第一話
ああ、またこの夢か。すぐにそう判断出来る程同じ夢を何度も見ている。
空は暗雲に包まれ、夥しい程の雨が俺、火退燈火の体を打ち付けてくる。夢の中に居る俺の体は今よりも小さく、中学生程度の大きさしかない。
俺は地面に膝を着き両手で一人の女性を抱きしめる。抱き締められた女性からは大量の血が溢れ出し、俺の着ている蒼を基調とした着物を真っ赤に染める。
体からは紫色の炎が迸り、辺りを無造作に破壊する。
それをまるで他人事の様に眺める、俺。俺自身を空から見下ろしながら、何も出来ずに呆然と泣き叫ぶ俺を見つめる。
「あ、あ、あああぁぁぁぁあぁ!」
必死に泣け叫び、傷口を押さえる俺を目を逸らす事なく見続ける。
すると姉さんは瀕死の体で手を伸ばし俺の頬を優しく撫でる。
「――――――――――」
姉さんの最後の言葉、あの時はそんな事を聞く余裕など俺にある筈も無く必死に声を掛け続ける。
今となっては姉さんの言葉を思い出そうにも思い出せない。この夢を見るたびに必死に聞き取ろうとするが何時も何時も雨音に掻き消され聞き取る事が出来ない。
「―――――」
俺は姉さんの顔に耳を近づけようとした所で―――
パシンと頭に軽い衝撃が響、そこで目を覚ました。
「あれ?」
目を覚まして最初に見たのは、焦げ茶色の机。次いで顔を上げると目の前には本当に先生なのかと疑問になる程、幼い先生が頬をプクーと膨らませ、両手に古典の教科書を抱えながら俺を見ていた。
暫らくじっと先生を見詰めていると、急に慌てたようにアワアワしながら俺に訪ねてくる。
「い、痛かったですか!? 強く叩いたつもりは無いのですけど、あ、でも、授業中に眠る火退君も悪いんですからね!」
何を言っているのかよく分からなかったが、頬を伝うものを感じ漸く合点がいった。なる程、泣いてるのか俺は、今。
先生に何て言い訳をしようか考えていたら教室の彼方此方から援護の声が聞こえてきた。
「あ~百合ちゃん先生が転校生君を苛めてる~」
その声を皮切りに百合ちゃん先生に非難の声が殺到してくる。
勿論皆冗談で言っているだけだが、百合ちゃん先生は面白い程にアワアワし、見ているこっちも面白い気分になる。先生としてはどうかと思うがそのおかげでさっきまで流れていた涙も完全に引っ込んだ。
ちなみに何故転校生などと呼ばれるのか、それは俺が五月の中旬、十五日に転校してまだ五日しか経っていないからである。
「ち、違いますよね? 先生が泣かせたんじゃ無いですよね?」
拝むような勢いで俺に視線を送る百合ちゃん先生を一瞥し、鼻をすする。その音の所為で勘違いしたのか、百合ちゃん先生の肩はまるで重い重石が乗っているかの様に垂れ下がっている。
「ぐすっ」
すると今度は百合ちゃん先生が涙目になる。
それを見た俺は慌てて否定する。
「あ、これ別に先生の所為じゃないですよ。ただ花粉症なだけです」
百合ちゃん先生は本当ですか? と、目で問いを投げかけて来る。それに対して俺も本当です、と、目で返事を返す。百合ちゃん先生は満足したのか一つ、うんと頷くと満足したのか教卓の方へと戻って行く。
何とか危機を脱し、溜息を一つ。
それにしてもあんな夢を見るなんて、教室で寝た罰でも当たったのか? それにしては罰が重過ぎる気がしないでもない。まあ、そんな事を考えても仕方の無い事で、頭を一旦リセットして再び授業に挑んだ。
長い長い四時限目も終わり、俺は大きく伸びをする。一時限目の古文の授業で確り寝た為か、残りの三時限は特に睡魔に襲われる事無く乗り切れた。
本当なら、直にでも飯を食いたいのだが如何せん今日の古典の授業で寝てしまったので先生にお説教をされなければいけないのだ。面倒な事だと思いつつも思い腰を持ち上げ職員室へと向かっていった。
職員室に向かう通路の途中に廊下の横幅を考えるとかなり邪魔くさい人の群が出来ていた。
こんな所でたむろってたら人が通れないじゃんと思いつつも少し人が開けるまで待つ事にした。見た所誰かを待っているようだし、待ち人が来たら自然とこの集団も消えるだろう。そう思って俺は他の人の邪魔にならないよう廊下の壁に背を預け、人をあれだけ惹きつけるのは一体どんな奴なのだろうかと思いながら、向かい側の窓に映る晴れ渡った空をぼんやりと眺めるのだった。
二~三分経ったころだろうか? 集団が少しざわつき始めた。やっと待ち人が来たのか。そう思い視線を集団の方に向けると、モーゼの十戒よろしく、人の集団が真ん中から二つに裂た。
その真ん中を威風堂々と歩く人物の姿は―――
詩織?
疑問も一瞬、次の瞬間には、詩織を追いかけていた俺の視線と、詩織の視線が絡み合う。
いや、絡み合うと言うと少しロマンチックな響があるが、あえて正確に説明するならば、ぶつかり合った。俺と詩織の視線がぶつかり合った。その時、俺を捕捉した詩織の目が少し見開かれ、一瞬足が止まる。
俺は何て言葉を掛けたらいいか分からず口を噤んでしまった。その間にも詩織は俺から視線を外し歩みを再会してどんどんと先へ行ってしまう。
すると視線の端にもう一人、今度は男子生徒が詩織を追いかける様に足早に集団を抜けていくのが見えた。今度は知らない奴だった。
あの事、さっき謝るべきだったな。そう思いながら心の中に少しモヤモヤした物を抱えながら、人気が無くなった廊下を歩き始めた。
先生のお説教を左耳から右耳にダイレクトで経由させる事によって、先生のお説教を難なく乗り切った俺は教室にある自分の席へとへばり付いた。そんな俺に近づく一人の女子生徒―――歌貝望―――が話しかけてきた。
「転校生君、転校生君」
転校生、転校生と連打してくる委員長の姿を確認して俺はゆっくり顔を上げる。
「俺の名前を呼ぶときは火退か燈火にてって言ってるじゃん。で、何の用? 委員長」
クリクリっとした愛らしい瞳で俺を見て、人懐っこそうな笑みを引っ込め、少し口をすぼませながらブーブーとぶうたれる。
「それなら私の事も委員長じゃなくて歌貝か望のどっちかで呼んで」
それに適当にはいはいと返事しながら、もう一度何の用かを訪ねる。
「何の用?」
「まだお昼食べて無いなら一緒に食べようかなー何て思ったりして」
「いいけど俺買って来たから教室で食べるけど、それでもいいなら」
そういって見せるはコンビニの袋。大量に買った食糧はレジ袋を圧迫しパンパンに膨らんでいる。
「いいよいいよ、私もお弁当有るからわざわざ食堂まで行く必要無いしね。それにしても凄い量だね、それ全部お昼なの?」
歌貝が見せるは、小振りのピンク色をした弁当箱。蓋には可愛らしい熊の絵が描かれている。
「まさか。晩飯の分も入ってるって」
「だよね。何買ったの?」
歌貝のもっともな疑問に俺はコンビニの袋を見せる事で返答する。
すると中を見た歌貝が硬直する。そして恐る恐るコンビニの袋を指差しながら訪ねてくる。
「これ本当にご飯なの?」
歌貝の指差す先には様々な種類のサラミが所狭しと敷き詰められている。
「当たり前じゃん。それ以外に何かあんの?」
俺はコンビニ袋から適当にサラミを取り出すと、綺麗にラッピングを剥がしサラミにかぶり付いた。
強い塩気と少しべた付く程の油が何とも言えぬ絶妙なハーモーニーを醸し出す。
「だって、そんな物ばっか食べてると体壊しちゃうよ?」
「平気平気。何時もこんな物ばっか食ってるけど体調はいたって健康」
「でも、高血圧になったり……」
「まだ若いから平気だろ。それに運動してるし」
「あっと言う間に体重が増えたり……」
「俺、体重増えないんだよね。何でか知らないけど全然」
その言葉に歌貝の耳がピクピクと動いた。
「因みに今体重何キロあるの?」
「えーっと確か………おお! 思い出した。四十七キロだ」
俺の体重を聞いた途端今まで、心配そうに俺を見ていた瞳が急に冷たくなった。
「火退君」
何故か凄みを帯びた声で俺の名前を呼んでくる。その声を耳が言葉だと脳が認識した瞬間、これまた不思議な事に全身から危険信号を受信し思わず身構えてしまう。
「女の子がその体重を維持するのに一体どれ位の苦労を強いられていると思ってるの? あ、それとも自慢したいのかな? 自分はこんなに軽いんだぜ―って」
歌貝から放たれる威圧感に俺は思わず後ずさり、首を横に千切れんばかりに振りまくる。
「滅相も御座いません!」
謝る時に思わず敬語になってしまったのは仕方の無い事だと言えるだろう。そして深々と頭を下げる。
「うん、分かればいいんだよ。………でも、もしまたその話が口から出るようなら……どうなるか分かってるよね」
俺はただコクコクと首を縦に振るしかできなかった。
「喫茶店ネコマタはここでいいんだよな?」
今、目の前にある店は焦げ茶色を基調とした落ち着いた雰囲気を醸し出している。店に付いている大きなガラス張りの窓から店内を見渡すと、俺をこの店に呼び出した人、玄覚さんは既に店内で待っていた。
店のドアを開けると、ドアに付いていた鈴がカランカランという音を出して客が来た事を店に知らせる。店内には余り人影が居らず閑散としている。
店員に手早く用件とアイスコーヒーの注文を告げると、玄覚さんが居る席へと腰を落ち着ける。注文した際、ミルクとガムシロップを大量に入れてくれるように頼んだ。
「お待たせしました」
「丁度僕も今来たところだから大丈夫ですよ。それよりも急に呼び出してすいません」
柔和な目に、見る者に安心感を与える微笑み、誰に対しても物腰の柔らかい態度。そんな何時もと変わらない玄覚さんの態度に俺自身も少しホットする。
「大丈夫ですよ。それより今日はどんな用ですか?」
「用と言う程の用では有りませんよ。ただ燈火君が学校に慣れているかどうか少し心配になりましてね。如何です、学校には馴れましたか?」
「まあ、大体は。話しかけてくれる人もいるし」
「それでは、友達は出来ましたか?」
まるで親の様な質問に思わず苦笑してしまう。
「それはまだ一寸。転校してからまだ五日しか経ってないし」
「そうですか」
少し気を落とす玄覚さん。俺の事を心配してくれているのが痛いほど伝わってくる。だからそんな玄覚さんの心配を和らげる為に次の言葉を発した。
「でも心配しなくても大丈夫ですよ。気の合いそうな人は何人か居ましたから」
「なる程、それはいい事ですね。あ、それはそうと、燈火君が通っている学校に、詩織ちゃんがいる事は知っていましたか?」
桃園詩織、四年前、俺が玄覚さんと日本各地に旅をするまで、よく遊んでいた奴だ。こういうのを世間一般的には幼馴染っていうのか?
「まあ、知ってました……と言うか今日たまたま学校の廊下で会って始めて知りました」
「では、まだ手紙の事は謝っていないのですね」
痛い所をつかれてしまい苦笑いしか出てこない。
「はい。でも謝ろうとは思ってるんですけど、いかんせんどうやって謝ったものかと………」
「謝るなら早い方がいいですよ。時間が経つと謝り辛くなりますから。もし、周りの目が気になるなら手紙を出して何処かに来てもらうのも良いかもしれませんね。ただし、直接会って謝らなければ意味が有りません。分かりますね?」
子供を諭す様な口調で語りかけてくる玄覚さんに若干の不満を覚えるが全く持ってその通りなので何も言えずただ素直に返事をするしかない。
「分かります」
その言葉を聞いた途端に満足したのか満面の笑みを顔に浮かべる玄覚さん。対して少し仏頂面になる俺。
「明日、明後日は土曜、日曜とお休みですからゆっくりと手紙の内容を考えると良いでしょう」
玄覚さんの話が終わるのを見計らって女性の店員さんがアイスコーヒーを持って来てくれた。ミルクとガムシロップ共に五個ずつ添えて。すると俺がガムシロップを嬉々として入れている現場を見てか「そうそう」と話を繋げる。
「食生活はキチンとしていますか?」
思わずガムシロップを入れていた手がビクンと揺れてしまう。
「も、勿論じゃないですか」
「嘘ですね」
あっさりと見抜かれてしまった俺の嘘に玄覚さんは、はぁ、と溜息を一つ付いた。
ああ、これから長いお説教が始まるな。俺の勘がそう告げていた。
玄覚さんの長いお説教が終わった頃にはアイスティーの中の氷が解け、味が若干薄くなったアイスコーヒーが出来あがっていた。ガムシロップは玄覚さんに四個取り上げられ、それが余計に味が薄いのを強調させている。
「うう、酷いです」
味が薄くなり残り僅かになったアイスコーヒーをすすりながらぼやく。
「酷くありません。普通はガムシロップ一個で十分です」
「もう帰ります」
伝票を持って立ち上がろうとしたら、玄覚さんから待ったがかかった。
「ここは僕が払いますよ。僕が誘ったんですから」
「え? いや悪いですよ、そんなの」
「いいんです。ここは払わせて下さい。子供に奢るのは大人の役目ですから」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
席を立とうとしたら待たしても玄覚さんから待ったがかかった。
「もう一つ、今度は注意して欲しい事があります」
もう一度席に着き玄覚さんの言葉に耳を傾ける。
「チョッパーを知っていますか?」
「確か今、日本を騒がせている連続殺人鬼ですよね」
新学年の年になってすぐにお茶の間のニュースを賑わせたのは、入学式やお花見などのほのぼのとしたものでは無く、殺人鬼チョッパーの話題だった。日本各地で人を殺しまくり、三月だけで凡そ二十人。そのどれもが体をミンチにされていた。四月になってもその凶行は収まる事無く、同じ手口の殺人事件が全国で起こっている。
「ええ、死体は全て磨り潰されている。故にチョッパー。今まで狙われている人達は全員大なり小なり霊気を持っています。そして現場には妖気の跡が残っています。そのチョッパーの妖気が今朝方この街で確認されました」
なるほど。
「俺への依頼ですか?」
「そうです」
玄覚さんが軽く微笑みながらコクンと頷く。
「で、何を気をつけるんですか」
「それは―――」
玄覚さんはそこで一拍置いてから口を開いた。
「チョッパーは恐らくは妖怪だとは思うのですが、他の妖怪と何かが違う様な気がするのです」
「半妖や悪魔憑きみたいなものですか?」
珍しい事に玄覚さんが妖怪かどうか確信が持てないとは。珍しい事もあるんだな。
「分かりません。妖怪だけど妖怪じゃない。決定的な何かが違う気がするんです」
そこで注文してあった緑茶を一口飲み話を続ける。
「君のその力があれば死ぬ事も怪我を負う事も無いでしょうけど気をつけてくださいね」
「注意しますよ」
残ったアイスコーヒーを一気に呷り席を立った。
喫茶店ネコマタを後にし、帰りにコンビニで大量のチョコレートとコーヒー牛乳を買い込み自宅へと着いた。
家は普通の二階建ての一軒屋、外観的特徴は無いが家全体が防音、耐熱仕様になっておりちょっとやそっとの火では焦げすら付かない。
そんな家の扉を開けた俺は玄関の扉を確りと施錠し、冷蔵庫の中に買い込んだ物を入れ、一日の疲れを癒すために風呂場へと直行する。風呂場の手前の洗面上には俺の顔が映るほどの鏡があるが、今は大して使う用事も無いのでスルーして脱衣所で服を脱ぐ。
風呂場に入ったらまずシャワーのお湯で髪を濡らし、一日分の汗を流す。
「ふぅ」
少し熱い位のお湯が一日分の疲れを癒し、思わず口から息が漏れた。
「気持ちいいなあ」
シャワーのお湯を止め、髪の毛をシャンプーで丁寧に洗っていく。
髪の毛を洗う度にある記憶が思い起こされていく。
『燈火ちゃんは綺麗な髪を持ってるんだからキチンとお手入れしなきゃねー。おねーちゃん、燈火ちゃんの髪の感触大好きだなー』
そう言って俺の髪を優しく梳くのは俺の姉さんである、火退涼香。
四年前に亡くなった俺の姉さん。その姉さんが俺の髪を大好きだと言ってくれた。
その言葉が嬉しくて今でも俺は髪の手入れは怠ってい無い。そのおかげで自分の目で見て分かる程に俺の髪の毛はサラサラでスベスベしている。
体を洗い、学校に行く前に張っておいた湯船に肩まで浸かり百数える。この習慣も姉さんと一緒に入っていた時に付いてしまった。
きっちり百まで数え終わり、風呂場を後にする。………ちなみに風呂場のお湯は明日の洗濯物を洗うのに使うから取っておく。
風呂場から上がり体を確りと拭いてから、洗面所にある鏡の前へと出る。
髪の毛を櫛で梳きながら自分の顔を見詰める。別にナルシストと言うわけではない、断じてない!
梳き終わった髪を乾かす為に手を頭の上に翳す。軽く力を入れると、ポッという音と共に拳程の赤い火の玉が掌に浮かぶ。数十秒翳し続けると髪は完璧に乾いた。
その乾いた髪を鎖骨辺りで纏め前に纏めた髪を垂らす。
風呂から上がり買ったばかりのコーヒー牛乳のチルドカップにストローを突き刺し一気に半分程飲み干し一息つく。
ソファーにドカッと座り、チルドカップを目の前のテーブルに置き寝転がる。ボーっと天井を見上げると玄覚さんの言葉が思い出される。
『謝るなら早い方がいいですよ』
手紙の事遅くても来週中には謝んないとな。
チルドカップをテーブルに置いて、しばらくの間物思いにふけるのであった。