待ち合わせ
・ベンチの向きを覚えておいてください
・木霊に注目
あくる朝、俺は早めに家を出てギムナの近くの緑地公園に向かった。木霊の家からも近い、広々としたところだ。立ち並ぶ家々から伸びた梢は高い空を貫く澄んだ日差しに彩られ、明るい風が水路を渡るたびに照り返す冷たい光が影の上で楽しげに踊る。涼やかな秋の朝を深く吸い込み、軽傘の町並みは鮮やかに輝いていた。レストランの下見は済ませてあるし、ピークを避けるために待ち合わせも早めにした。アクシデントがなければ、最高の一日になるはずだ。軽い足取りで太鼓橋を渡り、色とりどりのギャラリー通りを抜けると、右手にはナラの木立が見えてきた。
西口から中をのぞくと、陽気のせいか公園はなかなかに賑わっていた。犬の散歩をする子供もいれば、臆面もなく肉を焼く学生たち、ジョギング中の老人、ベビーカーを並べて談笑するママ友たち――一帯を見渡したが、まだ木霊の姿はない。幸い普段待ち合わせに使っている北向きのベンチには誰も座っておらず、俺はとりあえずそこに腰かけて木霊を待つことにした。
しばらくして、木霊が公園にやってきた。正面に立つ時計は、約束よりも少し早い十一時二十分を指している。軽やかな秋風にゆったりとした黒いパンタロンをなびかせ、木陰に紛れた俺を探してゆっくりと歩む木霊は、まだまだ力強い真っ白な日差しの中で眩しく輝いていた。俺は立ち上がって小さく声をかけ、陰の縁まで歩み出て大きく手を振る。木霊が俺の姿を認め、手を振って笑顔を返すと、俺は手招きしてベンチに戻り、梢の囁きに耳を傾けた。
「オハヨ、待った?」
隣に腰を下ろした木霊は、俺の顔を覗きこんだ。
「いや、全然。まだ約束の時間にもなってないのに」
「よかった」
木霊は大きくのけぞって思い切り木漏れ日の香りを吸い込み、
「あー、涼しー!」
と歓声を上げた。
「まだ昼間は暑いな。まだ夏物着てる人もいるし」
かく言う俺も、この日はサンダル履きだった。北向きのベンチから捉えた公園の全景は雨ざらしのポスターに劣らず色あせて見え、不規則な形をした影の輪郭は鋭く、青々とした芝に焼きつけられている。肌寒さの混じった不思議な色合いの風だけが、そんな長めの中に隠れた目には見えない境目をすり抜け、うっすらと木陰を染めていた。
「よし、まだ少し早いけど、行ってみよう」
俺は勢いよく立ちあがると、木霊の手をとって引っ張り上げ、レストランに向けて歩き出した。駅が近づくにつれて人通りは多くなり、俺達は歩きながら道行く人々のファッションチェックをした。気温の命令に従ってタンジェリンのバミューダパンツと〝NODOCA〟製の畳サンダルを履き続ける少年、おそらく通年ライジャケであろうパンク系の男、さっきすれ違った女の子の、どこまでが紐でどこからが生地なのか分からない服は〝Catacomb〟の新作か?木霊曰く、時折見かける網代のホットパンツは、夏のコレクションで〝めう〟というモデルが流行らせた物らしい。
しばらくしてレストランの軒先が見えてきたところで、木霊に総評を求められた。人によって装いが異なる季節の変わり目に、しかし、あえて正解を挙げるとするなら――
「涼しげな夏物を基調にしつつ、色使いや小物に秋の香をしのばせるのがベストだ」
と結んで、木霊の襟元を飾るサフランイエローのスカーフを指す。我ながらなかなかうまく決まった方だったが、木霊はコロコロと愛らしい笑い声を洩らすばかりで、喜びも恥らいもしない。
「ああ、これ? ありがとう。でも、これは友達の真似なんだ」
聞けば、ギムナが始まってすぐ木霊は地方から戻ってきた仲間と買い物に出かけたという。このスカーフは、その時沙天という女の子が結んでいたもので、気に入った木霊は店を教えてもらったのだそうだ。席に案内されてから、アサリの冷製パスタが出てくるまで、久しぶりに会った友人の変化や、彼女たちが夏休みの間に捕まえた男の話など、木霊の話は体験と伝聞の間をあてもなく彷徨い続けた。
しばらくしてギャルソンが運んできたパスタは、トマトの赤が眩しく、大粒のアサリがごろごろとのっていた。料理もさることながら、繊細な水仙の模様の入った皿は美しく、今時なかなか手に入らない陶器製だ。レストランだけあって、やはりいいものを使っている。
俺はパスタをとりわけながら、女の子のおしゃべりの奇妙なライフサイクルについて考えを巡らせた。或る言述は別の話者に寄生し、そこで分裂した娘言述は、次のおしゃべりにもぐり込み……そうこうするうちに、俺の反省は無用にして迂闊な質問に行き着いた。
「木霊……その日、友達に動物園のことも話した?」
木霊はグラスの水を口にしてから、こともなげに答えた。
「したよ。まずかった?」
何もまずくはなかった。少なくともこの時の俺は、何も気づいていなかったのだ。ギャルソンが新たに運んできたピッツァを切り分けながら、俺はたどたどしく弁解した。
「いや、ちょっと気になってさ。ほら、あの日、話をしただろ……ええっと、フクロウ館でさ」
心なしか、木霊の笑顔が強張った。居所の知れた藪蛇をつついたせいで、念の入った予定が狂ってはたまらない。俺はひきつった脳みそで上手い落とし所を探したが、木霊の返事は俺よりも一足早かった。
「うん……あのさ、拓巳、そのことなんだけど」
水を継ぎ足しに来たウェイトレスが、訝しげに俺達を見比べた。こんなことになるなら、配膳がアニマまかせの安っぽいファミレスの方がマシだったのかもしれない。
「いいって、いいって、害のない与太話さ。皆だってマジだと思ってるわけじゃなし」
タイミングはずれてしまったが、木霊を責めているわけではないことは分かってくれただろう。胸をなでおろした俺に、しかし、木霊は食ってかかった。
「マジかもしんないじゃん。皆だって、噂してるし」
気色ばんで身を乗り出した木霊にぐっと押しこまれ、俺は椅子が倒れる寸前までのけぞった。あの話は創作ではない。少なくとも、木霊にとっては。噂の出所を知っていたばっかりに、俺はそんな簡単なことさえ忘れていた。
「ごめんな、マジメに考えたことがなかったから気付かなかったけど、よくよく考えたらホントかもしれない」
足下から伝わってくる高速水路の筋肉の振動は、みぞおちで暴れる早鐘と共に会話を横切る溝の底に沈んでゆく。水路が真下を通っていたせいだろう、穏やかな表情を必死に支えながら蒼白な木霊の顔を見守っていると、底の知れないボゥという大きな音が、二人の間をこだまの速さで駆けて行った。水路の残響にせかされて、木霊はようやく口を開き、
「本当だよ、ホントに……ホントに、聞いた人がいるって――」
訴えは尻すぼみになり、木霊は眼を伏せて黙りこんでしまった。俺は木霊の手を優しく握り、ゆっくりと問いかけてみる。
「そっか。聞いたのか。何を聞いたんだって?」
「夜になるとね、窓の外から、くぐもった音が聞こえてきて」
「うん」
「それが、フクロウの声みたいなんだけど、窓を開けても何もいなくて、どこからともなく声だけが聞こえてくるんだって」
どこかで聞いたとおりだ。俺は立ち上がると閉まらない顔で震える木霊の肩を抱き、血の気の引いた耳元に小さく囁いた。
「俺達も気をつけなくちゃな。木霊も、何かあったら、すぐに俺に伝えてくれ」
大丈夫だ、何とかしてやる、と無責任に何度も繰り返すうち、木霊はしばらくして持ち直したのだった。