ブルータスお前もか
お待たせ致しました。今回で最終話です。
痴漢セクハラ体験を全部書くつもりでしたが、応募した新人賞の規定枚数を超えてしまうので、書ききれませんでした。
その代わり、第2話に知人の体験談を挿入しているんですが。知人の話とか入れたら、それこそ書ききれなくなってしまいますね。。。
では、お読み下さい。
侘しい一品料理を突きながら、信也は例のごとく仕事の愚痴をこぼし始めた。以前から信也は、ガスボンベの配送の仕事に、全く熱意を持っていなかった。ここで放っておけば、またアパレルへの思いを語られるのは、目に見えていた。
その話にいい加減飽き飽きしていた紅子は、矛先を変えてみようと思い、だったら営業部に配属願いを出してみてはどうかとか、保安部はどうなのかなどと、会社の幾つかの部署を提案してみたが、そのどれもに、信也は渋い顔をした。
フェミ男のような細い体型を維持することが、お洒落に不可欠と信じる信也は、そもそも筋肉のつき易いブルーカラーの仕事が気に入らなかった。では検針部はどうかと尋ねると
「やだよ。おばさんたちにまぎれてさ」
と不快感を露にした。
男女差別の激しい会社だったから、部長職だけは男性が務めていたが、確かに他の検針部員は中年女性ばかりだ。女性は体力が無いから、工事や配送には不向きだが、さりとて年齢を重ねた女性を社内に置いて、事務を執らせても事務所が華やがない。そこで彼女たちは、ガスメーターの検針に駆り出される。
いくら筋肉をつけたくないとはいえ、その中に混じって働きたいなどとは、さすがに信也も言いたくないようだった。だがそうすると、あとは事務職しかない。
紅子と信也の勤める会社では、総務部長以外に事務を執っている男性社員はいなかった。しかしそれを承知で、紅子は
「だったらシンちゃん、事務職とかはどうなの」
と尋ねた。もし信也が、本気でホワイトカラーになりたいのなら、会社を辞めて、どこか別の会社で事務員になってもいいのではないかと、紅子は思った。
だが信也は
「座りっぱなしの仕事は、無理」
と一言で切り捨てた。紅子はふと、自分のしている仕事は、果たして座りっぱなしだろうかと考えた。
会社にもよるだろうが、少なくとも紅子は、決して座りっぱなしの仕事はしていなかった。朝の清掃中は、それこそ座ってなどいられないし、始業時刻を過ぎれば、出入り口に一番近い席を与えられた紅子は、来客がある度に席を立って取り次ぎをし、お茶出しをしなければならない。
また来客がなくても、社長は度々お茶を所望するし、同じ事務所内にいるというのに、電話の取次ぎまで、いちいち席まで出向けと言われるのだから、それこそ座ってなどいられない。
それに商品の入出庫担当としては、配達される商品を倉庫に搬入させるのも、日々の仕事だ。そして取り付けられた鍵が使えるようになった今となっては、出庫の際も、いちいち倉庫に出向かなければならなくなった。
加えて他の社員たちから命じられる、ワープロ打ちにコピー取りに資料探し。その都度紅子は、席を立って、社内を駆け巡るのだ。また車通勤をしている他の事務員には、男性社員のための弁当を、車で弁当屋へ取りに行くという交替業務も課せられていた。
それにも関わらず、事務職が座りっぱなしと言われるのなら、ガスボンベの配送の仕事だって、配送中は運転席に座りっぱなしなのだから、「座りっぱなしの仕事」と言えそうだった。
そこで紅子は
「別に事務だって、座りっぱなしって訳じゃないけど」
と反論したが、即座に
「でも俺には、座りっぱなしのイメージがあるんだよ」
と返された。
紅子はその言葉に驚き、まじまじと信也の顔を見詰めた。信也の持つ勝手なイメージなどよりも、実際に事務を行っている紅子の感想の方が、生の実感であるはずなのに、自分の思い込みに固執する信也のことが、よく分からなかった。
つまりこいつは、あたしとの会話なんて望んでいないということかと、紅子はぼんやりと考えた。
信也のしていることは、会話の体裁をとりながら、その実、自分の言いたいことだけを、好き勝手に話しているだけだった。信也は本気でアパレルを目指す気など、さらさら無いにも関わらず、現状が不満で、その不満を、紅子に向かって垂れ流しているだけだった。
傍らでは、相変わらず興奮した様子の十夢が、部屋の端から端まで、ダッシュをしては引き返していた。この部屋の二つの雄は、ただそこに存在しているだけで、全く紅子と交流しようとはしなかった。
自分はなぜここにいるのだろうと、紅子は思った。空腹が満たされてみると、余計にその思いは強くなった。紅子の埋められない隙間は確かに存在するものの、それを埋めるものが、ここには無いことも確かだった。紅子はうなだれると、皿を片付けるために立ち上がろうとした。
その時、雄の片割れが、突然紅子へ、一方的な交流を仕掛けた。立ち上がりかけた紅子の脇を、十夢が勢いよく通過して行ったかと思うと、また元の位置に駆け戻り、そして紅子に向かって走り出したのだ。
紅子は最初、十夢が自分を、からかっているのだと思った。以前実家で飼っていた雑種犬も、紅子の元に駆け寄る振りをしておきながら、実は脇を通過して行くというやり方で、たまに紅子を、からかうことがあった。
おそらくそうやってふざけることが楽しいのだろう。紅子は実家の飼い犬を思い出し、微笑みながら笑顔で十夢を見詰めた。
だが十夢は、今度は紅子に、強烈なタックルを仕掛けた。油断していた紅子は、思わず十夢に押し倒される格好になった。
まさかこんな小型犬に押し倒されるとは思ってもいなかった紅子は、十夢の下できょとんとしていたが、十夢の荒い息と、迫り来る四肢の動きにぎょっとし
「ちょっと、やめて。お願い。困る」
と哀願しながら、じたばたともがいた。
慌てて信也が、十夢を紅子の体から引き離した。信也に取り押さえられた瞬間、十夢は涼しい顔で、先程の自分の悪さなど身に覚えは無いといった様子で取り澄ました。
「分かった。こいつ盛りがついてんだよ」
「え、だってこんな時季に盛る?」
「だって、ここ赤くなってるし」
信也の示す通り、確かに十夢の性器は赤く腫れていた。
「俺、犬とか別に嫌いじゃないけど、でもこういうの見ると駄目だわ。グロいよなあとか思っちゃう」
そう言うと信也は、飼い主に借り受けたらしきケージに、十夢を押し込んだ。十夢は抗議の意味を込めて、キャンキャンと鳴いた。
紅子はそれを気の毒だと思わないでもなかったが、しかしまた十夢に挑戦されるのも嫌なので、黙って台所に立った。いつまでも背後に響き渡る十夢の鳴き声が、酷く耳障りに思えた。
紅子は皿をスポンジでこすりながら振り向くと
「お皿洗ったら帰るから、車出してくれる?」
と信也に尋ねた。
「え、もう帰るの」
「十夢が興奮してるし、落ち着かない」
「そうだよなあ。こいつ俺にはあんなことしないしなあ。紅子ちゃんのこと、女だって分かってるってことだもんなあ」
信也の感心するような物言いを聞き、犬までが自分を性的対象と見なしたのかと、紅子はうんざりした。実家の飼い犬も雄だったから、脚にしがみつかれ、マスターベーションに利用されそうになったことは何度かあるが、しかし性的対象と見なされ押し倒されたことは、一度も無かった。
とはいえ、例え信也の助けが無かったとしても、まさかミニチュアダックスフンドが、自分を強姦できたとは思わなかったが、しかし一瞬でも、十夢が自分を性的対象と見なし、襲いかかってきた事実が、紅子にはショックだった。加えてこんな小型犬に、簡単に押し倒されてしまう自分の非力さが、あまりにも心もとなく思われた。
しかも性的被害が国際化したと思ったら、今度は獣姦プレイに形を変えるとは何たることだろうか。信也にぶち込ませることにより、決着をつけようと覚悟を決めたところで、そんな紅子の思惑には無関係に、次々と襲いかかる諸々の出来事は、一体何なのだろうか。
ハンドルを握る信也の隣のシートに腰を下ろした後、紅子はほぼ無言だった。カーラジオからは軽快なBGMと共に、昨夜見た夢について、DJが何事かを話しているのが聞こえた。
紅子はふと、十夢の「夢」は、夢精の「夢」かも知れないと考えたが、それを信也に告げる気にはならなかった。これが気心の知れた相手とのドライブだったなら、早速口にして、二人で笑い飛ばすところだ。しかし信也は、思いついた冗談を、気軽に口にしたくなるような相手ではなかった。
自分はどうかしているなと、紅子は感じた。いつもだったら、小型犬に押し倒されたことくらい笑って済ませてしまえるはずだった。ましてや冗談も気軽に言えない相手と寝ようなどと思うとは、どうかしているとしか思えなかった。
だが紅子が、信也と寝てもいいと思ったのは、別に今日が初めてではなかった。ということは、今日の数々の出来事は抜きにして、紅子はとっくにどうかしていたのだ。
一体いつから、自分はどうかしていたのだろう。そう考え始めた頃、車は駐輪場脇の車道で停まった。紅子は早口でお礼の言葉を告げ、助手席のドアから降りた。
手を振って、信也の車を見送りながら、多分これでよかったのだと紅子は思った。多分信也と寝ることには、何の意味も無い。むしろ人間関係を複雑にさせるだけだ。ひょっとして紅子は、犬に襲われたことにより救われたのかも知れなかった。
紅子は少し落ち着いた気分で、街灯を頼りに、自分の自転車を目で探した。だが自転車のカゴに入れられた紙袋を見た途端、気分がすっかり沈んでいくのを感じた。
それは今朝、この場所で、不審なヘルメット男に、渡されそうになった紙袋だった。今日はあまりに色々な出来事が起こったため、すっかり忘れていたが、どうやらヘルメット男は、紅子が逃げ出した後、紙袋を自転車のカゴに入れて行ったようだ。
ひゅうと木枯らしが一つ、紅子の体の中を吹き抜けて行った。紅子はすぐさま、紙袋を地面に投げ捨てたくなった。しかしもしかしたら、どこかでヘルメット男が、今の様子を観察しているかも知れないと考えた。自分の渡したプレゼントが捨てられるのを目撃したら、恨まれてとんでもない目に遭わされるかも知れない。
かといって、紙袋を大切そうにバッグにしまえばいいのかといえば、それも違う気がした。そんなことをして、プレゼントを喜ばれたと勘違いさせては、相手が図に乗る危険がある。
そこで紅子は、ここは気付かない振りをするのが無難だろうと判断し、肩にかけていたバッグを、紙袋の上に乗せると、ペダルを踏んで漕ぎ出した。
ライトを点灯したため、ペダルは重く、そして心も重かった。ふともし今ヘルメット男が、どこかで自分を見ているのなら、信也の車から降り立ったことも、目撃したかも知れないと思った。
そのことがヘルメット男を刺激する可能性に、紅子はおびえた。そしてヘルメット男が、今の様子を見ているとは限らないのに、男の視線を意識していることが苦痛だった。
その時、対面からやって来たサラリーマンの一群が、酒で赤らんだ顔で、ガヤガヤと騒ぎながら紅子とすれ違って行った。その脇から、自転車に乗った高校生が、軽快に紅子を追い越して行った。目の前の横断歩道では、ダンボールを抱えた浮浪者が、のろのろと公園に向かって歩いて行った。
疑心暗鬼に陥った紅子は、彼らを痴漢ではないかと警戒し、全速力で自転車を漕いだ。この世の雄の全てが、雄である以上は、痴漢であるような気がした。
アパートの駐輪場に自転車を乗り入れると、紅子はバッグと紙袋をつかみ、玄関へと向かって行った。とっくに施錠されていた玄関のドアを、合鍵で開けて中に入ると、自動でガチャンと玄関が、再び施錠された。
入り口近くの談話室には、誰かが読み捨てた月刊コミックが一冊、薄暗い灯りに照らされて、ぽつんと残されていた。紅子はそれを失敬すると、傍らのエレベーターのボタンを押した。とうに閉じられた背後の食堂からは、コトリとも音がしなかった。
重苦しい音を立てて、エレベーターが到着すると、体を引きずるようにして、紅子は中に乗り込んだ。ボタンを押し、上昇するエレベーターとは対照的に、紅子の心は、いよいよ沈んでいった。
男子禁制のマンションの中に、ようやくたどり着き、身の安全を確保したというのに、紅子は安堵よりも、やりきれないほどの重苦しさに支配されていた。
自室のドアを開け、靴を脱ぐと、紅子はそのまま、絨毯の上にぺたんと腰を下ろした。その途端、傍らにぽとんと紙袋が落ちた。紅子は手を伸ばすと、紙袋の裏表を観察してみた。ストッキングを渡してきた油井とは違い、そこには何の文字も記されてはいなかった。
しかも油井に渡された袋と比べて、こちらはやけに小さい。紅子は恐る恐るそれを開封したが、中身を見て、苦虫を噛み潰したような顔をした。出て来たのは気味の悪いピエロのキーホルダーだった。
あのヘルメット男にとって、これを自分に渡すことに、何の意味があるのか、紅子はさっぱり分からなかった。紅子はそれを袋ごとつかむと、ゴミ箱へ投げ入れた。
いくら経済苦とはいえ、持ち主の嗜好がある程度反映されるべきキーホルダー、しかも大切に使えば、長持ちする上に大して高価ではないキーホルダーは、気味の悪い物を我慢して使う必要があるとは思えなかった。ここまでセンスの悪い物は、おそらくどの友人も、引き受けてはくれないと思われた。
紅子にとっては、ストッキングという消耗品を渡してきた油井以上に、センスのかけらも無い奇妙なキーホルダーを渡してきたヘルメット男が不気味だった。ヘルメット男はヘルメット男であるために顔や年恰好が分からず、また彼の目的が分からない点も不気味だった。
しかも油井とは、あの病院にさえ行かなければ、もう会うことは無いと思われたが、ヘルメット男は通勤途中に待ち構えているために、次に会う可能性が非常に高い。対策を練る必要があるのが厄介だった。
やはり駐輪場をかえなければ。紅子は再びそ思いついた。しかし今、その件について、考えるのが億劫だった。いやそれ以前に、紅子はまだ、コートすら脱いでおらず、腕時計や指輪もはめたままだった。だがいつもの、帰宅後の一連の動きをとることが、非常に難儀に思われ、紅子はそのまま、ベッドの上に突っ伏した。
その時、据え付けの学習机の上の電話が鳴り響いた。管理の厳しい女性専用マンションなどというものは、大抵、居住者本人ではなく本人の親が居住させたいと願う場所だ。だから必然的に、有職者より学生の居住率が高い。そのため、各部屋には学習机が据え付けられているのだが、今机上の電話がるるる、と鳴り響いた。
紅子はベッドから跳ね起きると、すがるような気持ちで受話器を取った。きっと慎一に違いない。今夜はいっぱい愚痴をこぼそうと、紅子は決意した。
数々の性的被害を聞いた慎一は、きっと紅子のために、彼らに怒りを向けるだろうと思われた。独占欲の強い男は、自分の女にちょっかいを出す輩へ向ける怒りの度合いが、通常より大きい。
もちろん信也の家で、十夢に押し倒された話などはする訳にはいかないが、しかしそれは後日、寿美礼にでも聞いてもらえばいいだけだ。
今は全てではなくても、自分の受難に耳を傾け、慰めてくれる人間が、紅子には必要だった。例え遠く離れていても、自分には愚痴を聞いてくれる存在がいることを、紅子は感謝した。自分は本当に、慎一を愛している。紅子はそう確信すると、期待を込めて「もしもし」と呼びかけた。
紅子の期待通り、電話の相手は慎一だった。だが紅子の期待に反し、慎一は開口一番
「てめえこんな時間まで、どこほっつき歩いてたんだ」
と紅子を罵倒した。
「だって今日は、寿美礼ちゃんと会うって言ってたじゃん」
「沼倉んち電話したら、とっくに帰ったって話じゃねえか」
まさか寿美礼の家にまで電話していたとは。紅子は思わず、眉をひそめた。昔のカノジョなのだから、電話番号を知っていることくらいは承知している。だがまだ、夜の十時を回ったばかりだというのに、紅子の所在を明らかにするためとはいえ、なぜわざわざ、電話しなくてはならないのか。
寿美礼が慎一と付き合っていた過去があったということを抜きにしても、慎一のこの行為は異常だと、紅子は思った。まだ夜の十時を回ったばかりなのだ。なぜ自分からの電話を待てないのか。
だが慎一がこういう男であることを、紅子はとうに知っていた。短大時代、デートの帰りに間借りしていた下宿先付近まで送ってもらった後、紅子は下宿先のおばさんに言われるまま風呂に入り、ついでに脱衣所の洗濯機を借りて洗濯をした。その後、自室に戻ると、部屋に引いた電話の留守電が、十四件も入っていた。
留守電を入れたのは、全て慎一だった。紅子を送った後に、自宅に帰宅し、紅子に電話をかけたところ、紅子が出なかったため、繰り返し留守電にメッセージを残した挙句、紅子の女友達に電話をかけまくり、果ては免許も無いのに、嫌がる友達から無理矢理バイクを借り受け、紅子の下宿付近を捜索していたのだ。
「風呂に入っていた」と答えた紅子を、慎一は罵った。たった一時間、入浴と洗濯をし、電話に出られなかっただけで、責められるいわれは無いと紅子は思ったが、慎一はいかに自分が心配したかを延々と語り、紅子が謝罪するまで、怒りを収めなかった。
もちろん紅子は、何も悪いことはしていないのだから、当初は慎一と争った。その下宿には、紅子と女主人の他に、もう一名間借りしている学生がいたから、一つの風呂を、三人が交代で使っていたからだ。しかも洗濯機は、入浴ついでに仕掛けることがルールになっていたから、入浴には時間がかかった。
いくら下宿代を払っているとはいえ、他人の家の浴室と、洗濯機を使わせてもらう身としては、余程の事情が無い限り、声を掛けられた時に、さっさと入浴を済ませるのが礼儀だった。
無論、帰宅後に慎一から電話がかかってくるであろうことは予想していたが、しかしたかが一時間程度電話に出なかったからといって、ここまでの騒ぎになるとは、誰が予想しただろう。
現に慎一からの電話を受けた女友達は
「コンビニにでも、行ってるんじゃないの」
と軽く返事をした。実際はコンビニではなく風呂だった訳だが、いずれにせよ、たかが一時間電話に出なかっただけで、そこまで騒ぐ慎一が、どうかしているのだ。
だが慎一は、紅子の事情を理解せず激昂した。すでに親の金で、東京の風呂付きアパートで一人暮らしを始め、たまたま実家に帰省中の慎一には、他人の家に気兼ねしながら間借りをする紅子の気持ちなど、全く分からないのだった。
紅子は当然苛立ったが、しかし通話時間が二時間を越えた頃には、面倒臭くなって謝罪することにした。どんなに言葉を尽くして説明しても、慎一は自分の感情にしか興味の無い男であることを、プロポーズされた時に充分理解していた。
とはいえ、このように面倒臭いことをされては、別れが頭をよぎらないでもなかった。しかし自分を心配するゆえに面倒臭い事態を引き起こしてしまった男を、振ってもいいものかと紅子は思案し、そこでとりあえずは謝っておいたのだ。
幼い頃から、理不尽な理由で、父親に怒鳴られたり殴られたりしていた紅子にとって、謝罪とは必ずしも、心から悪いと思って行うことではなかった。それは事態を収集するためにも、頻繁に行うべきことだった。だから自分が悪くなかろうと、人に謝罪するくらいのことは、別に大した問題ではなかった。
思えば小学一年生の時、初めてテストで百点を逃した時には
「学校は百点を取れる授業をしているはずなのに、何でお前はこんな点を取っているんだ」
と九十八点のテストを前に、父親に罵倒されたのだ。
そのため、紅子は勉強が非常なストレスになり、体調を崩し始めて、成績がどんどん下降していった。それに比べれば、電話に出なくて心配したと怒られるのは、何と甘美な気持ちになることだろう。
紅子は異常な慎一に辟易しつつも、男に心配されたという現実にうっとりし、形だけの謝罪を行って、慎一の心をなだめた。一言謝れば収まってしまうのだから、慎一の扱いなど、父親に比べれば楽なものだった。
しかも謝る前に、二時間近く、紅子は慎一に反論したのだ。父親に対しては、ただの一度も口答えをしたことのない紅子にとっては、二時間もの間反論しただけで、充分自分は意思表示をしたように思えた。
父親は家族中が必死で機嫌を取り繕っても、家族に手を上げたり、テーブルをひっくり返したり、食卓盆を叩き割ったりするような男だったから、そんな男に反論するなど考えられないことだった。しかし慎一との喧嘩は、主に電話を通じて行われることが多かったため、紅子も気楽に、異を唱えることができたのだ。
そのため紅子は、自分が慎一に意見を言えない状況にあるなどとは思ってもいなかった。しかし寿美礼の家に電話を入れたと告げられ、ふと短大時代の、留守電十四件事件を思い出した。げんなりした気分になった。とっくに知っていた欠点だったとはいえ、慎一のその行動は、決して愉快なものではなかった。
けれど今日の紅子には、信也のアパートに行っていたという、負い目があった。だからげんなりしつつも、少し心が軽かった。負い目を持つということは、何と素晴らしいことなんだろうと、紅子は少し感動した。痛くもない腹を探られるのはやりきれないが、しかし痛い腹を探られるのは、仕方の無いことだから、相手を許せる気がする。
間違った人間と付き合うには、自分も多少間違っていなければ、うまくいかないものだ。これが相手に合わせ、譲歩するということだろうかと、紅子はふと考えた。四股をかけていた前の恋人にしたって、せめて紅子が二股くらいかけていれば、許すことができたかも知れなかったのだ。
負い目ゆえの余裕に支えられえた紅子は、静かな声で、「ごめんね」とお得意の常套句を発っした。そして
「電話線抜いてたの。今日すごく嫌なことが立て続けに起こって、しばらく誰とも話す気分になれなくて」
と平然と嘘をついた。
入社時にこのアパートに引っ越した際、自室に引かれていた電話機は、留守電機能の無いシンプルな物に替わっていたから、慎一が何度コールしても、それは記録として紅子が確認できなかった。だからこれは、言い訳として通用した。
加えて紅子は、以前慎一と電話で喧嘩した際、電話を叩き切った後で、電話機からモジュラーラックを抜いたことがあった。だからこの嘘には、何やらリアリティーがあった。短大時代に自分で購入し使用していた電話機には、電話のコール音をオフにする機能が付いていたが、現在のアパートに備え付けられていた電話機には、そんな便利な機能が無かったので、紅子はやむを得ず、そのような原始的な方法を取ったのだ。
さて紅子の言い訳を聞くと、慎一は
「俺とも話したくなかったのか? じゃあお前は、俺を愛してないのか?」
と息巻いた。すぐにこうやって、愛だの何だのと言い出すところが、慎一の溢れる欠点の内の、ささいな一つだった。
「そうじゃないの。ただなかなか、気持ちの整理がつかなかったから」
「……、何があった?」
ようやく紅子の話を聞く態勢に入った慎一に対し、紅子は
「今日は何だか知んないけど、やたら変な人に会ったの」
と前置きすると、順番に、ヘルメット男に始まって、駅前の露出狂の話に移った後、大学前で声をかけてきた学生風の男の話をした。すると話はまだまだこれからだというのに、慎一は紅子の話を遮り
「何だお前は、そんなに外で、男に媚売って歩いてんのか」
と凄みを利かせた声でつぶやいた。
その言葉に、紅子は一瞬唖然とした。そしてすぐに、冷ややかな怒りが、内部に生まれたのを感じた。こんな感情に駆られたのは、生まれて初めてだった。紅子は黙って電話を切ると、すぐさま電話機からモジュラーラックを引き抜いた。
その時、紅子は終わりを感じた。今日の不思議な連続性的被害が、今終わったことを感じた。紅子はあっと思った。挿入ではなかったのだと思った。
体内に男を迎え入れなければ、今日の連続被害は終結しないのではないか。そんな強迫観念に駆られ、一時はシンちゃんとの合体を考えた紅子だったが、しかし今、電話機からモジュラーラックを引き抜いたことにより、紅子は終わりの手応えを感じた。
終わったんだ。
終わったんだ。
終わったんだ。
終わったんだ。
紅子はふと、慎一との関係も、これにより終わるのだという予感を覚えた。きっとどんなに言葉を尽くされても、先程言われた言葉を、自分は許すことができないのだろうという気がした。
腹の中に、鉛のように重たい塊を感じるのに、体と心が、フワフワと浮遊しているようだった。紅子は立ち上がると、右手薬指からゴールドリングを外し、壁に向かって投げつけた。幸福を呼ぶ指輪は、ガツンと音を立てて跳ね返ると、そのままコロコロと、クローゼットの裏に滑り込んで行った。
この指輪を買うために、ゲーム機と漫画のコレクションを、慎一がリサイクルショップに売り払ったことは知っていた。それがどうしたと思った。そもそも学生の分際でゲーム機を買い、コレクションできるほど漫画を購入していたことが、贅沢ではないかと思った。
指輪はしばらく、コロコロと音を立てて踊っていたが、やがて静かになった。それを合図に、紅子は溜め息を吐いた。ああこれで、自由になったのだと思った。もう日々の電話に縛られることも無い。交通費や電話代に、頭を悩ませる必要も無い。
紅子は自分が、重心だけがやたら重い、起き上がり小法師になったような心持ちで衣服を脱ぎ捨てると、フラフラとユニットバスへ向かって行った。
ユニットバスだから事前に浴槽に湯を溜めることができず、冬はとても寒い。けれどいちいち下宿の女主人の声がかかるのを待たずとも、好きな時間に入浴ができることが幸せだった。
しかしそれでも、体が寒かった。自由になれて、心は浮遊しているのに、いくらシャワーを浴びても、心の真髄に生まれた重たいものが、べっとりとまとわりついているようだった。
紅子は風呂から出てパジャマの上にカーディガンを羽織ると、ベッドにもぐり込んで、先程ロビーで失敬した月間コミックをめくり始めた。十代二十代の女性を購買層に持つその雑誌は、言わずと知れた恋愛ものばかりが連載されていた。
自分には関係の無い世界だと、紅子は思った。自分はもう二度と、誰かと付き合うことはないだろうと思った。最後の切り札である慎一にまであんな言われ方をされた今、世界中の全ての男が痴漢である以上、自分はもう、誰とも付き合うことはないのだと思った。
不意にそのコミック誌が馬鹿馬鹿しくなり、紅子はそれを閉じて、ベッドの下に放った。同時に自分の若さが、まるで価値の無い馬鹿馬鹿しいものに思えてきた。
ベッドに仰向けになると、紅子は天井を睨みながら、なぜ自分は若いのだろうと考えた。もう誰とも付き合わない以上、若さなど不要に思えた。だとしたら一足飛びに年を取って、男が誰一人として見向きもしない老婆になってしまいたかった。
早く年を取りたい。紅子はそう念じると、固く瞼を閉じた。天井の照明が、瞼の上から、赤桃色の色彩を紅子に見せた。その色彩は、紅子の脳裏で十夢の赤い性器になり、露出狂の下半身になり、信也の作ったチキンライスになり、そして最後に、昼食で出された赤飯になった。
と、同時に耳元で相崎の声がささやいた。
「律子の生理が、あがったらしい」
そうだった。更年期を迎える頃になっても、陰で性的な冗談の対象にされる可能性はあるのだったと思い出し、紅子は顔をしかめた。
だとしたら完全に性的な不快感から解放されるのは、一体いつになるのだろうかと、紅子は気が遠くなった。若さも命も、先程床に放った雑誌のように、簡単に放り投げることができたら、どんなにせいせいすることだろう。
またしても表れた死への憧れに、紅子は唇を噛んだ。この時代では、死にたがる人間というものは、現代ほどの市民権を得ていなかった。紅子は自分の、風変わりな願望が不快だった。だがどんなに不快に思っても、それは紅子の幼い頃からの願望に他ならなかった。
気分を変えたいと思い、紅子は学習机の上の電話機を見詰めた。誰かと話がしたいと思った。
だがモジュラーラックを差し込んだ途端、鳴り出すであろうコール音が恐ろしかった。相手は慎一に決まっている。以前モジュラーラックを引き抜いて眠った時、翌朝電話機に差し込んだ途端に鳴り出した電話と、受話器から流れた慎一の怒声を、紅子は記憶していた。
電話が鳴り出したところで、ただちにその電話を切って、別の誰かにかけるという手もあったが、時計の針が十一時を回っていたことが、紅子を躊躇させた。いくら明日が土曜日とはいえ、電話をかけるには失礼な時間だ。
ふともし、自分が平凡な両親を持っていたらと想像した。溺愛されなくてもいい。そこそこ普通の愛情を注がれていたなら、自分は迷わず両親に電話をかけるだろう。そして今日の数々の災難を話し、慰めてもらうことだろう。
信也のアパートに行ったことについては叱られるかも知れないが、別にその件は、伏せておけばいい。例え両親に愛されていたところで、二十歳の女が、自分の全てを、親に告げたりするものか。全てではなく選択した内容のみであっても、それについて、親が慰めの言葉を与えてくれたなら、自分は立ち直れるだろう。
けれど両親が、決して慰めてなどくれないことを、紅子は知っていた。短大の頃、自転車で走行中に、脇道から飛び出して来た車に引っ掛けられ、痣を作った時も、たまたま電話してきた母親にそれを話したところ、折り返し、怒りに震える父親から電話がかかってきた。
別に痣が出来ただけで、特に治療の必要があるとは思えなかったから、お金が必要だと言った訳ではない。たまたま今日起きた出来事として母親に報告したところ、父親が怒り狂ったのだ。相手の車が悪いという事実は、父親には何の関係も無かった。父親はとにかく、トラブルが発生したという事実が気に入らなかったのだ。
父親からの電話を切った後、今度は加害者の母親から電話がかかってきた。事故当時、紅子は転倒時の平凡な痛みしか感じなかったので、そのまま立ち去ろうとしたのだが、加害者の女が
「せめて、連絡先を」
と引きとめたために電話番号を渡してあったのだ。
加害者の母親は、興奮した口調で
「病院に連れて行かなかったうちの娘も悪いかも知れませんが、病院に行かなかったあなたも悪いんです」
とまくし立てた。
明らかに前方不注意の車に引っ掛けられた上、何の要求もしていないのに、実の親と加害者の親にこてんぱんにやっつけられ、紅子はひどく落ち込んだ。
運転免許を持っていなかった紅子は、軽微な場合でも、事故が起きたら、警察に届け病院に行かねばならないことを知らなかった。そして、だからといってなぜ、何の要望も出さない被害者である自分が、こうも責め立てられるのか、さっぱり分からなかった。
分からないなりにその時紅子が悟ったことは、親に愛されている人間は、自分が間違っている場合でも親に守られ、そして親に愛されない人間は、哀れな被害者になった場合でも、親に罵られるということだった。そしてその状況について、世間は何もしてくれないということも。
自分はなぜ、両親に愛されなかったのだろうと、紅子は考えた。母親はまだしも、父親はあまりにひどいと思った。なぜ自分は、父親に愛されなかったのだろうか。実家にいた頃、両親に愛されたくて、できる限りの努力をしたというのに、なぜ父親は、自分を愛さなかったのだろうか。
その時、紅子の頭の中を、さっとかすめるものがあった。紅子はこれまでに、性的欲望の絡まない男に好意を持たれた経験が無かった。
あっと思った。答えはそれなのだろうかと思った。父親は自分とセックスできないから、自分を憎んだのだろうか。
自分がひどく、下らない女に思えた。性欲が絡まなければ、男からの好意を受けられないとは。しかも性欲が絡んだところで、ここまで人格を無視した好意の押し付けられ方ばかりをされるとは。
自分が無価値な人間に思えて辛かった。死にたいと思った。だが死ぬのが嫌だった。この時代の自殺者に対する世間の認識は、異常で身勝手で卑怯な弱虫ということになっていたから。
気分を変えたいと思った紅子は、電話を諦めると、テレビの電源を入れた。次々にチャンネルを替えたが、紅子の心を捉える番組は無かった。紅子は溜め息を吐くと、本棚の前に立った。経済苦により何度も読み返された書籍ばかりが並ぶ貧弱な本棚は、紅子の溜め息を、より深くさせるだけだった。
再びベッドに寝転ぶと、紅子は本屋に行きたいと思った。信也のアパートの近所の本屋なら、深夜一時まで営業しているはずだった。だが駐車場で声をかけてきたイラン人らしき男の記憶が紅子をひるませた。紅子はベッドの上で身もだえした。
この際、行き先などどこでもいいから、外に出て、夜道をてくてく歩きたいと思った。散歩は経済苦の紅子の、幼い頃からの趣味の一つだった。だが痴漢たちから逃げ帰って来た身で、こんな夜中に再び外に出るなど、狂気の沙汰だった。
生まれて初めて、紅子は男になりたいと思った。男だったら夜中に思いつきで外を散歩することも可能だろう。
現に慎一は、紅子が初めてモジュラーラックを引き抜いた夜、喧嘩相手を求めて街を徘徊し、適当な相手と五、六発やり合って、帰宅した後ふて寝したという。紅子は別に、喧嘩願望は無かったが、しかし痴漢の危険を顧みず、むしゃくしゃしたからと夜道に飛び出していける慎一の、男という性を羨んだ。
だがその他の点で、自分は男になりたいのかというと、紅子は決してそうではなかった。
恋愛嗜好以外の点では、紅子は基本的に男より女を好きだったから、何も好き好んで、嫌いな性である男になりたいとは思わなかった。それに望むと望まざるとに関わらず、自分はもう、女として生まれてしまったのだから、今更どちらの性別が好ましいかなどと考えるのは、紅子にとっては、馬鹿馬鹿しいことだった。
段々紅子は、自分が何を悩んでいるのか、よく分からなくなってきた。多分考えなければいけないことが沢山あるのだと思った。だが今日一日に起こったことが、あまりにも多過ぎて、一体何について、どのように考えたらいいのか、よく分からなかった。
しゃべりたいと思った。誰かとしゃべりたいと思った。だがそれは、時間帯により不可能だと知った。紅子は自分の願望を見詰めた。それはひょっとしたら、話し言葉ではなく書き言葉でもいいのではないかという気がした。
紅子は学習机の引き出しを開けた。そこには卒業を機に、県外に越してしまった友人たちから届いた手紙の束が、輪ゴムで括って入れられていた。だがそれらに対する返信は、とうに出してしまった後だった。
爪を噛みながら、紅子は考えた。だったら自分へ、手紙を書こう。この流れる時間の中で、唯一今後の出会いが可能な未来の自分へ宛てて、手紙を書こうと。
紅子は学習机の一番下の大きな引き出しを開けた。そこには短大時代に、卒業論文の制作の参考のためにコピーした文献の束が、山のように入っていた。短大で卒論制作とは珍しい話だが、そもそも紅子は、卒論というものを是非書いてみたかったからこそ、その短大に入ったのだった。
とはいえ卒論を書きたいのなら、四年制の大学を選べば、いくらでも書かせてもらえる。ただ経済事情が許さなかったので、紅子は妥協案として、卒論制作のある短大を選び、そこに進学した。
そして近代文芸のゼミに入った都合上、堀辰雄の『菜穂子』論を卒論テーマに選んだ紅子は、『菜穂子』にまつわる文献を、図書館で大量にコピーし、制作が終わった後も、コピーの裏紙を、メモ用紙代わりに使うため、わざわざこうして、引越し先の部屋にまで持ち込んだのだった。
紅子は引き出しから一枚コピー用紙を抜き取ると、白地の面を表に返し、しばし考え込んだ。未来の自分へ宛てるなら、未来への抱負が良い気がした。何か抱負を述べれば、案外律儀なところのある自分は、その抱負に縛られて、自殺などを試みる可能性が減る気がした。
紅子はまず、紙に今日の日付と時刻を書くと、もし生き続けるとしたらと考えた。抱負とは、まず生き続けることが何よりの前提だと思った。
耳元で再び、相崎の声が
「律子の生理が、あがったらしい」
とささやいた。ふと、生き続けるとは生理があがるということなのだと思った。
その時、紅子は突如ひらめき、さらさらと文を書き付けた。そこには
私は生理があがったら、お祝いにお赤飯を炊きます
と几帳面な文字で綴られていた。
紅子はそれを読み返すと、にっこりと微笑んだ。生理があがるような歳になっても、性的な陰口は叩かれる可能性はある。とはいえ実質的な被害が減る可能性は極めて高い。そしてその後は、更に被害は減っていく。ということは閉経は、解放の一つの印に思えた。
しかも閉経は、今後の性的被害の減少だけを示す訳ではない。人間としての生命の終わりが近づいたことも知らせる吉報なのだ。紅子にとっては。
そうだ。焦らなくても命の終わりはやって来るのだと、紅子はぼんやりと考えた。しかも多くの人間の恐れの象徴である死を、自分はこんなにも待ち望んでいる。ひょっとしたら自分は、誰よりも幸福なのではないだろうか。
紅子は紙を手に取ると、もう一度書いた文章を読み返した。自分はもしかしたら、誰よりも強いのかも知れないという気がした。その時、紅子の手から紙が滑り落ち、背を向けるようにして足元に落下した。拾い上げようと身をかがめた時、裏に印字された文献の文章の脇に、学生時代の自分が残した走り書きがあるのに、紅子は気づいた。
「差し向かいの孤独」より、「全くの孤独」を選んだ菜穂子に共感
夫と姑に囲まれて、差し向かいの孤独を味わっていたヒロイン菜穂子。彼女は胸の病を得てサナトリウムに送られ、全くの孤独により平安を覚える。それが『菜穂子』の筋書きだ。
あっと、紅子は思った。自分はとっくに、差し向かいの孤独より、全くの孤独の方がマシだと知っていたことに気付いたからだ。それなのにそのテーマで卒論を書く傍ら、実生活では慎一と付き合い始めた。それを滑稽だと、紅子は思った。
ひょっとしたら今日の数々の性的被害は、慎一との関係を見詰め直すために、起こったことなのかも知れないという気がした。この一枚のコピー用紙を手にするために。全てはこの、一枚のコピー用紙を手にするために。
漠然とした確信を抱きながら、紅子は机上の電話機を眺めた。モジュラーラックは抜かれたままだった。
終わったんだと思った。
十三年の歳月が流れた。
二十一世紀を迎えた時、人々は遂に、未来の世界に足を踏み入れたかのように狂喜した。しばらくするとそれに飽きたのか、昭和回顧ブームが起こった。だがそんな振り幅の中で、時代は確実に変わっていった。
五年前に買物場所を、駅ビルから郊外のショッピングモールに移した紅子は、その日、エレベーター脇のベンチに座って、目薬をさしていた。
ソフトコンタクトレンズを使うようになってから、転倒の回数は減った上に、車の運転もできるようになった。その代わり紅子は、目の乾きという新たな肉体的不快感を覚えるようになっていた。特に冬場の乾燥による目の渇きは深刻だ。
紅子の隣に座った見知らぬ若い女たちが、大学教授が院生をちゃん付けで呼んだかどで、パワハラの罪に問われた事件について、熱心に話し込んでいた。時代は変わったと紅子は思った。昔、人々はそこまで敏感ではなかった。
今度は中年の女たちが、列車内で起きた強姦事件について話し込みながら、紅子の前を通り過ぎて行った。時代は変わったと紅子は思った。昔、人々はそこまで鈍感ではなかった。
紅子は二、三度ぱちぱちと瞬きすると、そのまま立ち上がった。その時、潤いを帯びた瞳がある映像を捉えた。紅子は目を大きく見開いた。相手も紅子に目を留め、ハッとした顔をした。しかし足を止めることなく、そのまま立ち去って行った。そのくせ通り過ぎる間中、その視線は、紅子を捉えていた。
十三年前に別れた慎一の案外変わらない姿に、紅子は一驚しつつ、後ろ姿を見送った。コンタクトかそれともレーシックによるものかは分からぬが、当時、慎一の端正な顔を覆っていた眼鏡が姿を消していること以外は、顔立ちも体型も、驚くほどに当時の面影を宿していた。
そんな慎一の前方を、カートを押す妻らしき女が歩き、そして女との間に生まれたらしき男の子を、慎一が抱きかかえていることが、年月の経過を如実に物語っていた。
紅子は何だかとても、不思議な心地がした。妻らしき女の後ろ姿が、あまりにも平凡なこと。
慎一に抱かれた男の子が、自分の存在など察知せずに、ぐっすりと眠りこけていること。
別れた翌年に、慎一がこちらに帰って来たこと。
数え切れないほど結婚の約束を交わした相手が、当然のように家庭を持っていること。
十三年前には、何度も密室で、物理的に最も近い場所に密着していた自分たちが、こうしてアイコンタクトを交わしただけで、当然のように行き過ぎてしまうこと。
しかもそれを、別段不審に思わない自分の気持ち。
それらが何だか、とても不思議な心地がした。しかもその不思議さが、甘美な思いを引き出していることも。
突如生まれた甘美な追憶に、紅子は身を委ねようとした。しかしその時、レストルームから戻った紅子の夫が、目の前に立った。夫は
「じゃあ下で、何か買って帰ろうか」
と紅子を促した。食料品売り場で、夕飯のおかずを買って帰ろうと言うのである。
並んで食料品売り場に向かう道すがら、夫は
「今日はメシ、作る気しないな」
とつぶやいた。夫は体力と気力があれば、休日に台所に立つことも珍しくなかったが、今日は疲れているようだった。無理も無いと紅子は思った。
もう四年も入院中の、姑を見舞った今日のような日は、ただでさえ時間が押し気味になる。加えて今日は、面白くない出来事が多かった。
車椅子の姑を連れて行くために、せっかくバリアフリーの回転寿司屋を選んだというのに、車椅子用の通路は店の捨て看板で塞がれていた。その後訪れたワイナリーでは、車の前後に、車椅子マークを貼り出していたにも関わらず、障害者用のスペースの無い駐車場に誘導された。
土産物屋の狭い通路では、車椅子を押して歩く夫に、誰も道を譲らなかった。そして病院に戻った途端、初対面の入院患者に
「あんたたち、まだ子供ができないらしいじゃないの」
と声をかけられた。
一つ一つは珍しい出来事ではなかった。しかし重なってしまえば、気分は憂鬱だった。ふと現実に引き戻されながら紅子は、夫というものは時にうっとうしく、そしてありがたいものだと思った。
こうして昔の恋人に出会った時に、しばし思い出に酔いしれる暇も与えてくれない代わりに、結局は思い出を甘美だと思えるのは、夫の存在あってこそだ。もし紅子が独り身だったなら、幸福そうな家庭を築いた慎一を見て甘美な思いに浸るなどという、のん気な心境になりはしなかっただろう。
それを自覚しつつ紅子は、通りすがりの姿見に映った自分の姿を、チラと眺めた。化粧は崩れていないし、髪も乱れていない。フェイクファーをあしらったコートは、実際の値段以上に華やかに見えるし、揺れるスカートのシルエットもエレガントだ。昔の恋人に見せる姿としては、まずまず及第点だった。
だが慎一がストリート系のファッションを好んでいたことを、紅子はふと思い出した。現に慎一の妻は、ストリートまではいかないものの、大層カジュアルないでたちをしていた。おそらく今日の自分の服装は、慎一の好みではないだろう。
けれど好みではないからこその喜びが、紅子の胸を突き上げた。自分の手を離れ、好みから遠ざかっていった女の姿を確認させるのも、別れた男と再会する際の、楽しみの一つに思えた。
夫婦は食料品売り場に着いたが、食事を作る気にならないのは、紅子も同じだった。紅子は初対面の入院患者に言われた言葉を思い出しながら、どうせ子供もいないのだから、添加物だらけの惣菜を食べればいいのだと思い、惣菜売り場へと歩いて行った。
二人はしばらく惣菜を眺め回していたが、不意に夫が
「あ、赤飯が安い」
とカゴに入れた。以前から赤飯があまり好きではない紅子は
「お赤飯は、お祝い事があった時に食べるものでしょ」
と夫をたしなめた。六年前、夫と入籍した時に、姑に言われるまま赤飯を近所に配って以来、紅子は赤飯を、口にしていなかった。
すると夫は愉快そうに
「何言ってんの。コンビニに赤飯のおむすびが売られてる時代に」
と笑った。紅子ははたと思い出し、「そういえば」とつぶやくと、夫の顔を真剣に見詰め
「いつの間に? 時代はいつの間にそんなことになってたの?」
と尋ねた。
「いつの間にかよ」
夫はおどけた女言葉で答えると、そのまま惣菜売り場を物色し始めた。紅子も割引シールの貼られた品を探しながら、「いつの間にかよ」という夫の言葉を考えた。そして十三年前、生理があがったら赤飯を炊こうなどと、馬鹿らしいことを考えたなと思い出した。
あの日は、慎一との別れを決意した上に、死まで考えてしまった。だから閉経したら赤飯を炊くという突飛な目標を掲げた。気持ちを落ち着けるためだ。そしてその翌日には、そんな目標は忘れた。抱負を書いた紙まで無くした。ついでに別れるはずの慎一とも、その後二ヶ月ほど付き合い続けた。
けれど二ヵ月後に別れた背景には、あの連続性的被害の日の存在があったことは否めない。時の流れというものはそういうものなのだと、紅子は漠然と思った。
例えば閉経にしたってそうだ。初潮と違い、閉経はある日突然迎える訳ではない。気付いたら生理が来なくなり、自分は閉経したのだと悟るだけだ。
それなのにその日など無いことに思い当たらず、その日を祝おうと思うことで、思った当日をのりきった。
それが若き日の未熟さなら、しかも祝い事イコール赤飯という慣習に縛られ、好物でもなければ炊き方も知らない赤飯によって、祝おうなどと考えてしまったことが未熟さなら、それにようやく思い当たったことも時の流れだ。そして赤飯が、もはや祝い事のみに用いられる訳ではなく、こうしてスーパーやコンビニで、気軽に購入できる事実に、ようやく気付いたことも時の流れだ。変化したその時というものはつかみがたい。
夫の好物のきんぴらごぼうに、割引シールが貼られていることを見てとると、紅子はそれを、夫の持つカゴに入れながら、夫の顔を見上げた。特に見栄えのしない顔立ちの上に、二年半前に発症したハント症の後遺症で顔面麻痺が残った夫は、紅子の視線に気付くと、「甘えてるよ」と紅子をからかった。
無表情の時はそうでもないが、口を動かすと、夫の顔は、アンバランスに歪んだ。昔は美形でない男と付き合うなど考えられないことだったのに、いつの間にか紅子は、顔の麻痺した男の妻であることすら、平気になっていた。
帰宅すると夫は、風呂に入るよう紅子に促した。紅子は裸になり、浴室へと入って行った。化粧を落とした後、ふと傍らにある鏡が、目に入った。その鏡は、披露宴の引き出物にもらったものだった。婿養子を取ることを諦め、他家へ嫁いだものの、二年後に別れてしまった千景の披露宴の。
鏡の中の、一糸まとわぬ素顔の女は、あれから流れた十三年もの歳月を、はっきりと物語っていた。以前から童顔だったために、三十三歳を迎えた今では、大体二十代後半に見られることが多い。とはいえ、学生に間違えられていた二十歳の頃とは比べ物にならない。
髪には白いものが混じり始め、顔にはシミと小じわが発生していた。体には四キロ増加した脂肪がまとわりついている。貧乳のために変化には乏しいと思われた乳房すら、よく見ると、何となくうなだれているようだった。
十三年前の顔と体に戻りたい。いやせめて、十年前の顔と体に戻りたい。そんなことを思いながら、紅子はぼんやりと、湯に浸かった。
十三年前のあの夜には、早く老婆になりたいと痛切に願った。それなのに紅子は、同じ女の心で、今度は若返りを願った。いつの間にか、老けてしまった肉体という容器の中で、いつの間にか、紅子の願いも変わっていた。
不思議なものだと思った。痴漢や変質者に対する嫌悪は、十三年前とまるで変わらない。それなのに自分の肉体の変化に対する思いが、まるで正反対になっていることが、たまらなく不思議だった。
老いさらばえることを願ってまで、痴漢を憎んだ昔の自分。潔いと感心すると同時に、老いを知らない若さのエゴだと、紅子は非難したくなった。だがもう、過去の自分には会いに行くことができない。
いつの間にかであれ、はっきりとであれ、時が流れていく以上、自分は未来の自分にしか会えない。その思いだけは、十三年前と変わらないことも、何やら不思議な心地だった。
風呂から出た紅子と入れ替わりに、入浴した夫が出て来ると、二人はこたつにあたりながら、買って来た惣菜を広げた。
「借りてたDVDがある」
と夫がテレビを点けた。画面は周防正行監督の、『それでもボクはやってない』を映し出した。痴漢冤罪事件の被害者に感情移入しながら、紅子は忙しく口を動かした。
シーンの合間の風景が映し出された時、夫が紅子に、「食べてみる?」と赤飯を差し出した。
「あたし、あんまり好きじゃないんだよね」
と言いながら紅子は、一口咀嚼した。夫の出してくれた費用で入れた二つのブリッジが、赤い飯粒の咀嚼を手伝った。その飯粒は、不思議に甘美な味がした。
「あれ? 美味しい」
と紅子がつぶやくと、夫は
「やっと、赤飯の美味しさに目覚めてくれたか」
と嬉しそうに、半分以上を紅子に取り分けた。
紅子は夫の優しさに感激すると、ありがたくそれを平らげた。そして
「あなたと一緒だと、お赤飯がとっても美味しい」
と微笑んだ。
こたつの向こう側で、夫も顔を歪めて微笑み返した。そのアシメトリーな微笑みが、欠けた月のように、静かで綺麗に見えた。ふと紅子は、「アイラブユー」を「月が綺麗ですね」と訳した夏目漱石を思った。
その逸話を、短大の講義中に初めて知った十八歳の時は、漱石のことを、物事をぼかすいけ好かない奴だと思った。それなのにいつの間にか、そう訳した漱石の気持ちが、理解できるようになっていたことが不思議だった。
十三年前には慎一に毎日、「愛してる」というダイレクトな言葉で、恋心を表現されていた。慎一はまた同様の方法で、愛情表現をすることを求めたから、紅子も「愛してる」という言葉を、数え切れないくらい口にした。そんな自分が、時の流れにより、自分の生まれる以前の明治時代に遡って、その当時の文豪のように、回りくどく愛を伝えている。それが何やら不思議だった。
紅子はふと、慎一と別れた後に付き合った男が、まるで「好き」とか「愛してる」の言葉を用いないので、物足りなかったことを思い出した。確かその件で、喧嘩までしたはずだ。
だがその次に付き合った男の時はどうだったのか、よく思い出せなかった。自分がいつから、「愛してる」という言葉の無い恋愛関係に慣れたのか、今となってはよく分からなかった。いつの間にか「愛してる」という言葉は、紅子の日常から消え、必要ではなくなっていた。
紅子は再び、テレビ画面に目をやった。主人公は窮地に陥っていた。痴漢という存在が、女だけではなく男にとっても敵になり得ることに、紅子は感じ入りつつ没頭した。
夕飯を食べ終わり、DVDも見終わった。二人はテレビを消すと、寝室へ向かった。ベッドに寝そべり、いつの間にか日課になった足ツボマッサージを夫に施されながら、紅子はあの主人公は、あの後どうなるのだろうと思った。そして十三年前、自分に挑んできた男たちは、あの後どうなったのだろうと思った。
紅子が消息を知っているのは、相崎一人だった。あの後、相変わらず続く会社内のセクハラや、その他諸々の出来事により、紅子はとうとう鬱病になった。そのため会社は退職してしまったので、その後の話は金沢によって伝えられた。
それによると紅子の退職後、相崎のターゲットは、留美に移った。しかし程無く留美に振られた相崎は、以前紅子に
「ベニちゃんって男の人と接する時、相手を男だと思って接してるでしょう? そういう所に隙があるのよ」
といちゃもんをつけた敏江と不倫関係を結んだ。
その後、密告の電話が、相崎の妻の元に入り相崎夫婦には一波乱あったということまで金沢は知っていた。
だがその一波乱の後で、相崎の不倫及び妻との関係がどうなったかを紅子は知らない。情報提供者である金沢との間が切れてしまったからだ。
気の置けない間柄だったはずの金沢、自分の平凡な容姿を承知し、我慢強い男だったはずの金沢が、いつの間にか紅子に色気を起こし、口説いてきたので、紅子の側が切ってしまったのだ。
十三年前のあの日以降、あの日の件とは何の脈絡も無く、女友達を紹介して欲しいと金沢に請われた紅子は、親友の寿美礼を紹介したことがあった。金沢は寿美礼をいたく気に入り、二人はデートを重ねた。しかしいつの間にか寿美礼が金沢を嫌い、二人の関係は消滅した。そしてその後、金沢は紅子を口説いた。
自分の友人にご執心だった男が、いつの間にか、ターゲットを自分に切り替えたことが、紅子には不可解だった。とはいえ金沢の側にも、紅子に挑んだ理由があった。紅子が退職後に、配送部の菊川に誘われるままに一夜を共にしたことを、菊川に自慢げに語られたのだ。
ガマン汁うんぬんで、共にからかったことはあったとはいえ、それ以外には、在職中にたいして仲の良かったようには見えなかった菊川と紅子が、突然体の関係をもったことが、金沢にとっては驚きだった。
とはいえその件については、当の紅子本人も驚いていた。配送部の男なら、三度もアパートを訪れた信也の方が、余程そうなる可能性を持っていたはずだったのに、あれから何の進展も無かったのだ。それなのにどういう訳だか、退職後に菊川からかかってきた一本の電話によって、ことが起こってしまったからだ。
なぜそうなったかは、ものの弾みとしかいいようが無かった。ものの弾みだったから、二度目は無かった。紅子は軽薄な自分に心を痛めた。しかし時が経ってみれば、その出来事は紅子にとって、単に「魔が差した」の一言で片付けられる出来事だった。
しかし金沢にとっては、そんな一言で片付けられる問題ではなかった。半年に一度ペースとはいえ、紅子の退職後も、金沢は紅子と食事をする仲だったし、二、三ヶ月に一度は電話でのやり取りもしていた。
そんな自分を差し置いて、紅子が菊川と、一気に肉体関係に入ったことが、金沢には納得がいかなかった。恋人のいない自分を差し置いて、結婚を約束した恋人がいる菊川と、紅子が寝たことが納得いかなかった。紅子が自分とも寝なければ、納得がいかなかった。
けれどそんな金沢の思いは、紅子には関係の無いものだった。紅子はある夜、車の中で、金沢に言い寄られ不快に感じ、そのまま金沢との連絡を絶った。
慎一にしろ金沢にしろ、まず寿美礼に振られた男が、その後、自分の元へ向かってくるというパターンにも、嫌気が差していた。慎一などは紅子と別れた後、再度寿美礼にアタックを開始し、紅子を非常に傷つけた。自分と付き合っていた一年半は、何だったのかと思った。
だがそれでも、紅子と寿美礼の仲は続いた。二人の思いはこうだった。
慎一なんかのせいで、この友情を壊されてはたまらない。
だから金沢に挑まれた時も、紅子はそれを、寿美礼に伝えた。寿美礼は頓着せずにその報告を聞き、やはり紅子と寿美礼の友情は続いた。
ある時、二人で那須高原を旅行した折に、寿美礼は紅子にこう言った。
「わたしたち女同士でホントに良かったと思うの。もし片方が男だったら、こんなに気が合うんだから、絶対付き合ってたと思うのね。でも付き合ったら、別れちゃうかも知れないでしょ。だけど女同士だったら別れたりしないから、ずっと友達でいられるよね」
紅子も全く同感だった。だがその十年後に、寿美礼は
「わたしたちは、距離が近過ぎた」
と言って、紅子の元を去って行った。紅子はその経験により、女同士にも別れは訪れることを知った。
紅子と両親のその後の関係についても、触れなければならない。鬱病で退職した紅子は、会社の借り上げたアパートを出ることになり、一時、嫌々実家に身を寄せたことがあった。
その時紅子は、父親に一度も逆らったことの無いことが、この病を起こしたのかも知れないと考え、父親に対し、過去の不満を口にすることにした。
「お父さんはどうして、あたしが『お腹痛い』って言ってる時にも、『陽に当たれば治る』なんて言って、畑仕事やらせようとしたの? 耐えられなくて畑でしゃがみ込んでも怒鳴られて、あたしホントに辛かった。病院に連れてってくれなくても、せめて休ませて欲しかった」
すると父親は
「お前が、どれだけのことをやったって言うんだ」
と叫んだ同時に、病気でガリガリにやせ細った紅子の腕をつかむと、紅子を家の外へと引きずり出した。外は雪が降っていた。その時紅子は、自分が父親に対し、期待をしていたことを知った。
腹を割って話をすれば、分かってくれるかも知れない。その期待を守りたいがために、父親に従順であり続けていた自分を知った。だが期待が消え去ったその時、紅子は医者の反対を押し切って実家を飛び出し、第二の故郷へと戻った。
「一年は休養しなければ駄目です。ここで無理をしたら、必ず再発する」
医者の不吉な予言を背に、紅子はアパートを借りると、別の会社で働き始めた。休養ができるものならしたかったが、する場所も、金銭的余裕も無かった。紅子にとっては、自殺するか自活するかの瀬戸際だった。すでに半年前に自殺を失敗していた紅子は、再び自活にチャレンジした。
最初に勤めた会社は、セクハラが原因で辞めたのだから、男の少ない職場にすれば良いのだと思い、紅子は女性社員が、全体の八割を占める会社に再就職した。だが女だらけのその職場の雰囲気は陰湿だった。
医者の予言は当たり、紅子は入社後二年も経たない内に、鬱病を再発した。しかし幸か不幸か、その時、会社の金を横領していた上司が、紅子がそれを察していると誤解して、先手を打って、紅子を解雇した。紅子は更に別の会社に再就職することにより気分転換を図り、何とか持ちこたえた。上司の横領の件は、結婚して専業主婦に落ち着いた頃、警察により知らされた。
十三年という年月には、それだけの様々な出来事が内包される。十三年前に自分に挑んだ男たちも、そのように多くの出来事に見舞われたのだろうと、紅子は思った。
更に他の女に挑み、逮捕された者もいるかも知れない。逮捕までいかなくとも、女の恋人が出て来て、仕返しされたケースもあるかも知れない。ひょっとしたら全く別の犯罪で、罪に問われた者もいるかも知れない。
あるいはこれは大変複雑なパターンだが、紅子の件では告発を免れたものの、全く別の痴漢冤罪事件の被害者になった者もいるかも知れない。
その時、紅子の脳裏に、ショッピングセンターで見かけた慎一の姿が浮かんだ。
彼らは幸福そうだった。実態はどうあれ、紅子には幸福そうに見えた。子供がいるのだから、幸福に違いないと思った。子供を持つということは、少なくとも気力体力財力時間、あるいは助けてくれる身内の存在の五つの内、いずれかを持っているということだ。
ならば彼らは、幸福に違いなかった。その五つの内のどれかを持っているなら、幸福に違いなかった。
十三年前に紅子に挑んだ男たちも、幸福に暮しているかも知れない。この想像に、紅子は思わず顔を歪めた。十三年前、自分にあれだけの痛みを与えておきながら、彼らはのうのうと暮しているかも知れない。自分が行った恥ずべき行いなどさっぱり忘れて、近所では評判の好人物として、のん気に暮しているかも知れない。
いや中には、覚えていながら幸福を味わっている者もいるかも知れない。あの時の紅子の体の感触を、未だにありありと記憶して、その記憶をオカズに楽しむような、物持ちのいい者もいるかも知れないのだ。
その時、足首に激痛が走り、紅子は思わず「痛い」と叫んだ。夫が月経痛予防のツボ、三陰交を押したのだ。このツボは月経前になると、軽く押されただけで、激痛が走る。月経痛に襲われるよりはマシとはいえ、やはりそれは、鮮烈な痛みだった。
痛みを訴える紅子に対し、夫は
「この痛みが、明日のベニーをつくる」
と標語でも唱えるように言い聞かせた。つられて紅子も
「この痛みが、明日のベニーをつくる」
と泣きそうな声で叫んだ。
口に出してそう言ってみると、何となくそんな気がしてくるから不思議だった。ひょっとして十三年前のあの日の痛みも、そうなんだろうかと思った。
あの日もし風邪だと言って会社を休んでいたら、いや会社に行ったとしても、寿美礼と別れた後で、慎一の元へ向かっていたら、あの日あんなにも、連続して男たちに挑まれなかったら、ひょっとしたら自分は、慎一と別れなかったかも知れない。
この仮定論は、慎一と別れた後、しばしば紅子の心に、浮かんでは消えた。慎一の次に付き合った男と別れた後に、一番強くそれを考えたが、次第にそう思うことは減った。そして今となっては、例えあの日の存在が無くとも、遅かれ早かれ、自分たちは別れていただろうとしか思えなくなった。
だが「遅かれ早かれ」というのは、重要なポイントだった。慎一と別れる一週間前に、紅子は寿美礼に誘われるまま出かけたカップリングパーティーで、次に付き合った男と出会っていたからだ。
新たな男の存在が、古い男との別れを後押しした事実もあったとはいえ、紅子がもし、慎一にうんざりしていなければ、そもそも恋人のいる身で、カップリングパーティーになど行ったりはしなかったのだ。
慎一にうんざりした理由の一つは、十三年前の連続性的被害の日に起因した。つまり遅かれ早かれ、別れる二人だったとはいえ、あの日が存在しなければ、紅子はその時点で、パーティーに行くことはなかっただろう。パーティーに行かなければ、新しい男に会うこともなかったのだ。
そして新しい男との別れが、その三ヵ月後に訪れたことも、次の出会いを導いた。わずか四ヶ月の間に二度も別れを経験し、悲嘆に暮れる紅子に、服を捨ててばかりいた事務員春日が同情し、自分の男友達である根石幹夫を紹介したのだ。
しかしこの同情は、見せかけのものだった。春日は当時恋人のいる身で、その存在を隠しつつ知り合ったばかりの根石を、陥落させることを目論んでいた。そこで根石と会う口実として、「会社の後輩を紹介する」という名目を使い、紅子を利用したのだ。
何も知らない紅子は、紹介されたのだから好きになってもいいのだと思い込み、根石に好意を持った。だがそれを察した春日が手を回し、紅子には更に、根石の男友達が紹介された。春日にとって都合のよいことに、根石の男友達は、紅子に好意を持った。
しかしそうはいっても、根石に好意を持っていた紅子は、その男友達の好意に困惑した。ところがその内、根石が彼女持ちであることが判明し、紅子は男友達の方と付き合うことになった。
春日と根石は、その後、関係が途絶えてしまった。そんなことは、春日の目論見を知らなかった紅子にとっては、関係無い話だった。けれど紅子の方も、三ヶ月経たない内に、根石の男友達と別れてしまった。
だが別れる前に、根石は紅子の、相談相手になっていた。男友達と別れた後も、相談相手として根石は紅子と関係を持ち続けた。その内、根石が紅子の相談だけではなく、体にも乗るようになった頃、紅子は同時にゆきずりの男にも身を任せた。その二つの件について悩んでいる内に、次の恋人に出会ったが、その男とは、たった十日で終わった。
十三年前に慎一と別れて以来の紅子の日常は、一つの物事が少しでもずれ込めば、その後の全ての物事が、狂ってしまうほどの圧縮された日々を送った。だから「遅かれ早かれ」とはいえ、慎一といつ別れたかというのは、その後の人生を左右する重要な出来事だった。私生活がそこまで波乱万丈だった上に、会社でのセクハラが続いたことが、紅子を鬱病へと誘ったからだ。
だからもしあの時、慎一と別れていなければ、紅子はこうも次々と、別れを経験しなかったかも知れない。そうすると私生活でのストレスもさほどではなかったはずだから、鬱病を発症することもなかったかも知れない。会社を辞めることもなかったかも知れない。
もし会社を辞めていなければ、そして鬱病を経験していなければ、紅子の人生は、大きく変わっていただろう。
会社を辞めていなければ、実家に帰ることはなかっただろうから、両親との決定的な別離も起こらなかったかも知れなかった。両親との別離と、鬱病の経験が無ければ、紅子は本気で、自分の内面の隙間を埋めようとは、思わなかったかも知れなかった。
本気で内面の隙間を埋めようと願い、その隙間にぴたりと合うピースを探した時、最早、男の外見は、紅子にとって、重要ではなくなっていた。そもそも紅子の面食いは、男への苦手意識が原因だった。最初の親密な異性である父親に愛されなかったゆえの苦手意識と、ノーマルな嗜好が、紅子を面食いへと走らせていたのだった。
苦手なピーマンや人参を、彩りよく盛り付けられれば、食べてしまう子供のように、紅子は見た目のよい男ばかりを食べていたのだ。そしてそれを繰り返す内に、紅子は彩りの悪いピーマンや人参も、食べられるようになった。
それに気付いた紅子は、平凡以下の容姿の夫に恋をし、結婚をする運びとなった。もしその境地に達していなければ、夫の顔面が更に崩れた時、夫への想いが、冷めたかも知れなかった。
もし両親との別離が無ければ、もし会社を辞めていなければ、もし鬱病になっていなければ、もし慎一とあの時別れていなければ、もし十三年前のあの日に、連続性的被害に遭わなければ、夫とは結婚どころか、付き合うこともなかったはずだった。
だがその事実により、連れてこられたこの場所が、幸せなのかどうか、紅子にはよく分からなかった。内面の隙間に本気で向き合ったことが、果たして本当に幸せなことなのか、よく分からなかった。
本気で自分の内面に向き合う必要を持たない人間の方は、顔やら地位やら財力やらを重視して、大して自分に合ってもいない相手と結婚することができる。そういう人間の方が、顔やら地位やら財力やらの恩恵を受けられる分、ひょっとしたら幸せなのかも知れないと思うこともあった。
けれど現実的に、紅子の側には、紅子の選んだ夫がいた。十三年前の連続性的被害を被った、あの日の痛みが、その後の自分の人生に、多大な影響を及ぼしているのは、紛れも無い事実だった。
いやその日の痛みだけではない。それ以前から抱えていた痛みや、その後に得た痛み全てが、今の自分をつくりあげ、そして明日の痛みを、つくっていくような気がした。
その時、夫が
「はい、おしまい」
と声をかけた。交代の時間が来たのだ。紅子はゆっくりと起き上がると、仰向けに寝そべる夫の頬に、指を伸ばした。顔面麻痺を患って以来、こうして夫の顔の筋肉をほぐしてやるのが、紅子の日課になっていた。
左右非対称の夫の顔にはとうに慣れたとはいえ、この病が、夫婦にとっての痛みであることは変わらなかった。喋ったり笑ったり、食べたり飲んだりという、日常の動作が思うようにならず、無理をすれば首がつり、体全体が疲れ易くなった夫は、軽い鬱病を患うようになった。支える紅子も、鬱症状の再発に悩まされるようになった。
元々夫婦共体が弱いことも手伝って、昨年の医療費は、税金還付の対象分だけで二十五万円を超えた。対象にならないマッサージ屋や針灸院などの費用を入れたら、総額で一体どれだけの金銭が、病によって失われているのか、見当もつかなかった。
けれど反比例するように、夫の給料は下がった。体を壊した夫を気遣った会社が、夫の勤務形態を見直した結果だった。その事実が、更なる鬱症状として、夫婦を襲っていた。
「痛い、首が、首が」
顔の筋肉を揉む紅子の手を遮って、夫が身をよじった。血行を良くするために、顔を揉んでやらねばならないのに、顔を揉むと、首の筋肉がつると騒ぐ為、結局、顔よりも首を揉んでやる時間の方が長くなる。麻痺を患ってから、夫の首筋は、いつもブチブチと音がするほどに凝り固まるようになった。
この痛みも、未来の自分たちをつくるのだろうかと、紅子はぼんやりと考えた。痛みからは確かに、何らかの影響を受けるだろう。しかし諸々の痛み、過去から引継ぎ、そしてどんどん増えていく痛みの数々が、自分たちをどんな場所に運んでいくのか、紅子は見当がつかなかった。
痛みのピークが過ぎ去ったのか、急に静かになった夫に、紅子はふと、「幸せ?」と尋ねた。夫は「うん」と、片頬で満面の笑みを浮かべた。
「どうして?」
「痛いの、治った」
好ましい性質の人だと思った。痛みが起きたという事実でうなだれるのではなく、痛みが治まったという事実に幸福を覚える夫は、子供のように単純で愛らしいと思った。
「そう、良かったね」
紅子は夫の頭を軽く撫でた。年齢は夫の方が五歳も上だったが、夫にはこういった子供らしさがよく見受けられた。
妻が自分を子供扱いしたことを知った夫は、その流れに乗り
「あとねえ、ベニーが赤飯食べれるようになった」
と子供っぽい喋り方をした。紅子は少し意外に思い
「何でそれが、幸せなの」
と問い返した。
「また今度も、買えるじゃん」
「あなた、そんなにお赤飯好きだったの」
「ふふっ。実は」
含み笑いをする夫に、紅子は呆れたように
「だったら別に、今までだって、あたしに構わず買えばよかったじゃん」
と言った。コンビニでも売っているものを、我慢していた夫が切なかった。
「でもねえ。ご飯はうちで炊けばいいんだしねえ。それなのにご飯ものを外で買うのは、贅沢な気がするのよねえ」
「だったら何で、今日買ったのよ」
「そりゃああんた、そうは言っても、たまには食いたいさ」
妻は好物ではないからと、結婚して六年もの間、赤飯のせの字も口にしなかった夫が、何やらいじらしかった。そして六年も我慢していたのだと恨み言を述べるのではなく、これからは二人で赤飯を味わうことができると、楽しみにしている夫が愛しかった。
過去の痛みたちに連れて来られたこの場所は、案外悪くないかも知れないと、紅子は思った。軽度とはいえ、鬱病を患う夫でも、こういった一面を持っているなら、それだけでも自分は、幸せかも知れないと思った。自分の好物を、妻が気に入ったという事実で、幸せを感じる男の妻であることは、幸福なことかも知れないと思った。
マッサージを終えると、二人は仲良く、各々の精神安定剤その他の薬剤を服用した。幸せを実感することと安定剤を飲むことは、また別の次元の問題だった。
布団に入り、目をつぶると、暗闇だというのに、紅子の瞼には、赤桃色の色彩が広がった。その色彩は、一粒一粒の米粒までもが、リアルな赤飯の映像になって、紅子の舌を刺激した。
紅子は痛みを忘れ、甘美だけを感じた。ふと痛みとは、甘美を味わうための、最高のスパイスなのではないかという気がした。
これは5年前に書いた小説を推敲したものなんですが、今だったら全く違ったラストにしただろうなあと思います。というのも3年前に、衝撃的なセクハラ体験をしたので。
その話をラストにした方が痛快なので、今後機会があったら、書いてみるかも知れません。
ところで私の初の、哲学萌え小説が下記のサイトで読めます
http://tetugakunovel.sakura.ne.jp/
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20012年12月頃までに採点して頂くと、結果が反映しますので、ご協力お願い致します。何と減点もできちゃうんですよ。
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