悪いのはどいつだ
受話器を下ろした時にはもう、目の前に金沢と菊川の姿は無かった。どうやら午後の仕事に出かけたらしい。紅子はふせん紙にフッ素汁受け皿の入庫予定日を書きつけると、それを金沢の机に貼り付けた。
その時、傍らの出入り口から相崎が事務所に入って来た。てっきり午後の営業に出たものと思い込んでいた紅子は、気落ちしつつ気付かない振りをした。ところが紅子の心情を振りでなく気付かない相崎は
「おお、ベニちゃん」
と馴れ馴れしく声をかけてきた。
「倉庫の鍵、使えるようになったからちょっと来てくれる?」
その言葉に紅子は、昨日までの経緯を思い出した。
事の発端は、総務部長が
「倉庫に、鍵を付ける」
と言い出したことだった。そもそも商品が保管されている倉庫に、これまで鍵が付いていなかったこと自体が間違いなのだが、田舎の小さなプロパンガス会社だったためか、そのようなのん気な管理体制の中で、これまで間違いが起こらなかった。そのためこれまで倉庫には、誰でも自由に出入りができたのだが、遅ればせながらようやく、総務部長がその状態に危機感を抱いた。よって鍵が付けられることになったのだ。
ところが付けられた鍵がいけなかった。何がいけないのかは定かではなかったが、新品だというのに鍵が鍵穴に入らず、施錠も開錠もできないのだ。
紅子はすぐさま、総務部長に報告した。それを受け総務部長は、鍵が使えるようになるまでは鍵を使わないという、至極もっともな英断を下した。その話が、どういうルートによるものかは分からぬが相崎に回り、この度、相崎が鍵の使用可能に向けて尽力したようだ。
鍵の件を、誰が解決するかということは、大した問題ではなかった。むしろ鍵の管理を総務部長に委託された紅子にとっては、鍵がいつ使えるようになるかといった件の方が重要だった。しかしこの件に相崎が絡んできたことが、紅子は不快だった。とにかく相崎とは、できる限り関わりたくないのだ。
だが商品管理と鍵の管理を任されている以上、鍵問題を相崎が解決したのなら、知らぬ顔はできなかった。紅子は作り笑いを浮かべると
「あ、直ったんですか」
と弾んだ声を出しながら相崎に向き直った。瞬間、開け放たれたドアから入り込んだ冷たい風が、歯茎の二つの隙間をそっとすり抜けていったような気分になった。紅子は思わず身構えた。
その時、工事部の草場誉が
「おうアイさん、鍵直った?」
と椅子から立ち上がった。そして紅子に向かって
「丁度いいや。ベニ、雇用促進住宅に付ける湯沸かし器、一個もらってくわ」
と声をかけた。
ということは、とりあえず相崎と倉庫で二人きりになる危険は回避された訳だ。とはいえ草場とて四十の声を聞いて久しい額のはげ上がった男だ。二人の中年男と共に倉庫へ向かうことは、楽しいことではなかったが、しかし相崎と二人きりになるよりはマシだと紅子は考えた。
草場に湯沸かし器の型式を確認すると、紅子はそのまま草場と二人で相崎の後に従った。思いがけない草場の登場に、相崎の顔が一瞬歪んだが、紅子は知らん顔をして、倉庫へと歩いて行った。
倉庫に着くと、相崎は
「これこれ、俺が散々あれこれして、やっと使えるようになった」
と自慢げに錠前と鍵を示した。
確かに鍵職人や泥棒でもないのに、使えない鍵を、使えるようにした事実は威張っても良い事柄かも知れない。ただ総務部長が、よりによって営業部の係長である相崎に依頼したのは、大抵の営業社員が暇だと知っているからだ。
常識的に考えれば、どんな会社であれ、営業の人間が暇を持て余しているなど考えられない。しかしこの会社の営業社員は大抵暇だった。彼らは基本的に新規開拓をしない。また既存客に対しても商品を紹介しない。ただ依頼のあった顧客の元に商品を取り付けることのみを仕事にしていれば、暇ははずだ。
それは営業社員の給料が、固定性であったために生まれた悪習であったが、それを糾弾する者は、社内にはいなかった。
会社は数年前に、とっくに大手石油会社に吸収されていた。経営は安定していたし、石油会社から出向してきている社長自身、会社は新聞を読むために出勤する場所だと心得ていた。上がそんなことでは部下の不埒な振舞いに気付く訳が無い。彼らは仕事というものを分かっていないからだ。
営業事務員である紅子はこの実態を掌握していたが、新人である紅子に何ができるだろう。紅子にできることといったら、せいぜい湯沸し器の注文をしてきた客に、電話口で給湯器を勧めてみることくらいだった。
その行為により、実際に給湯器を売ったこともあった。その報酬は、相崎一人に
「おお、たいしたもんじゃんか」
と褒められただけだった。この会社で、純粋に社の利益を追求しようなどと考えるのはあまりに馬鹿馬鹿しい話だった。この会社は他社よりガスの料金設定が高い為、地道に営業活動などする必要が無いのだ。
ごくたまに
「おたくは、ガス代が高すぎる」
というクレーム電話が来ることもあった。しかし大抵の顧客は、都市ガスとの比較ならまだしも、プロパンガス会社間の価格の違いになど気付かないものなのだ。
恵まれた環境で鍵を直した得意げな相崎から鍵を受け取ると、紅子はそれを、錠前に差し込み回してみた。スムーズにガチャガチャと動く。これなら今日からもう使えるようになるだろう。
倉庫から取り出した湯沸かし器を小脇に抱えた草場が、背後から覗き込みながら
「へえ、これか。直って良かったじゃん」
とつぶやいた。すると相崎は草場に向かって
「んっとに処女は駄目だ。処女は」
といやしい笑みを浮かべ、チラと紅子に視線を送った。
草場は「ハハッ」と鼻に抜けるような笑い声を発した。紅子は無表情で相崎の視線をかわすと、倉庫の中を意味も無く一瞥し
「じゃあもう、閉めちゃっていいですか」
と抑揚の無い声で、草場に尋ねた。
品の無い冗談だと思った。一体何のために相崎が、そのような冗談を自分に聞かせるのか、さっぱり分からなかった。そしてなぜ処女だった鍵穴ばかりが責められ、童貞だった鍵の責任が問われないのかも分からなかった。
だがそれを口にするのははばかられた。紅子にとっては、鍵と鍵穴の当初の相性の悪さの原因が、鍵にあろうと鍵穴にあろうと、あるいは双方にあろうと、そんなことはどうでも良かったからだ。
ただ相崎が鍵穴を「処女」と表現したことにより、相崎によって「散々あれこれした」鍵と鍵穴が、不本意な性交を強要された後に、なじんでしまった男女のように思われて、妙な心地がした。
ひょっとして相崎は、嫌がる鍵穴に実践を仕向け、最後は思い通りにしてしまったのと同様に、嫌がる自分にも、ひたすら攻撃を仕掛け、落とす心積もりなのだろうか。
相崎の眼は、優しげでいて強い光を放つ。それを紅子はチラリと見やると、そのまま視線を、手元の小さな鍵穴に移した。もう処女ではなくなった鍵穴は、練れた光を、紅子に向かって投げかけてきた。あんなにも頑なに挿入を拒否した生娘の姿は、もうそこには無かった。
汚れちゃったね、あんた。倉庫を守れなくても、自分の操は守ろうともがいてたあんたの方が、あたしは好きだったよ。商品の入出庫担当者としては、あるまじき思いだけどさ。
紅子は心の中でそっとつぶやくと、こうして鍵穴を凋落させてしまった相崎に恐怖を覚えた。紅子の心中を知らぬ相崎は、何食わぬ顔で雇用促進住宅の工事の様子を草場に尋ねている。こんな所に、長居は無用だ。
紅子はさっさとその場を離れると、事務所に戻り席に座った。半休を取っていた午前中に、机に置かれたメモ類をぼんやりと眺めながら、ざわめく胸中を必死で静めようとした。
何も恐れることはないと、紅子は自分に言い聞かせた。相崎の先程の品の無い冗談は、金沢のガマン汁発言と、何も変わらないではないかと言い聞かせた。考えようによっては、どちらも同じワイ談だと言えなくもない気がした。
けれどそれでも、やはり相崎は、紅子にとって嫌悪であり恐怖の対象だった。日頃我慢をしている男と、我慢などする気はさらさらなく、紅子に向かってくる男では、やはり後者の方が、嫌悪であり恐怖だった。紅子はそもそも、忍耐強い人間を好もしく思うタイプだったから。
そうはいっても、相崎が嫌悪と恐怖の対象であると、今更再確認したところで、一体どうしたらいいのだろう。紅子が首を捻っていると、総務部長が「若杉さん」と、自分の席から紅子を呼んだ。紅子は「はい」と返事をすると、すぐさま総務部長の席に直行した。
「相崎くんは、鍵を直してくれたかな」
総務部長は宮様のような典雅な顔立ちで、ゆったりと紅子に尋ねた。
経営難により、数年前に大手の石油会社の傘下に吸収されてしまったというものの、元々彼の両親が興したガス会社ということもあり、社長から総務部長に転落した今でも、総務部長はどこか御曹司然とした雰囲気を持っている。彼は別段、報告の遅れをとがめる様子も無く、おっとりと部下に尋ねた。
そもそも社の売り上げの大半が、社長夫妻の信仰する新興宗教への上納金へと化けてしまうような、ゆったりとした経営をした挙句の退陣だったから、その息子である彼が、このようにゆったりおっとりしているのも、家風なのだと言われればうなずけた。
だが貧しく殺伐とした家庭に育った紅子は、そのような気性を身につけておらず、うっかり報告し忘れた事実に愕然とした。鍵穴が処女だとか鍵が童貞だとか、そういう訳の分からぬことに気を取られているから、上司にするべき報告を忘れたりするのだ。
紅子は青くなると
「はい。すいません。先程相崎さんが直してくれました」
と怒られてもいないのに早速謝った。幼い頃から両親に、一挙手一投足をけなされながら育つと、こういう傍から見ていると苛々する程、卑屈な人間ができあがるのだ。
それを聞いた総務部長は、宮様のような典雅な顔に、僕は別に怒ってはいないんだけどなあといった表情を浮かべると
「ああそう。じゃあ今後は鍵を付けて管理して下さい」
と言った後、書類のワープロ打ちを紅子に命じた。この会社にはワープロが一台しか無いため、ワープロ打ちは基本的に、全て紅子の担当だった。
「分かりました。今すぐやります」
先程の失点を取り返そうと、「一週間以内に」と命じられた書類打ちに、紅子は不必要なまでの意気込みを見せた。本当なら午前中の入出庫のメモ書きを、入出庫帳に書き写す方が先なのだが、それを後回しにしたところで、困るのは自分一人だったため、紅子は総務部長の機嫌を取ることを優先したのである。
とはいえ繰り返すようだが、総務部長は鍵の報告が遅れたことなど、大して気に留めていなかったのだが、幼い頃から目上の人間の顔色ばかりを伺っていた紅子にとっては、不安な芽は少しでも摘み取っておかなければ落ち着かないのである。
だがワープロのある二階の会議室へ向かって階段を上り始めた途端、紅子は不意に、自分の心の動きが馬鹿馬鹿しく思えた。そもそも自分は、総務部長の機嫌を取る必要があるのだろうか。
以前同期の留美に、肩凝りが酷くて偏頭痛が起こることを相談していた時、それを隣で聞いていた総務部長が
「若杉さんが、肩が凝るはずが無い」
と言い出したことを、紅子はふと思い出した。
一体何の根拠かと思いきや
「その胸では、肩が凝るはずが無い」
と言い出すのだから酷い話だ。セクハラな上に、病気を認めてもらえないとは二重の苦痛ではないか。宮様がそのような偏見を持って公務が務まるのだろうか。
紅子はすっかりやる気を無くしてしまったが、だからといって今更一階の事務所に舞い戻り
「何か馬鹿馬鹿しくなったので、ワープロは後回しにします」
と言う訳にもいかない。紅子は仕方なく会議室の扉を押した。
この会議室では会議が滅多に開かれない。たまに営業会議が開かれても
「なぜ、ガス製品の売り上げが落ちているのか」
「さあ、お客さんの財布にお金が入っていないからじゃないですか」
などのぬるい会話が交わされるのみだ。
その会議室が、本領を発揮するのは、ワープロが使用される時や、監査の報告が入った時に、慌てて数人がかりで保安台帳を作成する時だけだ。その名前だけの会議室は、ここ数日の人の出入りの無さを訴えるかのように、しんと静まり返っていた。
こんな人気の無い環境の中、真面目に仕事をする気にはなれなかった。だが紅子は、子供の頃から、夏休みの宿題をさっさと片付けてからのんびりしたいと思うタイプだった。そこで瞬く間に、ワープロ打ちを終えると、椅子を並べて簡易ベッドを作った。クッションが効いているから、仰向けに横たわると楽チンだ。
念の為、胸の上には打ちあがった書類を乗せておいた。こうしておけば不意に誰かが入って来ても、さっと書類を手にして
「打ち間違いが無いか寝転んで確認してたんです。お行儀悪いですよねえ。ごめんなさい」
とか何とか言って言い訳ができる。
総務部長に太鼓判を押される程、平たい胸を持つ紅子だからこそ、成せる業だった。紅子が途中でトンズラした歯医者も紅子の安定感のある胸を、よく作業台代わりに使っていたものだ。その失敬さも紅子が歯医者通いを止めた一因ではあった。しかし一番の理由は、何よりも治療費の工面ができないからだった。
紅子はぼんやりと天井を仰いだ。書類は紅子の胸の上に、おとなしく鎮座している。我ながら何と安定感のある胸だろうかと、紅子は今更ながらに感心した。ただでさえ僅かな胸が、仰向けになることにより脇へと流れてしまい、そこが女の胸部だとは、にわかには信じがたい程だ。
それなのにこんなにも胸の貧弱な自分が、なぜ男たちの欲望にさらされるのだろうかと、紅子ははなはだ疑問に思った。冬のせいで厚着をしているから、胸の無いことに気付かれなかったのだろうか。
だが相崎は、夏服を着た自分を知っている。紅子はふと、七月に行われた社員旅行を思い出した。行き先は伊豆の修善寺で、宿泊した旅館には露天風呂があった。ひとっ風呂浴びた後の宴会で座が崩れた頃、酒で顔を赤らめた相崎が、紅子にこう話しかけてきた。
「あの露天風呂、実は外から見えたんだぞ」
冗談だということは分かっていたので、紅子は「嘘だあ」と、短く返した。少しでも不安要素のある風呂だったなら、一緒に入浴した年配の女性社員たちが騒ぎ出さないはずは無かった。
建物や浴場の造りといったことに目ざといのは、大抵、人生経験豊富な年配の人間の方だ。無論、年配になるにつれ、のぞきのターゲットにされる可能性は低くなるが、しかしそんなことは問題ではない。
真のターゲットであろうと無かろうと、不安要素のある風呂で入浴してしまったら、そこにいるだけでのぞき魔の目に入ってしまう。あの口うるさい年配の社員たちが、そんな不安を抱かせる風呂で、何も言い出さない訳が無かった。
そんな根拠から落ち着き払って刺身を突いていた紅子に対し、相崎は追い討ちをかけるようにこう言った。
「いやホントホント。そうかあ。一人洗濯板がいると思ったらベニだったか」
すると横に座っていた工事部の草場が
「洗濯物を持ち込んで、洗濯までしてたらしい」
と口を挟んだ。つまり彼らは、酔った勢いで、目の前の紅子に、性的な冗談を言いたかっただけなのだ。
紅子は憤慨した。洗濯板とはひどい。普通はまな板と言わないだろうか。
だがこれはジェネレーションギャップというものだった。いくら貧しい育ちとはいえ、紅子は洗濯板の実物を知らない世代だった。二層式ではあったが、物心ついた時に、紅子の家には洗濯機が備え付けられていた。そんな紅子にとって、自分の胸板が、わざわざ時代をさかのぼった古めかしい代物に例えられた事実は、一つの衝撃でもあった。
だがこの際、紅子の慎ましい胸部が、洗濯板に例えられたか、まな板に例えられたかといったことは、さしたる問題ではなかった。肝心なのはその会話からも分かるように、相崎は紅子の胸が扁平であることを承知の上で、紅子に迫っているということである。
紅子は段々と腹が立ってきた。胸が小さいせいで、洗濯板だとか実際に洗濯していたとまで言われ、歯医者には作業代代わりに使用され、総務部長には心無い一言を浴びせられ、しかも確かに、総務部長の言う通り、せっかく胸が小さいのに、胸の大きい女の特徴とされる重度の肩凝りにまで冒されている。
それなのにおそらく周囲には、胸が小さいから肩も凝らないだろうなどと、勝手に予想されているのだ。そして紅子自身、自分は胸が小さいから、男たちの欲望被害に遭う率は少ないだろうと、楽観的に考えていた。胸が小さいからこそ、性欲ではなく真心から自分を求める数少ない男しか近づいて来ないのではないかなどと。
ところが実際は、初めて付き合った男には四股をかけられた。そして四股の女の一人からは電話で
「『紅子は胸が小さいから、胸の大きいお前とヤレて嬉しい』って、彼に言われたの」
と告げられた。紅子はショックで二ヶ月程食べ物がろくろく喉を通らなくなった。体重は五キロ落ちて、ただでさえ小さな胸がますます小さくなった。
そして次に出会った慎一は、会えばセックスばかりしたがるくせに
「正直に言やあ、俺、胸の小さい女しか経験ねえから、一度だけでかい胸の女と、ヤッてみてえとは思うな」
などと、言わずも良いことを口走る。
だったら日に三度も四度も、紅子を抱かなくても良さそうなものだ。それを連日繰り返さなくても良さそうなものだ。しかし慎一は、嫌がる紅子を熱心に説き伏せては、常に紅子を、ベッドに押し倒していた。
当初紅子は、頻繁過ぎる性行為を、「嫌だ」と意思表示していた。だがある時、ヤるヤらないの押し問答をしていたところ、一時間が経過してしまった。それでも慎一は、一時間前と同じ情熱でヤりたがっていた。それを見た紅子は、ひょっとして要望を出された時点で承諾していれば、今頃自分は解放されていたのではないかと考えた。不意に自分の抵抗が馬鹿らしくなった。そしてそれ以来、拒否の意思を示す回数を減らした。
ところが慎一の性欲は天井知らずだった。応じようと応じまいと、結局慎一が、いつでもヤりたがる事実は変わらなかった。
慎一の旺盛過ぎる性欲も、紅子が彼を疎ましく思う一因ではあった。しかし紅子は、慎一と別れる気は無かった。いや正確に言えば、全く別れを思わぬ訳ではなかったが、それを実行する気は無かった。
なぜなら紅子は、付き合った相手が悪人でない限り、簡単に別れたりするものではないという理念を持っていたからだ。初めて付き合った男は、四股をかけるような倫理的に問題のある男だったために別れを選んだが、しかしセックスをし過ぎる男というものは、悪人とはいえない。
とはいえセックスをし過ぎる慎一が不快なら、それは性の不一致ということだから、充分別れの理由になり得る。そもそも結婚をしている訳ではないのだから、どんな理由であれ、片方が別れたいと思えば別れることは構わないはずだ。しかし紅子は、別れることが嫌だった。
というのも紅子は、簡単に付き合ったり別れたりするような人間を、ふしだらだと考えていたからだ。とはいえ慎一とは、出会った次の日から付き合い始めてしまったので、紅子の理屈でいけば、紅子はすでにふしだらなのだが、ならばせめて、別離だけは簡単に起こしたくないと、紅子は考えていた。
慎一の旺盛過ぎる性欲には、付き合い始めてすぐ気付かされたし、気付いたと同時に不快に思ったが、しかしその時点では、まだ前の恋人との別離から、三ヶ月と経っていなかった。
確かにたった三ヶ月の間に、二人の男と別れてしまっては、客観的に見ても、身持ちの固い女とは言いかねる。だがもし新しい男と長く付き合えば、出会いから交際までの期間の短さというものは、問題ではなくなるものだ。
そのため紅子は、セックスをし過ぎる慎一と、一年四ヶ月も付き合い続けてしまい今に至るのだが、その結果、遠距離恋愛とは思えないほど、頻繁にセックスをする羽目に陥った。
最早、慎一と別れることと、付き合い続けることの、どちらがふしだらなのかよく分からなくなってきた。一年以上経っても尚、むさぼるように自分の体を求め続ける慎一が不快だった。
いっそ浮気をしてくれればいいのに。そして溢れるほどの性欲を他に分散させて、自分のことは、ちょうどいい回数で抱いてくれればいいのに。
前の恋人とは、恋人の不実が原因で別れたというのに、今や紅子は、慎一の一途な性欲に辟易し、そっと相手の不実を願う有様だった。そしてそんな思いこそが、実は最もふしだらなことのような気がして、紅子は戸惑った。そして自分に、そんな戸惑いを与える慎一のことを、紅子は密かに憎んだ。
相手に恋愛感情があっても、望む以上の性欲を傾けられれば、相手を疎ましく思うものなら尚更、何とも思っていない相手から発せられる性欲は、何と忌まわしいものだろう。それなのになぜ今日は、こう次から次へと、忌まわしい相手が現れるのか。
紅子は大きな溜め息を吐こうとした、が、息を吸い込んだ瞬間、平たい胸が突如盛り上がり、そこからパラパラと書類が舞い降りた。紅子は慌てて体を起こすと、床に散らばった書類をかき集めた。その時、後方からガチャリとドアが開く音がし
「何だ、ここにいただか」
と野太い声が響いた。
紅子は書類を抱えたまま振り向いた。ドアを開け中に入って来たのは営業所所長の剣持幸平だった。
「ああ幸平さん、来てたの」
と紅子は、自分の胸部のように平たい声を出した。
幸平を下の名前で呼びかけたからといって、紅子が特別に幸平と親しい訳でも、ましてや好意を持っている訳でもない。社内に幸平と同じ苗字の甥が勤めている関係上、他の社員たちも、幸平と甥を名前で呼んでいるので、紅子もそれに倣っているだけだ。気安い口調での呼びかけも全て、他の女性社員に倣ってのことだった。
幸平は別段その必要も無かったので、本社に来た理由は告げずに、紅子の脇のベッド状に並べられた椅子をジロリと見やると、「寝てただか」とニヤリと笑った。どうやら人がさぼっているところを見つけたことが、嬉しくてたまらないようだった。
「眠ってないよ。横になりながら書類チェックしてただけ」
紅子は相変わらず平坦な声で、当初用意していた通りの嘘をついた。
考えてみれば、外回りの社員の多くが出先でさぼっているのだし、幸平はその性格からいって、どれだけ勝手な振る舞いをしているか、分かったものではなかったから、そんな不真面目な幸平に対し、言い訳をすることもなかったのだ。しかし外回りの社員の実態を、営業事務の紅子が承知しているという事実は、本社の限られた営業社員しか知らなかったため、紅子はここで、敢えて幸平に仲間意識を持たせる必要は無いと判断した。
すると幸平は、ドアを後ろ手に閉めながら
「調子悪いのか。午前中休んだって言ってたもんな」
と尋ねた。紅子は途端に不愉快に思った。誰に聞いたんだ、なぜ自分の話題が出たんだと訝しんだ。
営業所の幸平が本社に顔を出すのは、月に一度あるか無いかだ。だとすれば本社で久し振りに出会う社員たちとは、積もる話が山とあるはずだ。
それにも関わらず、敢えて自分の噂が話題に選ばれたことが、紅子は不快だった。自分が大変珍しいことを仕出かしたならまだしも、午前中半休を取ったくらいのことが、午後には営業所勤務の社員の耳に届くとは、いくら幸平が午後から本社に来たとはいえ、やり過ぎな気がした。
だが紅子は、それを幸平の耳に入れたのが誰かは尋ねぬまま
「んーちょっと風邪っぽくてねえ。頭も痛かったし」
と言いながらワープロの電源を落とすと、書類を手に立ち上がった。自分の噂をしたのが誰かを聞いたところで、話題が出た経緯を聞かなければ何も理解できないし、聞いたところで噂話をする人間の真意など理解できないのだから、どうでもいい気がした。
また紅子は、この野太い声を出す幸平が、どうも苦手だった。幸平はガテン系の社員が多いガス屋の中でも、際立って粗野な荒くれ男だった。紅子は幸平の閉めたドアに向かい、会議室を出ようとした。
だが幸平は
「ああ肩凝りから来るやつな。三枝が言ってた」
と同期の留美の名を出した。紅子は立ち止まると、幸平の赤ら顔を見詰めた。一体いつ、何の意味があって、留美が幸平に、自分の偏頭痛の話などしたのだろうと思った。
だがそれも、考えても仕方の無いことだった。紅子は
「そう。ズキズキなの。ひどい時は、頭に包丁突き刺したくなるくらい」
と笑った。暗い話は笑ってするものだというのが紅子の流儀だった。
すると幸平は、毛深い眉をひそめると
「可哀想になあ。どれ、ちょっと揉んでやろうか」
と持ちかけた。紅子はパッと顔を輝かせると
「本当? 嬉しい」
といそいそと、制服の上のジャンバーを脱いだ。
このひどい肩凝りを、少しでも解消してもらえるなら、相手への不快感など問題ではなかった。実際に頭に包丁を突き刺してしまうくらいなら、嫌いな人間に肩を揉ませる方が、人として正しい行為だと思った。
「うわ、ガチガチだな。お前、岩みたいだぞ」
紅子の肩に手をかけながら、幸平が驚いた声を出した。そんな感想には慣れっこだったから、紅子は特に気にせず、肩を幸平に委ねた。
ランドセルを背負い始めた小一の頃からの凝り性だから、年季が入っている。あの頃、親にいくら訴えても親は
「子供が、肩が凝るはずが無い」
と紅子の肩に触れてさえくれなかった。
小五になった頃には偏頭痛が始まったが、親は病院にも連れて行ってくれなかった。今、肩凝りの事実を、事実と受け止めほぐしてくれる人間がいるだけで、紅子は幸福だった。
だが束の間の幸福は破られた。幸平の右手が、一瞬紅子の肩を離れ、乳房の上で不穏な動きを見せたのだ。それはいかにも、思わず手を滑らせてといった振りがなされたが、紅子はそれが、故意であることが分かった。
紅子は瞬時に体を硬直させたが、幸平の右手は、すぐに紅子の肩に戻った。そして
「可哀想になあ。あんまりストレス溜めるなよ。今度お前に、高周波持って来てやる」
と優しげな語りかけがされた。
「高周波?低周波じゃなくて?」
と紅子は聞き返した。聞き返すまでの一瞬の間が、胸を揉まれたことによる戸惑いとして、幸平に伝わったような気がして怖かった。こんな不快な出来事など、無かったことにしてしまいたかった。
「高周波の方が、利くんだよ」
「そうなんだ」
この人はずるいと思いながら、紅子はぼんやりとつぶやいた。これだけ肩の凝った人間が、どれだけ精神的に参っているか知った上での、不遜な行為に至った幸平をずるいと思った。女の弱みに付け込んで、女の乳房に触れるとは、相崎以上に汚い行為だった。
そして幸平も、他の男性社員同様、日頃から紅子の胸の小ささを、からかっていた一人だった。それならなぜ触れるのかと、紅子は唇を噛み締めた。小さい胸を馬鹿にしながら触れてくる男は、貧乏人を馬鹿にしながら、なけなしの金を奪い取る人間と同じくらい悪質に思えた。
だが紅子は、そ知らぬ顔で幸平に肩を揉ませ続けた。しばらくして肩揉みを終えると、幸平は再度、高周波治療器を約束し、「じゃあな」と笑って会議室を出て行った。紅子はジャンバーをはおり、机の上の書類に目を落とした。涙も出なければ怒りも感じなかった。ただ何もかもが全て虚しかった。
プライドの高い女なら文句を言ったのだろうか。プライドの高い女なら抗議したのだろうか。
紅子は唇の端を持ち上げると、乾いた声でふふふ、と笑った。プライドの高い女なら、最初から嫌いな男に肩など揉ませるはずが無かった。紅子は肉体の欲望の前に、プライドをかなぐり捨てたのだ。人間が負ける肉の欲は、必ずしも性欲とは限らなかった。
紅子は窓辺に向かうと、ブラインドの隙間から外を眺めた。二階の会議室の窓からは、中庭に据えられた無骨なガスタンクと社員駐車場が、ぼんやりと見えた。
くっきりと見えないことにより、何やら自分が、とても高い場所から地面を見下ろしているかのような錯覚に囚われた。だったらここから飛び降りれば、この破廉恥な肉体とおさらばできるような気がした。
だがこの錯覚は、自分の視力が弱いせいだと、紅子は認識していた。一瞬の夢を見たのだ。紅子はそう判断すると、書類を手に、会議室を出て行った。この肉体と付き合い続ける以上は、自意識をあやしながら、与えられた仕事をこなし続けるしか、紅子には手段が無かった。
退社時刻が迫った社内は、外回りから戻った社員たちの動きで、ざわざわと騒がしい。出入り口に程近い紅子の席の脇を、多くの社員たちがすり抜けて行く。紅子は記入中の入出庫帳から顔を上げると、今しがた事務所に入って来た工事部の塩釜正弘の筋骨逞しい背中を、ぼんやりと眺めた。
そろそろ五十の声を聞く頃だというのに、社内で一、二を競う体格の良さを誇る塩釜は、腕力に覚えがあることから、時折紅子の肩を揉んでくれることがあった。しかし彼は、決していかがわしい行為に及ぶことは無かった。
その経験が、不用意に幸平に肩を揉ませてしまったのだろうかと、紅子はふと考えた。人は皆、違う生き物だ。塩釜がセクハラに及ばないからといって、他の社員までもがそれに倣うとは限らない。それにも関わらず、幸平を塩釜と同一視してしまったのが、間違いの元だったのだろうか。
その時、紅子の脳裏に
「そんなんじゃ、死んじまった方がいいな」
という台詞が響いた。それは塩釜が、紅子の肩を揉みながら、しばしば発する一言だった。
「こんなに体がバリバリで、偏頭痛が起きて、じんましんも出て、疲れ易くて、胃も痛くて目も悪いなんて、病気のデパートじゃねえか。そんなんじゃ死んじまった方がいいな」
紅子はそれを聞きながら、心の中で
「あと歯も、二本無いんです。奥歯だから見えないかも知れないけど」
とつぶやいた。塩釜がどういうつもりでそう言うのかは、よく分からなかった。
実際紅子が死ねば良いと思うなら、肩など揉まねば良いものを、なぜ揉みながらそのようなことを言うのかは分からなかった。ひょっとしたら塩釜は、肩揉みの見返りに、紅子を言葉で傷つけ、サディスティックな快感を味わっているのかも知れないし、ただ単に、何も考えていないだけかも知れなかった。
だが塩釜の真意など、紅子にとってはどうでも良かった。ただ「死んじまった方がいい」と言われると、やはりそうかも知れないと思うだけだった。
そんなことを自分に思わせる塩釜よりは、高周波治療器を自分に貢ごうとする幸平の方が、まだ罪は軽いのだろうかと、紅子は考えた。貢ぎ物というものは、相手が生きているからこそ、捧げようという気になるものだ。
だが先程、会議室の窓から身を投じたくなった衝動を思うと、いずれにせよ塩釜も幸平も、自分の命を危うくさせる人間に、他ならないようにも思えた。けれどそれもいいかも知れないと、紅子は思った。
父親だってあたし達をつくって本当に損したと口にした訳だし、人の期待に応えるのも、いいかも知れない。慎一に胸の小ささを失望され、近づいて来る多くの変質者たちの期待にも応えられない、何一つ周囲の期待に応えられない自分は、いっそ死の期待に応えてしまった方が、すっきりしていいかも知れない。
漠然とそのような考えに浸っていると、突然紅子の脇に人影が立った。それは配送部の剣持信也だった。
信也は、あの粗野な風貌の幸平と、同じ遺伝子を持っているとは信じがたいほどの華奢な体で、紅子の机に手をつくと
「紅子ちゃん、今日うち来る?」
と辺りをはばかりながら、小声でそっと甘えた声を出した。高卒のために、入社は紅子より早いものの、年齢が一つ年下の信也は、このように甘えたような物言いで、紅子に話しかけることが多かった。
社の飲み会の帰りに、二度ばかり誘われるまま信也のアパートを訪れたことはあったから、これは別に、不意の誘いでもなかった。二ヶ月前に営業所から本社勤務に替わり、一人暮らしを始めた信也は、寂しさを紛らわす相手を求めていた。そんな彼にとって、同じく一人暮らしの紅子は、恰好の相手だった。
これまでにアパートを訪れたことがあるからといって、紅子が信也に特別な好意を抱いているかといえば、そうでも無かった。いやむしろ、紅子は信也を軽蔑していた。
「本当は、アパレル関係に進みたかったんだ」
などと愚痴をこぼし
「だったら今からでも、そっちの仕事に就けばいいじゃん」
と提案する紅子に、寂しげに微笑しながら首を振る男など、紅子には理解不能だった。
いくら不景気とはいえ、贅沢を言わなければ洋服屋の仕事など県内にいくらでもあったし、いっそ上京したければ、勝手にすれば良いだけの話だった。もしどうしてもアパレルに進めない密かな事情があるのなら、何も自分の胸の内など、紅子に明かさなければ良いだけの話だった。
結局信也は、「実はアパレルを目指していた」という告白を、格好いいと思い込んでいるただの若造だった。紅子は半端な告白をする人間や、格好つけの発言をする人間に辟易するタイプだったから、実はむしろ信也のことは、どちらかといえば嫌いなのかも知れなかった。
それでも尚、誘われるまま信也のアパートを訪れたのは、アパレルを目指していたとのたまい、私服にやたらと凝っている男のアパートの内部が、いかなるものか見てみたいという、単純な好奇心だった。
そして訪れた信也のアパートは、最近都内のファッション関係の人間が行っているという、ポストカードを何枚も壁に直張りするという手法が取られている以外は、別段凝った装飾やインテリアがあるでもない、平凡なアパートだった。
だが案外紅子は、その空間に満足した。無造作にピンナップされたポストカードの類は、確かに当時としては斬新なものだったし、あちこちに吊るされた信也の衣服も、目新しいものばかりだった。
紅子はその小さなアパートに、何かしらの都会らしさを感じた。それは実際に東京に住んでいる慎一の部屋よりも、ずっと都会的な雰囲気をたたえていた。とはいえキッチンやユニットバスの狭さからいけば、慎一の部屋の方がずっと都会的だったが、紅子はそれでは不満だった。
紅子は若い娘にしては都会への関心は低かったが、二週に一度のペースで、東京に住む慎一の元へと通っているのに、自分が東京の風を感じていないのが不満だった。
というのも慎一は、紅子を押し倒すのに忙しく、わざわざ東京を訪れている紅子を、あまり外に連れ出さなかったからだ。その不満を解消するのが、地元の信也のアパートとなったのは、面白い話ではあった。しかも何の偶然か、信也と慎一は愛称が同じだった。
紅子は慎一が自分に命じる呼称である「シンちゃん」の呼び名を、社の皆に倣って、信也にも用いつつ、慎一に与えてもらえない都会的雰囲気を、信也に与えられた事実に、単純に面白さを感じ、二度目もまた、シンちゃんのアパートを訪れた。東京のシンちゃんが、それを知る由は無かった。
アパートで二人きりになっても、信也は紅子に、指一本触れなかった。慎一と同じ呼称を持つ男とは思えぬほど、また幸平と同じ遺伝子を持つとは思えぬほど、信也は淡白な男だった。
外見も妙に中性的で、その辺りも紅子にとっては、珍しくもあり気楽でもあった。「フェミ男」という言葉と概念が、一般に流布されるのは、もっと後のことだったが、信也はそのフェミ男の走りのような風貌で、アパートに連れ込んだ女にファッション誌を示しては、ああだこうだと、毒にもならなければ薬にもならない講釈を述べるばかりだった。
華奢な体の中で、そこだけが肉体労働者であることを示すようなごつごつした指先で、誌面の洋服を愛しげに撫でる信也を眺めながら、これが社員旅行の帰路に
「昨夜観たAVすげえ面白かった。『ぶち込んだる』が一番良かった」
と無邪気に菊川に語りかけていた男だろうかと、紅子は考えたりした。
紅子にしてみれば、積極的に信也と寝る気は無かったものの、ものの弾みで寝る分には、致し方ないくらいの気持ちがあったのは否定できない。肌を合わせていなくとも、恋人のいる身で、のこのことよその男の部屋を訪れることが、不実であることには変わりなかったし、だとしたら、いっそ寝てしまった方が潔いような気もしていた。
けれど信也は、紅子に手を出さなかった。一度信也に誘われるままに、ロフトにある信也の寝床まで上ったことはあったが、紅子はまるで、官能的な気分にならなかった。繊細でおくびょうな信也はそれを察し、結局何のアクションも起こさなかった。
彼らの根本的な寂しさは、せいぜい部屋で二人きりになるという行為を起こさせても、その先に進む気力を抱かせなかった。結局寝ても寝なくても、彼らの寂しさに変わりがある訳ではなかった。けれど彼らの寂しさが、清らかでありながら何の意味もなさない逢引を、時折行わせていた。
今日は信也の側が、またその寂しさを抱き、紅子を部屋へと呼んだ。けれど紅子は
「ごめんね。今日は約束があるの。またね」
と優しく断った。
午前中に病気で半休を取っておきながら、退社後の予定はこなそうというのだから、いい度胸ではあったが、しかし午前中に病気で半休を取った女を、退社後にアパートに連れ込もうという信也も、また同じ穴のムジナだった。彼はあっさり、「そっか」と引き下がると、くるりと背を向けて立ち去った。
紅子は去っていく信也の、トランプのように薄い体を眺めながら、あんたの叔父さん、さっきあたしの胸触ったんだよと、心の中でつぶやいてみた。
最低じゃない? さっきあたしの胸触ったんだよ。恥知らずだと思わない? あんたの体に流れる血は恥知らずだよ。叔父は叔父で、人の弱みに付け込んで女の胸まさぐって、甥っ子の方は、彼氏持ちの女を度々アパートに連れ込んでさ。恥ずかしくない? 節操が無いと思わない?
信也の背中を見詰めながら、心の中で彼を罵倒している内に、紅子は気分が高揚してくるのを感じていた。八つ当たりだということは分かっていたが、八つ当たりだからこそのほの暗い喜びが、紅子の胸を支配した。
まさか信也も、自分が親しくしていると思い込んでいる女が、内心では自分を罵っているのだとは知るまい。幸平にしたって、先程の自分の行為により、甥がこっそり蔑まれているとは知る由も無いのだ。
いや幸平は、自分の甥が、これまでに二度に渡り、紅子をアパートに連れ込んでいる事実も知らないだろう。信也がそもそも、紅子との逢瀬自体よりも、紅子と秘密を共有することの方に喜びを感じているらしいことは、紅子も察していたことだ。
身内の勤める会社に入社した者は、自分の情報が、社員たちに必要以上につまびらかになっている状況に、息苦しさを感じるものだ。その状況に、若い信也が反発を抱いたのは無理の無い話だったし、それ故に、何らかの秘密をつくってやろうと、紅子の存在に目を留めたのは、ある意味、自然の流れでもあった。
だが信也が秘密を持った女は、先程会議室で、信也の叔父とも秘密を持った訳だ。とはいえ叔父との秘密は、紅子の望んだことではなかったが、しかし紅子は、事が起こった以上は、それを秘密にしたかった。あんな汚らしい中年男に胸を触られた事実を公表することにより、自分がさらし者になるのが嫌だったのだ。
けれど秘密にすると決めたからといって、紅子が幸平を許した訳では、決してなかった。むしろ隠さねばならない出来事を、無理矢理に起こした幸平に、怒りは燃え上がり、その怒りが、甥である信也にまで飛び火したのだ。
だがどれだけ怒りを飛び火させたところで、その炎上は、紅子の心の中の出来事だったから、社内の人間は誰一人として、その炎に気付かなかった。紅子はその事実を、大変愉快に思った。
紅子は猫のような瞳をキラリと輝かせると、斜め前の席で伝票書きをする相崎の頭上に、視線を移した。無防備な彼の頭頂部は、よく見ると、つむじの辺りの髪が大分紛失しており、恥ずかしい頭皮が、みだらなまでにチラチラと垣間見えた。紅子はその哀れな頭にも呼びかけた。
いい? あたしに手紙なんか書いても無駄なのよ。待てど暮らせど、返事なんか絶対来やしないの。あたしに恋人がいるとかいないとか、そんなことは関係無いの。それが証拠に、あたしは信也の部屋には行ってるんだから。
でもあんなおぼっちゃんに、好意なんか無いのよ。だとしたらあんたみたいなくたびれたおっさんには尚のこと、好意なんか持てるはず無いじゃないの。鏡でよく、自分の顔と頭を見てみるのね。
紅子の刺すような視線に気付きもせず、罵られるままに黙々とつむじを晒し続ける相崎を見て、紅子は心底いい気味だと思った。ふと自分は、何て自由なんだろうと思った。どれだけセクハラを受けようが、変質者に遭遇しようが、自分の心は自由なのだ。だからこうして、思いつく限りの方法で、相手を罵ることができる。
紅子はいっそ、空想の中で、男たちを殺してみようかと思ったが、その時、時計の針が、五時を回っていることに気付いた。紅子は机の上を片付け立ち上がった。
男たちは世にも残虐な方法でじっくりゆっくりと殺したい。だとしたら退社時刻を迎えた素晴らしい今、その空想に、身を委ねてしまうのは惜しかった。何しろ今日は、退社後に友人との約束がある。友人に今日の出来事を大いに愚痴り発散させれば、少しは気も済むだろう。
だとしたらそんな素敵で残酷な空想は、次にセクハラを受けた時のためにとっておくのが、賢いやり方というものだった。何しろ今日は、新規に憎むべき相手が、何人も現れたのだから。
紅子は人数を数えながら、軽やかな足取りで階段を上ると、着替えのために、ロッカー室へと入って行った。自転車置き場で紙袋を渡そうとしてきたヘルメット男に、駅前の露出狂、病院のストッキング男に、相変わらずの相崎、そして今日急浮上した幸平のしめて五人が、とりあえず空想殺人リストに入るべき人物だと思われた。
会社前で声をかけてきた学生風の男は、とりあえず保留にすることにした。冷静になって考えてみれば、ただのナンパかも知れないし、そんなありふれた相手までいちいち呪っていては、訳が分からなくなりそうだった。
そこまで欲張らなくても、五人いれば五晩はベッドの中で楽しめる。まるで出会った女を、どんな空想で犯そうかと楽しむ男のように、紅子は彼らを、どう殺そうかとワクワクした。
弱者の哀れな楽しみではあるが、しかし紅子は、惨めだとは思わなかった。仮に自分が強者だったとしても、自分が不快を与えた弱者にそんな方法で呪われるのはまっぴらだった。
「自分がされて嫌なことは、人にはしてはいけません」
幼児の頃、多くの大人に教わった言葉を思い出しつつ、紅子の口角は持ち上がった。仮に彼らが、自分にどれだけ呪われても構わないと思っていたとしても、そんなことは、紅子は一向に構わなかった。
紅子は人に呪われることは死んでも嫌だったから、彼らの意図とは無関係に、自分が死んでも嫌なことを、彼らに対してしたかった。
紅子はひょっとしたら、弱者でい続けること以上に、強者になって人に呪われることの方が恐ろしいのかも知れなかった。それはおそらく、弱者がどれだけ残忍な空想で強者を呪うのかを、身をもって知っているからなのだろう。
朝方に乗車した駅に降り立った紅子は、待ち合わせ場所である駅ビルの一階へ向かった。エスカレーターを降りた所に靴売り場が見える。紅子はここで沼倉寿美礼の到着を待つことに決めると、陳列されているロングブーツを端からひっくり返しては戻し始めた。
去年までは、ブーツといえばショートブーツのことと相場が決まっていたというのに、今年はロングブーツをいち早く入手しなければ冬が始まらないと、各ファッション誌が叫んでいる。
雪国出身のくせして寒がりの紅子にとっては、冬が始まらないとは、なかなか結構なことと思えた。しかし目新しいロングブーツの出現は、多くの女たちの心を奪った。街角ではすでに、流行に敏感な女たちが、慣れないロングブーツで闊歩している。
紅子はその姿を、新鮮で可愛らしいと感心すると同時に、あることに気付いた。ロングブーツこそ大雪の道を歩くにふさわしいと。ということは、これだけロングブーツが流通する背景には、ようやく雪国以外の人々の心にも、雪への警戒心が芽生えたということではないだろうか。
だが紅子が、今日こうしてひっくり返した中には、滑り止め加工されたロングブーツは一足も無く、紅子はすっかり落胆した。自分の住まう県民の気持ちが、さっぱり分からなかった。
思い起こせば確かに紅子が越してきたその年には、紅子の住まいの周辺に、雪は降らなかった。
冬に雨が降る地方など、日本全国でも沖縄くらいのものであって、冬の雨を歌う有名な演歌は、空想の産物だと、それまで紅子は思い込んでいた。だからいざ、真冬に降りしきる雨粒を浴びてみると、嬉しいというより不気味だった。それでもようやく、滑り止め加工済みのブーツが見つけ辛い現状を理解したが、しかし住み続けていると、どうやら全く雪が降らない訳でもないのである。
ならばなぜ、滑り止め加工済みのブーツを、もっと売らないのか。いやそもそも、なぜ底のツルツルしたブーツなどを作ったりするのか。なぜ関東地方の人間は、雪をなめるのか。そしてなぜ雪の日に、パンプスで出かけて転んで救急車を呼ぶような面倒臭いことをするのか。
紅子はふと、異邦人のような寂しさを覚え、天井を仰いだ。その時、裏のファーストフード店から漂うチーズの匂いが、紅子の鼻腔を刺激した。同時に、思い出したくない不快な感触を、尻の辺りによみがえらせた。
そのファーストフード店でバイトをしていた短大時代に
「ここの正社員は、体臭がチーズの匂いになっちゃうんだよ」
という噂を、紅子は他のバイトから、忍び笑いと共に聞かされたことがあった。
とはいえバイトでも勤務日の多い者は、働きぶりも体臭も、決して正社員にひけを取らなかった。その点紅子は、もっと時給の良いテレフォンアポインターのバイトと掛け持ちしていた都合上、勤務日が少なく、出勤する度に、空間に漂うチーズ臭とは別の、人体から発せられるチーズ臭を感じていた。
正社員は高学歴の者ばかりという噂通り、紅子を指導するマネージャーも早稲田出身だったが、早稲田を出ても体臭がチーズ臭では浮かばれないと、紅子は思った。少なくとも体臭がチーズ臭になってしまうことは、紅子にとっては耐えられないことだった。
だがもっと耐えられないことに、そのマネージャーは、時折紅子の尻を撫でた。その時、必ず後方から、強いチーズ臭が漂った。
文句を言って辞めることはできなかった。月三万円にも満たない仕送りと奨学金で食いつないでいる紅子にとって、新しいバイト先が見つかるまで収入を減らすことは死活問題だった。
テレアポのバイト代は、交通手段である自転車の月賦が天引きされていたから、しばらくは当てにすることができなかった。だからファーストフード店でのバイト代を失うことは、生きるか死ぬか、学生を辞めるか辞めないかの岐路を意味した。
もうすでに、何度も貧血で道端にうずくまっているというのに、それ以上食費を削ったら、紅子は布団から起き上がることができず、労働も登校もできなくなったことだろう。
だから紅子はそ知らぬ顔で、なるべく隙を見せないように、背後に神経を集中させながら働いた。だからよく、客の注文を間違えた。するとマネージャーは、「気をつけろー」と猫なで声を出しながら、そっと紅子の尻を撫でたので、何のために警戒していたのか、さっぱり分からない始末だった。
そんな腐臭に満ちた思い出をよみがえらせ、紅子はひどく憂鬱になった。この近辺には、バイトを辞めた後にも、何度も訪れていたが、上司に触られていた事実を、こうもまざまざと思い出したのは久し振りだった。
一体なぜ、そんな不愉快な出来事を思い起こしてしまったのか。それはロングブーツの靴底の頼りなさから抱いた侘しさが、同調作用によってマイナスの記憶を揺り動かしたからか。それとも今朝方から遭遇している変質者やセクハラの嵐が、過去の体験まで呼び込んで、自分を責め立てるのか。
紅子が思案しながら靴売り場を離れようとしたその時、一階へ下るエスカレーターの上から、寿美礼が手を振る姿が見えた。紅子がホッとしてそちらに近づくと、寿美礼は挨拶もそこそこに
「さっき二階に可愛いコートがあったの。見に行っていい?」
と紅子を、上りのエスカレーターへと促した。
待ち合わせ場所は一階と決めてあったのに、どういう訳だか寿美礼は、一人で二階を散策していたようだ。だが別に、待ち合わせに遅れた訳ではなかったから、そんなことは紅子にとっては、どうでもいいことだった。
紅子はそのまま、寿美礼と二人でエスカレーターに乗ったが、上昇と共に、傍らに姿を現し始めたランジェリーショップに、視線を捉えられた。店の中程に、厚手のタイツと混じって、ストッキングが陳列されているのが見て取れる。ストッキングといえば当然のことながら、午前中に病院で出会った油井のことが思い出された。
紅子はとりあえず、寿美礼に連れて行かれた店で、示されたコートの感想を述べると、他の商品を適当に冷やかしつつ、油井との出会いから、ストッキングを捨てさせられたことを手短に話した。
寿美礼は銀行員であるせいか、ウィンドーショッピングは好むものの倹約家だ。彼女はこの時代特有の、一切のアイメイクがカットされた目を見開くと
「嘘ー、もったいない。わたしならもらうのにぃ。捨てないで持って来てくれればよかったのにぃ」
と残念がった。紅子はやはりそうかと納得すると、とりあえず満足した。
残りの話は、夕飯を食べながらゆっくり話すとして、今は店内にディスプレイされた商品を物色するのが、場にかなった流儀と思われた。その内、寿美礼の姿が見えなくなったが、紅子は気にせず、市場価格調査に没頭した。
ボーナスは出たばかりだから、財布の中はいつもより潤っていた。しかし十二月は奨学金の返済月でもあるから、まだ気は抜けない。そして返済後にしたって、一人暮らしで何かと生活費のかかる紅子は、やはり気楽に財布を開ける訳にはいかない。
とはいえ衣服は消耗品だから、シーズン毎に何かしら買い足さなければならない。だとしたらいかに着回しが良く、手持ちの服とかぶらず、尚且つより安い服を買うかが、紅子に課せられた課題だった。
そのためには、日頃から市場の動向に目を凝らさなければならないが、会社勤めに家事に遠距離恋愛と忙しい上に、体力の無い紅子は、ショップ巡りをする時間がなかなか取れない。そんな中で、会社帰りに友達と訪れた駅ビルは、うかうかと時間を過ごしてはならない貴重な場所だった。
だが紅子が駅ビルを訪れたのは、短大時代の友人と交歓することが最大の目的だったのだから、寿美礼の姿が見えなくなっても尚、目先の値札に目を奪われていたのは、一つの失敗だった。その失敗は、不快な感触として紅子の背後に近づき、そっと紅子の尻を一撫でした。
ぎょっとした紅子が振り返ると、数メートル先に、黒いジャンバーを着た中年らしき男が、小走りにエレベーターに乗り込んで行く以外に、これといった人影は無かった。紅子はたまたま、万引きするにも痴漢されるにも絶好な死角に入り込んでいたのである。
ということは、黒ジャンバーがおそらく犯人と思われた。しかし今更追っても間に合わない。そもそも紅子には、追う気は無かった。紅子にとって痴漢とは逃げるべき相手であって、決して追いかけるべき相手ではないのだ。
紅子はそのまま、触り魔を見送ると、ふと傍らに設置された姿見に気付き、映し出される自分の姿を力無く眺めた。そこには高校時代に購入した黒いダッフルコートに、短大入学時に購入したグレーのパンツを合わせた地味ないでたちの女が、顔面蒼白な様子で、所在無さげに佇んでいた。
この地味な服装のどこに、男たちを挑発する要素があるというのだろう。
紅子はうつろな瞳で、小四の頃に級友に借りた本に書かれていた一文をぼんやりと思い出した。子供のためのお洒落を指南したその本には
「袖なしの服やミニスカートなど露出の多い服装は、男性を挑発し痴漢被害の元です」
と丁寧なイラスト入りで、注意が喚起されていた。
この服装のどこが露出が多いんだ。どこが挑発的なんだ。
紅子は食い入るような瞳で、鏡の中の自分をにらみつけた。なぜ今日は、こんなにも性的被害が多いのか知りたかった。どうしてレディースファッションのコーナーでまで、痴漢に遭ってしまうのか知りたかった。
だが目の前の姿見は、見慣れた自分の姿を、無感動に映し出すだけだった。紅子は姿見から離れると、寿美礼の姿を求めて歩き始めた。もう買物など切り上げて、さっさと夕飯を食べながら、自分の話を聞いて欲しかった。だがフロア中を歩き回っても、寿美礼の姿は見当たらなかった。
紅子が途方に暮れていると、ようやくレストルームから出て来る寿美礼の姿を見つけることができた。紅子は急いでそちらに向かったが、その時、寿美礼の顔色の悪さに気付いてハッとした。青ざめぐったりとした様子の寿美礼は、明らかに体調が悪そうだった。
「紅子ちゃん。わたし何か具合が悪い」
先程とはうって変わって元気の無い寿美礼を、紅子はひとまず傍らのベンチに座らせた。寿美礼は大儀そうに腰掛けると
「ごめん。ちょっと今日無理かも。ご飯行くの」
とただでさえ小さな体を、更に縮こめた。
隣に腰掛けた紅子は、何てことだと天を仰いだ。今日どれだけ痴漢その他の被害に遭っても何とか持ちこたえていられたのは、退社後に寿美礼と会う約束があったからだ。寿美礼は紅子にとって、最も頻繁に利用される相談相手だった。
それは単純に、二人のウマが合うという、ただそれだけの理由ではなかった。寿美礼は特に、慎一に関する愚痴を聞くのを得意とした。高校生の頃、寿美礼は慎一と付き合っていたことがあったからだ。
短大で出会った紅子と寿美礼は、二年生の夏に出かけた花火大会で、やはり男友達を伴ってやって来た慎一と偶然出会った。寿美礼と慎一は、あまり過去にわだかまりを持っていないらしく、親しく言葉を交わした。慎一の連れの男が、寿美礼の高校の同級生だったことも、寿美礼に柔らかい応対をさせたようだった。
その流れで、四人は一緒に花火鑑賞をし、その時に、慎一が紅子を見初めた。寿美礼が振った側だと知っていた紅子は、特に寿美礼に遠慮する理由に思い当たらず、慎一と付き合い始めた。その内に、慎一の束縛の強さに辟易とし、それを寿美礼にこぼすようになった。
寿美礼は自分と同じ苦労を抱えた女友達に親しみを覚え、紅子と寿美礼は、以前にも増して交流するようになった。紅子は慎一に恋愛感情を抱きつつも、慎一を寿美礼との共通の敵として、寿美礼との友情を育てていった。
寿美礼と慎一に体の関係が無かったことも、幸いしたのかも知れない。この時代では、性行為に奥手な高校生はまだ珍しくなかった。また「男が絡むと、女の友情は崩壊する」という定説に逆らいたい思いが、女二人の間にあったのかも知れない。
それでも一度だけ寿美礼は、こう言ったことがあった。
「慎一くんが紅子ちゃんにモーションかけ始めた時は、わたしにヤキモチ焼かせるためなのかなとは思ったよ。でも段々本気なんだなって分かった時は、正直ショックも感じた」
と。
だが結局、それ以上に二人は、同じ男と付き合ったという事実によりもたらされる仲間意識の方を優先した。若い彼女たちにとって、恋愛にまつわる話以上に、楽しい話題など無かったから。
それをきっかけに二人は、実際以上に互いが互いを理解し合っていると錯角し、生活上のありとあらゆることを語り合うようになった。実際、慎一のことを抜きにしても、二人は気が合ったから、二人の仲は、親友と呼べるようになるまでに成長した。
それなのにその親友は今、体調不良を訴え帰ろうとしている。紅子は意気消沈した。ここでみすみす寿美礼を帰さなければならないのか。こっちだって午前中病院に行った身で出て来たというのに、日頃丈夫な人間が体調を崩したことにより、予定を覆されなければならないのか。
典型的な被害者の一例のごとく、紅子は身勝手な思いでがっかりした。だがだからといって、こんな状態の寿美礼を、無理矢理連れ回す訳にはいかなかった。体が弱い分、紅子は体調を崩した人間への思いやりは人一倍ある方だった。
「どうする、しばらく座ってたい? それともすぐ帰る?」
努めて優しげな声で寿美礼に尋ねると、「帰る」という返事だった。「歩ける?」と重ねて問うと、寿美礼はこくんとうなずいた。
「じゃあ、うちまで送ってくよ」
と紅子は立ち上がった。送ると言っても、別にタクシーを呼ぶ訳でもなく、自転車に乗せる訳でもない。寿美礼の自宅は、紅子が利用する駐輪場のある南口とは反対側の北口から、徒歩五分の場所だ。なまじ乗り物に乗せるくらいなら、歩いて行った方が早い。
しばらく腰掛けて落ち着いたのか、寿美礼は顔に血の気を戻しながら、「ごめんね」とつぶやいた。「いいよ、いいよ」と笑いながら、紅子は寿美礼を促すと、二階の通用口から駅に抜け、北口へと歩いて行った。
盛り場のある南口とは反対に位置する北口へ向かう通路は、金曜の夜だというのに、人影もまばらだった。右手奥の障害者用スロープの付近から、時折チャイムの音が侘しく響く。
傍らを無言で歩く寿美礼の顔を、紅子はチラリと眺めた。うつむき加減の寿美礼の顔は生気が無く、隣に紅子がいることも、ひょっとしたらこうして歩いていることすらも、理解していないのではないかと思われる程だった。
紅子はその様子を見て気落ちした。気落ちしたのはこの期に及んでも尚、この短い時間を使って、今日の愚痴を言えるのではないかと期待していたからだ。
だが寿美礼の様子は、今日の愚痴どころか、体調を気遣う言葉すらも発することをためらわせる程だった。まるで「体調不良につき閉店」というシャッターが、全身に下ろされているかのようだった。
休業中の寿美礼に気落ちしつつ、紅子は気落ちした自分に、更に落ち込んだ。友人の体を心配するどころか、愚痴が言えない事実を諦めきれないとは、自分は何と自己中心的なのだろうかと思った。
ひょっとして今日の数々の性的被害は、身勝手な自分へ与えられた神からの罰なのだろうか。あるいは人は窮地に落とされると、いかに身勝手になり得るかということを、神が教えようとしているのだろうか。
いや「人は」ではない。「自分は」だ。自分が状況次第で、いかに身勝手になり得るかということを、何か神がかり的な大きな力が、自分に教えようとしているのではあるまいか。
不幸が重なった人間は、往々にして原因を探ろうとするものだ。またその因果を、宗教的あるいはスピリチュアル的な観点に求めようとするのは、多くの人間に見られる心理だ。だから紅子のこの心の動きは、別段特殊なものとはいえなかったが、世はまだスピリチュアルブームを迎えていなかったので、その意味では、紅子の心は、時代に先駆けていたと言えた。
だが紅子は、何やら敬虔な思いに浸ると、全ては神の思し召しなのではないかと考え始めた。
けれどその時、紅子の思考は突然破られた。前方から歩いて来た男が突然、寿美礼に踊りかかったからだ。
また痴漢だ。紅子はすぐさま逃げようとした。しかし体調の悪い寿美礼を見捨てることができず、さりとて男に向かって行く勇気も持てなかった。そのため紅子は、一瞬どう動くべきか判断がつかず、金縛りに遭ったかのように硬直した。
紅子より少し遅れて、寿美礼も目の前の男に気付き、ハッと身構えた。男の手は、今まさに寿美礼の股間に迫っていた。紅子は慌てて寿美礼の手をつかみ、こちら側に引き寄せようとした。が、それより一瞬早く、男の手は紅子の股ぐらに伸び、サッと撫でたと思ったと同時に、男は身を翻し、駅の雑踏の中へと駆け込んでいった。
何が起きたのか瞬時には理解ができず、紅子はしばらくポカンとしていたが、その内、痴漢にフェイントをかけられたのだということに気付き唖然とした。それまで紅子は、会社のセクハラはともかくとして、通りすがりの痴漢というものは、頭のおかしい人間なのだと思い込んでいたからである。
それなのにこのような頭脳戦に出てくるとは、なかなかどうして敵も、頭が良いようである。とはいえ体調を崩した友人を伴っている時に、このような小ずるい手口を使うとは、あまりにも卑怯なやり方だ。
紅子は悔しさに歯噛みしたい思いだったが、その時、傍らの寿美礼が
「大丈夫だった? 触られた?」
と心配そうに尋ねてきた。
とっさに紅子は
「大丈夫。触られてない」
と嘘をついた。
今日の数々の性的被害を寿美礼に愚痴ることを、心の支えにしてきたというのに、今、寿美礼の目の前で受けた痴漢行為を否定するとは解せない話だ。しかし紅子の股間に残った感触は、遠い昔の記憶を呼び起こした。それは確か、小学二年生の頃のことだった。
同じクラスのセキザキソウゴに対し、自分がどんな思いを持っていたか、過ぎ去った今となっては、紅子は最早思い出すことができない。
ただ今、客観的に思い返してみれば、ソウゴは顔も成績も良い上に、スポーツ万能の少年だったし、女子児童を特にいじめることもなかったから、決して嫌ってはいなかっただろう。
だが紅子自身、初恋を覚えたのがその二年後のことだったから、当時ソウゴに対し、特別な関心を抱くということは無かった。昔の田舎の子供というものは、異性への関心を抱く時期が、概ね遅いものだった。
そんなソウゴが、突然紅子の股間を撫でたのは、ある日の休み時間のことだった。教室に他の児童が大勢いる中で、ソウゴはいとも平然とした顔で、通りすがりの紅子の股間を撫ですれ違ったのである。
なぜソウゴがそのようなことをしたのか、紅子にはさっぱり分からなかった。紅子の通う小学校では、児童は皆、学校指定のジャージを着用していたから、スカートめくりならぬズボン下ろしは、男子により度々行われていたが、しかし体を触られたのは、それが初めての経験だった。
理由も分からず、ただただそのような行為をされたことが不快だった。紅子は帰宅すると、母親にそれを言いつけた。母親はわざとらしく眉をひそめると
「そう。嫌だねえ」
と一言つぶやき、そしてその件をおしまいにした。
先程、痴漢にフェイントをかけられ、そして触られてしまったことを打ち明けたところで、寿美礼にしたって
「えー、嘘ー。やだねえ。もう何なんだろうねえ」
と言っておしまいにしてしまうに決まっていた。
体調の悪い寿美礼に、それ以上のことを期待できるはずが無かったし、そんなことを言われても、何の救いにならないことは、過去の自分がよく知っていた。だとしたら被害に遭ったことを打ち明けることに、何の意味も感じられなかった。
普段なら良い聞き手である寿美礼を横に伴いつつ、それにしてもこれはどういうタイミングだろうかと紅子は腹を立てた。つい先程、紅子は自分の身勝手さを振り返り反省していた。数々の性的被害も、自分の身勝手さを思い知るための機会なのではないかなどと考えていた。
それがその反省の真っ最中に、新たな被害に遭うとはどういうことだろうか。紅子は二つの結論を導き出した。つまり神などは実在しないか、あるいは実在したとしても性格が悪いのだ。
だがもし紅子が、真に敬虔な人間だったなら、こう考えただろう。ああ神様、痴漢が友ではなく自分を選んだことにより、友が被害から救われたことを感謝します。そしてどうか、あの痴漢にも憐れみを与えて下さい。彼は余程、世の中への鬱憤が溜まっているのでしょうと。
しかし紅子は、そこまで敬虔な人間ではなかった。そこで、自分は無駄な反省をしたと考え憤った。
その時、紅子の心中を知らない寿美礼が唐突に
「ああ、帰りたくないなあ」
と夜の空気に向かってつぶやいた。夕飯時の住宅街の灯りが、うっすらと不満顔の寿美礼の顔を照らしていた。
紅子は何が何だかよく分からずに、寿美礼の顔をまじまじと眺めた。寿美礼の自宅は、もう目前に迫っているというのに、この期に及んで何を言い出すのだろうか。
寿美礼は薄い唇から、フウッと小さな溜め息を漏らした。そして
「お母さんがさあ、わたしが具合悪くなるといつも怒るんだよね。『好き嫌いばっかしてるからだ』とか、『昨夜遅くまで起きてたからだ』とか言って。普段からそうだから、こうやって『具合悪いから紅子ちゃんとの約束切り上げて帰って来た』なんて言ったら、絶対すごく怒るの。だから今日は具合悪いから、ホント早く帰って寝たいんだけど、でも帰ればお母さんが怒るから、帰りたくないんだよね」
とつぶやいた。
紅子は少し意外に思いながら話を聞いていた。たまに自宅に遊びに行っても、寿美礼の母親はどういう訳だか姿を見せないので、自分は寿美礼の母親に、嫌われているのだろうかと思っていただ。
それが自分との約束を切り上げると、母親が絶対怒るということは、寿美礼の母親は、別に自分を嫌っている訳ではないようだ。ならばこれは、朗報ではないか。
紅子は少し機嫌を良くし
「うちだってそうだよ。実家にいた頃、具合悪くする度に親に怒られてたもん」
と答えた。
あの頃は風邪をひけば
「納豆を、食べないからだ」
と、母親の故郷山形流の、砂糖をまぶした納豆を食べないせいだと決め付けられ、頭が割れんばかりの頭痛に苛まれている横で
「そんなこと言って、家の手伝いをさぼろうとしたって駄目だからね」
とまくしたてられた。
あの頃と比べれば、体調を崩しても誰も助けてくれない一人暮らしであっても、どんなにかマシだと言えた。ひとたび自分の部屋に入ってしまえば、家事を放棄して、いくらでも体を横たえていることができるからだ。
寿美礼は紅子の同意に、「ホントに?」と嬉しそうな顔をした後
「うちだけかと思ってた。具合悪い横で、あれこれ文句言う親なんて」
と真一文字の眉をひそめたが、その時、前方に寿美礼の自宅の門扉が現れた。寿美礼は話を打ち切ると
「あ、ここでいいよ」
と立ち止まった。
普通なら玄関先まで送るものだろうと思われたが、普段から訪れた紅子に顔を見せない寿美礼の両親に対し、今夜に限って挨拶をするのも妙なものだと思い、紅子は
「じゃあ、お大事にね」
と寿美礼と別れた。
その後、紅子は元来た道を戻ろうとしたが、ふと立ち止まり、さてこれからどうしたものかと考えた。
アパートは賄い付きであるものの、今夜は寿美礼と会う約束があったから、夕飯は断ってしまってある。ということは、これから何か、食べ物を調達しなければならない。しかし友人と取る予定だった夕飯を、突然孤食に切り替えるのは、何とも侘しい思いがした。
駅へと続く静かな住宅街のか細い道を眺めながら、紅子はふと、慎一に会いたいと思った。どのみち自宅に帰るにしても、駅を通り越さなければならないのだから、だったらいっそ、駅のホームに降り立って、新宿行きの特急列車に乗ってしまいたかった。
慎一とは二週に一度会う取り決めになっていたし、先週末に会いに行ったばかりだから、本来なら今週は会う必要は無い。けれど紅子は今、慎一に会いたかった。
「お前もたまには、約束無しで俺んちに来て、びっくりさせるぐらいのことしてくれよ」
と常々電話口で不平を鳴らす慎一は、突然の訪問をさぞ喜ぶことだろう。そして例のごとく、紅子の体を激しく求めるだろう。
それでいい。それでいいのだ。ああシンちゃんとヤりたいな。紅子はこれ以上無い程に欲情しながら、慎一のことを考えた。
二泊三日で十二回という最高記録を持つ慎一は、会いに行けば、今夜もきっと、記録に及ばないまでも充分健闘することだろう。今日紅子の体の上を通り過ぎて行った数々の半端な情欲は、恋人の怒涛のような情欲で洗い流されていくだろう。そう毒には毒をもって制するのだ。
だが紅子は、はたと思いとどまった。皮膚科で処方されている湿疹用の飲み薬を、携帯していないことに気付いたのだ。
昔からアトピーの気のある紅子だが、乾燥によるものかあるいは寒冷じんましんか分からぬが、冬に症状の出ることが多かった。しかも最近では、東京に行くと必ず発疹が出るのだった。水や空気が汚れているせいかも知れない。
そのため紅子は、慎一に会いに行く際には必ず薬を持参するようにしているのだ。そうするとひとまずアパートへ帰らねばならない。だが一旦アパートへ戻っては、また外出することが大儀になるのは目に見えていた。何せ午前中に、風邪で半休を取った身なのである。
その時、傍らに一台の車が停車し、運転席の窓が開いた。中から二十代後半と思しき、あまり颯爽としない男が顔を出し、「すいません」と大地を這うような声を出した。朝方の車に乗った露出狂の例があったから、紅子は一瞬身構えたが、男はあばたをまぶした屈託の無い笑顔で、「I温泉はどこですか」と紅子に尋ねた。
街灯におぼろげに照らされるナンバープレートは、男が東京在住であることを示していた。どうやら観光客が道に迷っているらしい。
紅子は以前にもこの付近で、観光名所の一つである神社の場所を、夫婦者の観光客に尋ねられたことがあったから、今回もまたその類だろうと考えた。そこで紅子は、口頭でおおよその場所を伝え始めた。詳しい場所を伝えなかったのは、口頭で説明するには、場所があまりに遠すぎたからだ。つまりこんな離れた所で、I温泉の場所を尋ねるとは、いくら観光客とはいえおかしな行為だった。
案の定、男は分かったような分からないような顔をしながら、ドアを開け車から降りて来た。なぜ車を降りるのかと紅子は不審に思ったが、とにかく男に方角を理解させようとやっきになって、説明を繰り返した。
だが男は、紅子の説明を興味が無さそうに聞き流すと
「実は僕、こっちに来たばっかで友達いないんですよ。一緒に遊びに行ってもらえませんか」
と下卑た笑みを浮かべながらゆっくりと巨体を揺らした。紅子はつまり、よくある手口で足止めされたのだ。
紅子は猛烈に憤慨した。道に迷った気の毒な人と思えばこそ、親切に応対したというのに、ただのナンパだったとは、とんだ時間の無駄ではないか。
しかもナンパのために、道を聞く振りをしてこちらをだますとは、何たることだ。この男は、あたしがナンパのために嘘をつくような浅ましい男に、ホイホイついて行くような女だとでも思っているのか。そもそもこんな不細工な男に、誰がついて行くというのか。
紅子はこれ以上無いほどの冷徹な顔をすると
「いえ、忙しいんで」
とその場を立ち去ろうとした。だが男は、紅子の前に立ちはだかると
「いや、今すぐって訳じゃないですよ」
とまるで紅子の勘違いを馬鹿にするかのように笑ってみせた。
「今じゃなくても、あたしいつも忙しいんです」
と言いながら、紅子は目で、逃げ道を探した。車がやっとすれ違える程度の道幅のど真ん中に、停車された大型車。その脇に立ちはだかる大男。駅へ向かうのは困難に思えた。これは一旦、反対方向に向かうべきなのだろうか。
だが思案する紅子の肩を、男は突然、正面から押さえつけた。そして
「まあそう言わないで。僕マッサージとか上手いんですよ」
とつぶやいた。暗がりの中で、男の目はらんらんと輝いていた。
「マッサージ」という単語に紅子は仰天して硬直した。胸が小さいから、肩が凝らないと世間から思われている自分に対し、突然マッサージを持ちかけてきた男が不気味だった。ふと紅子は、男の巨体から塩釜のことを連想した。「死んじまった方がいい」塩釜の言葉が、頭の中でこだました。
首筋に程近い肩の辺りに、重くのしかかった男の手を感じながら、ああこの男は、自分を殺すことができるのだと、紅子は思った。駅に程近い住宅街でありながら、どういう訳か、辺りには人っ子一人通る気配が無い。
とはいえいつ誰が通りかかってもおかしくないこの道で、殺人を働くとは考え辛いが、しかし自分の車に押し込むくらいのことは可能だろう。ひょっとしたら男は、最初からそのつもりで、車を降りたのではないか。
車に押し込まれ、どこかに連れ去られ、自分は殺されるかも知れない。いや殺されないまでも、乱暴された上に、財布を奪われるくらいのことは充分考えられる。
紅子は恐怖に全身を貫かれながら
「やめて下さい。大きい声出しますよ」
と男をにらみつけた。恐怖のせいで声がかすれるのではないかと心配したが、案外出た声は平静だった。これならいざとなったら、大声も出せそうだった。
男は一瞬ひるんだ様子で
「僕、何もしてないじゃないですか」
と不満そうな声を出した。紅子は、ここは腕力より気力がものを言うと察し
「だったらこの手、離して下さい」
と少しヒステリックな声色に変換した。
すると男は、紅子から手を離すと
「こっちの人って、冷たいですね」
と捨て台詞を吐き、車に乗って行ってしまった。
紅子はホッとすると同時に、ムラムラと怒りが込み上げた。へえ、そんなに東京の人は、暇で優しいんですかと、思わず車を追いかけて文句を言いたいくらいの思いになった。紅子は痴漢からは嫌悪と恐怖に駆られて逃げ出すくせに、納得のいかないことをほざく相手とは、とことん戦いたくなるような、妙な気の強さがあった。
とはいえ納得がいこうといくまいと、先程の男も、痴漢であることには変わりなかった。紅子は追跡を諦めた。どのみち車で逃走する相手を、足で追いかける訳にもいかない。紅子は苛立ったまま、先程の考え事に戻った。つまりこの後、一体自分はどうするべきかといったことである。
またもや慎一に会いたいと思ったが、しかし先程よりは、その思いはしぼんでいた。慎一に会うのは構わないが、しかし慎一の住まいが、先程の男の捨て台詞によりどうにも心に引っかかった。東京は広いかも知れないけれど、東京の痴漢から逃れ、東京の慎一に会いに行くことに、何やらしっくりしないものを感じた。
その時、紅子はふと、ここが信也のアパートに程近い場所であることを思い出した。ならば折衷案として信也のアパートに行ってはどうだろうか。その思いつきに紅子は夢中になった。
そもそも信也に、アパートに来るよう誘われていた訳だし、東京のシンちゃんに会いに行くのが困難なら、地元のシンちゃんに会えば良いではないか。どちらも同じシンちゃんであることには変わりないのだし、発想は柔軟でなければならない。
数々の性的被害により、少々頭がおかしくなってきた紅子は、そう決意すると、信也のアパートに向かって歩き出し、途中の電話ボックスで、信也に電話をかけた。
電話に出た信也はいたく喜び、車で迎えに行くと申し出たが、紅子はそれを断った。確かに今日のように痴漢被害の多い日は、そうしてもらった方が安全な気もする。しかし紅子はもう、信也のアパートまで、もう徒歩で五分ほどの地点まで来ていた。ここで信也を待つくらいなら、このまま訪問してしまった方が早い。それなのにこんな場所にぽつねんとしていては、かえって痴漢を誘発しかねない。むしろこの先の方が、交通量は増え、痴漢には遭いにくいと考えられる。
だが電話ボックスを出た後、紅子はふと不安に苛まれた。これだけ性的被害が多い日というのも異常だが、それよりも紅子を襲う男たちの危険度が、パワーアップしているような気がしたからだ。
ひょっとしたらまだ次があるのかも知れないと、紅子は思った。行き着くところまで行かなければ、今日の被害は、終わらないのかも知れない。行き着くところ、それはすなわちインサートだろうか。
「『ぶち込んだる』が一番良かった」
頭の中で、社員旅行帰りにAVの感想を述べていた信也の言葉が響き渡った。ぶち込まれんのかなと思った。誰かにぶち込まれなければ、今日の連続被害に終止符が打たれないのだとしたら、どこの馬の骨か分からない男より、見知った信也の方がいいと思った。
全く性欲を感じない相手ではあるが、顔立ちもそう悪くないのだから、贅沢を言っている場合ではない気がした。どうせ誰かにぶち込まれなければならないのなら、せめて相手くらいは、自分で選びたかった。
だがもし信也と寝たら、紅子は人生初の浮気をすることになる。紅子は非常な好奇心をもって、自分の心を見つめた。もし浮気というものをしたら、自分は一体どんな感慨を持つのだろう。
その好奇心は、信也とのセックスはどんなものかといったことになど、全く及ばないほど強かった。つまり紅子は、それだけ信也自身には興味を持っていなかった。
ふと
「紅子ちゃんにも、いつか分かるよ」
という女の言葉が思い起こされた。それは別れた恋人に
「一人の異性に対して、一途になれないような人間は最低だ」
と別れを告げた時、四股の内の女の一人がそう言っていたと、恋人から又聞きで聞いた言葉だ。
その時紅子は、勝手なことをぬかすなと、女に腹を立てた。自分は一生、浮気をする人間の気持ちを理解することなどないと思った。ところがそれから二年も経たない内に、紅子は浮気をしようと思い始めた訳だ。
その女は、最初から全てを理解した上で恋人と付き合い続け、恋人を取り巻く女たちの顔ぶれが移ろう中で、ただ一人、恋人の元を離れず最大の理解者であり続けた。紅子が恋人と別れるまでは。別れてしばらくの後、女は飽きられ捨てられてしまったと、人の噂に聞いた。
そんな哀れな女の予言が、今まさに当たろうとしている。紅子は哀れな女に敗北したのだ。だがその敗北感は、紅子に喜びをもたらした。誘惑に勝った時ではなく、誘惑に負けた時に感じる爽やかな喜びに、魅力を覚えた。
何となく新しい世界が開けた気がした。自分が信じる価値観とは別の価値観の扉が、開いた気がした。その先にあるものが何なのか、紅子は見てみたい気がした。
だが紅子の高ぶる胸は、一軒の薬局を見て、冷静さを取り戻した。もしぶち込まれるようなことがあれば、妊娠の可能性が生まれる。愛の無いセックスで、子供ができたりしては一大事だ。
紅子はその小さな薬局の扉をくぐると、避妊具の置かれている棚を探した。店の片隅の目立たない場所に、そのコーナーはきまり悪そうに設置されていた。紅子はつかつかと歩み寄ったが、はたと足を止めた。どうにもこうにも、品揃えが悪いのだ。そもそも慎一が愛用している銘柄が置かれていないではないか。
紅子は以前、慎一と共にコンドームを買いに行った時のことをぼんやりと思い出した。
その時まで、慎一はいつも
「コンドーさんが、きつくてたまらない」
とこぼしていた。紅子は
「コンドーさんなんて、どれもそういうもんなんじゃないの」
と答えたが、慎一は
「一度、大きいサイズ用を試してみる」
と宣言した。
慎一を含め、二人しか経験の無い紅子は、確かに前の恋人よりは大きく感じられるとはいえ、慎一が大きいサイズ用を買わねばならないほどの大それたサイズだとは思えず、難色を示した。
慎一は身長が一七〇センチに満たない上に、体重も五十キロ代前半の華奢な男で、どうにも巨根の持ち主とは思えない体格だからだ。加えて「鼻の大きい男は、モノも大きい」の俗説に反し、鼻筋は通っているとはいえ、小さく薄い造りの鼻の持ち主だった。
しかし慎一はどうしても買うと言い張り、大きいサイズを購入した。そしてそれ以降、慎一は
「コンドーさんが、きつい」
とは言わなくなった。
その経緯により紅子は、どうも慎一は、大きい方らしいということを認識した。同時にコンドームにはサイズがあるらしいということを知った。そう、コンドームにはサイズがあるのだ。ということは、信也のサイズも分からぬというのに、ここでいかなるコンドームを買えば良いというのだろうか。
紅子は購入を断念すると、さっさと店を出て行った。やはりサイズの問題があるのだから、避妊具は男性側が用意しておくのが当然だと思った。
それでも、もし
「持っていないけれど、ヤりたい」
などとぬかすようなら、こんなに近所に薬局があるのだから、信也が買いに来れば良いのだ。もし閉店していたら、深夜営業している店まで、一人で行けばいい。車を持っているのだから、それくらいすれば良い。そこまでしてまでしたくないなら、別にしなくて結構だと、紅子は思った。
だがそうすると、最後に信也にぶち込ませることにより、今日の数々の性的被害にピリオドを打つという紅子の目論見は、崩れることになる。
紅子は途端に、信也のアパートを訪れることが億劫になった。元々はヤる気で来訪するつもりではなかったのだが、途中からヤる気になってしまった為、かえって何だかやる気が無くなってしまったのだ。
とはいえ今更、来訪を取り消す訳にもいかない。紅子は溜め息を吐くと、本屋兼ビデオレンタル屋の第二駐車場の脇を横切った。目指す信也のアパートはもうすぐだ。
その時、突然駐車場から
「はーい、驚かないで下さーい」
と拙い日本語と共に、イラン人らしき男が飛び出して来た。なぜ国籍の見当がついたかといえば、この頃、県内にイラン人が多く在住していることは、周知の事実だったからだ。彼らの一部は街の中心部でドラッグを売りさばき、一つの社会問題になっていた。
紅子は腰を抜かしそうなほど驚くと、目の前のイラン人らしき男を、まじまじと凝視した。時代劇なら「怪しい者ではありません」と言えば信用してもらえるかも知れないが、現実社会に於いては「驚かないで下さい」と言われたからといって、平静は保てないものだ。
心臓を波打たせる紅子に対し、イラン人らしき男は
「あなたにね、電話番号教えてあげようと思って」
と何やら恩着せがましい言い方をしながら紅子に迫って来た。日本語に慣れていないため、そのような物言いになってしまうのだろうが、紅子はその物言いに怪しさを覚え
「いえ、結構です。結構です」
と答えると走って逃げ出した。
更なるパワーアップを示されたようで怖かった。なぜと思った。今日の被害をおしまいにするために、インサートまで決意したというのに、紅子の思いとは別の形、すなわち相手が国際化するという形でパワーアップした事実に、紅子はやられたと思った。
まさかそう来るとは。今日の一連の出来事には、絶対黒幕がいるような気がした。それが神か悪魔か、あるいは別の何らかの力なのかは分からないが、とにかく自分が、目に見えない大きな力に、操られている気がした。そうでなければなぜ今日は、このように妙なことばかりに出くわすのか。
走る紅子の背後から、一台の車が迫って来るのが感じられた。まさか先程のイラン人か。いや考え過ぎだ。でも念のため逃げておこう。紅子は速度を落とさずに、信也のアパートの外階段を駆け上った。
信也の部屋がある二階にたどり着いた時、外階段の真下に車が停車し、運転席から先程のイラン人らしき男が顔を出すのが見えた。まさか本当に追いかけて来たとは。
紅子は青くなると、アパートの外廊下を突っ走り、信也の部屋のチャイムを、激しく鳴らした。程無くしてドアは開けられ、紅子は物も言わずに中に飛び込むと
「ロックして。ロック」
と信也に命じ、そのまま崩れ落ちるようにして、玄関先にうずくまった。これでとりあえずは、イラン人らしき男からの追跡は、振り切った訳だ。
肩で息をする紅子の頭上で、信也が
「どうしたの、一体」
と呆れたような声を出した。部屋着代わりのジャージを身につけた信也の姿は、飲み会で見せる個性的な装いの彼以上に、何やら大人びた雰囲気があった。
「イラン人に、追っかけられた」
息も絶え絶えに紅子が打ち明けると、信也は
「何だよ、それ。笑える」
とどうでも良い返事をした。紅子は瞬間、「笑えねえよ」と叫びそうになったが、その時、奥の方から小型犬がキャンキャンと吠えながら走り出て来た。犬好きの紅子は、思わずイラン人を忘れ
「どうしたの、この犬」
と信也に尋ねた。
「隣の奴がさあ、『急に実家帰る用ができたから、明日まで預かってくれ』とか言って」
「ここ、ペットOKだっけ」
「いや禁止。ばれたらまずい」
「何ていう犬種?」
「ミニチュアダックスフンド」
「名前は?」
「『十の夢』って書いて、トムだって」
「へえ男の子なんだ。十夢くんおいでー」
何だかヤンキーみたいな命名だと思いながら、靴を脱いで上がり込むと、紅子はしゃがんで、十夢を呼んだ。この頃はまだ、説明されなければ読めないような難解な名前を、ペットや子供につける習慣が一般に浸透していなかった。だから難解な名づけをするのは、ヤンキーかヤンキーあがりと相場が決まっていた。
だが十夢は、紅子の呼びかけを無視して、部屋の中を、元気いっぱいに駆け巡っていた。その元気さはちょっと異様なほどだった。
「あれ来ないね。あたし犬には懐かれやすい方なのに」
「何だかさっきから、興奮してるんだよな」
そう言って、信也は台所に入ると、ガステーブルの前に立った。ふと気付けば、辺りには油で熱したケチャップの匂いが漂っていた。
「今ちょうど夕飯にしようと思っててさ。紅子ちゃんも食う?」
「食う」
オウム返しで答えながら、そういえばそもそも、自分は誰かと夕飯を食べたかったのだと、紅子は思い出した。だとすれば、こうして信也手製の夕飯をご馳走になるだけでも、ここに来た甲斐があるというものだ。
「何か、手伝おうか」
と紅子は尋ねたが、もう出来ているから構わないと断られ、こたつに入るよう促された。コートを脱いでこたつにあたっていると、信也が皿を二つ運んで来た。
こたつの上に並べられたのは、ケチャップのまぶされたチキンライスだった。紅子はチキンライスを特に好きでも嫌いでもなかったが、ただ今日は、昼間の赤飯といいこのチキンライスといい、妙に赤い飯ばかりを食べさせられる日だと思った。
お待たせしました。「哲学的な彼女2」に投稿する作品に専念してたので、更新が遅くなってしまいました。
さて今回のサブタイトルは、「悪いのはどいつだ」です。平たく言えば、紅子にも隙があるんじゃ? ってことなんですけど、ただ、隙があれば痴漢してもいいワケ? っていうのは、女側の言い分としてありますよね。
そこら辺のことを問題提起しております。なので隙の部分その他、フィクション多いです。あしからず。
とはいえ「悪いのはどいつだ」には、もっと広い意味も込めています。その辺は感じ取って頂けたら嬉しいです。