雑音
水曜の夜半、俺はかすかな喉の渇きに眼を覚ました。ふらふらと起き上がって壁を伝いながら寝静まった台所に辿りつき、ヤカンの底に残った金臭い番茶を冷たいマグカップに注ぎきる。苦いばかりの番茶をゆっくりと喉になじませ、寝床に戻ろうと歩きだしたその時だった。ボォ、ボォとくぐもった音が遠くから聞こえてくる。
風だろうか。リビングの窓に近づこうとしたとき、荒々しい足音が階段を降りてきた。弟も、喉が渇いていたらしい。
「兄貴? お茶、まだある?」
黄緑色の冷光の下だと、よくよく日焼けしている弟の顔もやつれて見える。
「悪い、少し残ってたけど、さっき全部飲んじゃってさ」
まっすぐ部屋に入ってきた弟をよけながら、俺は謝った。
「まあ、いいや。水でも」
コイツにも聞こえているだろうか。俺は樹液製のコップで流しの蛇口で水を汲んでいる弟を、カウンター越しに呼んだ。
「直之。外、風、強くない?」
弟は水を飲みながら、眉をひそめた。形を持たない違和感が粟立つ背中を這いあがり、肩の上でむくむくと膨れ上がる。まさか。あんな噂が本当のはずがないことは、俺自身が一番よく知っているではないか。
「そうだったかなぁ?」
音を立ててコップを置くと、弟は窓辺に向かって歩き出した。一歩遅れて、俺も駆け寄る。
「ほら、吹いてないじゃん。静かなもんだよ」
暗くてよく見えないが、庭の南天が揺れている様子はない。にもかかわらず、かすかな虫の声に混じって、どこからか笛に似た音が聞こえてくる。
「じゃあ、おやすみ」
弟は見切りをつけると、人の気も知らずに軽い足取りで二階に戻っていった。取り残された真夜中のリビングには、未だに聞こえない音が漂っている。見えない重みにせっつかれるまま、俺は音の正体を求めて家の中をうろつき回った。より大きく聞こえる方へ、よりはっきり分かる方へ。聞こえるか聞こえないかも分からない小さな音に導かれ、俺は風呂場に辿りついた。
引き戸にそっと耳をつけ、中の様子を探ってみると、間違いない、今までよりもわずかに大きな音が程近くで鳴っている。何が居ようと知ったことか。俺は眼を閉じて大きく息を吸い込み、力任せに戸をあけた。
風呂場で俺を待っていたのは、しかし、腰かけと洗面器、それに空っぽの浴槽。誰もいない部屋のどこかで、くぐもった音がまだ鳴り続けている。固唾をのんで風呂場に足を踏み入れ、音の出所を探ってゆくと、埃まみれの換気口が目についた。音を立てていたのは、風呂場の隅に設置された換気用のポンプだったのだ。空気を送り出すための厚い筋肉で作られたポンプが、俺を脅かした枯れ尾花だったのだ。自分ででっちあげた怪談を信じそうになるなんて、本当にどうかしている。こうして無事に音源を見つけた俺は、熱をもった長い溜息を吐きだし、すっかり冷たくなったベッドに引き返した。
翌日、俺は一日中夕べのことを考えていた。俺が聞いたのは、本当に排気音だったのだろうか。噂が広まったのは、他にもあの音を聞いた者がいるからではないか――。だが、勿論そんなはずはない。そもそも順序が逆だ。噂を聞いたから、何でもない物音が鳴き声に聞こえるのだ。換気ポンプだけではない。部屋の空調にも空気を送り出すためのポンプは使われているし、家の中のオートアニマに酸素を供給している吸気アニマに至っては、文字どおりに呼吸を行っている。街には紛らわしい音がいくらでも転がっているのだ。だから、――つまらない聞き間違いのためにおびえる必要はないのだ、とこの時はまだ信じていられた。
だが、この出来事はほんの始まりに過ぎなかった。排気音の他にも、風の音、水音などその時々に聞き間違いの「正体」は与えられるのだが、水曜の夜と同じような空耳は毎晩繰り返されたのだ。俺は段々と小さな物音に過敏になり、眠りが浅くなるに従って漠然とした不安に嵌っていった。