素行の点で真澄は父にまるで信用がなく、真澄はずいぶん頑張ったけれど、結局表参道にある父の会社の独身寮に強制的に入れられた。門限も食堂もあり、洗濯や掃除もすべておばさんがやってくれるその独身寮は、父の部下だった人がたくさん住んでいて、真澄が少しでも何か悪さをすれば、すぐにワシントンにいる父の元に連絡が行くようになっているらしい。
真澄の生活に父が目を光らせているのには、まあ、それなりの理由がある。真澄は高校一年生の時に、二回ほど、一週間の停学処分を受けていた。
一回目は、高校に入ってまだ間もない頃、大学生と称して、頻繁に出入りしていた新宿の麻雀屋で主催された結構大きな大会に遊び半分で参加したところ、真澄はあっさりと準優勝して賞金五十万円を手に入れた。
本来ならそこで、「良かったね」で終わる予定だった。でも取材に来ていた麻雀専門誌に、くわえ煙草で牌をかき混ぜている真澄の写真がカラーグラビアで大きく載ってしまい、その麻雀専門誌を真澄の高校の教師がたまたま定期購読していたために事が発覚してしまった。学校から呼び出しを受けた母は、「申し訳ありません」と頭を下げて平謝りに謝った。
「高校生の分際で、煙草を吸って雀荘に出入りするとは何事だ! 馬鹿者!」
父の逆鱗に触れ、ビンタを数発貰った上に、賞金の五十万円を没収されてしまった真澄は、半泣き状態で、『二度と煙草を吸いません。麻雀屋にも行きません』という文章を、キッチンテーブルに座って腕組みをしている父の前で、レポート用紙に延々と書かされた。
二回目は、神田の古本屋街で無修正のエロ本を安く大量にまとめ買いして来て、そこに幾らか上乗せし、校内でひそかに販売ルートを作って大儲けしたらしい。これは真澄からエロ本を買った生徒の一人が教育実習生に転売し、その教育実習生がエロ本を持っているところを彼の指導教諭が見つけて、事が露呈してしまった。
この時は学校から父の会社に連絡が入った。
「お父さん、こういうものに興味を持つこと自体は健全な証拠ですが、学校で商売をされたら困ります」
慌てて駆けつけた父は、職員室でたくさんの教師が見守る中、何冊もの無修正のエロ本を次から次へと見せられて、顔から火が出る思いをしたらしい。
「何を考えてるんだ! この大馬鹿物者が!」
やっぱり父に売り上げの二十万円近くを没収された挙句、今度はグーの鉄拳まで何発か貰ってしまった真澄は、また半泣き状態になって、『いかがわしい雑誌を売買することは二度としません。学校で商売することも二度としません』という文章を、キッチンテーブルに座って腕組みをしている父の前で、レポート用紙に延々と書かされた。
その日の深夜、ぼくが自分の部屋のベッドに寝っ転がって、ヘッド・フォンでポリスを聴きながら安吾の『二流の人』を読んでいると、頬っぺたを腫らした真澄がしょんぼりと入って来た。まだ手のつけてないエクレアがあったので、「エクレアがあるよ」と言ってみると、真澄はベソをかきながらぼくの椅子に腰を下ろし、机の上にあったエクレアを三つとも全部食べてしまった。
そんなわけで、真澄は自分の動向に目を光らせている父のスパイがウヨウヨいる場所で窮々とした生活を送り、ぼくは世田谷の家で一人でのんびりと住むことになった。真澄は息苦しさが飽和状態に達すると、「一緒にメシでも食べない?」と電話をかけて来た。
ある日、真澄と一緒に渋谷で夕食を食べている時に、「ジョン・レノンの奥さんが誰だか知ってる?」と尋ねたら、「オノ・ヨーコでしょ」とあっさりと答えて、「なんで?」と怪訝な表情で訊いてきた。真澄はテレビとか街中で流れている音楽を無意識に耳にしているぐらいで、自分の意志ではいっさい音楽を聴かない。
「別に理由はないよ。ただ、真澄は知ってるかなって思っただけだよ」
「知ってるよ」
「なんで知ってるの?」
「なんでって、そんなことは知らないよ」
「そうだよなあ」
ぼくが曖昧に頷いていると、「なんでもいいけど、そのコロッケ食べないんならちょうだい」とぼくの皿のカニクリームコロッケに手を伸ばした真澄は、あっという間にそれを食べてしまった。
* * *
ぼくが通う大学の中で一番大きい生協の学生食堂が入った建物は、ちょうど学内の中心部にあって、建物の前の中央広場にはいつもたくさんの学生がうろついている、とてもにぎやかな場所だ。でもその建物の地下に、まるで時代から取り残されたような雰囲気を漂わせている一角があったことを、知らないまま卒業していく学生も決して少なくない。
そこは主に、空手部とかレスリング部とか剣道部とか応援団といったような、体育会の室内系のクラブが集まっている場所で、それらのクラブの部室や道場は、東西に吹き抜けになっているコンクリートの廊下の両側にずらりと並んでいる。
そして男子用のシャワー室や洗濯場などもあるせいか、いつもジメジメと湿気ている感じで、切れかかった蛍光燈は常にチカチカと鬱陶しく点滅していて、かなり天気のいい昼間でもいつも薄暗かった。その通路をうろついているのは、やたら屈強な体つきをしたシャワー上がりでご機嫌な全裸の兄ちゃんだったり、真夏でも膝下まである長ランをきっちり着込んで先の尖ったピカピカの靴を履き、すれ違うと必ず立ち止まって、礼儀正しく「押忍!」と挨拶をしてくれる応援団の人達ぐらいだった。だから、当時もてはやされていた『女子大生』の代表格のような英文科の女の子などは、まず通ったりしない。
カビの生えた灰色のコンクリートの壁には、『アメリカ帝国主義粉砕』とか『6・25自治会決起集会開催』とか『三里塚勝利闘争続行せよ』などという、いつの時代だよ、という感じのビラがあっちこっちに貼られていて、それはご丁寧にも時々張りかえられているようだった。というのも、内容をいちいちチェックしなくても、時々、壁のビラが水糊で湿っていることがあるからだ。今時、一体どんな奴らがこんなビラを貼っているんだろう? 常日頃から不思議に思っていたぼくは、一度、同期の永倉と一緒に、一週間近く部室に泊り込んで張り込みをしたことがある。ご苦労なことだ。でも、結局、大学を卒業するまでの間に、実際にビラの貼り替え現場を目撃することは出来なかった。
当時、世の中は『トレンディ』などという言葉に象徴されるようなとても清潔でお洒落な感じの生活形態が流行っていたけれど、ぼくはそういう世間の風潮が何かとても不自然で気持ちが悪くて、生理的にどうしても好きになれなかった。それは今でも変わらない。でも、ぼくの存在していた世界にも、ぼくが望むと望まないとにかかわらず、それらの波というか翳みたいなものがヒタヒタと押し寄せて来ていて、「なんだろう? これは一体なんだろう?」と考えているうちに、ぼく自身もその波とか翳のようなものに飲み込まれてしまっていた。あっ、と気がついた時は、既に飲み込まれてしまった後で、もうどうにもならなかった。
だからというわけではないけれど、バブルがはじけて、不良債権、粉飾決済、社会不況だリストラだとマスコミが騒いで煽り立てた時も、「へえ、バブルってはじけたんだ。だから何だよ。自分達でやったことは自分達でしっかり後始末をしてくれよ」という感想を持ったぐらいで同情する気持ちは起こらなかった。
そんな『トレンディ』な時代が来る前の時代を掃除した雑巾の絞りかすのような場所の片隅に、ジャズ研の部室があった。
ぼくが大学に合格して、トランペットを吹いているマイルスのヨレヨレになったポスターの上に、『ジャズ研究会』とプレートが貼り付けられた、青いペンキで塗られた分厚い木の扉を開くまでには、実はちょっと時間がかかった。入学式の当日の朝に、学内にポツポツと貼られた『ジャズ研・部員募集・初心者歓迎・生協学食地下一階』と黒い油性マジックでぶっきらぼうに書かれたポスターを見て、一応その場に足を運んだものの、その一角のあまりのいかがわしさに、ぼくは正直気後れしてしまった。
青ペンキの扉にはガッチリとしたダイヤル錠がぶら下がり、室内に人のいる気配はまったくなかった。地上のお祭り騒ぎのようなにぎやかさとは正反対で、そこはまるでゴーストタウンのような不気味な静寂に包まれていた。おまけに隣の部室の真っ黒いペンキで塗られた汚いドアには、『部落解放研究会』と白いペンキで書かれた怪しげな表札がかかっていた。
いくらなんでもこれはちょっとなあ。
ぼくはいったん出直すことにして、その時は扉を触りもせずに引き返して来てしまった。
新入生に対するサークル勧誘はとにかく強引で、ぼくはずいぶん戸惑うことが多かった。
おそろいのジャンパーを着たテニスやスキーのサークルからは歩くたびに声をかけられてチラシを手渡され、レポート用紙に名前と住所を何度書いたか分からないけれど、みんな似たような感じで、どれがどれだかさっぱり区別がつかなかった。
中には「社交ダンス部なんですけど……」とか「忍術研究やりませんか?」とか「手品サークルなんだけど、入らない? コンパで女の子にモテるよ」とか、そんな風変わりなサークルも声をかけて来た。
そんなサークル勧誘で学内が浮き足立っている中で、ぼくは、『比較哲学研究会』という頭の良さそうな名前のふざけたサークルの勧誘に引っかかって、ひどい目に遭ってしまった。
すいぶんといろんなことをするサークルがあるものだ。
入学式が終わったお昼頃に、いささかあきれかえって中央広場でぼんやりとコーヒーを飲んでいたぼくは、突然背後から「こんにちは」と声をかけられた。
驚いて振り向くと、そこには綺麗なサーモンピンクのスーツを着てきちんと化粧をした小柄な女の子が立っていて、ぼくと目が合うと丁寧な口調で、「サークルはもう決まりましたか?」と微笑んだ。
「いえ、まだですけど……」
「そうですか。あのう、もし良かったら、うちのサークルを覗いて見ませんか?」
彼女は手に持っていた『比較哲学研究会』というチラシをぼくに一枚渡した。
「いきなり声をかけてしまって、ごめんなさい。でも、あなたなら、うちのサークルに来たら多分楽しいんじゃないかと思って……」
「どうしてですか?」
「あなた、本を読む人でしょう?」
彼女はそう笑って、文庫本が入っているぼくのスーツのポケットを指差した。
「うちのサークルは世界のあらゆる哲学の違いを研究してるんです。ニーチェの超人思想とかゼロの概念とか、そういうものに、興味はないですか?」
「へえ……、面白そうですね」
ぼくがそう答えると、彼女はとても嬉しそうに笑って、「それじゃあ行ってみませんか?」とのんびりと歩き出したので、ぼくも何となく彼女の後について行った。
連れて行かれたのは大学の近くの小さなマンションの一室で、八畳ほどの広さのフローリングの部屋に入ると、そこにはぼくと同じように勧誘を受けたらしい新入生が男女合わせて十数人ぐらいと、サークルの関係者のような人間が彼女以外に三人いた。
サーモンピンクの女の子はマンションに着くまでに、自分の出身地とか学部とか好きな作家とかを一方的に話していて、ぼくが黙って聞いていると、そのうちに家族構成とか初恋の時期とかを口にし始めた。挙句の果てに、自分の初体験の話を事細かに語り始めたので、ぼくはひどく薄気味悪くなった。
だけど、その後のマンションの一室で実際に起こったことは、そんな「薄気味悪くなった」と悠長に言っている程度では済まなかった。
「サークルの部室は大学の近くのマンションにあるの。すぐそこよ」
彼女がそう言った時に、ぼくは、あれ? と思い、初体験の話を始めた時には、ちょっとまずいなあと心の片隅でざわつくものがあった。『あれ?』『ちょっとまずいなあ』と思った時点で止めておけば良かったのだけれど、それは後の祭りだった。
「それでは、今度は皆さんにも自己紹介をして貰いましょう」
とにかくやたらに張り切っていて無意味に愛想が良くて声の大きい年齢不詳の男が、サーモンピンクの女の子がぼくに道々話したこととほぼ同じ内容をベラベラと一方的に喋ってからそう言い出した時、ぼくはゾッとした。
そんなぼくの気持ちを見透かすように、年齢不詳男はさらに声の大きさをグレードアップして張り切った。
「もちろん、名前と出身地と学部と好きな作家ぐらいでいいですよ。最初から家族構成とか初恋の時期とか、もちろん自分の初体験のことなんて話したくないですもんね」
年齢不詳男は「分かっていますよ」という感じで微笑んだ。
「でも、どうも皆さん、まだ緊張しているようだから、ビールでも飲みましょう。まあ、入学おめでとう、ということで、取りあえず一人三本ぐらいでどうでしょう」
年齢不詳男がそう言うと、栓が既に抜かれた五〇〇mlの缶ビールが本当に三本ずつ回って来た。そして男が「入学おめでとう! 乾杯!」と笑顔でビールを飲み乾すと、ぼくの周りからはホッとした空気と笑い声が起こって、場は一気に和やかな雰囲気に包まれた。
勘弁してくれよ、とぼくは内心ムッとしながらビールを飲んだ。室内は暖房と人いきれでひどく蒸し暑かった。
ぼくは最初からでも最後になっても、自分のことを滅多やたらとベラベラ喋ることは嫌いだ。そういうことを喋る奴も、それから聞いてくる奴も嫌いだ。
けれど、ぼくと同じ立場の新入生が、次々とぼくの嫌いなことを嬉々としてやり始めていたし、中には得意げに自分の初体験まで話し出す馬鹿たれも出始めた。それだけでも気持ち悪いのに、新入生一人一人が自己紹介を終える度に、年齢不詳男とかサーモンピンクとか、それ以外のサークル関係者が、一斉に「イェーイ」などと大きな奇声をあげて笑顔でパチパチと拍手をするのだ。そしてその「イェーイ」と拍手は、自己紹介を終えた新入生もまだ終わっていない新入生も参加し始めて、回を重ねるごとにどんどん大きくなっていった。
ぼくはどうにも仕方がないので、「小林秀雄です。埼玉出身です。法学部です。好きな作家はドストエフスキーです」と適当に自己紹介をして、「イェーイ」と奇声を上げて拍手をした。
それから三本目の缶ビールを飲みながら、どうやってここから抜け出そうかと直ちに考え始めた。でも、室内は異様に盛り上がっていて、なかなか「すいません、ちょっと用事が……」などという途中退室が可能な空気ではなかった。
そして全員の自己紹介が終わった後、年齢不詳男が、「この比較哲学研究会は…」とハイ・テンションでやり出した時は、室内の熱気とビールの酔いで思考停止のうわの空状態になり、男の言葉なんかぼくの耳にはほとんど入って来なかった。
「それでは、今日はそろそろお開きにしましょう。最後に今説明したような要領で、世界の平和のためにみんなで心からのお祈りを捧げましょう」
立ちっ放しで喋り続けていた年齢不詳男がカセットテープのスイッチを入れると、何だかわけの分からない呪文と一定のリズムを保った太鼓の音が流れて来た。
お祈りってなに?
ぼくがぼんやり考えていると、立っていた男は、まずその場で元気よく足踏みを始め、次に太鼓のリズムに合わせて「ハイハイ」と言いながら両手をパンパンと打ち鳴らし、最後に「こんにちは、こんにちは、世界のみなさんこんにちは」と言い出して、新入生に向かって立って同じことをするように、といった感じのジェスチャーを取った。すると座っていた新入生も恥ずかしそうに立ち上がり、足踏みをしながら、「ハイハイ」と両手をパンパン打ち鳴らし、「こんにちは、こんにちは、世界のみなさんこんにちは」とやり出した。
なんだこれ?
ぼくが唖然としていると、サーモンピンクが近づいて来て立つようにというゼスチャーをした。ぼくが、本当かよ、とちょっと泣きそうになりながら立ち上がると、サーモンピンクは嬉しそうに微笑んで、やっぱり足踏みをし、「ハイハイ」の両手パンパンをやり、「こんにちは、こんにちは、世界のみなさんこんにちは」とやった。そして、「さあ、小林さんも一緒にやりましょう」とぼくに何度も頷きながら笑顔で囁いた。しかもぼくがそれをやるまで、サーモンピンクは何度でも笑顔で囁くのだ。
仕方がないので、ぼくは、大丈夫か自分? と思いながら、その場で足踏みをし、「ハイハイ」の両手パンパンをやり、「こんにちは、こんにちは、世界のみなさんこんにちは」とやった。するとサーモンピンクは満足そうに頷いて、「ハイハイ」と言いながら、部屋中をグルグル回り出した。
* * *
ぼくがこのふざけたサークル体験の話をすると、鏡子さんは、最初はニヤニヤしながら笑いを噛み殺していたけれど、最後の『足踏み・ハイハイ・両手パンパン・世界のみなさんこんにちは』の所まで来ると、とうとうこらえ切れなくなったようで、「それは大変だったわねえ……」と声を上げて笑い出した。
「それで最後にマンションから出る時に、連絡先をレポート用紙に書くように言われて、つい書いて来ちゃったんですけど、大丈夫でしょうかねえ……」
ぼくは溜息をついた。でも、鏡子さんがあんまりおかしそうに笑うのを目の前で見ているうちに、ぼくはホッとして来た。そして何だか無性におかしくなって来て、一緒に笑い出してしまった。
「連絡先って、自宅の住所と電話番号?」
「そうです。一応、名前は違う名前を書いておいたんですけど……」
「じゃあ大丈夫じゃないかな。でも、多分、何回か電話は掛かってくると思うわよ」
「え、本当ですか?」
「多分。勧誘活動するのに、向こうも人が必要だろうし……」
「勧誘活動?」
「その比較哲学研究会っていう名前は聞いたことがないけど、学内に部室がないようなその手のサークルって、新興宗教とか自己啓発セミナーみたいなのが絡んでることが結構多いらしいから……
「新興宗教?」
えっ、とぼくは思わず訊き返した。
「まあ、電話が来たら、違います、知りませんって相手にしなければ大丈夫よ」
鏡子さんは笑いながら立ち上がり、油性マジックで『開けるなキケン』と書き殴ってある汚い小型冷蔵庫から缶コーヒーを出して、「どうぞ」とぼくに渡してくれた。「すみません」とぼくは受け取った。
「しばらく電話に出る時は、『早乙女です』って言って出ない方がいいと思うけど……」
「はい……」
この時、鏡子さんは三年生でぼくは一年生だった。そこにはたった二年の差しかなかったけれど、感覚としては、『オムツの取れないヨチヨチ歩きの二歳児とパンプスを履いて膝を伸ばして歩ける大人の女性』ぐらいの差がある感じで、ぼくは何とも情けなかった。
「私もよく知らないけど、原理研とか、なんかその手のわけの分からない変なのがいっぱいあるみたいだから……。そのサークルも世界平和のためにお祈りしましょう、なんて言うぐらいだから、多分そうじゃないのかなあ…」
缶コーヒーを開けながらピアノの前の椅子に座った鏡子さんは、「気をつけないとね」とぼくの顔を見て笑った。
『足踏み・ハイハイ・両手パンパン・世界のみなさんこんにちは』の儀式からぼくがようやく解放されて外に出た時は、もう太陽が沈み始める時間になっていて、アスファルトに反射する西日がひどく眩しかった。
ぼくは自分が考えていた以上に緊張していたらしく、心身ともに疲れ果てていて、ネクタイを外しながら、早くこの窮屈なスーツを脱いでいつものヨットパーカーとGパンに着替えたいと思った。でも、このまま真っ直ぐに誰もいない家には帰りたくなかった。誰かまともな人と話がしたかった。それでノックもしないで退散してしまったジャズ研の部室の青ペンキの扉の前に、再度、立ってみようと思った。
夕陽が射し込む廊下の一番西側にあるジャズ研の部室の青ペンキの扉は、朝に来た時はガッチリとぶら下がっていたダイヤル錠が今度は全部外れていて、室内ではCDがかかっているらしく、細く開いた隙間から小さなピアノの音が漏れていた。でも扉を何回ノックしても、中からは何の対応もなくて、人の気配もしなかった。
ぼくはぼんやりと青ペンキの扉の前に立っていた。すると後ろから、「君、新入生?」という男の太い声がした。振り向いたぼくはギョッとして目を剥いてしまった。
「中、入って待ってれば?」
ぼくの後ろには、『ランボー』の時のスタローンよりも筋肉モリモリのスキンヘッドの大男が素っ裸で立っていた。
「ジャズ研に用事なんだろう? 入会希望者かい?」
彼は右手に持ったタオルで股間をパーンパーンと勢いよく叩いてニコニコした。ぼくは目のやり場に困って、「はあ」とか「まあ」とかしどろもどろで答えた。
「きみ、初々しくていいですねえ。そんなアングラな所に入らないで、うちでボディ・ビルをやらない? 楽しいよ」
彼はぼくを上から下までジロジロと眺めた。
「はあ……。でもまあ、今はいいです」
ぼくがそう答えると、スタローンは「残念だなあ」と面白そうに笑っていた。
「さっき、図書館の前で津田くんが出てくる所を見かけたから、もう戻ってくるんじゃないかな。鍵、かかってないみたいだし。中に入って待ってても大丈夫だよ」
「はあ……」
「まあ、ご近所さんだし、気が向いたらいつでも遊びにおいで」
「はい、どうも……」
ぼくが曖昧に頷くと、「じゃあね」と軽く手を上げたスタローンは、ジャズ研の斜め前の『ボディ・ビル部』と筆書きされた大きな木の看板がかかった道場に入って行った。スタローンがいなくなってしまうと、その場はひっそりと静まり返り、ピアノの小さな音色がドアの隙間から流れて来た。
ぼくは少し迷ったけれど、青いペンキで塗られた分厚い木の扉をそっと開けて中に入った。そしてその場で息を飲んだ。
西側の明り取りの窓の外にガッチリとはめ込まれた金網。
あちこちに錆びが出ている灰色のロッカー。
古びてボロボロになった二人掛けのソファー。
人の頭の形にへこんだ潰れたクッション。
よじれてクシャクシャの毛布と寝袋。
散乱している漫画や週刊誌や新聞紙。
放り出された何冊もの手垢にまみれた単行本や文庫本。
山と積まれた年代物のスウィング・ジャーナルやジャズ・ライフ。
壁に貼られた予定が書き込まれたカレンダー。コルトレーンやロリンズやパーカーやビル・エヴァンズのモノトーンのポスター。
化粧の濃い金髪女性が両足を大きく広げている特大ヘアヌードポスター。
『開けるなキケン』という油性マジックの殴り書きのある汚い小型冷蔵庫。
赤く灯っている二台の電気ストーブ。
書きかけのレポート用紙。
齧りかけのクリームパン。
飲みかけのコカ・コーラ。
縁の欠けたマグ・カップの中の冷めたコーヒー。
一本足の鉄の巨大な灰皿。
踏み潰されたおびただしい煙草の吸殻。
潰れて転がっている幾つものビールの空き缶。
半分に減ったウイスキーやウォッカの瓶。
シャーペンと消しゴムと五線紙とリフ帳。
適当に置かれた何台ものパイプ椅子。
背もたれに引っかかっているTシャツや靴下。
所狭しと置かれた金色に光るトランペット。テナー・サックス。アルト・サックス。ソプラノ・サックス。ギター。エレキ・ベース。ウッド・ベース。ドラムセット。
散らばっている何枚ものリードやピック。
折りたたみ式のいくつもの譜面台。
何本ものマイクとマイクスタンド。
たくさんのアンプからのびた太いコード。
古びたカセットデッキとレコード用のステレオと大きなCDプレイヤー。
ボーズのスピーカー。
傷だらけの二台のアップライトのピアノ。
表紙がめくれあがったボロボロの分厚い何冊もの楽譜。
何枚ものLPレコードとCD。
英語の文字が書き込まれた何本ものカセットテープ。
西日が射し込み、むせ返るような濃密な春の黄昏の中に存在するその空間は、まるで別世界だった。
ここは、どこだろう?
コンクリートの壁で四方八方を囲まれた狭くて汚いその部屋は、ぼくが今まで見た空間の中で一番雑然としていて、そして一番魅力的な空間だった。
煙草とアルコールと湿気と埃が入り混じった人の匂いと、スピーカーから小さく流れて来るミッシェル・カミロのピアノの音色に包まれて、ぼくは軽い眩暈を感じて部屋の真ん中で茫然と立ち尽くしていた。
「あなたは、だれ?」
ぼくが振り返ると、扉の所にとても背の高い女の人が夕陽を浴びて立っていた。
なんて綺麗なひとなんだろう。
鏡子さんを初めて見た時、ぼくはそう思った。そしてひどく息苦しくなった。
* * *
ぼくが母親の胎内からこの世へと生きる場所を移し変えてから、まずしたことと言えば、多分、オギャアと泣くことと、ミルクを飲むことと、排泄をしたことだと思う。『思う』と表現したのは、この三つの行為は、ぼく以外の人間も当然経験済みのはずだろうけれど、それは自分の意志でしたことではないし、自分の記憶の中にもまったくないからだ。
『泣く・食物摂取・排泄』という三つの行為は、初めは時と場所と状況とは関係なく、自分の中でも無意識に、泣きたい時に泣き、食べたい時に食べ、出したい時に出しても、一向に構わず、誰も怒ったり責めたりしない。場合によっては褒められたりすることだってあり得る。
でもそのうちに、他人の前でみだりに泣いてはいけません、物を食べる時は決まった時間に道具を使って食べなさい、排泄をする時は決まった場所でしなさい、というように、親や周囲の人間から、いわゆる『ルール』と呼ばれるものを教えられるようになる。そうなって来ると、この三つの行為は、自分の意志によって時と場所と状況を考えて実践され始め、それがまあ大体出来るようになると、ようやく『人間』として認められるようになるらしい。
もちろんこの『認める存在』は、『社会』とか『世間』と言ったような言葉で表現される、不確かで漠然としたいかがわしい存在だ。
もし、泣きたい時に泣いてもいいとか、物を食べる時は好きな時に道具を使わなくてもいいとか、どうしても我慢できなかったらそこら辺でしても構わない、というような『ルール』の変化を、『社会』や『世間』が認めたとしたならば、認められた『人間』のタイプもずいぶん変わって来てしまう。
そう考えると、この『人間』という存在も、相当に不確かで漠然としたいかがわしい存在なのではないだろうか?
厄介なことに、この三つの行為に加えて、ありとあらゆることをして行かなければ、残念ながら人間は生きて行くことができない。そして更に厄介なのは、そのありとあらゆる行為に対して、『社会』とか『世間』の『ルール』が一つに決められているとは限らないということと、それが確実で絶対的なものだと言い切ることができないということだ。
だから、何らかの行為に対して判断を下す時に必要になって来ることは、その『ルール』の判断を『社会』とか『世間』に求めるのか、それとも『自分の中の何か』に求めるのか、ということで、それはとても難しいことだ。
そして、それを『自分の中の何か』に求め、それが『社会』とか『世間』の下す判断と違っていた場合、自分がどう行動するのか、ということはもっと難しい問題で、その行動如何によっては、取り返しのつかない状況に陥ってしまうことがある。
ぼくが大学生になって入会した『ジャズ研究会』というサークルは、通常は、毎週水曜日の午後から夜にかけて部員が適当に集まってセッションをすること以外は、特別な活動時間が決まっていなかった。
この『水曜日の午後』が唯一のまとまった活動時間になっているのは、各学部に共通してたいした授業もなくて一番人が集まりやすい時間帯だから、という単純な理由によるもので、これはこの部が出来て三〇数年以来、何となく続いて来た、まあ言ってみれば、慣習のようなものだった。
そうは言っても、この部室は年中無休二十四時間いつでも使用OK、入学試験の真っ最中でも出入り可能、という何とも不思議な場所で、そこに出入りする人々は、部員というよりも住人と呼んだ方がふさわしかった。
お腹が減ったら食事は上の生協の学食で取り、体が臭くなって来たら風呂はその一角にある体育会のシャワー室ですませ、疲れたら汚い毛布にくるまってビールやウイスキーを飲みながらソファーの上で寝てしまうといった感じだった。
そしてぼくが入会した当時のジャズ研は、例の『ルール』を『社会』とか『世間』に求めることに対して割と懐疑的な人たちが集まっていたけれど、その反面、『人間暇を持て余しているとろくなことにならない』という格言の生きた見本市のような所だった。
彼らは、この世の中で一番楽しいことは、冷たいビールを飲みながら、右も左も分からない初々しくて純粋無垢な新入生に悪夢だとしか思えないような嫌がらせをしたり、次から次へと嘘八百を並べ立てて騙くらかしたりして大笑いすることだ、と心の底から信じている何とも底意地が悪くて始末に終えない性格の持ち主がほとんどだった。
ぼくも、そしてぼくの同期の永倉も加嶋もさんざん彼らに担がれた。少しでも不満げな顔をすると、「え? そんなこと言ったっけ? 全然覚えてないなあ……」とニヤニヤされるか、「人を信用するっていうのは、人間が持って生まれた徳の中でも最も美しくて素晴らしいものだよねえ。あはは。ラーメン食う?」と適当にいなされるかで、最初のうちは、本当にはらわたが煮え繰り返る思いをして、三人でしょっちゅう自棄酒を飲んだ。
三年生の槇さんは、新入部員として入って来た女の子が、何にでもマヨネーズをかけて食べるのが気に入らない、早口でずっとベラベラ喋っているのが気に入らない、と言って、「きみ、マヨネーズばっかり食べていて生理不順にならない?」などと真面目な顔で質問するような人だった。
「別にそういうことはありません」
その女の子はちょっと驚いたようだったけれど、一応真面目にその質問に答えた。
マヨネーズと生理不順は何か関係があるのかな、と思ったぼくはギターを触りながら二人のやりとりに何となく耳を澄ませていた。
「ふうん……」
槇さんは真面目な顔をして頷いて、女の子の顔をまじまじと見た。
綺麗な槇さんに見つめられた女の子は、ちょっと顔を赤らめてもじもじしていた。ぼくだってもし自分が女の子で、槇さんのような人に見つめられたら、きっと困ってしまうだろうな、と思った。
「きみ、もう少しゆっくり喋れば?」
今度は槇さんはそんなことを言った。
「私って早口なんです」
女の子はあくまでも真面目に答えた。
椅子に座ったその女の子の全身を、槇さんは今度は無遠慮にじろじろと眺めた。女の子は少し身を縮めた。
「ふうん、そうなの」
頷いた槇さんはちょっと黙った。
どうやらこの人は何か他のことが言いたいらしい。でも何か様子が変だ。
何となく不安になったぼくは、ドラムセットの前に座っていた四年生の清水さんの方をちょっと見てみた。でも清水さんは特に変わった様子も見せずに、ごく普通の顔をして朝日新聞を広げていた。
「ふうん。早口が好きなら、じゃあ、きっと、きみは早いのが好きなんだね」
槇さんがそう言うと、言われた女の子は変な顔をした。
何を言っているんだろう?
ぼくは槇さんの言葉の意味が分からなかったのでギターを持ったままじっとしていたけれど、どうも妙な感じがした。清水さんは広げた新聞紙の向こう側で黙っていた。
「へえ、早いのが好きだなんて、きみ、変わってるねえ…。でも、普通、女の子は、早いのは嫌いなんじゃない? あ、今まで付き合った彼氏が早い人ばっかりだったのかな? それとも初めての人が早かったとか、早くしないと駄目な場所が好きとか、そんな感じ?」
この人は一体何を言い出すのだろう?
少し頭がおかしいんじゃないか?
ぼくは真面目腐った槇さんの綺麗な顔を見て凍りついてしまった。清水さんは広げた新聞紙の向こう側で黙って笑っていた。
「どうして、そんないやらしいことを言うんですか?」
自分がひどいことを言われていることにようやく気付いた女の子は、真面目な顔をしている槇さんを睨み付けた。
「え? どこがいやらしいの? ぼくは早口が好きなら早いのが好きなんだね、って言っただけなのに。……ん? 何だ、そういうことか。嫌だなあ。いやらしいのはきみの方じゃない」
暗い顔をして溜息をついた槇さんは、新聞紙の向こう側で黙って笑っていた清水さんに、「ねえ」と顔を向けた。
「なんだ、そっちの早い方なの? 俺も早口の話だとばかり思ってたよ。きみ、可愛い顔して結構凄いんだねえ……」
清水さんは新聞紙の向こう側から顔を出して、女の子の顔をしみじみと眺めていた。
女の子は助けを求めるようにぼくの顔を見たけれど、ぼくは茫然として凍りついたままだった。ぼくはそれまで、こういう人達に逢ったことがなかった。わけが分からなかった。この人達は一体何だろう? そう考えることが精一杯だった。
結局、その女の子は泣きながら部室を出て行ったきり、二度と戻って来なかった。
「あいつも口さえ開かなけりゃなあ…」
みんなにそう言われるように、この槇さんという人は、一九十センチ近いスラリとした長身の上に、甘い密に蜂が群がるように女性がすり寄って来るような、いわゆる『水もしたたるイイ男』を地で行くえらく端整な顔立ちの持ち主で、ぼくも初めて槇さんを見た時は、こんな綺麗な顔をした男がいていいのかなあ、とかなり複雑な気持ちになった。
ただ、この槇さんは、『歩くセクハラ』という恐るべきアダ名を持っていて、それを自他ともに認めている、とにかく口を開けばそんなろくでもないことばかりを言っている人だった。
「四年生の武田さんは、若頭から『ボン』と呼ばれている広島の大きなヤクザの家の三代目で、すごく優しいけれどちょっと礼儀作法にうるさい所がある人だから、くれぐれも失礼のないようにきちんと挨拶をして、コーヒーの一杯でも出すようにしなさい」
そう言った槇さんの言葉をすっかり信じ込んだぼくと永倉と加嶋は、ずいぶん長い間、武田さんが部室に顔を出すときちんと頭を下げて、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」と丁寧に挨拶をして、椅子を勧め、本当にコーヒーやお茶を出していた。
「武田さんは、本当に仁義の世界の家の人なんですか?」
ある日、やっぱりどうもおかしいと思ったぼくらが思い切ってそう訊いてみると、武田さんは朝日新聞の夕刊を広げながら「そうだよ」と真面目な顔で答えた。そして、ソファーにもたれて週刊文春をパラパラとめくっていた鏡子さんに、「なあ」と同意を求めると、鏡子さんも「うん」と頷くのだ。
これはもちろん真っ赤な嘘で、その年の秋の終わりに「お袋が送って来たから」とダンボール一杯の干し柿を振舞ってくれるまで、武田さんが広島県出身の兼業農家の長男だということを、ぼくらは知らなかった。
この槇さんという人は本当にたちの悪い人で、ぼくらはこの手の話でずいぶんひどい目に遭った。
「パチンコで当たったからたまにはきみ達に飯でも食わしてあげよう」
四月のある昼下がりに、そんなことを言った槇さんは、ぼくらを商店街にある『お魚食堂』という食堂に連れて行ってくれて、飲みきれないほどのビールと特大かき揚げ丼をご馳走してくれた。
この『お魚食堂』の隣には、どういうわけだか知らないけれど、なぜか金魚屋があった。
満腹でかなり酔っ払ってご機嫌になって『お魚食堂』を出て部室に帰る時、槇さんは、隣の金魚屋の店先の、青いプラスチックの洗面器の中で泳いでいるデメキンや金魚やメダカを、ほら、と指差して「可愛いね」と笑うので、ぼくらも「そうですね」などとのんびりと笑っていた。
そして部室に帰ると、ドラムセットの前に座って、ブラシをいじっていた鏡子さんに「何時ごろ来たの?」などと話しかけ、鏡子さんが「一時過ぎぐらい。どうして?」と答えると、槇さんは笑いながら、「今、こいつらと『お魚食堂』でメシ食って来たんだよ」と言った。
つまらなさそうに「ふうん」と頷いた鏡子さんはブラシでポンポンとシンバルを叩いた。武田さんは二年生の宮本さんと向かい合って百円将棋を指し、清水さんはスコット・ラファロに合わせてウッド・ベースを弾いて遊んでいた。
鏡子さんが「何を食べたの?」と聞くと、槇さんは清水さんに「CD変えていい?」などと聞いて、ウロウロしてあれこれとCDを探しながら「かき揚げ丼」と答えた。そして「あったあった」とアート・ペッパーかなんかを流してから、鼻歌混じりにソファーの上に雑誌を何冊も重ねて枕を作り始めた。
武田さんは壁にかかっていたカレンダーを眺めてから宮本さんに向かって、「今日は金曜日だから金魚の日だね」と言った。
「…………」
武田さんの口から出た『金曜日だから金魚の日』という言葉の意味がよく分からなかったので、ぼくは何となく隣でぼんやり立っている永倉と加嶋の方に顔を向けた。
すると、しばらくじっとぼくを見ていた永倉は、突然、「わーっ!」と大きく叫んでハアハアと肩で息をして、また、「わーっ! わーっ!」と叫んで部室を飛び出して行った。ぼくがぼんやり永倉を見送っていると、今度は加嶋が真っ青な顔をしてその場にフラフラとしゃがみ込んで、両手で耳をふさいでじっとして動かなくなってしまった。
ぼくはうつむいて、しゃがみ込んだ加嶋の背中のアロハシャツの花模様をじっと眺めていた。そのうちに、目の奥からじわじわと涙が込み上げて来た。そして自分でも意識しないうちに、「うっうっ」と声をあげて泣き出していた。
ウッド・ベースで遊んでいた清水さんがぼくを見て「あ、泣いちゃった」と言うと、将棋盤から顔をあげた宮本さんと武田さんは「本当だ」「泣いてる」と言い、槇さんはソファーに寝転んでスピリッツを読んでいた
ぼくがボロボロと涙をこぼしながら鏡子さんを見ると、鏡子さんは、「気をつけないとね」と言って笑った。
そんな金魚をかき揚げにしてお金を取るような店なんかあるはずはなく、もちろんこれも真っ赤な大嘘で、ぼくらが食べたのは金魚ではなくて貝柱だったけれど、そのことをぼくらにちゃんと教えてくれたのは、OBの柿崎さんという人だった。
そしてこの柿崎さんに逢った時も、ぼくらはやっぱり騙されて大笑いされていた。
「ゴールデンウィークの間、隣の部落解放研の新人の子達と一緒に、三里塚に行って活動して来てね。自治会の参加者名簿にきみ達の名前を書いといたから」
五月の連休前に槇さんからそう言われた時、ぼくらは散々騙されて来てずいぶん疑い深くなっていたし、バブルだトレンディだと浮かれ騒いでいるこの御時世に、さすがにそんな時代錯誤なことをする馬鹿はいないだろう、と思った。
だからその時は「はいはい」などと一応殊勝に答えておいて、槇さんがいないのを見計らって武田さんや二年生の島田さんに話してみると、「いや、結構、まだそういうことを健気に細々とやってる人達っているんだよ。うちだって正門のところに、『沖縄米軍基地撤去』とか『安保反対』みたいなタテ看あるだろう?」という答えが返って来た。
それでもまだぼくらは半信半疑だったので、清水さんが天麩羅うどんを食べている時に、「そんなの嘘ですよね」と確かめてみた。
清水さんは口をモグモグさせながら、「どうして? 俺も武田も一年の時行って来たよ」と言った後、丼を傾けて汁を全部飲み干した。それから煙草に火をつけて美味しそうに吸った後、ピアノの前に座って鍵盤をあちこち押してコードを作っていた鏡子さんに、「鏡子は槇と槌川と一緒に行ったんだっけ?」と訊いた。
「行きましたよ」
鏡子さんはコードを五線紙に書き込みながらそう答えた。
「三時のおやつに出たお汁粉が美味しかったって話したら、俺達の時はお汁粉なんか出なかったって、武田さんがすごく怒ったでしょう? 忘れちゃったんですか?」
「そうだ。思い出した。武田があんなに怒るとは思わなかったよ、俺は……」
清水さんは苦笑いをしていた。
「武田さんは甘党ですからね」
鏡子さんも五線紙にコードを書き込みながら笑っていた。
「ま、見る前に飛んじゃったって所だな」
清水さんは大きくノビをして首をコキコキ鳴らしてから、ふぁーあ、と大あくびをした。
「本当は、飛んでから後が問題なんだけどな」
「そうですね」
ピアノの上のコーラの缶に手を伸ばして一口飲んだ鏡子さんは、つまらなそうに煙草に火をつけ、ぼくの方を見て笑った。
どうもおかしいな、と騙され疑惑を打ち消せないまま、それでもぼくらは、ゴールデンウィークが始まった五月初めに、槇さんから集合場所だと告げられた横浜駅の西口に出かけて行った。
『部落解放研』とか『三里塚』とか『自治会』とかが、一体どういうものなのか、ぼくはぼんやりとした知識しか持ってなかったけれど、何となくヤバそうな感じだ、ということぐらいは分かっていたので、朝、家を出る時に父のゴルフクラブを一応三本持って行った。本当に馬鹿かげた行為だ。
でも、平和ボケしている学生が考えることは、大体どうやらみんな同じらしい。
「都会は恐いところだから、これ持ってけって、おばあちゃんが餞別に買ってくれた」
長野の仏壇屋の跡取り息子の加嶋は、そう言って鞄の中からスタンガンと防犯ブザーを出してぼくと永倉に見せた。
永倉に到っては、下宿のアパートの住人から木製バットを借りて持って来ていた。
「なんかそういう学生達が、ヘルメットをかぶってタオルで顔を隠して色々やっているのを、中学の時にテレビで見たことがある」
永倉はご丁寧なことに、工事現場で使う黄色いヘルメットと洗いざらしの白いタオルを、ぼくと加嶋の分まで用意して来ていた。「なんでヘルメットを三つも持っているのか」とぼくが訊くと、「昨日の夜に土木科の実験室に行ってちょっと借りて来た」と永倉は答えた。
人間というのは不思議な生き物で、ぼくらは今は別に悪いことをしているわけではなかったけれど、これからヤバそうな感じがすることに自分達が参加する、というだけで、どことなく挙動不審になってしまうらしい。
確かにゴールデンウィークの初日の朝に、横浜駅の西口で男三人がゴルフクラブとヘルメットとタオルをぶら下げてぼんやりと立っていて、更にその中の一人はバットなどを鷲掴みにしているのは、どう好意的に考えても怪しく見えるのは当然のことだろう。そして間の悪いことに、駅ビルの中で万引き騒ぎが頻発しているということで、ぼくらは巡回中の制服警官に見咎められて、あれこれと尋問された挙句、近くの交番に連行されてしまった。
まあ、そこでテレビドラマのように「カツ丼食うか」みたいな平和な対応や、佐々淳行みたいな話の通じる『危機管理のプロ』が出て来て「馬鹿だなあ」と笑ってくれるはずもなく、大学か自宅に連絡すると頑固に言い張る頭の悪い警官に向かって、「これは何かの間違いです」「頭のおかしい人達に担がれたんです」「騙されたんです。絶対に悪いことはしていません」とぼくらは三人がかりで必死で説明した。
そして一時間近くかかって、ようやく電話をかけてもいい、という所まで漕ぎつけることが出来た。だけど、槇さんも島田さんも清水さんも武田さんも宮本さんも誰も彼も、一体どこで誰と何をしているんだか、名簿に名前が載っている人達は一向に受話器を取ってくれなかった。
ぼくはもう二度と、鏡子さんに「気をつけないとね」と言われて笑われたくなかった。でも、鏡子さんも電話には出てくれなかった。
ぼくらの様子を伺っている警官を尻目に、ぼくは永倉と加嶋と相談して、三年生の槌川さんという人の所に電話をすることにした。この人はジャズ研の部長だったけれど、一度も部室に来たことがなくて、ぼくらはまだ会ったことがなかった。でももうほかに電話をかける名前が名簿にないのだ。
ぼくが槌川さんの所に電話をかけて、「もしもし、突然すみません。槌川さんのお宅ですか」と言うと、受話器の向こうから「はい、そうですけど、どちら様ですか?」という女性の声がした。
ぼくは黙り込んでしまった。
「あれ? もしかして四季くん?」
受話器の向こうから鏡子さんがぼくの名前を何度も呼んでいたけれど、ぼくはその声に答えたくなかった。ぼくは黙って永倉に受話器を渡した。受話器を耳に当てた永倉はちょっと驚いた様子だったけれど、すぐに受話器の向こうの鏡子さんに事情をあれこれと説明した。
結局、ぼくらが自宅や大学に連絡をされることなく、無事に無罪方面となって交番から解放されたのは、それから三時間近くも後のことだった。というのも、永倉から事情を聞いた鏡子さんがOBの柿崎さんに連絡を取り、背広にネクタイ姿の柿崎さんがタクシーを飛ばしてぼくらを迎えに来てくれるまでに二時間ほどかかり、それから更に一時間かけて警官に平謝りに謝って、身元引受人になってくれたからだった。
大手文具メーカーの営業をしている柿崎さんは、交番から出た後、うなだれているぼくらに向かって、「災難だったなあ……」とニヤニヤしながらカツ丼とビールをご馳走してくれた。
目の前のカツ丼のどんぶりを見て、例の金魚の一件を思い出したぼくは、ネクタイを緩めてビールを飲んでいる柿崎さんに聞いてみた。
「柿崎さん、『お魚食堂』って知ってますよね」
「もちろん知ってるよ」
永倉と加嶋も、カツ丼を食べていた手を止めて、柿崎さんを見ていた。
「『お魚食堂』がどうかしたのかい?」
「あそこのかき揚げ丼のかき揚げは、金曜日には隣の金魚屋の金魚を使うんですか?」
「そんなわけないだろう。あそこのかき揚げは貝柱か芝海老だよ」
柿崎さんは、何を言ってるんだ、といった顔でちょっとぼくらを見ていたけれど、やがて、「どうも仕方がないなあ……」と呟いてから煙草をつけて、「すいません、おばさん、ビールもう一本下さい」と手を上げた。そしてもう一度、「どうも仕方がないなあ……」と頬っぺたの青々とした髭の剃り跡をポリポリと掻いた。
「まあ、あいつらも悪気があってやってるわけだから、そんなに真面目に受け取らないで適当にやってればいいさ」
そう言ってぼくらにビールを注いでくれた後、「槌川にはもう会った?」と聞いた。
槌川さんにはまだ一度も会ったことがないけれど、さっき槌川さんのアパートに電話をしたら鏡子さんが出て来た、と永倉が説明すると、柿崎さんは「じゃあ、戻って来たのかな」と言った。
「どこかに行ってたんですか?」
加嶋が尋ねた。
「俺は詳しい経緯は知らないけど、槌川はプロのサックス奏者に誘われて、その人と一緒にアイドルだかロックバンドだかのCDのレコーディングに参加して、ロサンジェルスにベースを弾きに行ってたんだよ」
柿崎さんはそう説明してくれた後、「うまく行ったのかな?」と首をかしげていた。
店を出てから「どうもいろいろ有難うございました」と頭を下げたぼくらに、柿崎さんは、「いやいやこちらこそ」などとニヤニヤしながら一枚ずつ名刺をくれたあと、仕事が残ってるから、とさっさとタクシーに乗って行ってしまった。
この一件のあと、ぼくは神田の古本屋街をぶらついている時に、無責任男シリーズの植木等の大きな全身ポスターを見つけて、何となく欲しくなったのでそれを買った。そして暇潰しに部室の天井に貼り付けた。
その時は誰も何も言わなかったけれど、ふと気がついた時には、背広姿の植木等の顔は、週刊誌のグラビア写真を切り抜いた宇野宗佑の顔になり、しばらくすると海部俊樹の顔に変わった。
* * *
大学に入ってからしばらくの間は、こんなことばかりが続いていた。
「悪気があってやってるわけだから」と柿崎さんは口にしたけれど、よくよく考えてみればそれは確かにその通りで、こういう悪質な担ぎや騙しは悪気がなければもちろんやらないし、それは仕掛ける本人達も充分に意識してやっていることだ。彼らに担がれたり騙されたりすることは決して愉快なことではなかったけれど、ぼくは高校を辞めたようにジャズ研を辞めようとは思わなかった。
なぜなら、例の『数学』に象徴される、あの『ゾッとする気持ち悪さ』がそこにはなかったからだ。この種の手の込んだ悪質な担ぎや騙しがどうして頻繁に行われるのか、その動機や理由が、ぼくには漠然と理解出来るような気がした。
それは表面的には単なる暇潰しに過ぎなかった。とにかく楽しいからやる。ぼくだって自分が担いで騙す方の立場に立って、やられた人間が真面目な顔をして素直に騙されたり、慌てふためいて右往左往する様子を目にしたら、きっと楽しくて大笑いするだろう。
馬鹿げたことに引っ掛かるのは思考停止をしている自分が悪いんだろう。自分の頭で考えなさいよ。人に簡単に頼るんじゃないよ。鬱陶しいなあ。恐らく本音はこんなところだろう。そういうことが出来ないのなら、この場所にいても嫌な思いをするだけだよ。それが嫌なら辞めて貰って大いに結構。
そういう気持ちが彼らの中に存在しているような気がした。
彼らにとって、『同じ釜の飯を食った仲』とか『同期の桜』みたいな持たれ合いや馴れ合いの仲良し感覚をこれ見よがしに求められることは、虫唾が走るぐらい気持ち悪くて、身の毛がよだつほど嫌なことのようだった。ぼくは『友達』『友人』『親友』『仲間』といったような類の言葉を彼らの口から聞いたことがない。どうやら彼らの間では、そういう言葉を互いの間で発すること自体、恥ずかしい行為として見なされるものらしい。
もし実際にそんな言葉を耳にしたら、眩暈を起こして倒れるか、急に耳が聞こえなくなるか、二度と立ち直れないだろうというぐらいの冷たい目で、その言葉を発した人間をじっと眺めてから黙殺するだろう。
そして実際にそういうことを要求されたら、自分にそれを要求した人間を、どこかからバズーカ砲でも調達して来て一気に吹き飛ばしてしまうか、絶対に自分がやったとバレないように、ありとあらゆる危機的可能性を考え、この世に存在する知識を総動員して綿密な計画を立て、永遠にこの地球上から抹殺してしまうだろう。
『あからさま』とか『面と向かって』とか『剥き出し』とか『これ見よがし』という言葉や行為は、彼らにとっては最も恥ずかしいことであり、罪悪ですらあった。
学外で、例えば商店街をブラついている時や横浜駅の構内などで、大学やサークルのネームが入ったお揃いのジャンパーを着ているグループを見かけると、別に自分が着ているわけでもないのに、ぼくはどうにも居たたまれなくて恥ずかしくなった。
野球やサッカーや駅伝や、もちろんそれ以外のスポーツをする時に、お揃いのユニフォームを着るのは、自分達や観戦している人達にゲームの経過を分かりやすくするとか、試合に勝つために同じユニフォームを着て団結力を高めるとか、それなりの確固とした目的がこちらにも伝わってくるからぼくにも理解できる。それに彼らだって試合が終わってまでも、わざわざお揃いのユニフォームやジャンパーを着て街に出たりはしないだろう。
そのうちぼくは、そういうグループを見ると、いつも奇妙な気持ちになって戸惑うようになった。本当はそこにあるはずの確固とした目的が欠落しているのにもかかわらず、お揃いのジャンパーを着るというその行為自体が、ぼくには気持ち悪かった。
人の好みや考え方は千差万別だ。
でもどちらかと言えば、ぼくは、中味がぎっしり詰まった飾りも何もないぶっきらぼうな箱の方が好きだ。綺麗にラッピングされたリボンと包装紙をはがして箱を開けたら中は空っぽだった、というのは嫌いだ。あるいは箱を開けたら、中もリボンと包装紙だったというのも嫌だ。気持ちが悪い。意味がないから不安になる。中が空っぽのままの箱を綺麗にデコレーションし続けたら、多分、箱は箱でなくなってしまうだろう。そして最終的には、箱本来の機能を失い、何がなんだか分からない、得体の知れないものになってしまうだろう。
箱は何かを入れるためにあるものだ。
でも、その空っぽの箱の中には一体何が入るのだろう? それとも、もう入れる必要はないのだろうか? あるいは最初から何も入っていなかったのだろうか? 空っぽの箱は空っぽのままでいいのだろうか?
その不在感に耐えられるのだろうか?
いずれにしても、ぼくの中にも、自分が気付いていなかっただけで、この種の悪気や嫌さを受け容れられる部分があったのか、ぼく自身が元々こういう嫌な性格をしていたのか、あるいはその両方がぼくの中で共存していたのか、それはぼくにも良く分からない。でも世間から見れば、とにかく嫌な性格の人間ばかりが集まっているような場所に、ぼくは案外すんなりと馴染んでしまった。
大学の授業そのものは、大して面白いものはなかった。
第一外国語の英語と第二外国語の中国語の授業は四十人ぐらいの小さい教室で行われたけれど、それ以外の専門分野と一般教養の授業は、だいたい百人から二百人ぐらいを目安に収容する大教室で、はるか遠くにいる人形ぐらいの大きさの教師の声を、くぐもったマイクを通して聞くような授業がほとんどだった。
ただ、ぼくとはこれまで縁のなかったような分野の一般教養の授業に使われる教科書は、純粋に書物として読むとかなり面白いものがあった。それを入口に出来たから、ずいぶんと読書の幅が広がった。そういう世界があるということを知ることが出来ただけでも、ぼくはこの場所に来て良かったとしみじみと感じた。
大教室で出席を取られる授業の時は、いつも後ろの方の席に座って本を読みながらその時間を過ごし、教科書に目を通しておけば特に出る必要のない授業の時は、ジャズ研の部室に顔を出すか、学内の喫茶室やキャンパスのベンチに座ってウォークマンを聴きながら本を読んだ。
誰に何を言われるでもなく、もちろん思いっきりグーで頭を殴られることももうなかった。ぼくはそれが本当に嬉しかった。
これまでは音楽を聴くにしても楽器を演奏するにしても、ぼくはいつも一人だったけれど、自分の好きなことや興味のあることを、自分以外の人間が同じように好きで興味があり、それを一緒にすることが出来るということは、とても幸せなことだ。
水曜日の午後から夜にかけてのセッションは、戸惑うことも多かったけれど実に楽しかった。自分以外の人間と何かしらの音を合わせるということを、ぼくはこれまで経験したことがなかったので、初めのうちは、セッションに参加することがとにかく恥ずかしくて仕方がなかった。ぼくはピアノを専門にしていたけれど、ベースやギターも触った。青ペンキの扉の向こうの世界は、そういう勝手や気まぐれが許される場所だった。
ブルースや『枯葉』や『コンファメーション』あたりのスタンダードナンバーは、コードが簡単なこともあってすぐに演奏に参加することが出来た。決められたコード進行の枠内で周囲が出す音とリズムを意識しながら、あれこれと音にテンションを加えたり、自分のいる場所を見失ってウロウロしたり、考え考えソロを取ったりしていると、時間はあっという間に経ってしまった。
ジャズが流れている空間は、時間の流れ方が違う。
二十四時間が四十八時間ぐらいに感じられるほど、そこでは時がゆっくりと刻まれる。でもその中の一時間がぼくの中を通り過ぎる感覚は、ほんの十分ぐらいにしか感じられない時もあれば、いつまでたっても終わらない時もあった。
本格的にジャズを聴いたり演奏したりするようになると、体内時計の感覚が組替えられてしまい、そこにはまり込むと、否応なしに別の世界に引きずり込まれる。それを心地良いと感じる人もいれば、全く受け付けない人もいる。どちらが良いとか悪いとかそういうことではなくて、そこにはただそういう事実があるだけだ。そしてぼくにとってはそれは実に心地良いものだった。
実際に楽器をいじったり演奏したりしている時も、部室でソファーにもたれて本を読んだり、昼寝をしたり、誰かとどうでもいいことをして遊んだり、ただぼんやりとCDを聞いている時も、ぼくはそんな感覚を味わった。
ただ、その空間に鏡子さんが加わると、ぼくの中で流れている時間の感覚に、体が痺れるような甘い息苦しさを伴った、どこかで何かが静かに崩れて行くような奇妙な感覚が入り込んだ。そしてそれは、ぼくがそうと意識しない間に、ぼくの体の中にひっそりと染み込んで広がって行った。