不安
眠れぬ夜がいくつも続いたせいで、週明けの月曜は散々な一日だった。机につけば瞼が重くなり、話を聞けば意識が遠のき、あてられる度に質問の内容を聞き返す。そのくせ、休憩時間に入って他人の噂話が耳に入ると、執念深い睡魔の奴もあっさりと冷や水に押し流されてしまうのだ。
問題の噂は、俺のでっちあげたものとはもはや完全に別物だった。頭から食われるとか、ミイラにされた犠牲者が見つかったとか、夜の軽傘を何羽もの首なしフクロウが飛び回っているとか、挙句の果てにはフクロウの鳴き声がコヨーテの遠吠えと差し替えられていることもあったくらいだ。本当は、正体などどうでもよいのかもしれない。聞こえるはずのないものが聞こえる。それだけで十分に怪談なのだ。
それでも何とか一日しのぎ切った俺は、日が沈む前に少しでも横になるため、急いで身支度を終わらせた。鳴谷が俺を誘うのを自主的に止めてしまったくらいだから、よほどひどい顔をしていたに違いない。エレベーターシャフトに生えた歩脚が、俺を乗せたカーゴをしっかりと掴み、てきぱきと下に生えた脚に受け渡してゆく。急いで降りてきたおかげか、一階のロビーはまだあまり込み合っておらず、俺はすんなりと外に出ることができた。
ところが、校舎を飛び出し、ギムナの正門が見えてきたところで、メッセージの通知が来た。仕方なく歩調を緩めてメッセージを展開すると、木霊の名前が目に入る。『大切な話』のために、いますぐ中庭に来いという。俺は手近な街灯によりかかって小さな呻き声を上げると、重い足取りで来た道を引き返した。
中庭を覗きこむと、南側のベンチに木霊が腰かけていた。夕日に染まった芝を横切り、肩越しに小さく声をかけて隣に座る。
「どうしたんだ? こんなところで」
5時限が終わって、ギムナに残っている学生は一握り、人気のない中庭を斜めに切り分ける校舎の影は冷たいベンチの間近に迫り、肌寒い風がグラウンドから運んでくる掛け声やラケットの音に耳をそばだてていた。俺が木霊の答えを待っていると、やがて木霊はためらいがちに振り向き、小さく声を上げた。
「拓巳、顔色悪いよ」
「ただの寝不足だよ。サークルの公演が近いし、忙しいんだ」
木霊の顔は、逆光のせいでよく見えなかった。いや、俺はそもそも見ようとしていなかったような気がする。赤い芝の上に伸びた平行な影の間をぼんやりと眺めて、その先にさっさと切り上げる方法を探していただけだ。
「それより、用事があるんだろ」
いつの間にか、そこかしこでコオロギが鳴き出している。俺は足を揺らしながら、木霊の返事を待った。
「このあいだ聞いた話なんだけどね……死んだ人が、いるって」
思い当たったのは、昼間に聞かされたデタラメな噂だった。溜息の代わりに小さく欠伸して、大きく広げた手で髪をかきあげる。
「そんなの、質の悪い冗談だろ。なんでそんな簡単に信じちゃうわけ?」
俺は無理矢理笑おうとしたが、途中で声が上ずってしまった。心ない問いかけに、木霊は一層弱々しい声で答えた。
「だって、みんなも言ってるし……」
「みんなが言ってたら、何でもホントになるのかよ。俺よりお前の方がよっぽど――」
賢いんじゃなかったのか。木霊とは逆に、いつの間にか険しくなっている自分の声に気がついて俺は言葉を飲み込んだが、それはあまりにも遅すぎた。
「なんで信じてくれないの。拓巳が、拓巳が私に話したくせに!」
がたがたと震える冷たい手が、俺の袖を引き千切らんばかりに握りしめた。じりじりと這い寄る校舎の影は、今にも木霊を捕らえようとしている。木霊は俺を放さない。道連れにされてしまう――俺は夢中で、厚みのない影の中へ俺を引きずり込もうとする、木霊の手を、払いのけた。
「もうやめろよ!」
俺は拳を堅く握って、赤い芝生に視線を落とし、肩で息をしながら、わななく声を搾り上げる。
「なんでわざわざ不安にさせるようなこと言うんだ!」
鈍いうねりを引き連れて、藤色のすさんだ風が冷えきった中庭を駆け抜ける。かすれた声で「ごめん」と呟いたきりぐったりとうなだれた木霊を残して、卑怯な俺は逃げ出した。賑やかな虫の音と、秋風の遠吠えに混じって、小さな嗚咽が聞こえた気がした。