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コカコーラ・ベイビーズの黄昏  作者: 早乙女四季
1/10

一九八九年以前

『黄昏の道を歩いているすべての人たちへ』


◆コカコーラ・ベイビーズ

①コカ・コーラを日常生活の中で当たり前のように飲むようになった世代。

②空虚さと違和感を抱えた分裂・拡散・浮遊の世代。

(V・V・アプサンス著/園田博一訳『統一的明日はあるか?』一九七二年より一部抜粋)


 『数学』という言葉を耳にすると、ぼくは今でも心の底からゾッとする。


 例えば、それは、紙パックに入った消毒薬の匂いのする日本酒を、後先考えずにしこたま飲んだあとのおよそ三日の間、壮絶な自己嫌悪と二日酔いの苦しさにのた打ち回り、この気持ち悪さから解放されるには、どこかの高層マンションまで青息吐息で這って行き、その非常階段をヨロヨロと一歩ずつ登って屋上に出てフェンスを越え、もうひと思いにそこから一気に飛び下りるしかない、と安易で馬鹿げた甘美な誘惑と一人孤独に戦いながら、絶望的な気持ちでベッドとトイレの往復を際限なく繰り返し、最終的には便器と友達になることよりも、はるかにゾッとすることだ。


 その傾向は、『数学』に発展する以前の『算数』の時からぼくの中に存在していた。そのことをぼくにはっきりと自覚させてくれたのは、いわゆる〈分数〉というやつだ。


 ぼくは〈5分の3〉ということが、まるで理解出来ない子供だった。

 一番最初に〈分数〉と顔を遭わせた時、「一本のフランスパンを五つに切ったうちの一つ」と言えばそれで済むのに、どうしてわざわざ〈5分の1〉なんて書き方をするのだろう、と黒板を眺めてひどく不思議に思ったものだ。

 それでも、〈1+1=2〉ということは理解出来る子供だったので、算数のテストの時、〈5分の3+4分の3〉という問題の答えも、何の迷いもなく、〈6分の9〉と書いた。すべての問題をその調子で答えたものだから、テストの結果は当然0点で、ぼくは放課後に職員室に呼ばれた。

 先生はぼくを椅子に座らせて、「算数は嫌い?」とか「家でちゃんと勉強してる?」などといろんなことを質問したあとに軽く咳払いをしてから、優しい口調でこう切り出した。

「それじゃあ、よく聞いてね」

「はい」

「ここに二本のフランスパンがあって、一本は五つに切って、もう一本は四つに切ったとしたら、どっちのかたまりの方が大きいかしら?」

 ぼくが少し考えてから「四つに切ったかたまりの方が大きいです」と答えると、先生は嬉しそうに頷いてこう続けた。

「じゃあ、全部で九個になったフランスパンをお友達と分けなければならないとしたらどうすればいい? 九個になったフランスパンは大きさが二種類あるわよね?」

 期待に顔を輝かせてニコニコしている先生の前で、ぼくはぼくなりに必死で質問の意味を考えてこう答えた。

「ぼくがその時おなかが減っていなかったら、大きい方を友達にあげます」

 先生はちょっと黙ってぼくの顔を見た。

「それじゃ、早乙女くんのおなかが減っていたらどうするの?」

「大きい方をぼくが食べます」

「でも、お友達もおなかが減っていて、大きい方をちょうだい、って言ったら?」

 ぼくは少し考えてからこう答えた。

「そうしたら、その時はがまんして大きい方を友達にあげて、ぼくは家に帰ってごはんを食べます」

 丸顔で若くて可愛らしいその女の先生は、ぼくの答えを聞くと、顔を歪めて困ったようにぼくの顔を覗き込んだ。それから助けを求めるようにキョロキョロと職員室の中を見回したけれど、その場にいた他の教師たちはさりげなく目をそらしたり、笑っていたり、眉をひそめていたりしただけで、誰も何も言わなかった。

「もう帰っていいから」

 可愛らしい顔を歪めたまま軽く溜息をついた先生は、ぼくにそう言った。

 ぼくはその女の先生のことが嫌いではなかったので、自分が先生を困らせてしまったらしいことに気が付いて、ちょっと困ってしまった。


 一時が万事、ぼくはこんな調子だったので、『算数』が『数学』に発展してしまってからは、もう目も当てられなかった。

 一生懸命授業を聞いていても、〈素数〉とか〈因数分解〉とか〈文字式〉とか、ぼくがこれまでに耳にしたことがない言葉が次から次へと出て来て、何がなんだかわけが分からないのだ。

 そのうちに、〈y=ax+b〉とか〈√〉とか〈π〉とか、見たことのない記号がたくさん黒板に並び始めるようになると、先生の言っていることでぼくが理解出来る言葉は、「これから授業を始める」とか、「今日はいい天気だ」とか、「ちゃんと試験範囲の復習をしておくように」とか、「今日の授業はここまで」といったような、どうでもいいことだけになってしまった。

 おまけにぼくの中学時代の数学の教師は、『立っておれ』というあだ名のついた中年女性で、出席簿順に一人ずつ問題を解かせたり答えさせたりして、必ずその時間内にクラス全員が発言する機会を作ることに執念を燃やしている、何とも教育熱心で几帳面な性格の人間だった。

 それでも時には、この『立っておれ』の目論見が外れて、マ行の森田とかヤ行の矢島とかワ行の渡辺などは答えなくても済むことがあったけれど、ぼくは『早乙女』という姓なので、九十九%の確率で当てられる。『算数』が『数学』に発展してからというもの、授業はもちろん、自分を取り巻く状況すら理解出来なくなっていたぼくは、指されても答えられるはずもなく、お地蔵のように黙っているしかない。そうすると、この数学教師は自分のあだ名を忠実に実行して、答えられないぼくに向かって、「立っておれ」と厳かに宣告するのだ。宣告されたら本当に立っていなければならない。『立っておれ』はいつも竹の長いものさしを持っていて、生徒が言うことを聞かないとそれでひどく打つのだ。だからぼくは立っていた。そして大抵この『立っておれ』は授業終了時まで続行された。

 当たり前のことだけれど、言うまでもなく『早乙女』はサ行なので、この『立っておれ』が発動されると、ナ行の野村やハ行の藤田よりも長く立っていなければならない。

「だけど、ア行の阿部とかカ行の加藤とかよりは、立っている時間は短くて済むじゃないか」

 そう言われればそれは確かに否定出来ないことだけれど、『数学』の時間に毎回立たされるのは、クラスの中ではぼくだけだった。

 ぼくは中学に入るとすぐに『立っておれ』になった。そして一年生の夏休み前には、自分がいないところでは、ぼくはクラスのみんなから、『早乙女』ではなくて『立っておれ』と呼ばれているということを知った。その数学の教師ですら、陰ではぼくをそう呼んでいるらしいということも知った。『立っておれ』がぼくのことを『立っておれ』と呼ぶのだ。

 自分が『立っておれ』になってしまうのは、もちろん嫌なことだったけれど、実際にぼんやりと立ち続けていること以上に嫌だったのは、どうしてクラスのみんなはぼくが理解出来ない〈y=ax+b〉とか〈√〉とか〈π〉を理解出来るのかということと、どうして自分が数学の時間に立っていなければならないのかというその理由が、いくら考えてもさっぱり分からなかったことだ。

 目の前で起きている状況が自分にとって何かとてもおかしいことで、そして自分は何がおかしいのかということがよく分からない。しかも、そのおかしい中に自分がしっかりと含まれていて、あるいは自分がその中心で、ぼくがおかしいのか、『立っておれ』がおかしいのか、クラスのみんながおかしいのかということが分からない。このことがぼくにとってはとても嫌なことだったし、何とも言いようがなく戸惑うことで、ひどく気持ちの悪いことだった。

 当てられた問題に答えられない。その場合は授業が終わるまでずっと立っていなければならない。立っている人間は座っている人間より劣っていて駄目な存在だ。だから早乙女はクラスの中で一番劣っていて駄目な人間である。

 当時中学生だったぼくには、このような現象の関係性がまるで理解出来なかった。実のところ、大人になった今でも根本的な部分においてはまるで理解することが出来ない。

 ぼくは数学の教師に「立っておれ」と言われるがままずっと立ち続けていたけれど、そのことが、当時、ぼくが抱えていた『数学が出来ない』という問題を解決する助けになったとは到底思えない。

 中学生だったぼくは、この教師のことが大っ嫌いだった。中学生ではなくなってからも大っ嫌いだったし、今でもやっぱり大っ嫌いだ。きっと死ぬまで大っ嫌いだろう。ひょっとしたら、死んでからも大っ嫌いなままかもしれない。

 そういうわけで、ぼくの中学時代の『数学』の時間は、座っているよりもぼんやりと立っている時間の方がはるかに長かった。

 そんな感じだったから、『数学』のテストはいつもほとんど0点だった。ごくたまに、〈分数〉とか〈x〉とか〈y〉とかの文字が使われていない、いわゆる『出来ない生徒用』の数字だけの計算問題で五点とか七点みたいな感じで点数を貰えることがあった。ぼくは〈a〉とか〈b〉とか〈x〉とか〈y〉とか〈分数〉が入っていない、足し算や引き算や掛け算や割り算は理解することが出来た。九九も一の段から九の段までちゃんと言うことが出来る。

 そんなぼくの状態をひどく心配した母は、近所の補習塾に通わせてくれたりしたけれど、塾に行っても、『数学』の授業の時は学校の授業とほとんど変わりがなかった。塾の先生の言っていることも、そのテキストの内容も、黒板に綺麗に書かれた数式も、相変わらずさっぱり理解出来なかった。違うのは、学校で『数学』の問題が解けないと『立っておれ』になるけれど、塾では壁の染みのように黙殺されるだけだった。



 * * *



 今の日本の受験体制がどういうシステムになっているのか、子供のいないぼくにはまったく分からないけれど、ぼくが受験生だった一九八〇年代という時代は、いわゆる内申書とか偏差値などに象徴される輪切り教育の絶頂期で、ぼくのようなバランスの悪いぼんやりした子供にはあまり向いていない社会だった。

 それでもぼくが何とか都立高校に進むことが出来たのは、『数学』が出来なかった代わりに国語と社会と英語の出来が比較的良かったからだ。私立高校は受験科目が国語と英語と数学の三教科で受けさせる学校がほとんどだったので、国語と英語が出来ても数学が0点ではお話にならないと中学の進路指導の教師に笑われた。推薦とか嘆願とか併願とか良く分からないシステムもあったようだけれど、ぼくも母もそういうシステムについてまるで分かっていなかった。ぼく自身としては、こんな自分でも入れてくれる高校があるんなら別にそこでいいや、ぐらいに考えていた。

 でもそういうぼくの考えは、実はとても甘かった。ぼくの行くことになった都立高校は、偏差値で言えば最下層の、高校とは名ばかりのなかなかハードな場所だった。

 半分ぐらい男の子は眉毛がなかったり、額の生え際がなぜか青いMの字だったり、制服のズボンが袴みたいにダボダボで太かったり、シンナーのやり過ぎで前歯が溶けていたりした。女の子もやっぱり半分ぐらいはびっちりと厚化粧をして、茶色い綿アメみたいなパーマヘアだったり、目蓋が全部青とか紫だったり、制服のスカートがやっぱり袴みたいにズルズルに長かったりした。

『人を見た目で判断してはいけない』という言葉をよく聞くけれど、ぼくはそれは少し間違っているような気がする。正確には、『人を見た目だけで判断してはいけない』と言うべきではないだろうか?

 ぼくは別にNO眉毛くんや茶色い綿アメのすべてがいけないと言っているわけではない。だけど、ぼくは、人間の外見というものは、ある意味において、その人自身の内面が目に見える形で表現されていて、その人の一部分を知る手がかりになるものだと考えていたし、今でもそう考えている。

 NO眉毛くんや茶色い綿アメを好ましく感じる人たちも世の中にはきっと存在するのだろう。でもぼくはやっぱり男女に限らず、それなりの眉毛がある顔が好きだし、青いMの字や茶色い綿アメのような髪の毛よりは、その人の皮膚や目の色にあった自然な色をした真っ直ぐな髪やゆるいウェーブのかかった髪の方が好きだ。例えば、朝目が覚めて、顔に眉毛のない人が隣で寝ていたり、鏡を見た時に自分の顔に眉毛がなかったりしたら、ぼくは恐らくギョッとして複雑な気持ちになってしまうだろう。これは個人の好みや趣味の問題だから、それが良いとか悪いとか、そういう問題ではないことは分かっていたけれど、ぼくはNO眉毛や茶色い綿アメを好きになれなかった。

 もちろんそういうタイプの生徒だけではなくて、ごく普通っぽい感じの生徒もいたけれど、教室は落書きとゴミだらけだし、教師の方が生徒にいびり出されて登校拒否になり、胃潰瘍か何かの病気になって長期休暇に入り、結局そのまま高校を辞めて行くようなことは日常茶飯事だった。現にぼくの一年生の担任だった中年の社会の教師がそうなった。

 初めてこの高校に足を踏み入れた時、「これは本当に現実のことなのだろうか?」とぼくは大きな戸惑いを覚え、自分の体がフワフワと宙に浮き上がって行くような奇妙な感覚に襲われた。

 いずれにしても一つ確実に言えることは、どちらが良くてどちらが悪いなどという問題は別にして、昔流行った小説の中に出て来る主人公が通っていた『日比谷高校』とぼくが入学した高校は、同じ都立高校だったけれど、そこには天と地ほどの差があったということだ。

 今の日本は平和な民主主義国家だけれど、『出来る子』と『出来ない子』に対する線引きに関してはどうやら徹底しているようだ。その高校の入学式の席で、ぼくはしみじみとそんなことを考えた。


 ぼくの家は東京の世田谷という閑静な住宅街にあって、まわりは結構裕福な家が多い。

 父は主に船や飛行機とかに使われる工業計器などを扱う大企業のサラリーマンで、今となっては死語になってしまったみたいだけれど、仕事第一のいわゆる『企業戦士』だった。平日は朝早くから夜遅くまで会社で仕事に従事し、休日は接待ゴルフに出かけ、たくさんの給料を持って帰って来る代わりに、家庭のことは奥さん任せというような人種のことだ。

 そして別に父が『死の商人』というわけでは決してなかったけれど、世界のどこかで戦争が起きると、必ずと言っていいぐらいに父の仕事が忙しくなり、ぼくの月々の小遣いもそれに比例して値上がりをした。

 小遣いの額が上がるたびに、戦争というのは罪のない人がたくさん死んだりする一方で、お金をたくさん儲ける人もいて、もしまた仮に日本が戦争を初め、例えばぼくが死んだりしたら、ぼくが地球上に存在することすら知らない場所にいるどこかの誰かが、きっとたくさんのお金を儲けるんだろうな、とぼんやりと考えたことがある。

 ぼくは小学生だった時、死ぬことはあまり愉快なことではないけれど、もしそうなったらそれはそれで仕方のないことかもしれない、と心のどこかで考えていた。

 母はかなり神経質で内向的でポーッとしているところのあるお嬢様育ちの人で、世間のことをほとんど知らない料理上手で綺麗好き、という典型的な専業主婦だった。


 だからその高校の入学式の帰り道に、母が人目もはばからずに泣き出してしまったのも当然と言えば当然のことで、まあ無理もないことだった。正直に言って、ぼくだって、自分の周りにゴロゴロしていたNO眉毛くんや茶色い綿アメのことがとても恐かったし、彼らに対してうまく説明の出来ない違和感のようなものもあって、自分がこれからあの場所に三年間通うということがどうしても現実のこととは思えなかった。

 この出来事は、母が平和に生活している常識の範囲を圧倒的な力で楽々と超えてしまっていたのだ。ぼくは『立っておれ』の落ちこぼれではあったけれど、眉毛はちゃんと生えていたし、シンナーの匂いは二歳年下の弟の真澄と一緒にプラモデルを作る時ぐらいしか嗅いだことがなかった。

「四季くん、ごめんね、ごめんね」

 帰りのバスの中で母は泣きながらぼくにそう謝り続けていたけれど、ぼくは別に母が謝るようなことではないと考えていた。

 母は一生懸命に家事をこなしながら、ぼくが『数学』が出来ないことに胸を痛めて宿題を手伝ってくれたり、塾に通わせてくれたりした。

「早乙女君は、大切な何かが欠落していらっしゃるようです。残念ながら、何が足りないのか私には分かりかねます。御家庭でもっとお話し合いの場をお持ちになられる御努力をなされた方が御宜しいかと存じます」

 小学校の通信簿に理解不能な敬語で書かれた教師の言葉に、母はさめざめと涙を流した。

「俺だって一応教師だからさ、こういうことって本当は言いたくないんだよね。でも、早乙女って、環境適応能力っていうの? そういうのがはっきり言って欠如してんだよね。だいたいぼんやりし過ぎてんだよ。他の子と比べても何かちょっと変なんだよな。お母さん、悪いけどさ、あんたの指導方法にかなり問題があんじゃないの? どうなの? そこんとこ、よく考えてみてよ」

 居丈高でぞんざいな言葉を使う中学校の担任教師に対して、「申し訳ありません」と母は何度も何度も頭を下げた。

 事実、ぼくのことで、母はもう充分過ぎるほど充分に傷ついて来たのだ。ぼくが『算数』や『数学』が出来ないのは、決して母のせいではないのにもかかわらず。

 目頭にハンカチを当てて泣いている母を、バスに乗り合わせた人々は面白そうに目の端で見ていた。ぼくはその母の隣に座って、どうやら大変なことになってしまったらしいなあ、と考えていたけれど、綺麗に化粧をした母の顔から鼻水が垂れているのを見ると、ちょっとやり切れなくなって来てしまった。母は本来はとても綺麗な人だった。

「お母さん、ぼくはちゃんと眉毛を生やしたままでいるから大丈夫だよ。だから鼻をかんだ方がいいと思うよ」

 綺麗な母の顔が涙と鼻水でグシャグシャになっているのは見たくなかった。母にはいつも綺麗な人でいて欲しかった。

 母はうんうんと頷いて鼻をかんだけれど、それでもバスを降りて家に着くまで、ずっと泣きっぱなしだった。


 結論から言うと、ぼくはその高校に一年と半年ほど通って、卒業式に出ることはなかった。簡単に説明すれば、高校二年の夏休み明けに学校を辞めてしまったのだ。いわゆる高校中退というやつだ。

 その高校では、ぼくはもう『数学』に苦しむことはなかった。

 もちろん一年生の時には『数学Ⅰ』、二年生の時には『数学Ⅱ』という授業はあったけれど、NO眉毛くんや茶色い綿アメが真面目に授業に取り組むはずがなかった。普段の授業では先生が出席を取ったあとに小さな声で教科書を読み、中間テストや期末テストの前には、先生があらかじめ試験問題を配り、「これと同じ問題を実際の試験でも八割ぐらい出すから、良い点数を取りたかったらこのプリントに書いてあることを丸暗記しなさい」というような馬鹿々々しい冗談のようなことがまかり通っていたからだ。

 本当にそんなことでいいのかなあ、とぼくは一応考えてみたけれど、まあ、先生がそう言うのならせめて答えぐらいは覚えておこうと、配られた試験問題を丸暗記して、生まれて初めて『数学』を含んだ全教科で九十点以上を取る、という快挙を試験のたびに達成した。虚しい快挙だ。

『数学』では嫌な思いをしなくなったぼくがその高校を辞めた原因は、二年生の一学期に数えるぐらいにしか学校に行かなかったせいで、進級するには出席日数が不足したからだった。無断欠席すると家に電話がかかって来るような学校ではなかったことをいいことに、「行って来ます」と朝元気良く家を出ても、ぼくは自分の好き勝手に時間を使って学校には行かなかった。出席日数のことがチラリと頭をよぎることもあったけれど、まあいいや、と思ってほとんど気にしなかった。

 いくらぼくの中の大切な何かが欠落していたり、環境適応能力が欠如しているからといって、一体全体、自分が何をしに行くのか分からない場所に毎日毎日通うことは苦痛以外の何ものでもなかった。ぼくはそういう苦痛を我慢するつもりもなかったし、実際に我慢することが出来なかった。

 その時の自分が、高校に行かないで毎日毎日何をしていたのか、今のぼくにはよく思い出せない。でも多分、そんなにたいしたことはしていなかったような気がする。


 ぼくの父は若い頃、社会部の新聞記者になりたかったという人だったので、家の中にはあっちこっちに本棚があって、ドストエフスキーやトルストイやゲーテとか、漱石や鷗外や芥川龍之介や高見順日記などの古い文学全集の他に、資本論などの社会科学系の全集や、法律書や経済書や、司馬遼太郎や陳瞬臣や大仏次郎などの歴史物や、藤沢周平や池波正太郎や柴田錬三郎や五味康介などの時代小説や、今はもうほとんど忘れられてしまっている高橋和巳や柴田翔の初版本とか、『斬られ方の美学』とか『フランソワ・トリュフォーのすべて』などという映画物など、結構いろんな種類の本が溢れ返っていた。そのせいか、ぼくは物心がついた時から活字に囲まれて育ち、呼吸をするのと同じような感じで本を読む子供だった。

 だから学校をさぼってぼくがうろついていた先は、渋谷の大盛堂やタワーレコードや自由ヶ丘の武蔵野館とか、あるいは少し遠出をしても神田神保町の古本屋街とか、多分そんなところだったと思う。

 本は好きだったけれど、ぼくは図書館には行かなかった。期限付きの本を読むということが元々好きではなかったし、一度足を踏み入れた時に司書士の人から、「学校は?」と聞かれてひどくきまりの悪い思いをしたからだ。ゲームセンターにも行かなかった。あの延々と大きな音で鳴り続ける電子音がぼくは大嫌いだった。今もそうだ。だからパチンコ屋に入ったことは一度もない。繁華街にも行かなかった。そこにはただ、どこまでも際限なく人と物が溢れているだけで、ぼくが興味を惹かれる人も物も何もなかった。

 ふところが暖かい時は、自由ヶ丘の武蔵野館で母の作ってくれた弁当を食べながら、アメリカやヨーロッパの古い映画を何度も何度も繰り返し見た。

 雨の日はよく電車に乗った。東横線の渋谷から桜木町まで何度も往復したり、山手線をぐるぐる回ったりしながら本を読んだ。目が疲れると、ウォークマンでチェット・ベイカーやマイルス・デイビスやソニー・クラークを聴きながら居眠りをしたり、窓の外の景色を眺めたりした。そして家に帰って来てから、自分の部屋で母の作ってくれた弁当を食べた。

 晴れた日はよく散歩をした。高校の近くの市民公園に行って、芝生の上で弁当を食べたり、ウォークマンでゲインズブールやジェーン・バーキンやフランソワーズ・アルディを聴きながら、公園内のサイクリングコースをブラブラと歩いたり、ベンチの上で学校が終わる時間になるまで昼寝をしたり、父の本棚から適当に抜き出して来た本を読んだりした。

 散歩をすることは楽しかった。母が作ってくれる弁当はいつも美味しかったし、何をしに行くのか分からない高校に行くのに比べて、新緑が鮮やかな公孫樹の木の下のベンチで、風に吹かれながら本を読んだり音楽を聴いたりした時間は、高校生のぼくにとってはきっと幸せな時間だったに違いない。

 でも、その幸せな時間の隣には、いつも孤独がひっそりと座っていた。ぼくはいつの頃からか、心の片隅でその存在に気が付いていたけれど、それを見て見ぬ振りをして知らん顔をしてやり過ごした。



 * * *



 夏休み前の終業式の日に、久し振りに学校に行って成績表を貰ったあとで職員室に呼ばれたぼくは、カツ丼を食べている若い英語の担任教師からいきなりこう言われた。

「お前は二学期から一日も休まないで毎日学校に通って来ても、出席日数が足りないから三年には進級できないよ。どうするんだ?」

 学校をさぼっていたわけだから、出席日数が足りなくなることは考えてみれば当然のことだった。でも、突然、「どうするんだ」と聞かれてしまってぼくは戸惑った。

「夏休みの間によく考えて見ます」

 ぼくは仕方がないのでそう答えた。

「分かった。じゃあもういい」

 担任教師はそう言って、立っているぼくに向かって「あっちに行け」というように箸を持った右手を振って、またカツ丼を食べ始めた。

 そして夏休み明けの始業式の日に、ぼくは担任教師の元に退学届けを持って行った。

「事務的な手続はこっちでやっとくから」

 東スポを読んでいた担任教師は紙面から目を離さずに右手を出した。ぼくがその右手に退学届けを乗せると、担任教師は机の上にその退学届けを放り出した。そしてその場から離れようとしたぼくを「ちょっと」と言って呼び止めた。

「学生証、置いてって」

 担任教師は東スポの紙面に目を落としたままぼくに向かって右手を差し出した。ぼくがその右手に学生証を乗せると、担任教師は初めてチラッとぼくの顔を見た。そして、「ごくろうさん」と言った。


 高校のクラスメートの話していることや彼らの興味の対象は、『数学』と同じようにぼくにはさっぱり理解することが出来なかった。

 NO眉毛くんや茶色い綿アメは車やバイクの話で盛り上がって週末の暴走集会の計画のようなものを立てることに夢中だったし、それ以外の普通の男の子や女の子たちは、アルバイトをしたお金で買う洋服の話や、テレビで流行っているドラマやお笑い番組の話や、『追っ掛け』をしている芸能人のゴシップの話などを毎日毎日とても楽しそうに繰り返して話していた。

 暴力の匂いが漂っているNO眉毛くんや茶色い綿アメの中に入って行くことは、ちょっと恐くてぼくには出来そうもなかった。でもそれ以外の普通の人たちは平和そうで、いつもそれなりに楽しそうだった。ぼくもその輪の中に入ってみたいと思って、彼らの話の中に出て来る洋服が載っているファッション雑誌を立ち読みしたり、テレビドラマやお笑い番組を見たりしてみたけれど、ぼくはそれらにどうしても馴染めなかった。あれこれとやってみたけれど、ぼくは結局、普通の人たちのどの輪の中にも入ることが出来なかった。

 そして周囲の人間が自分に理解出来ないことをエンドレスで話しているという状況は、例の『数学』という言葉がもたらす、あのゾッとする気持ち悪さをぼくに感じさせ続けた。


 そんな感じの、わずか一年半しかなかった高校生活の中でも、ぼくの心の中に深く印象に残っている二人の同級生がいる。


 一年生の冬の放課後の出来事だ。

 掃除当番を終えたぼくが教室で一人で帰り支度をしていると、一度も話したことのない普通のクラスメートの女の子が教室に入って来てぼくに向かって唐突に口を開いた。

「ねえ、早乙女くんって、あたしのこと、馬鹿だと思ってるでしょ」

 ぼくはひどく驚いてしまった。

 その女の子はいつも明るくニコニコと笑っていて、男子生徒からは可愛いと評判が高いとても人気のある女の子で、茶色い綿アメたちとは違って薄化粧でそれなりに成績も良く、先生たちにも可愛がられていて、荒廃している高校の中では数少ない優等生のような存在だった。

 確かに同じことをいつも繰り返し話して、よくまあ飽きないものだと思ってはいたけれど、ぼくはその女の子のことを『馬鹿』だと思ったことは一度だってなかった。

「そんなことないよ」

 だからぼくは否定した。

「じゃあ、どうしてみんなと一緒にいないの?」

 彼女はぼくにそう言った。

「特に理由はないけど……」

 あれこれと説明するのが面倒臭くなったぼくが適当に答えると、彼女は少しだけ顔を歪めてぼくのことをじっと見た。

「ほらね、やっぱり馬鹿だと思ってる」

 彼女は自分の意見を譲らなかった。

 ぼくは彼女を『馬鹿』だと思っていないということを説明しようと思ったけれど、それもどうも気が進まなかったから黙っていた。黙り込んだぼくの顔をしばらくじっと見ていた彼女は、思い切ったように口を開いた。

「あたしだって、本当はこんな高校には来たくなかったのよ。でも、中学の時に病気になって学校を長く休んだせいで、こんなことになっちゃったの」

 彼女はそう言ってぼくの顔を見ていた。

「へえ……」

 ぼくはそんなふうに相槌を打って、それで黙っていた。彼女はぼくの次の言葉を息を詰めて待っているようだったけれど、ぼくは彼女に対して何を言えばいいのか分からなくて、どうしてこの子はそんなことをぼくに言うのだろうと、正直、戸惑いの方が先に立ってしまった。

「もういいよ。イヤな奴」

 ぼくがそれ以上は何も答えそうもないことが分かると、最後にそんな捨てゼリフを残して、彼女は教室から出て行ってしまった。

「へえ、そうなんだ。本当にこんな高校は嫌だよね。ぼくも毎日そう思っているんだよ」

 きっとその時の彼女は、ぼくにこんな感じのことを言って欲しかったんだと思う。もちろん、ぼくはそんなことは言わなかったし、多分、今でも言わないだろう。そういうことは口にするべきことではないのだ。

 でも、当時高校生だったぼくには分からなかったけれど、今のぼくには、その時の彼女の気持ちがほんの少しだけ分かるような気がする。

 本当はこんな高校に来たくなかった。

 中学の時、病気になって長く学校を休んだ。

 彼女が口にしたことは恐らく事実だろう。でも彼女はきっと本当はそういうことをぼくに言いたかったのではない。

 彼女は多分、彼女自身の中でどうしても何か満たされない部分があって寂しくて仕方がなかった。誰かに話を聞いて貰って自分の寂しくて満たされない気持ちを理解して欲しかった。だけど、いろんな感情が邪魔をしてそれをうまく伝えられなかったんだ。

 今のぼくはこの時のことをそんなふうに考えている。

 彼女が何という名前でどんな顔をしていたのか、ぼくはもう忘れてしまって思い出すことは出来ない。もしどこかの道で彼女とすれ違ったとしても、ぼくが彼女の存在に気がつくことはないだろう。でも、「もういいよ。イヤな奴」という彼女の苛立った声は、今でもはっきりと耳の奥に残っている。


 二年生の春先の出来事だ。

 その頃のぼくは既に学校をさぼり始めていたけれど、クラス替えや何やかやで、それでもまだ一週間のうちの二日間ぐらいは学校の教室の机の前に座っていた。

 お昼休みに母が作った弁当を開けると、隣の席の吉岡という男の子が、「その玉子焼き、美味しそうだね」と話し掛けて来た。

 吉岡はNO眉毛くんたちの仲間で、煙草かシンナーか、そのどちらかの臭いをいつも強烈に放っていた。

 今日の吉岡はどっちの臭いだろう。出来れば煙草の臭いの方だと有難いんだけどなあ。

 そんな感じで『今日の吉岡臭』について考えることが、二年生になってからのぼくの朝の日課になっていた。

 というのも、煙草はうちの父がハイライトを吸っていたし、時々はぼくもそれを失敬して父の書斎で吸ったりしていたから充分に免疫力があったけれど、シンナーの刺激臭は勘弁して欲しかった。ぼくにとって不幸だったことは、吉岡は窓際の席だったので、窓が開いていて風の吹く向きによっては、そのシンナーの臭いがもろにぼくの席に直撃して、ぼくまで軽いシンナー酔いに陥ることがままあったからだ。

 母の玉子焼きは確かに美味しくて必ず弁当に入れてくれるように頼んでいたくらいだから、「うん、美味しいよ」とぼくは答えた。すると吉岡は、「へえ、いいなあ。弁当は毎日自分で作るの?」と聞いて来た。

「違うよ。母親が作るんだ」

 そういえば、こいつが隣で食べているのは、いつもコンビニの袋に入ったパンとかカップ麺だったな、とぼくはぼんやりと思い出した。その時も吉岡の机の上にはコンビニの袋が乗っていた。

「へえ、すごいね。いいなあ……」

 弁当を母親が作ることがどうしてすごいことなのか、ぼくには良く分からなかったけれど、吉岡がじっとぼくの弁当の玉子焼きを眺めているので、「食べる?」とぼくは何となく聞いてみた。

「え? いいの?」

「別にいいよ」

「じゃあ、貰うね」

 吉岡は妙にはにかんで、ぼくの弁当箱の中の玉子焼きをひょいと一切れつまみあげると、シンナーで溶けた前歯で半分だけ齧り、「うまいなあ……」としみじみと言い、何度も何度も口の中で味わっているらしく、なかなか飲み込もうとしなかった。口の中が空っぽになってしまうと、残りの半分を口の中に入れて、「うまいなあ……」とまた同じことを言って、同じ動作を繰り返した。

 そして吉岡は口を動かしながら、弁当箱の中の残りの玉子焼きやプチトマトや肉団子やのり弁になっている御飯に視線を落としているので、「この弁当、全部食べていいよ」とぼくは持っていた箸と弁当箱を吉岡に渡した。

「え? いいの?」

「いいよ。そのかわり、それをくれよ」

 ぼくは吉岡の机の上のコンビニの袋を指差した。

「それはいいけど……。でも、本当にこの弁当、俺が食っていいの?」

「別にいいよ。ぼくは毎日食べてるから」

 ぼくがそう言うと、ひどく恐縮した吉岡は渡した箸を握ったまま、しばらくの間、馬鹿みたいにぼくの弁当を眺めていた。

 ぼくは何だか自分がひどく間抜けで嫌なことをしているように思えて来た。仕方がないから、コンビニの袋の中からツナサンドを出して袋を開けて食べ始めた。ぼくが吉岡を無視してツナサンドをムシャムシャ食べ出したのを見て、吉岡も弁当に手をつけ始めた。ぼくはその吉岡の様子を目の端でちょっと見ていた。

 吉岡はまず、手に持った弁当箱のへりに口をくっつけ、その口に箸で御飯をゆっくりと掻き入れた。吉岡の箸の持ち方はひどいものだった。ぼくのような鉛筆握りではなく、二本ともグーで握り締めて座頭市のように逆手に持っていた。次に肉団子を箸で突き刺してゆっくりと口に入れて何度も何度も噛み締めた。

 ぼくはツナサンドを食べながらその様子を横目で見ているうちに、泣き出したいような嫌な気持ちになり、次第に腹が立って来た。その嫌な気持ちや腹立たしさは、取りようによっては、卑屈にさえ見える吉岡の態度や、『箸の座頭市握り』に対する不快感のためではなくて、ぼく自身に向けられたものだった。

 だけど、どうしてそんなふうに泣き出したいようなやり切れない気持ちになったのか、ぼくは自分の感情をうまく整理出来なかった。

 ただ、分かっていたことは、ぼくは彼に向かって、「弁当を食べていい」などと不用意に言うべきではなかった、ということだった。



 * * *



 ジャズ研の部室で鏡子さんとたまたま二人でビールを飲んでいた時、ひどく緊張していたぼくはつい飲み過ぎてしまい、酔っ払った勢いで、この吉岡の話をしたことがある。

 周囲に人がいる時は、ぼくは鏡子さんの顔を見ることが出来たけれど、二人きりになってまともに向かい合ってしまうと、真っ直ぐに鏡子さんの顔を見ることがなかなか出来なかった。視線は落ち着ける場所を探し続けてあっちこっちをフラフラし、体は緊張して強張って、いつもひどく喉が渇いた。たまに鏡子さんと視線が合うと、顔や耳が熱を持ち、鳩尾のあたりが痛くなってうまく言葉が出て来なかった。

 鏡子さんはビールを飲みながら、『今日の吉岡臭』のところでちょっと笑ったあとは、黙ったまま最後までぼくの言葉に耳を傾けていた。

「人間が無防備になる時は、寝てる時と排泄の時の二つだと思ってたけど、物を食べている時も、そうなのかもしれないわね」

 険のある目元を少し細めた鏡子さんは、明り取りの窓から射し込む西日を眩しそうに避けながら、「でも、物を食べている時に無防備なのは、ちょっと嫌だな」とぼくを見て笑った。

「どうしてですか?」

 ぼくは聞いてみた。

「恥ずかしいじゃない」

「恥ずかしい?」

 思いがけない言葉にぼくが驚いて聞き返すと、鏡子さんは細い首を少し傾けながら、古びた汚らしいソファーの背もたれに体を預けて、Gパンをはいた長い足を無造作に組み換えた。

「どうして恥ずかしいんですか?」

 ぼくがそう尋ねると、鏡子さんはちょっと考え込んでいた。

「浅ましいっていうのかなあ……」

「浅ましい?」

「生きることに対する無意識の執着とでも言えばいいのかしら? そういう執着って恥ずかしいでしょう? うまく言えないんだけど……。でも、自分のそういう執着とか無防備さって、相手に気付かれたくないわ」

「どうしてですか?」

「そういうことに気が付くと、哀しくなったり、息苦しくなったりしない?」

 ぼくはちょっと考え込んだ。

「知らなかったり気が付かなかったりすれば割とすんなり行けるんだけど、知ってしまったり気が付いてしまうと、どんなに頑張っても、もうそれ以上は進めなくなってしまうような気がするのよ。もう駄目。降参。お手上げっていう感じで……」

 ぼくは鏡子さんの言葉の意味が良く分からなかった。

「相手の無防備さに気付いてしまったら、気付いた方に残るのは、多分、自分の無力さだけよ。無防備な相手に対して出来ることは、その無防備さから目をそむけるか、それを許して受け容れるか、それぐらいじゃないかしら?」

 ああ、とぼくは思った。弁当を食べている吉岡の姿をぼくは見たくなかった。確かに目をそむけてしまった。

「鏡子さんはどっちなんですか?」

「何が?」

「目をそむけますか? それとも許して受け容れますか?」

 ぼくはそう聞いてみた。

「そうねえ……。四季くんはどっち?」

「分かりません」

 ぼくがそう答えると、鏡子さんは、「私にも分からないわ」と険のある目元を細めた。

「それとも、他に何かやり方があると思う?」

 ぼくは少し考えてみた。でも、何も思い浮かばなかったし、それまでこんなことを考えてみたこともなかった。

「分かりません。鏡子さんは?」

「受け容れたいとは思っているけど……。でも、出来るかどうか自信がない。私にも分からないのよ。もちろん、気付いていることが『善』で、気付いていないことが『悪』とか、そういう単純なことじゃないのよ。人間が持っている無防備さの中には、無垢と罪と、全く矛盾するものが同時に存在しているような気がする。そして無防備さを持っていない人間なんて、多分どこにもいないのよ。気が付いているかいないか、それだけ。……私の言ってること、分かる?」


 鏡子さんは、ぼくが生まれて初めて好きになった女の人だった。


 もし、この時のぼくが鏡子さんのこの言葉の意味をきちんと正確に理解することが出来ていたら、そして、それに対してほんの一歩、足を前に踏み出していたら、とぼくが考えない日はない。

 そうしたら、鏡子さんはあそこまで追い詰められることもなかったかもしれない。取り返しのつかないことにならなかったかもしれない。絶望の淵を覗き込まずに、もう少し何とかなっていたのかもしれない。鏡子さんやぼくが心から大切にしていた世界や、そこにいた人たちを失わずに済んだかもしれない。

 そう考えることはあまりにも傲慢なことなのだろうか?

 もちろん、ぼくの小さな力では、結果は何も変わらなかったかもしれないし、たとえぼくがその時どんなに頑張ったとしても、それは最初から決まっていて変更不可能なことだったのかもしれない。だけどあの時点で、鏡子さんが経験したことを、当時の鏡子さんの身近にいた人間の中で一番理解することが出来たのは、多分ぼく以外にはいなかった。

 にもかかわらず、ぼくは黙って見ていただけだった。結果的に何もしなかった。指先一本動かせなかった。鏡子さんを追い詰めた責任の一端はぼくにもある、

 そう考えると、ぼくは今でもどうしようもない無力感と罪悪感に苛まれる。



 * * *



 ぼくは担任の教師に言ったように、出席日数が足りないまま留年するか、高校を辞めるか、一夏かけてじっくりと考えてみた。

 今でこそ高校中退というのは珍しくない存在になっているみたいで、それが良いことなのか悪いことなのかは別にしても、社会的認知度もずいぶん高くなって来ているらしい。でも当時はまだ今のような感じではなく、高校を辞めるということは結構珍しいことで、それなりの決断が必要だった。

 それはなぜか?

 答えは簡単だ。

 一言で済む。

『落伍者』になるからだ。

 ぼくが高校生として生きていた当時のこの場所は、『良い高校』に入って『良い大学』に進み『良い会社』に就職するということに高い価値観を見出すような世界だった。だからその枠組みから逸脱することは、落伍者の烙印を押されることと同じだった。そういう意味では、ぼくは『算数』や『数学』に遭遇した時点で落伍者になったも同様で、既にその枠組みから逸脱しているようなものだった。

 ただ、高校を辞めるにしても辞めないにしても、社会の価値基準とはまた別の幾つかの小さな個人的な理由から、ぼくは『大学』という場所に行きたかった。


 ぼくは誰に何を言われるでもなく、とにかくたくさんの本を読みたかった。

 というのも、ぼくは高校に通っている間、することもないし、喋る相手もいなかったので、休み時間は本を読んでいることが多かった。でもある時、普通のクラスメートの男子生徒から、「えらそーに本なんか読みやがって」と絡まれたことがあった。ぼくが黙っていると、その男子生徒は、「シカトしてんじゃねえ。てめえ、マジでムカつくんだよ」とぼくの頭を思いっきりグーで殴ったのだ。ぼくは痛さや怒りを感じる以前にびっくりしてしまった。

 ぼくは自分がどうして殴られたのか良く分からなかった。そしてそれについてちょっとおかしいのではないかと思ったけれど、他のクラスメートたちはそれを格別おかしいことだと受け取ってないようなので、ひどく不思議な気持ちになった。

 だいたい本を読むということは、野球やサッカーのような団体スポーツと違ってチームワークも必要ないし、ごく個人的な行為であるはずだ。にもかかわらず、思いっきりグーで頭を殴られてしまう。わけが分からない。危害を加えられずに本を読むには、どうやらそれに適した『場所』を選ばなくてはならないらしい。

 ぼくは大切な何かが欠落していたり、環境適応能力が欠如しているのかもしれないけれど、グーで頭を思いっきり殴られる環境に適応出来る能力を身につけたいとは思わない。中学時代の『立っておれ』も嫌だったけれど、思いっきりグーで頭を殴られるのもやっぱり嫌だ。でもぼくに限らず、そういうことは誰にとっても嫌なことではないのだろうか? 例えば、野球がとても好きな男の子が一人で素振りをしていたら、「えらそーに素振りなんかしやがって。てめえ、マジでムカつくんだよ」と言われて突然グーで殴られたら、やっぱり嫌だと思うだろう、ということだ。

 でも、ぼくは読みたい本がたくさんある。だから『大学』に行けば、好きな時間に好きな場所で、安全に本を読むことが出来るだろうと考えたわけだ。


 それからぼくは両親が音楽好きということもあって、幼稚園の頃からピアノを習い、中学に入ってからはギターやベースもチョロチョロと触るようになっていた。

 父はバリバリのクラシック・ファンで、たまに休日に家にいる時は、自慢のステレオでフルトヴェングラーやケンプの演奏をよく聴いていた。たまに気が向くとビリー・ホリデイやヘレン・メリルなどのジャズ・ヴォーカルのレコードを流していることもあった。

 音大のピアノ科を出た母は、逆に父ほどガチガチではなく、クラシックももちろん聴いたけれど、ビートルズはもちろん洋楽物のポップスを聴いたり、『あ~な~たに~、さよ~ならって言える~のは~、今日だけ~♪』のようなフォークソングや、『ちょっと~、振り向いて~、見ただけの、異邦~人~♪』みたいな歌謡曲も聴いたりしていた。

 そんな環境が影響したせいか、ぼくも本を読むのと同じぐらい音楽を聴くことが好きだったし、楽器を弾くことも好きだった。そして中学の半ばぐらいから、ぼくはジャズを本格的に聴くようになっていた。

 とっかかりはリー・モーガンの『イエスタデイ』の演奏を聴いてからだ。テーマ・メロディーの演奏も良かったけれど、リー・モーガンやジョー・ヘンダーソンやマッコイ・タイナーのソロ演奏が最高に格好良かった。コード進行をきっちりと守っているのに、そこにはそれぞれのミュージシャンの感性が溢れ返っていた。あの使い古されたビートルズの曲がこんなふうになるんだ、とぼくは純粋に驚いて、それ以来、すっかりジャズの魅力に参ってしまった。ぼくもマッコイみたいなピアノを弾きたいと思った。だから『大学』に行けば、今まで以上にたくさんの音楽を聴いたり、ジャズを演奏する機会も出来るだろうと思ったのだ。


 それから最後の一つ。

 これはかなり恥ずかしい理由だけれど、ぼくが『大学』という場所に強く惹かれたのは、自由ヶ丘の武蔵野館に掛かっていたある一本の映画を観たからだった。

 本を読んだり音楽を聴いたり楽器を演奏したりするということは、ある意味でぼくの欲望の具体的な形の現れだけれど、『追憶』という一本の映画は、ぼくに一種の『大学幻想』というようなものをもたらした。

 この映画はロバート・レッドフォードとバーブラ・ストライサンドが共演した七〇年代のアメリカ映画で、生まれも育ちもまったく異なった男と女が『大学』という場所で出逢い、様々な紆余曲折を経て、考え方の違いから最終的には別れを選ぶという、ハッピー・エンドにはならない切ないラブ・ストーリだ。ストライサンドは鼻が大き過ぎて全体的にゴツくて、ぼくが好きなタイプの女性の顔立ちとは相当かけ離れていたけれど、それでもスクリーンの中で観ている限り、彼女は何事にも一生懸命で健気でとても可愛らしい女性だった。レッドフォードが決して美人ではない彼女に惹かれてしまう気持ちが分かるような気がした。

 人気のない映画館の片隅で初めてこの映画を観た時、メロディアスなテーマ曲が流れる中、ニューヨークの街角で再会した二人が最後に別れるシーンは本当に切なくて、ぼくは不覚にも涙をこぼしてしまった。人生にはどんなに強く自分がそれを望んでも、どうにもならなくて諦めなくてはならないことがあるんだと考える一方で、ぼくは何のてらいもなく『大学』っていいなあとしみじみと憧れてしまった。

 もちろん今はそういう時代ではないし、現実の日本の大学が、ハベルとケイティが運命的な出逢いを果たしたような場所ではないことぐらい、さすがのぼくでも分かっていたけれど、それでもぼくはその場所に行って、そこに自分の身を置いてみたかった。

 よくよく考えてみれば、幼稚園から始まって、小学校、中学校、高校という場所は、ぼくが自分から望んで行きたいと願った場所ではなかった。幼稚園は気が付くと自分がそこにいたという感じだったし、小学校、中学校、高校は、どれも行かなければならない場所だった。でも『大学』という未知の場所は、ぼくが生まれて初めて自分から行きたいと思った場所で、今までのぼくがいた世界とはまるで違う匂いのする世界のような気がしたのだ。


 留年して今の高校に通いながら大学入試の勉強をするということは、ぼくにとってはどうにも現実味に欠けることだった。ぼくの通っている高校は大学進学率が事実上の0%だったし、それよりも何よりも、本を読んでいるだけでグーで思いっきり殴られてしまう場所なのだ。ぼくはもうあの高校に通う気持ちにはどうしてもなれなかった。でも『大学』にはどうしても行きたかった。だから高校を辞めて『大学』に行くということが果たして可能なことなのかどうか、ぼくは夏休みの時間を使って徹底的に調べてみた。



 * * *



 ぼくが両親に話をしたのは、夏休みの最終日の夜だった。

「出席日数が足りなくて進級できなくなったから、ぼくは高校を辞めて大学に行くことにしたよ」

 ぼくのその言葉を聞いて、常識が服を着て歩いているような父は言葉を失い、母は軽いパニック状態に陥った。

「お前の話は俺にはまったく理解できない。大学に行くには高校を卒業しなければならないだろう? それがどうして高校を辞めて大学に行くことになるんだ?」

 父の言葉は確かにもっともなことだった。でもぼくは譲るわけにはいかなかった。

「別に高校を卒業しなくたって、大学には行けるんだよ」

「どういうことだ?」

「大検を受ければ高校卒業の資格が取れるからね。ぼくはそうするよ」

「大検ってなんだ?」

「高校卒業の資格をくれる国家試験だよ」

「国家試験? 試験を受けるのか?」

「そう」

「だったら尚更無理だろう。お前は勉強が出来ないんだから。馬鹿なことを言うんじゃない」

 父は普段は物静かで穏やかな人で、滅多なことでは声を荒げたり暴力を振るうこともない。でも、それはあくまでも日常の秩序が守られている時の話であって、父の考える日常から逸脱すると状況はかなり違って来る。

 父が怒った時は本当に恐ろしい。最近はその恐ろしさに遭遇することはほとんどなかったけれど、小さい頃は父の怒りに遭遇すると、そのあまりの恐ろしさに凍りついて何度か小便すら漏らしたことがある。

 でも話せば分かる人なのだ。だからぼくは父を怒らせないように慎重に言葉を選んで話を進めることにした。

「ぼくは確かに勉強は出来ないよ。だけど出来ないのは数学だし、まあ、物理とか科学とかも出来ないといえば出来ないんだけど……」

「だから無理だと言っているじゃないか」

「それがそうでもないんだよ」

「どういうことだ?」

 居間のソファーに座った父と向かい合ったぼくは、小さく深呼吸をして説明を始めた。

「大検を受けて高校卒業の資格を貰うためには、必修科目と選択科目を合わせて、全部で十一科目に合格しなくちゃならないんだけど、ぼくは高校で一年生の時に必修科目の単位を三つ取ってるから、それが免除されるんだ。だから全部で八科目に合格すればいいんだよ」

 テーブルの前で腕組みをして眉間に深い縦皺を寄せた父に、ぼくは集めた資料を広げて見せた。

「それで免除される必修科目は数学Ⅰと理科Ⅰと国語Ⅰだから、ぼくは大検で数学の試験を受ける必要がないんだ」

「じゃあ、お前は何の試験を受けるんだ?」

 父はテーブルの上の資料に目を落としながらそう聞いた。どうやら話は聞いてくれそうだ。ぼくはさらに言葉をつないだ。

「必修科目で残っているのは英語Ⅰだけだから、それはどうしても受けなくちゃならないんだ。でも残りの七科目は全部選択科目になるから、英語Ⅱと現代文と古文と日本史と世界史と生物と家庭科で受けようと思うんだ。それならぼくでも大丈夫だから」

「家庭科? 男なのに家庭科の試験を受けるのか? ペーパーか? 実技か?」

「ペーパーだよ。地学とどっちにしようかって迷ったんだけど、鉱物の名前を覚えるのが大変そうだからやめることにしたんだ。物理や科学は難しい計算問題があるから、ぼくにはどうしても無理なんだよ」

 ぼくがそこまで説明すると、父は黙ってテーブルの上の資料を手に取って目を通し始めた。

 喉が渇いたのでコーヒーでも入れようと思ってぼくが立ち上がると、それまで父の隣で泣き出しそうな顔をしていた母が、「どこに行くの?」と言った。

「コーヒーを入れようと思って……」

「そんなのはお母さんがやるから、あなたはそこに座っててちょうだい」

 慌てて立ち上がって台所に行った母は、気が動転していたようで、ヤカンか何かを落としてしまったらしく何やらガタガタやっていた。

「確かに数学は受けなくていいようだが、難しいんだろう? 国家試験だぞ。それに八教科っていうのも、かなり厳しいんじゃないか?」

「それがそうでもないんだよ。英語一つとっても、真澄が塾で勉強している内容の方がよっぽど難しいと思うよ」

 ぼくは真澄から借りた進学塾の英語のテキストと、大検の英語の過去問集をテーブルの上に広げた。


 二歳年下の弟の真澄は、ぼくの高校受験の失敗のあおりを受けて、教育ママと化した母の指導のもとで徹底的に生活を管理され、エリート高校一直線という感じで大手有名進学塾通いに邁進させられていた。

 この弟はひどく口が悪いけれど、ぼくは彼のことが小さな頃から大好きだった。

 人間の記憶がどれぐらいからはっきりするものなのかぼくには良く分からない。でも、いつの間にか居間に小さなベビー・ベッドが置かれていて、その中で眠っていた真澄のことをぼくははっきりと覚えている。

「可愛いなあ……」

 ぼくは眠っている小さな真澄が目を覚ますのを楽しみにして、いつもベビー・ベッドの中を覗き込んでいた。ガラガラを振って音を出すと喜んで笑うので、ぼくはしょっちゅうガラガラを振った。目を覚ましてぼくの方をじっと見ている真澄の黒い瞳と目を合わせながら、早く喋れるようになるといいなと思っていた。

 真澄はぼくと違ってとにかく頭が良くて、しかもぼくにはさっぱり理解出来ない『数学』が一番良く出来た。進学塾の実力テストでも、数学はいつも必ず百点で、それ以外の他の教科もほぼ満点近くを取っていた。そして本は漫画以外にはスポーツ新聞と将棋と囲碁とチェスの棋譜しか読まず、音楽はまったく聴かないかわりに機械物が大好きで、しょっちゅう家の中のテレビやラジオやステレオの配線をいじって遊んでいた。

 そしてどんな時でも、真澄はぼくにとても優しかった。例えばぼくが、大検の家庭科の問題の中のエンゲル係数の算出方法が分からなくて頭を抱えて真澄の部屋に行った時、真澄は辛抱強くゆっくりと何時間もかけて、同じことを何度も何度も繰り返して説明してくれるような、そんなところがあった。


「どの科目も百点満点のうち七十点以上取ればいいんだ。過去三年分の大検の問題集をやってみたけど、英語Ⅱと現代文と古文と日本史と世界史は平均して九十点ぐらいは取れるよ。生物は八十点代に乗るか乗らないかだから、もう少し勉強しないとちょっと恐いけど、まあ大丈夫だよ。家庭科は中学で雑巾を縫っただけだから一から勉強しないと駄目だけど……」

「家庭科って、一体なにを勉強するんだ?」

「そうだね。例えば、食品の分類とか、裁縫の時の縫い方の種類とか……。ビタミンCとかまつり縫いとか、三大栄養素が、炭水化物と脂肪とたんぱく質とか、そんな感じみたいだよ」

 母が運んで来たコーヒーを父が黙ってゆっくりと飲んでいると、母はぼくの前にも熱いコーヒーが入ったカップを置いてくれた。

「でも、そんな試験、受かるかどうかなんて保証はないわけでしょう? それだったら、やっぱり今の高校に通った方がいいんじゃない?」

 母は悲しそうな顔で目を真っ赤にしてぼくの顔を覗き込んだ。

「いろいろ不満はあるだろうけど、その高校で頑張っている子もいるんだから、ちゃんと普通に高校を卒業してから大学に行けばいいじゃないの。どうしてそれじゃ駄目なの?」

「でもね、そうすると来年もう一回二年生をやらなくちゃならないんだ。卒業までにあと二年かかっちゃうんだよ。でも大検だったら来年の夏に全教科を取れば、合格通知が十月の末に来るんだ。そうしたらそのまま冬を越して大学を受験出来るし、その方が手っ取り早いよ。今年の大検の試験は終わったばかりだから、来年の試験までにあと一年あるし、そんなに心配しなくてもいいよ」

「そんなこと言ったって……。高校中退なんて……。そんなことしないで、我慢して今の高校に通ってちょうだい」

 母がうつむいて泣き始めたのでぼくは困ってしまった。父に怒られることも嫌だったけれど、母に泣かれることはもっと嫌だし辛かった。

 でもここはどうしても頑張らなければならない。だからぼくは踏ん張った。

 ぼくと母のやりとりをコーヒーを飲みながら黙って聞いていた父は、ハイライトに火をつけて大きくその煙を吸い込んだ。

 ぼくにとってこれはいい兆候だった。怒っている時の父はまず煙草に手をつけないからだ。

「出席日数が足りなくなったのは何でだ?」

「学校に行かなかったから」

「さぼってたのか?」

「そうです。ごめんなさい」

 ぼくは父と母に謝った。父は軽く溜息をつき、母は涙をポロポロと流した。

「どうしてさぼったんだ?」

「何をしに高校に行ってるのか分からなくなったからだよ」

「その間、お前は何をしてたんだ?」

「映画を観たり電車に乗ったり……。それから散歩。でもたいていは本を読んでたよ」

 ぼくは正直に答えた。嘘をついても仕方がなかったし、嘘のつきようがなかった。父はしばらく黙り込んで資料をめくり、母はずっと泣いていた。

「この試験は年に一度しかやらないんだな」

「そう」

「じゃあ、仮にもし一教科でも落としたら、次の年まで待たなくちゃならないことになる。そうだな?」

「はい」

「なるほどな」

 父は何度か頷いて、資料をテーブルの上に置いてコーヒーを一口飲んでから煙草を消した。

「それで、お前、勝算はあるのか?」

「あるよ」

「根拠は?」

「数学がないから。だから来年の試験で八教科を全部取るよ」

「今の高校に通うつもりは、もう本当にないんだな?」

「ないよ。もうそう決めたんだ」

 父はしばらくぼくの顔をじっと眺めていたけれど、やがて、「仕方がないだろうな」とポツリと呟いた。

 ぼくはちょっと意外だった。ガチガチの堅物で超常識派の父を説得するには、どんなに少なく見積もっても、最低で一週間はかかるだろうと覚悟していたからだ。

 母は泣きながら父に向かって、「そんな無責任なことは言わないで下さい」とか、「我慢して高校を卒業するように言ってください」とか何とか言っていたけれど、父は、「仕方ないだろう」と大きく溜息をついて口を閉ざした。

「ねえ、四季。どうしてあなたは普通の子と同じように出来ないの? お願いだから、他の普通の子たちみたいにちゃんと高校に通ってちょうだい」

 黙り込んでしまった父の代わりに、母は何とかぼくを説得しようと頑張った。

「お母さん、ぼくはお母さんが言う『普通の子』っていうのがどういう子なのか良く分からないんだ。でも、真澄みたいなのが普通の子なら、それはぼくにはちょっと無理だと思うよ」

 ぼくがそう言うと、母は黙ってしまった。

「お母さんが心配するのはぼくにも良く分かるし、こんなことになっちゃって悪いと思ってるよ。でもね、もう辞めるって決めちゃったんだ」

 それでも母はポロポロと涙をこぼして、「どうしてなの?」とか、「学校で何か嫌なことがあったんなら先生に話しにいってあげる」とか、始末に終えないことを口走り出したので、どうしようもなくなったぼくは黙り込んだ。


 あの高校に進学してから、家の中の空気が微妙に変化してしまったことは、ぼくにも分かっていた。表面上は特に今までとは変わりはなかったけれど、はっきり言って、ぼくは『早乙女家のタブー』みたいな存在になっていた。父は仕事を理由にさりげなくぼくを避け続け、母はまるで工事現場の危険物取扱主任みたいになってしまって、恐る恐るぼくに接していた。眉毛がなくなったらどうしよう。袴ズボンを履き出したらどうしよう。額の生え際が青いMの字になったらどうしよう。父も母も口には出さなかったけれど、内心でそんなふうに心配していることは、ぼくにも痛いほど良く分かっていた。二人ともさぞかし神経をすり減らしていたことだろう。ぼくはそんな様子の両親が気の毒で仕方がなかった。

 変わらなかったのは、ニヤニヤしながら、「兄貴は眉毛を剃らないの?」などと嬉しそうに悪態をつき、「塾の予習は済んだの?」という母の監視の目を盗んで、ぼくの部屋に友達に借りた少年マガジンを隠しに来る真澄だった。

 よっぽどぼくの高校の入学式の一件が答えたのだろう。母の教育ママ振りは端から見ていて感心するぐらい徹底していて、どういうわけか、漫画は教育に悪いと心の底から固く信じているらしく、真澄の部屋で漫画を見つけると、それが誰のものであろうと片っ端から捨ててしまうのだ。

「兄貴がもう読み終わったマンガでいらないのがあったら、ぼくにちょうだい」

 ある春の夜に、ぼくがベッドに寝転んで漱石か何かを読んでいた時、父の出張用の大きなボストン・バッグをぶら下げた真澄が部屋に入って来たことがある。

「どれでも好きなのを持ってっていいよ」

 ぼくがそう言うと、ひどく嬉しそうな顔をした真澄は、部屋の隅に積んであったヤング・マガジンとスピリッツとモーニングを根こそぎボストン・バッグに詰め込んで、雑誌の重さにヨロヨロしながら部屋を出て行った。

「戦利品だよ」

 次の日の夜、今度は手ぶらで部屋にやって来た真澄は、Gパンのポケットの中から百円玉を七つ取り出して、それを全部ぼくにくれた。

「どうしたの?」

 真澄の手から七百円を受け取ったぼくは聞いてみた。

「おふくろが、友達から借りてたマガジンを捨てちゃったんだ。だから、その代わりに兄貴のところから持ってった雑誌を全部渡して、好きなのを選んでマガジンはチャラにしろって言ったんだよ。で、そいつが選ばなかった雑誌を他の連中が欲しがったから一冊百円で売ったんだ。その売り上げの半分がその七百円」

 そう言って真澄は、「へへ……」と笑った。

「へえ、真澄はやっぱり頭がいいんだなあ」

 ぼくがひどく感心すると、真澄は丸くて可愛い顔を急に赤くして、「まあね」とか、「そうでもない」とか、何やら口の中でムニャムニャと呟いて、変に照れながら部屋を出て行った。


 母の泣き言は延々と続いていたけれど、ついに業を煮やした父が、「いい加減にしろ」と一喝すると、母はわっと号泣して居間を飛び出して行ってしまった。

「その大検の試験のための塾とか予備校みたいな所はないのか?」

「代ゼミの中にあるけど、行く必要ないよ」

「でも、どこにも通わないのは不安だろう?」

「別に不安じゃないよ。数学がないからね」

 ぼくのその言葉を聞いて、父は眉間の縦皺を深くして煙草に火をつけてゆっくりと吸った。何か考えているようだった。

 父は忙しい人だった。こんなに長い時間、父と向かい合ったことは生まれて初めてだ。ぼくはそんなことを考えながら、黙って父の手元の煙草の煙を眺めていた。

「分かった」

 黙って煙草を吸っていた父は、ポツリとそう口にした。ぼくはようやくホッとした。でも話しておかなければならないことがもう一つだけあった。

「それで、お父さん、ちょっと、お願いがあるんですけど……」

「なんだ?」

「大学のことなんだ」

「言ってみろ」

「ぼくが入れる可能性のある大学は、多分、私立の文系しかないと思うんだ。いいかな?」

 ぼくがそう言うと、「そんなことは最初から分かっている」と父は言った。

「それじゃあ、明日、始業式だから、退学届けを出してくるよ。いろいろ心配かけてすみません。許してくれてありがとう」

 言わなければならないことは言ったし、母が戻って来て事態がまた紛糾しても困る。二階の自分の部屋でさっそく退学届けを書こう。

 ぼくはソファーから立ち上がった。

 居間を出る時、「四季」とぼくを呼び止めた父は、「どうしてお前は大学に行こうと思ったんだ?」とぼくに尋ねた。ぼくはちょっと迷ってから答えた。

「好きな時に好きなだけ、安全に本が読めると思ったからだよ」

 父は少し驚いたようだったけれど、ぼくの顔を見て、「分かった」と頷いた。



 * * *



 それから先は平和な生活だった。

 八教科を一度でパスするために、ぼくは一年後の八月の第一週に一週間かけて行われる大検の試験に向けて、日数を逆算して大まかな勉強の計画を立てた。

 英語Ⅰ・Ⅱと現代文と古文と日本史は、特に何かをする必要ななかった。大学受験のための参考書や問題集をこなしておけば、大検の問題は楽に正解を出すことが出来た。生物はセンター試験用の参考書と問題集を一冊ずつ買って、それを一ヶ月に一度のペースで終わらせるようにした。それを試験日まで何度も繰り返したので内容をすっかり暗記してしまった。自分で言うのもなんだけれど、ぼくは記憶力は昔からいい方だった。

 家庭科の勉強はいろんな意味でかなり面白かった。退学届けを出したその足で、御茶ノ水の三省堂まで出かけて行き、高校で使う家庭科の教科書を二種類買った。それから館内をぶらついて、その月のジャズ・ライフとアイリッシュの『幻の女』と前から欲しかった三省堂の『故事・ことわざ・慣用句辞典』を買った。そして近くの喫茶店に入って、アップル・パイを食べて紅茶を飲みながらジャズ・ライフをめくった。ぼくはようやく本来の自分に戻れたような気がした。体がひどく軽かった。

 二種類の家庭科の教科書を繰り返し読み、過去三年間分の大検の問題を何度かこなすうちに、だいたい満点近く取れるようになった。苦労したのはエンゲル係数の算出方法で、真澄に教えて貰った時は良く分かったけれど、一人で問題を解く時分になると、やっぱり計算で引っ掛かってしまった。でもまあそれが出来なくても大勢に影響は出ないので、特に気にしなかった。だからといって、ぼくは本当は頭がいいなどと言うつもりはない。なぜなら、大検の家庭科の問題は日本語が理解出来る人間だったら、誰でも正解を出せるような問題ばかりだったからだ。


『フライパンは次の4つのうちのどの素材から出来ているでしょう? 最適なものを選びなさい』


 ア マグネシウム

 イ 木

 ウ 鉄

 エ 陶器


『カロチンを最も多く含んでいる食品は次の4つのうちのどれでしょう? 最適なものを選びなさい』


 ア 牛肉

 イ にんじん

 ウ しいたけ

 エ チョコレート


『ピーマン嫌いの子供にピーマンを食べさせるには、次の4つのうちのどの方法が最も効果的でしょう? 最適なものを選びなさい』


 ア 明るい食器で楽しい気分にさせる

 イ 目の前で自分が美味しそうに食べる

 ウ 形が分からないように細かく刻む

 エ 無理矢理食べさせる


 ぼくは家庭科の勉強をすることが楽しかった。


 不思議なことに、高校に通っている間は朝を迎えてベッドから降りることは拷問に近かったけれど、辞めてからは目覚まし時計を鳴らさなくても自然に目が覚めるようになった。

 ぼくにとっては一日中自分の部屋に閉じこもって勉強をすることは全然苦痛ではなかったけれど、母にとっては大変なストレスになってしまうことが分かっていたので、毎日五百円を昼食代として母から貰い、十時過ぎに家を出て自由ヶ丘まで散歩がてらブラブラと歩き、ファミレスやファースト・フードでコーヒーを飲みながら参考書や問題集を広げた。物を食べてしまうと頭がうまく動かなくなるので、固形物は家に帰るまで一切口にしなかった。少しお腹が減ってるなという時の方が頭が働くようだった。

 それで浮いたお金を貯めて一定の金額に達すると、古本屋で文庫本を買ったり輸入版のジャズのCDを買ったり、武蔵野館で映画を観たりした。ぼくは『数学』は出来ないけれど、そういうやり繰りは結構うまいので、この浪人期間中はちょっとした『小金持ち』になった。

 でも、そういう平和な時間の中にも、ぼくが困惑するような出来事があったことも事実だ。それはいつも午後の三時以降によく起こった。

 ファミレスやファースト・フードで勉強の合間に手を止めてぼんやりしていると、ぼくと同じ年代の制服姿の高校生が友達同士で笑いながら街を歩いているのを目にしたり、高校生のグループが隣の席に座って宿題をしていたり、文化祭の打合せをしていたり、ただ普通に世間話をしている場面に毎日のように遭遇した。ぼくはそういう時、何とも言いようのない奇妙な気持ちになった。

 彼らを見て羨ましいとか妬ましいとか、そういう気持ちも当然あった。でも、それ以上に強かったのは、ぼくと彼らは同じ年頃で、ひょっとしたら同級生や先輩や後輩なのかもしれないのに、なぜこんなに違ってしまったんだろう、どうしてぼくはあの輪の中に入れなかったんだろう、という違和感だった。

 ぼくはそういう出来事に遭遇するたびに、ぼくと彼らでは一体何が違うのだろうか、と不思議な気持ちになった。多分、世間から見れば、彼らが普通で、ぼくはちょっと普通ではないのだろう。他人がどう思うかということも大切だし、自分がどう感じるかということも大切なことだ。

 一人でいる時は、ぼくは自分をおかしいと思うことはほとんどなかったけれど、制服を着て高校に通っている彼らを目にすると、やっぱり自分はどこかおかしいのではないか、とちょっと混乱することがあった。ぼくは中学生になって、『算数』が『数学』に発展して以来、自分と同じ世代の人間と話らしい話をしたことがほとんどない。

 高校を辞め、自分が社会のどこにも属していない人間になって、制服を着ている自分と同じ世代の人間を目にした時、小学校や中学校の教師や、あのクラスメートの女の子が言ったように、ぼくは、自分が何か大切なものが欠落していて、環境適応能力が欠如している、『立っておれ』がふさわしい、『イヤな奴』なのかもしれないと時々感じるようになった。そう感じると、自分が宙にふわふわと浮かんでいる空っぽの箱になったような気がした。

 そんなことを突き詰めて考え始めると、例の『数学』という言葉を耳にした時の、あの、何とも言えない気持ち悪さに最終的に突き当たってしまうので、ぼくはそれらのことをあまり深く考えないようにしていた。どうしてもそのことが頭から離れなくなった時は、本を読み、映画を観て、音楽を聴き、ピアノやギターやベースを弾いた。そして父の書斎でちょっと煙草を吸ってみたり、父の秘蔵のブランデーを少しだけ失敬したりした。

 でもその時のぼくが、ひどく深刻な状態に陥ったり、歩くのを止めてしまったりしないで済んだのは、恐らくごく単純に、苦しみ続けた『数学』からの解放という幸せな現実の中に身を置くことが出来たからだろう。大検の試験にも大学受験にも『数学』がないことは、ぼくにとっては本当に幸せなことだった。



 * * *




 ぼくは次の年の夏に、文部省が指定した都立高校の校舎に五日間通い、大検の八教科の試験を受け、その年の十月の末に文部省から送られて来た全教科にすべて合格したことが記載されている証明書を受け取った。


 そしてその年明けに幾つかの大学の入学試験を受け、横浜にある私立大学の文学部の国文科に合格し、無事に桜の季節を迎えることが出来た。


 ただ、ぼくの『数学』歴といったようなものは、小学校の時の〈分数〉以前でストップしてしまっている。〈関数〉とか〈二次方程式〉はもちろんのこと、〈パスカルの三角〉とか〈フィボナッチ数列〉とか〈メネラウスの定理〉などと言われても、さっぱりわけが分からない。

 もし今、誰かがぼくの目の前に『基礎解析』と『微分積分』の二冊の教科書を持ち出して、その表紙を隠し、それぞれ適当なページを開いてから、「さあ、どっちが『基礎解析』の教科書で、どっちが『微分積分』の教科書なのか当ててごらん」と質問したら、ぼくは絶対に答えられない。

 大学の合格発表を見に行って、入学手続の書類を貰った帰り道、ぼくみたいな『数学』の出来ない人間を大学生にしてしまう日本という国のシステムは、なかなか楽しくて結構なものだと思い、本当にいい加減でくだらないものなんだとひどく馬鹿馬鹿しくなった。



 * * *



 ぼくは一九八九年の春に大学生になった。



 * * *



『一九八九年』というこの年は、昭和天皇が亡くなり、元号が『昭和』から『平成』に代わり、一つの時代が終わったと言われる区切りの年だった。

 でも、ぼくにとっては、『数学』に象徴される個人的な問題も含めて、『終わった』ことなど本当は何一つなかった。





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