休み明け
「……ため、スクリプトの記号には最小単位であるT,A,C,Gではなく、各コドンの表している20のアミノ酸と終止コードに対応したA~Wまでのアルファベットが用いられるようになりました。さらに簡略化の進んだ言語では、タンパク質を直接指定する記法、条件分岐をモジュラ化してマスターキー遺伝子を省略した記法が開発されています。ここまで来ると、ほぼ現行の言語に……」
その三週間後、休み明けの「遺伝論理学基礎Ⅱ」の講義を、俺は朦朧としながらも酔っぱらった筆致でなんとかノートにとり続けていた。教室内は見渡す限り顔の分からない理工系の生徒ばかりで、早くも俺は一割二分の脱落組に入っていたようだ。
「もっとも、この時点で実用段階にあった技術は、極めて原始的なものでした。水質浄化や薬品、燃料の合成に用いられるバクテリア程度はイェックハルト記法でも設計可能ですが、現代的なオートアニマのはしりである製糸アニマの登場は、二〇八四年の……」
講義の大半が経文に聞こえようが、打ちひしがれた板書が罫線をまたいで彷徨おうが、俺にはちゃんとした勝算が、もとい、勝利を確約する心強い援軍がついていた。欠伸を噛み殺しながら隣の席を窺うと、木霊は期待通り、工作アニマにも劣らぬ素晴らしい速度で緻密なノートを生産しているところだった。
「……へ、蛍光灯からルシフェリンの灯りへ、携帯端末から端末器官へ、コンピューターからニューロクラスタへ。こうした鉱山資源からの脱却を可能にしたのが、正にこのコドンスクリプタなのです」
教授は手早く書類をまとめると、スライドを切り替えた。
「次回は簡単なタンパク質のコードについて解説しますが、その前に簡単な小テストを行います。トリプレットの一覧を覚えてくるように」
顔をうずめた両手の指の間から、ぽつぽつと立ち上がって退出してゆく学生が見えた。連中の大半は、今すぐにでもテストをパスできるに違いない。
「初っ端からキツイな」
俺は乾いたため息を吐き出すと、力なく机の上に突っ伏した。
「あれ? 遺伝って文系でも必修じゃなかった?」
目を円くして覗きこんだ木霊を横目に、俺は精一杯の言い訳をした。
「授業はな。バカレロアは数学を選んだから、遺伝は要らなかったんだ」
ため息混じりの告白に、木霊の眩しい笑顔が弾けた。
「呆れた。そんなんでよくとる気になれたね」
一旦苦笑して見せてから、俺は珍しくも神妙な顔つきで答える。
「そりゃ難しそうだったけど、木霊の専門って、どんなことやるのかなーって思ってさ」
メルヘンチックな返事を期待しながら、虚を突かれてたじろぐ木霊をじっと見つめたが、木霊はただうちそば向いて
「またそんな調子のいいことばっかり言って……」
とボヤいただけだった。
厚いケラチンで塗り込められた緑の街が、乾いた秋の日差しを受けて放つ煌めきに、木霊は何を見たのだろう。呑気な俺は木霊の肩越しにのどかな昼下がりをぼんやりと眺めながら、しかし、木霊のことが少しも見えていなかったのだ、と今になって思う。
「知りたい、か、拓巳、私も知りたいことがあるんだけど」
木霊は少しも振り返る素振りを見せずに、少し上ずった声で尋ねた。何々?何でも聞いてよ、と聞き返すと、木霊は息を小さく吸って、
「拓巳がさ、動物園でオバケの話をしたじゃない――あの話って、最後はどうなるの?」
俺は視線を泳がせたが、どこにもうまいオチなど転がってはいない。会話の中にぽっかりと空いた空白に、足下深くから唸り声がゆっくりと流れ込む。真下に流れる高速水路を、大型の船舶が通ったらしい。
「どうだったかな?俺が噂を聞いたの、大分前だったから……」
このとき、木霊の問いに答えはなかった。答えがないままにしておくこともできただろうし、もっと気のきいた答えもありえたのかもしれない。だが、俺にはバツの悪い沈黙に耐えるだけの我慢強さもなければ、軽やかに話題を切り替える機知もない。焦りの中に浮かんだのは、月並みな結末だけだった。
「まあ、怪談なんだからさ、魂を吸い取られちゃうとか、そんなんだって、どうせ」
「そっか……そうだよね、ごめんね、変なこと聞いて」
俺は熱のこもったため息を吐き出し、木霊の肩を軽く叩いた。
「もう秋なんだからさ、怪談じゃなくて、食物の話をしようぜ。この間も、駅の近くに新しい店ができたみたいだし、連れて行ってやるよ」
幸いこの提案は功を奏したらしく、木霊の気分もいくらか良くなった。こうして俺は、デートの約束をとりつけつつ、次の教室に滑り込むことに成功したのだった。
このときは、この話ももうこれきりだろうと考えていた。俺は自分のでっちあげた怪談のことなどすっかり忘れたまま二、三日を過ごし、週末にひかえるデートを心待ちにしながら金曜日を迎えた。そして、その金曜日に、ゼミの仲間からどこかで聞いたような話を聞かされる羽目になったのだ。
「そういえば射鷹、この間変な噂を聞いたんだけどさ」
どうやら最近、差出人不明のメッセージが出回っているらしい。メッセージ自体にはなにも実害がないのだが、しばらくすると、メッセージを受け取った者のところに夜な夜な何かが通ってくるようになるという。始めのうちは姿も見せず、家の周りから小さな嘆き声が聞こえるばかりだったのが、声は夜を重ねるごとに近くなり、しまいにはとうとう声の主が姿を現すのだそうだ。ただ、声の主を見たものは誰一人として生き残っておらず、その正体に関する証言は得られていない、というのがこの話の結びだった。
「お前まさか、マジで信じてるわけじゃないだろうな」
渋い顔で尋ねると、鳴谷は唇の端を曲げ、
「当たり前だ。でも、この手の話は女の子にウケるからな」
収集するに越したことはない、と得意げに答えて、持論を証明すべくふらふらと女の子のグループの方へ漂っていってしまった。
横目に鳴谷の背中を見送ると、俺は頬杖をついて小さく鼻を鳴らし、昼下がりののどかな街を見下ろした。出どころの知れた噂ほどつまらないものはない。きまりが悪くて言い出せなかったが、だから、それも結果としては悪いことではなかったのだろう――手放したチャンスの大きさが見えていなかった俺は、このとき白状しなかったことをなんとも思わなかった。「それは、俺の考えた冗談なんだよ」と。