2.夜更
「今日は、満月だったのね」
空に浮かぶ白い月に、溜息を吐く。
……あの後、自分が持ち帰ったあいつの手記を読み解いて、今では普通に祈りの言葉の中にも使われる“魂”という言葉が、ここではないところから齎された概念だったことを知った。
今では誰もが知っている“生まれ変わり”や“魂”のことも、全部“リベリウス”が呼んだものがこの世界に持ち込んだものだったなんて、初めて知ったわ。
「あなたも、そこにいるの?」
月を見上げて、なんとなく独りごちる。もしそこにいるのなら、私のこと、見えているのかしら。
あなたは今の私を見て何を思うのかしらね。
「最初、“魔王”が貴族のお付き合いを真面目にこなすとか、なんの冗談かと思ったわ」
魔王には、なぜか貴族であるトイシュニッツ伯爵夫人から定期的にお茶会への招待状が届く。私が弟子となってからは私にも。いったいなぜかと思いながらとにかく師団の礼服に身を包み緊張して臨んでみれば、何のことはない、トイシュニッツ伯爵夫人というのはエルの義姉だったのだ。
それにしても、この場に近衛騎士団副団長……つまり、英雄カーライルまで同席させるとは、非常に趣味が良いというか……驚きのあまり腰が抜けるかと思った。向こうもまさか師団の魔法使いが来るとは思っていなかったらしく、ひどく驚いていたようだ。後々呼び出され、あれこれ問い質されたのは面倒だったけれど、お互い様だろう。
「優秀な妖精の魔法使いがいると聞いて、押しかけ弟子になりました」
とにかくこれで押し通したら、向こうも藪蛇を恐れてかそれ以上の追求もなく、以降、お茶会で顔を合わせても慇懃に当たり障りのない会話を交わすのみでやり過ごしている。
……最初のお茶会の後、エディトにその話をしたら絶句していたっけ。
「ねえ、どうして“魔王”なんて呼ばれるようになったの?」
すっかり毎日のこととなった夜のティータイムに、ふと疑問に思っていたことをぶつけてみると、彼は珍しく考え込むように黙り込んだ。
「……濡れ衣を着せられた、がいちばん近いか」
「濡れ衣?」
不穏な言葉に思わず眉根を寄せると、彼は、ふ、と笑った。
「自業自得で巻き起こしたことの収集を付けるのに、その場に居合わせたわたしに原因を被せるのがいちばん手っ取り早かったのだろう」
「ずいぶんあっけらかんとしてるのね。腹は立たないの?」
「相当昔のことだからな。もうどうでもいい」
「……あなたって、意外に自分のことには無頓着よね」
呆れて肩を竦めると、彼はまた笑う。
「ああなんだか調子が狂うわ」
溜息まじりに言えば、どういう意味だとでもいうように、彼が眉を上げる。
「だって、子供を寝かしつける時の常套句って、“早く寝ないと魔王に攫われちゃうぞ”なのに、肝心の魔王っていったら、ここでのんびり炊事洗濯家事雑事こなしながら普通に生活してる優男なのよ。子供の夢が壊れるわ」
「……なんだそれは」
瞠目する“魔王”に、私はついぷっと吹き出してしまった。
「少なくとも、もう私は子供を寝かしつけるために魔王の名前は出せないわね。絶対笑っちゃうもの」
くすくすと笑う私に、彼は憮然とした表情になった。本当に、“魔王”がこんなひとだとは思わなかった。
本当に調子が狂う。
それから数日経って、久しぶりに、あの日、前王国から持ち出したものを引っ張り出し、まだ確認の終わってなかったいくつかの書き付けを広げていた。
「カケマ、ク……モ? カシク……違うわね。カシ、コ、ミ? どういう魔法なのかしら。発音もずいぶんしづらいのね」
“リベリウス”の書斎で見つけた魔法文字の一覧に書かれたものは、どれもまったく見たことのないものだった。数は、数百といったところか。線と点をいくつも組み合わせた複雑な形で構成された文字らしきものと、そこに併記された発音方法と意味をざっと見ただけで、思わず姿勢を正してしまう。これをすべて理解し使いこなすことができたら、どれだけの新しい魔法が生み出せるだろうか。
その中に書き留められていた魔法らしきものも、どんなものなのかが未だにわからない。祓うとか清めるとか並記されてはいたが、悪霊払いのような魔法とも違うようだ。
「これが本当に魔法なら、最低でも正しい抑揚と発音がわからないことには、どうしようもないのよねえ……」
ひとつ息を吐いて、この量を身につけるまで、いったいどれくらいかかるだろうかと考えた。
不意にコンコンと扉を叩く音が聞こえて、慌ててテーブルの上に広げた紙を掻き集める。外を見れば、そろそろ日も落ちようという時間だった。いつの間に、こんなに時間が過ぎていたのだろうと考えながら「開いてるわ」と声をかけて……ふと、長く生きているという彼なら、もしかしたらこの魔法文字を見たことがあるのではないかと思いついた。試しにひとつ見てもらおうと、あのよくわからない魔法が載った1枚だけを紙束から抜き出す。
扉を開け、私に「手紙が来ている」と封書を置いてすぐに出て行こうとする彼を呼び止めると、彼はいつものような澄ました顔で振り返った。
「なんだ?」
「ねえ、この魔法文字、あなたは見たことある?」
私が差し出した紙を訝しげな表情を浮かべつつ受け取って、さっと目を通す。そのようすをじっと見ていると……驚いたことに、みるみるうちに彼の顔色が変わっていった。驚愕に目を見開き、あろうことか微かに手も震えているようだ。
「……これを、どこで、見つけた?」
やっと絞り出すような声で尋ねられ、そこまで彼を驚かせたこれは、いったい何なのだろうと考えてしまった。ただの魔法ではなかったのだろうか。
「もしかして、これが何か知っているの?」
聞き返し、答えの代わりに真剣な顔で見つめ返されて、思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。
「あるところで見つけたの。ねえ、これは何? あなた知ってるのね?」
『掛けまくも畏き 伊邪那岐大神……』
彼はゆっくりと、不思議な抑揚と響きで、聞いたこともない言葉を紡いだ。
「……あなた、これが読めるの?」
おそらく今の言葉が正しい抑揚と発音なのだろう。私は目を見開いて、彼が紙に目を落としたまま、呆然としたように続けるのを聞いた。
「これは、神々に浄めを願う祈りの言葉だ……と、聞いた」
「祈り? 神々? どの神に?」
「国産みの神が穢れ祓いの際に産み落とした神々、という話だ」
「それは神話? 魔族の神話なの? 聞いたことがないわ」
心臓がどくどくと波打つ。これは魔族に伝わる魔法なのだろうか……魔族についてはわからないことのほうが多いのだ。彼ら特有の魔法があったとしても、おかしくない。
けれど、彼の答えは私の考えたことなど軽く凌駕していた。
「あたりまえだ。この世界の神話じゃない」
「どういうこと?」
この世界じゃないというのは、どういう……まさか、“リベリウス”が呼んだものが伝えた魔法?
「──紙もインクもあまり劣化していない……これを、どこで見つけた」
けれど、強く私の腕を掴む、彼のあまりにも必死な表情に、それ以上の質問ができなかった。まるで懇願するようなようすに、この魔法にここまで必死になるなんて、いったい彼にとってこれは何だというのかと疑問が湧く。
「……前王国の、王城跡の、地下よ」
「王城跡の、地下?」
怪訝そうに眉根を寄せる彼に、私は小さく頷く。
「そう。魔法で保存された部屋があったの。そこで見つけたものよ。前王国の魔法使いの部屋で……」
「……違う、のか」
私の答えに明らかに落胆して、彼は掴んでいた腕を離す。少しずきずきと痛みがあるのは、たぶん痣になってしまったからだろう。
そして、あまりの彼の落ち込みように不安が押し寄せる。
「何が違ったの? あなたはこれを知ってるのね?」
「──帰ってきたんだと、思った」
質問には答えずぽそりと呟き、俯いて片手で顔を覆う彼が、とても弱々しく見えた。
「誰かを、待っているの?」
「忘れてもいいと言われた。けれど、わたしは待つと約束した」
ふと、彼が見たあの紙がいつ書かれたものかを考えて……見つけた場所を考えれば……それを見て帰って来たと思ったって……。
「……あなたは、いったい、どれだけ、待ち続けているの」
それだけをやっと尋ねて、私は震える口をきゅっと結ぶ。彼は答えず、ただ首を振る。
その痛々しさに、私は思わず腕を伸ばし、彼の頭を引き寄せてしまう。
「あなた、まさか、もしかして、そのために生きてるの……?」
魔族の寿命がどれほどなのかは知らない。けれど、長命な種族といったって、ただ生き続けるのはとても難しいことのはずだ。
「わたしは、いつまで待てばいい」
呟く声は細く頼りなく、私には今にも消えてしまいそうだと感じられた。
「あなたも、大概、馬鹿なのね」
ほう、と溜息を吐いて、私の肩に乗った頭をそっと撫でる。
「私、自分を大馬鹿者だって思ってたけど、あなたも負けないくらい大馬鹿者だったのね」
ゆっくりと頭を撫でながら、ふ、と笑みを浮かべる。
「待ちたいだけ待てばいいのよ。あなたが満足するまで。あなたが天寿を全うするまでだって構わないのよ。だって、誰かにもう待たなくていいと言われても、あなたは納得できないでしょう?」
抱えた頭に顔を寄せ、目を伏せる。
「──私だって、誰かに止めろと言われたところで止められないもの」
そう口の中だけで呟き、彼の頭に口付けをひとつ落とす。
窓に目を向ければ、明るい月の光に照らされ、影が深く落ちていた。