刑事
それでも、鼻を突く匂いが続いたのは大通りまでだった。水路が合流して船の向きが変わると、天を衝く中央管理棟の威容が見えてきた。警察の窓口は、管理棟の東ブロックにある。警察署が入っているのは東ブロックの一階から六階までで、規模はさほど大きくはない。管理棟の最大の機能は軽傘市のネットワークを支える巨大な神経回路と、市内の上下水道を賄う給水タンクであり、行政機関はそのオマケだ。
件のメッセージについての要領を得ない説明を聞かされた窓口の職員は、大して迷うこともなく、大声で笑うこともなく、『担当の人』に取り次いでくれた。
「先々週くらいからかな、君と同じようなメッセージを受け取った人が2、30人来てね」
奥から現れたのは、しまりのない下膨れの顔をした若い刑事だった。ネット犯罪が専門だったために、この事件を受け持つことになったのだという。
「その人たちにも――声は聞こえたんですか?」
俺がテーブルの上に身を乗り出すと、刑事は手を構えて身を守った。
「4、5人はね。でも、声に関しては君たちの思い込みだろう。似たような音を聞き間違えたか、以前聞いた音がフラッシュバックしたか……何か、心当たりはない?」
俺は顎をさすりながら、聞こえない声でうなった。
「……フクロウの声なら、夏休みに動物園で聞いたんですけど……」
かなり前のことではあるが、記憶に残っているという点では不足がない。刑事はにやりと笑い、右手で銃を射つ真似をした。
「それだよ。聴覚は記憶に影響されやすいからね。思い出しただけでも、実際に聞こえるような気になってしまうものさ」
コーヒー、飲むかい? 刑事は俺の返事を待たずに、紙コップを二つ取り出し、インスタントコーヒーを溶かした。
「いただきます」
俺は立ち上がって、刑事からコーヒーを受け取った。掌が受け取った熱が、血管を通って体全体に染み渡ってゆく。刑事は俺を見て静かに頷き、布張りのソファに腰を下ろした。
「そもそも、端末器官への情報は君が要請しない限り送信されない仕様なんだ。公式のメニューをとばして直接音声が再生されるなんて、考えられないよ」
個人の端末器官にアクセスできるのは、市の中央管理システムだけだ。全ての情報は検閲され、同じメニューからしか開けない。端末器官を使って、声だけをいきなり聞かせるのはまず不可能だ。
湯気の立ち上るコーヒーを舐めてから、刑事は気だるそうに付け足した。
「ただ、送信者不明の個人宛メッセージは管理システムの履歴に残っている。メッセージに小細工を施した犯罪者がいることは確かだ。だから僕たちも対策本部を立てて、ちゃんとした捜査をしている」
俺はコーヒーに手をつけず、目を伏せたまま問い返した。
「その犯人が、鳴き声を送ってきた、ってことは、ないんですか?」
俺の妄想を、刑事は無神経に笑い飛ばした。
「まずないと見て間違いないだろうね。文章のデータを偽装したりするのとはわけが違うよ。中央管理システムの基礎部分を書き変える必要がある……外部からそんなことができるハッカーがいたら、それこそお手上げさ」
この男にとって(あるいは市にとって)、あの鳴き声はとるに足らないものらしい。顔に不満が出たせいだろうか、刑事は微笑んで俺の肩を叩き、
「大丈夫。実はもう犯人の目星もついてるんだ。じき逮捕の手はずも整う……それに、もし君の言うようなハッカーがいたとしても、端末器官は言語中枢にしか繋がってないんだ。噂みたいに死にはしないよ」
と太鼓判を押してくれた。とりあえず言質をとることに成功した俺はそこで妥協し、よろしくお願いします、と挨拶だけして警察署を後にしたのだった。