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変質者とストッキングとガマン汁

 第32回すばる文学賞落選分を加筆訂正しました。

 199×年12月のある金曜日の朝、若杉紅子(わかすぎべにこ)はいつものように朝6時50分にアパートを出ると、自転車に乗って出勤した。

 始業時刻は8時だったが、紅子の勤めているプロパンガス会社では、女性事務員のみ7時半までに出勤して社内の清掃をするという不文律がまかり通っていた。無論その早朝出勤分の手当てなど出ない。そういう時代だったということなのだろう。

 その悪習に不平を鳴らす女性事務員は一人もいなかったし、入社1年目の紅子も、やはり異を唱えなかった。そのため紅子はその朝もいつも通り朝6時50分に自転車にまたがり、最寄り駅へと漕ぎ出した。師走の空気がペダルを踏む紅子の全身を冷たくなぶる薄暗い朝だった。

 紅子は白い息を吐きながらしばらく自転車を走らせると、駅から徒歩5分の駐輪場で自転車を停めた。駅の駐輪場は北口にしか無かったため、南口側から駅を目指す紅子は、いつもその商店街利用者のために設けられた、10台程のスペースの小さな駐輪場を利用していた。

 けれど自転車を降りた途端、紅子のあどけない顔立ちはその朝の空模様のようにどんより曇った。一人の男が自分を待っていることに気付いたからだ。

 駐輪場脇の片側三車線の左端にバイクを路駐しつつ、ヘルメットを被ったまま佇むその男の姿に、紅子は見覚えがあった。昨日の朝やはりこの場所で、突然車道から「おはようございます」と声をかけてきた男だった。

 早朝のことでいくら他に人影が無いとはいえ、普通このような場所で、わざわざ朝の挨拶などするものだろうか。そもそもこの男は駐輪場脇の道路に停車して一体何をやっていたのか。

 紅子は不審を覚えつつ、それでも一応「おはようございます」と挨拶を返した。すると男はそのまま傍らのバイクに乗り込み走り去った。そんな昨日のやり取りをまた繰り返したいがために、この男はまたもや自分が来るのを待っていたのだろうか。

 しかし紅子のその予想は外れた。男は今日は無言のまま、何やら小さな紙袋を紅子に向かって差し出した。一体何のつもりか。ぎょっとした紅子は

「いえ結構です。結構です」

 と二度繰り返すと、大急ぎで自転車をロックし駅に向かって猛ダッシュした。

 うっすらと霜の溶けかけた歩道は走る度にツルツルと滑り、全力疾走するには不向きだったが、雪国出身の紅子にとっては造作無いことだった。高校時代は冬になると毎朝雪の積もった未舗装の下り坂を駅に向かって駆け抜けていたものだ。

 ましてやまだ風花も舞わない舗装された歩道が、少々濡れていたからといって、足を取られるはずが無かった。雪国で18年暮らした紅子はブーツを購入する際に必ず靴底を確認する癖がついていた。滑り止め加工済みの靴と長年の経験さえあれば、濡れた道路も雪道も、走り抜けることは不可能ではなかった。

 けれど紅子は恐怖に目を見開きながら、駅前広場を横切り駅の階段を駆け上がって行った。先程の顔の見えない男の不可解な行為が不気味で、心臓がいつまでも波打っていた。

 これは駐輪場を替えた方が良いかも知れない。早朝のガラガラに空いた電車、に一駅分揺られながら考えると、紅子は電車を降り改札を抜け駅前の電話ボックスへと向かって行った。

 東京の専門学校生と遠距離恋愛中の紅子は、毎朝恋人の高井慎一(たかいしんいち)から、モーニングコールを義務づけられていた。この義務が紅子にとっては毎朝の苦痛の種だった。

 ケイタイ電話が普及した現在ならいざ知らず、おおよそとはいえ、ある程度の時刻を指定されたモーニングコールの日課は、紅子の行動と心を拘束した。なぜなら駅前には公衆電話が一つしか無い上に会社は駅から徒歩10分の道のりのため、駅前を逃せば会社までもう公衆電話は無いからだ。

 それならば電車に乗る前に電話すればいいのだが、電車に乗る前に電話などかけていては、電車に乗り遅れてしまう危険があった。

 車社会であるこの県では電車の本数が少なく、電車を一本乗り過ごすことは、すなわち早朝清掃の遅刻を意味した。社会人一年目で一人暮らしをしている上に、短大時代の奨学金を返済しながら金のかかる遠距離恋愛までこなしている紅子は、他の同世代の県民の足である車を所有する余裕が無かった。

 そのため、紅子は毎朝、その電話ボックスが使用中だったらどうしようと不安に駆られながら電話に近づき、無人の電話ボックスを見て安堵すると同時に毎朝自分にこんな焦燥を与える慎一を憎んだ。慎一には再三に渡りこの習慣の撤廃を求めていたが、恐ろしい程の電話魔である慎一は、頑として紅子の要求を受け入れようとはしなかった。

 今朝、慎一は7コールで電話に出た。受話器から冬の朝の気だるい寝床の空気が流れ込み、紅子はその倦怠に侵されそうな自分と戦った。こんな朝は、一浪後ビジネス専門学校に通い始めたため、自分と同い年だというのに、まだ卒業していない慎一に対する嫌悪が辛かった。

 東京で一人暮らしをしながら予備校に通っておきながら、どこの大学にも入れず、引き続き東京で一人暮らしをしながら、専門学校に通う息子に費用を出すような両親を持っている慎一が妬ましかった。学校から徒歩数分のアパートに住んでいるため、ギリギリまで寝床でまどろみ、そしてその寝床で、寒空の下コールする自分の電話をぬくぬくと受けている慎一が忌々しかった。

 だが今朝の慎一の声は優しかった。慎一は

「お前昨夜、風邪気味っつってたけど大丈夫か」

 と紅子を労った。紅子は顔をほころばせると

「うん、どうせ今日出れば休みだし」

 と答えた。

 低体温体質だというのに、朝から37度を超えていて決して体調は良くはなかったが、明日は土日なのだから今日一日くらいは何とかなりそうだった。

「あんまり無理すんなよ」

 そう言われてもどうしたらいいのか。

「……うん」

 少し返事の遅れた紅子に、慎一が「分かってるのか」とムッとした声を出した。紅子は「分かってるよ」と短く答えた。この後電話を切る前に、毎度のお約束のやり取りをせねばならないのだから、そのための時間を確保しなければならない。

 紅子の思いが届いたのか、慎一は

「まあ分かってんなら、いいけどな」

 とあっさり折れると

「じゃな、好きだよ。愛してる。絶対結婚しような」

 とお約束の言葉を述べた。

 紅子は「うん」とつぶやくと受話器を置いた。付き合い始めて一週間後に

「将来、結婚しよう」

 と電話で提案され、承諾した途端、毎度の電話のやり取りの最後に念押しのように告げられるその言葉は、朝の慌しいモーニングコールの際でも欠かされることは無かった。

 とはいえ付き合い始めて一週間で結婚を約束するのは早すぎる。だが

「まだ、早すぎる」

 という紅子の常識的な抗議は、慎一の非常識なやり方で一蹴された。

 慎一は紅子の反発を認めず、電話口で延々と紅子を説得し始めた。無論紅子も反論したが慎一は引き下がらず、そうこうする内に通話時間は五時間を越えた。そうなってくると紅子にとっては、まだ分からない将来の話などより、たった今いかにして電話を切るかといったことの方が重要になってきた。

 もちろん別れの選択肢が浮かばない訳ではなかったが、将来の結婚に対し、ここまでの執着を見せる男が、別れの提案はあっさり承諾するとは思えなかった。

 そこで紅子は、今とにかく電話を切りたいという目先の欲望に目が眩み

「分かった。結婚しよう」

 と口先だけで承諾した。将来の約束は後でいくらでも取り消しができるのだし、自分が嘘をつくのは嘘をつかせる慎一が悪いのだと思った。

 だがそれ以降慎一は、電話を切る前に必ず

「好きだよ。愛してる。絶対結婚しような」

 と念押しするようになった。それに「うん」と答える度に、また促されるまま

「あたしも、愛してる。結婚したい」

 、と答える度に、紅子は自分の発してきたもう数え切れない程の了承の言葉に縛られていくのを感じていた。

 ある時はもう結婚するしかないのだと観念し、またそれは別に悪い将来ではないと考えた。またある時は、自分は本気で結婚を承諾した訳ではないと元々の思想に戻ったりした。

 そして今朝の紅子はといえば、慎一のその言葉が何やら腹立たしかった。今朝の紅子としては、不透明な将来の話などよりも、先程の待ち伏せ男に遭遇したショックを慎一に訴えたかった。だが紅子はその件には触れず、まだよく分からない将来の約束をいつものごとく口先で承諾し電話を切った。

 出社時刻が迫っているから、モーニングコール時には自分が話したいことが話せない。先程の待ち伏せ男の恐怖を訴えることもできない。それなのに慌しい思いをして毎朝電話をかけさせられ、不本意な結婚の約束の念押しをされることが、今朝はたまらなく理不尽なことに思われた。

 紅子は荒々しい動作で扉を開けると、電話ボックスから身を滑り出し、駅前のロータリーを足早に横切った。人影はほとんど無くロータリー沿いに停められた車もまばらだった。

 自分も車を持っていたらもっと遅く家を出ることができるのに。こんな寒空の下、自転車と電車と徒歩でもって、会社を目指すような真似をしなくても済むのに。駐輪場で変な男に待ち伏せされることも無いのに。公衆電話からのモーニングコールを慎一から強要されることも無いのに。

 そんなことを考えながら歩く紅子の左側で、突然コンコンと車の窓を叩く音が響いた。紅子は足を止めると、ちょうど左手に追い越そうとしていたセダンを振り返った。ウィーンと音を立てて運転席の窓が開いた。

 道でも聞くつもりだろうか。紅子が中を覗き込むと、そこには露出させた下半身を懸命に擦りながらギラギラした笑顔を浮かべた男が座っていた。仰天した紅子は一目散に駆け出した。こんな朝っぱらから駅前に露出狂が現れるとは思ってもみなかった。

 息を弾ませながら紅子は考えた。冬の朝は危険なのだ。時間帯では危険度は計れない。一年で一番日照時間の短いこの季節、しかもこんなにも薄暗い今日のような日は、一日の始まりである朝でさえ痴漢の活動タイムなのだ。普通の会社に普通の時間帯に勤務している者であっても、その時間と交差してしまうものなのだ。

 だがだからといって、朝っぱらから二度も変質者に遭遇してしまうとは何ということだろうか。紅子はすっかり気が動転し、毎朝立ち寄るコンビニを思わず通過してしまった。それに気付いたのは行き過ぎてから五分も経った後だった。紅子はぽってりとした下唇を噛みしめると、その場に立ち止まり腕時計を眺めた。

 七時を回った腕時計の分針は、まるで重力に引き寄せられるようにして、七時半を目指しているかに見えた。紅子は焦りつつ思索した。

 コンビニで昼食用の食料を買っておかなければ、昼休みに買い出しに出る羽目になる。女性事務員はどういう訳か、四十分程しか昼休みを取らない慣習になっているため、休みに買い出しをするのは時間的にきつい。

 とはいえ会社では、毎日希望者を募って弁当屋に発注しているのだから、紅子もそれを利用すれば良い。ただどういう訳かそれを利用しているのは男性社員だけなのだ。そのため弁当屋の利用は気が進まなかった。そもそも他の女性社員は皆手作り弁当派なので、コンビニ派の紅子はただでさえ浮いているのだ。

 紅子は良きにつけ悪しきにつけ目立つことが嫌いだったから、そもそも自分一人が、コンビニ派である現状も受け入れがたかった。しかし会社に世話された賄い付きの女性専用アパートに住んでいる都合上、弁当が作れないのは仕方が無いことだった。

 賄い付きのアパートの個室に満足な台所設備があるはずが無い。備え付けの冷蔵庫は、ホテルの室室に設置されている程度の物なのでだ。

 以上の事情から紅子は腕時計を凝視すると、どうしたものかと考えた。今から走ってコンビニに戻り弁当を買うか、もしくは昼休みに走って買いに来るか、それとも今日一日だけは男性社員と同じ弁当屋を利用するか。

 紅子が思案に暮れていたその時、突然頭上から

「毎朝、会いますね」

 という声が降ってきた。紅子は驚いて顔を上げた。

 目の前には紅子とそう年齢の変わらない、二十歳前後とおぼしき学生風の青年が立っていた。紺色のピーコートの下にジーンズを覗かせ、爽やかな笑顔を浮かべている。青年の背後には最近駅伝で有名になった大学のキャンパスが広がっていた。ここの学生だろうか。紅子は眉をひそめた。

 青年の見た目には特に怪しいところも無かったが、紅子は先程の台詞が気になった。そもそも大学生が毎朝、こんな早朝に登校するものだろうか。今までこんな時間帯に学生らしき人影を見たことすらあったか定かではない。つまりこの青年だってこれまでに見かけた記憶が無いのだ。

 それなのに「毎朝、会いますね」とはどういうことか。今までは物陰に潜んで自分を見ていたということか。それともこの青年は少し頭がおかしいのか。この青年の妄想の中では自分は毎朝この青年と行き会っていることになっているのか。

 爽やかだと思っていたものが実は気味が悪かったという事実に圧倒され、紅子は全身に鳥肌が立った。無言で踵を返し元来た道を足早に戻る。得体の知れないその青年の前から一刻も早く逃げ出したかった。だがなぜ会社に向かわず駅に戻って行こうとしているのかよく分からなかった。よく分からないまま、紅子はハッと思い当たった。

 駅に戻れば露出狂がいる。だが引き返せば先程の学生風の青年が待ち構えているかも知れない。

 一体どうしたら良いのだろう。考えている内に紅子は気分が悪くなってきた。やはり無理をして出勤したのが良くなかったのかも知れない。年末進行で会社が忙しくなるのは来週からなのだし、今日は「風邪だから」と言って休めば良かった。

 だが今更休むのも気が乗らない。どうせ休むのならギリギリまで寝床でまどろみ、そして出勤時刻になってから欠勤の連絡を入れれば良いからだ。無理を押してここまで来てしまった以上、今更休んでは今日これまでの苦労があまりにももったいない。

 それにひょっとしたら、誰か他の社員が出勤途中の車中から自分の姿を見かけているかも知れない。第一欠勤の連絡はどうするのだ。公衆電話からかけては怪しまれてしまう。しかしそうはいってもいかんせん気分が悪い。何やら頭痛までし始めたようだ。

 思案した紅子は、こうなったら正直に言うしかないと考えた。何も朝から三人の変質者に会ったなどと言わずとも、出勤するつもりで最寄り駅まで来たが、どうしても具合が悪くなってしまったと言えば良いのだ。

 早起きをしてしまった件も、この足で病院に行けば解決する。受診の為に早起きをしたと思えば自分も納得できるではないか。どうせなら一日休むのではなく、午前中半休を取って受診し午後から出勤しても良いだろう。

 この暗く重苦しい気分も、変質者に遭遇したせいではなく風邪のせいだということにすれば、受診して治療を受けることにより回復することが期待できる。

 そうだ。全ては風邪のせいなのだ。変質者に遭遇したショックは回復させるのが難しいが、風邪による気鬱は病院である程度何とかできる。ならば今のこの気分は、風邪のせいだということにしてはどうだろうか。

 そう決意すると紅子は駅へと引き返した。駅前のロータリーには、先程の露出狂を乗せているとおぼしきセダンがまだ停車していたが、そのセダンが、確実に先程のセダンかどうか紅子にはよく分からなかった。運転をしない上に車に興味の無い紅子は車の特徴を覚えることが苦手だった。

 紅子は息を潜めるとそろそろとそのセダンへと近づいて行った。好んで近づいた訳ではないが、そのセダンの脇をすり抜けるのが駅への近道だった。紅子は視力0.2に満たない二重の瞳を凝らした。ナンバープレートの数字がおぼろげに浮かんだ。642だった。

 642(ロシュツ)。露出狂車だ。

 紅子は勝手な語呂合わせからそう思い込むと、猛ダッシュでそのセダンを追い越した。大学前の不審者は、お互い徒歩であるため避けるのは難しいが、エンジンを止めて自慰にいそしんでいる男などこちらが走りさえすれば関わりを避けることができる。その点も紅子が会社より駅を選んだ理由の一つだった。

 紅子はそのまま先程の電話ボックスに駆け込むと、会社に電話をかけ、電話に出た飯ヶ浜千景(いいがはまちかげ)に半休を取る旨を告げた。

 半休を取るということは、朝の清掃にも参加しないということだ。つまり同じ事務員である千景にとっては朗報ではなかったが、さして急ぎの仕事も無かったので千景は

「じゃあ総務部長に伝えておくね。気をつけてね」

 と簡単に了承した。

 紅子は受話器を置くと、唇の端にそっと笑みを浮かべた。先ほど慎一にモーニングコールをかけたその電話ボックスで、慎一に伝えた情報が今逆転したこの事実に胸がすく思いがした。

 毎朝自分にモーニングコールを命じ、そして夜には頼みもしないのに毎日電話を寄越し、今日明日の行動を逐一詮索する慎一。しかしそこまでしても、状況というものはわずかな時間で変わってしまうものなのだ。それも自分が意図しないところでいとも簡単に。

 そう思うと紅子は何やらざまあみろという気分になった。どんなに相手を縛ろうとしても、そして相手がだます意思を持たなくても、相手を完全に縛り管理することなど不可能なのだ。そんな不可能を必死に追いかけている慎一が紅子にはひどく滑稽に思えた。

 そして今のこの事態を作り出したのが、今朝遭遇した三人の変質者なのだと思うと、紅子は感慨深い面持ちになった。

 変質者など大嫌いだし、ましてや痴漢行為など許されるべきものではない。しかしどのようなトラブルも必ず何らかのプラス作用をもたらすものなのだ。そう思うと、彼らとの出会いも決して無駄ではなかったのかも知れない。ひょっとしたら一期一会とはこのような意味なのだろうか。

 電話ボックスの中で、妙な悟りを開きながら紅子が納得していると、後方からコンコンと扉を叩く音がした。紅子は慌てて吐き出されたテレフォンカードをつかんだ。いつから待っていたのだろうか。早く次の人に譲らなくては。だが振り向いた瞬間、紅子の表情は凍りついた。そこに下半身を露出させた男が立っていたからだ。

 紅子は声にならない叫びを上げると、思わず後ろを振り返った。だがそこには無機質な公衆電話が鎮座しているだけだった。どこにも逃げ場が無い。紅子は戦慄した。

 今朝遭遇した三人の変質者と出会った時、紅子は四方に逃亡スペースを保持していた。そのため紅子は二本の脚でもって変質者たちから逃れてきた。だがこのガラスの小箱は後方の扉しか出口が無い。そしてその出口は露出狂によって塞がれている。一体どうしたら良いというのか。

 この八方ふさがりの状況で、紅子は悠長に対策を練りはしなかった。単純にこの緊迫感から早く逃れたかったからだ。紅子は何の策も無いまま再び出口を振り返った。ガラスを突き破ることは物理的に不可能なのだから、だとしたら例え変質者とはいえ人間に突進した方が、解決の糸口が見つかりそうな気がしたのだ。

 だが目の前には先程の露出狂の姿は無く、代わりに駅から吐き出された人々が、どやどやと思い思いの方角に散って行く姿が見えた。紅子は慌ててその人混みの中に突進すると、人々の流れに逆らうようにして改札を抜け、今しがたホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。




 今朝方眺めた景色を巻き戻すかのような、C線の風景が流れる様を眺めている内に、紅子の意識はC線の西のI線にある無人駅付近の細い道路へと降り立った。

 紅子は小学三年生だった。左手に赤ベルトのスヌーピーの腕時計を巻きつけ、右手には楽譜の入ったレッスンバッグを提げていた。今日は二つ隣の駅の先にあるエレクトーン教室のレッスン日だ。これから電車に乗って教室に向かうのだ。

 駅へ向かう紅子の足取りはいつも通り重かった。三歳の頃からレッスンに通っているだけあって、音楽の成績は良かったし音感もリズム感も良かったが、しかしそれは学校内での話だった。エレクトーン教室の中で紅子は劣等生だった。週一のレッスン日に備えて家でも練習をしなければならないのに、全くしていなかったからだ。

 音楽が嫌いだった訳ではない。そしてエレクトーンを嫌いだった訳ではない。ただ毎日進んで鍵盤をたたきたいと思う程には、好きではなかっただけだ。週一のレッスン日だけエレクトーンに触れるといった悠長なやり方では、エレクトーン教室では劣等生になってしまうのだ。

 だが子供たちをエレクトーン教室に通わせるのは、両親の教育方針だったから仕方が無かった。決して裕福な家庭ではなくむしろ貧乏だったに関わらず、彼らは頑なに、練習嫌いの紅子をレッスンに通わせ続けていた。

 紅子はのろのろと駅の階段を上った。駅前にわざわざ、「狩猟禁止区域」の注意書きを掲げておかなければ、狩猟が行われかねないほど自然豊かな環境に作られた小さなその駅に、ふと気付くとこの日は珍しく先客がいた。見たことの無い中年男だった。

 紅子が駅のホームに立つと、男は紅子に近づき後ろから無言でおぶさってきた。紅子は男の重みに耐えながら密かに疑問を持った。この人は大人なのにどうして甘えているんだろう。

 小三の紅子はぼんやりと幼稚園時代を思い出した。あの日は確か、これから向かおうとしている二つ隣の有人駅に、両親と自分と弟の四人で降り立った。四人の目の前を子供のように背の低い三十絡みの男が通り過ぎて行った。

「ねえあの人、大人なのに何であんなに小さいの。ねえ何であんなに小さいの」

 大声で尋ねる紅子を父親は叱った。

「そういうことを、言ってはいけない」

 このおじさんが、大人なのに自分に甘えていることも、きっと「どうして」と言ってはいけないのだろう。紅子は歯を食いしばると背中にのしかかる男の重みに耐えた。男はぴくりとも動かず紅子の幼い体におぶさり続けた。

 と、不意に男は紅子から体を離すと、急ぎ足で駅のホームを降りて行った。紅子が男の背中を見送ると、そちら側から一人のサラリーマンらしき男がホームの階段を上って来るのが見えた。

 帰宅後、紅子は母親にその出来事を話した。母親は目を吊り上げると

「どうして『やめて』って大声出さないの」

 と尖った声を出した。紅子は訳が分からなかった。そもそも紅子にとって大人とは自分の肉体に不快なことをする存在であり、子供には嫌がる権利が無いのだった。

 だから父親と母親は紅子を叱る時に大抵手を出したし、担任のネモトマスヨ先生は、忘れ物をしたくらいで紅子の頬に墨で×を書いたりするのだ。

 小学校に入学したばかりの頃のことだった。五十代のベテラン教師であるネモト先生は、授業初日に忘れ物をした児童の手の甲に×を書いた。次の日になると忘れ物をした児童は両手の甲に×を書かれた。そしてその翌日に忘れ物をした児童は、頬に×を書かれた。

 紅子は初日と翌日は忘れ物をしなかったのに、三日目に忘れ物をしたばかりに頬に×を書かれた。ホシミツル君は初日と翌日の二回に渡って忘れ物をしたのに、三日目だけ忘れ物をしなかったので、その日は何もされず、紅子の頬を指して笑った。

「不公平だ」と親に訴えたところで、親は何もしてくれなかった。そんなことくらいで学校に文句を言う親など滅多にいなかった。

 いやそれ以上の体罰が実行されても、学校に文句を言う親など、まず考えられない時代であり地域だった。法律上は学校での体罰は禁止されていたが、それは現在の道路交通法のように建前の域を脱していなかった。そんな地域が他県からは「教育県」と呼ばれる時代だった。

 だから紅子にとって大人とは、自分の肉体に不快なことをする存在であると同時に、疑問を挟むことなど許してはくれない存在だった。それがなぜ駅のおぶさりおじさんに限っては、「やめて」と言って良いのか。いやむしろ言わねばならないのか。

 紅子には理解できなかったが、ただ母親の口調から、何やら自分が大変に忌まわしい出来事に遭遇してしまったらしいということだけは察しがついた。そして「やめて」と言わなかったことにより、自分までもが忌まわしい存在になってしまったような気分になった。

 翌日登校するとクラスでは、昨日紅子の利用した駅の、一つ隣の無人駅に現れた痴漢の話でもちきりだった。出没時刻は紅子がおぶさりおじさんに遭遇した二十分後だった。痴漢はクラスメイトのムコウダメリちゃんにおぶさったが、その後駅に人が現れたため、慌てて去って行ったということだった。

 そうか。あのおじさんはあの後隣の駅で同じことをしたのか。あのおじさんは痴漢だったのか。

 紅子は漠然と理解すると、母親の吊り上った眼を思い出しおぶさりおじさんをそっと憎んだ。おじさんがおぶさってきたことよりも、母親にあんな目でにらまれたことにより、自分が汚されてしまったことに不快を覚えた。母親にあんな目をさせたおじさんを紅子は一人そっと憎んだ。




 目の前の扉が開くと同時に、賑やかな構内のアナウンスが響き渡り、紅子の意識はC線の現在地へと戻った。紅子は駅へ降り立ちホームを見るともなしに見渡した。今朝方この駅を利用した時と比べ、格段に通勤通学客の数が増えていた。

 改札に向かいながら紅子はふと考えた。これだけの人数に囲まれていれば、自分は今朝方の変質者たちに遭遇することも無かったのではないだろうか。田舎の変質者は大抵小心者だ。混雑を利用して女の体に触れる都会の変質者とはまるで違う。いやそれとも露出狂と触り魔の本質が違うのだろうか。

 セダンの中でオナニーをしていた男と、電話ボックスの外で下半身を露出させていた男のことを、紅子は考えた。あの二人は同一人物だろうか。気が動転していた上に近眼の紅子は二人の人相がよく分からなかった。そもそも露出された下半身すらよく見えなかった。

 彼らは下半身を見せたかったのに、見せた相手が近眼では、目的を完全に果たしたとはいえないのではないだろうか。加えて自分自身あの二人が同一人物か否か判別できない。近眼とは何と双方にとって不利益なものであるか。

 紅子は眼鏡かコンタクトレンズを購入したいと考えた。眼鏡は所持しているのだが、視力の落ち始めた小五の頃に購入した物なので、現在の視力に合わなかった。

 小六の眼科検診の際に、すでに眼鏡を作り直すよう指導されたのだが、それを両親に告げたところ父親が暴れてテーブルをひっくり返した。紅子は

「検診で言われただけで、あたしは別に新しい眼鏡なんか欲しくない」

 と嘘をついた。合わない眼鏡を使用している内に益々視力が悪くなった。

 どうせ合わないのだからと裸眼で過ごしているために、紅子はしょっちゅう色々な物にけつまずいたり、知人に遠くから手を振られても気付かず無視してしまい評判を落としたりしていた。それでも両親は、眼鏡のような高価な物をしょっちゅう買い換えてやるほどの愛情を、紅子に感じていなかったのだから仕方が無かった。娘をエレクトーン教室に通わせることは両親の虚栄心を満たすことになったが、実用的な眼鏡の購入など、両親にとっては何の意味もなさないのだから仕方が無かった。

 学校も買い換えの指導を行うだけで、実際に買い換えたかどうかまで確認するほど、面倒見は良くなかった。当時はネグレクトなどという言葉など存在していなかった。

 言語学者ソシュールの言うように、概念があるから言葉が生まれるのではなく、言葉があるから人間は概念を認識するのだ。当時からネグレクトや児童虐待はあったがその言葉が無かったため、多くの人々はその概念を認識していなかった。

 だから紅子は0.2に満たない視力で始終転び、露出狂に二度に渡り遭遇しても、それが同一人物か否か判別することもできない有様だった。

 だが紅子はこう考えた。もしあの露出狂が同一人物だった場合、自分はのこのこと、二度目の被害に遭いに行ってしまったことになる。だとしたら自分の間抜け振りに、地団太を踏むことになるだろう。だからやはり、近眼ゆえにあの露出狂が同一人物か否かを見極められなくても構わないのではないだろうか。

 自己嫌悪という感情は自分が知っている中で最も辛い感情だ。そもそも被害者である自分が、なぜ更にそのような辛い感情を持たねばならないのか。やはり眼鏡やコンタクトレンズの購入は見送ろう。

 手痛い出費の予定が無くなり、紅子は急に肩の荷が降りたような気分になって、足取りも軽く病院を目指し始めた。そもそも一人暮らしをしながら短大の奨学金を返済し、遠距離恋愛をしている上に虚弱ゆえの病院通いをしている紅子に、眼鏡購入の資金などあるはずが無かった。

 経済的な理由というものは、大抵の場合、全ての事情において最優先される。経済苦の人間というものは節約の前提でものを考えるため、金を使わない理由を考え出すのはお手のものだ。紅子はこれまでに二度ほど、近眼ゆえに車に轢かれそうになったこともあったが、それでもやはり無い袖は振れなかった。

 そしてこれは別段特殊な考え方とは言えない。現代においても、眼鏡やコンタクトレンズは医療費控除の対象にならないのだから。貧しい人間は、近眼ゆえに車に轢かれて死んだとしても仕方が無いというのが国家の考え方であり、日本が民主主義である以上その考え方は民意なのだ。

 確かに道交法上では、駐車場の出入り口に歩道がある場合、運転者は歩行者に注意しなければならないことになっている。だから近眼の人間が歩道を通行中に駐車場にさしかかったところで、駐車場を出入りする車に轢かれるはずは無い。道交法上、車は必ず止まるからだ。

 だから貧しき者に光を与えない国家と民意が、必ずしも間違っているとは言えない。道交法が守られる前提なら近眼で死ぬ確率はかなり低い。そもそも近眼などパソコンやゲームのやり過ぎがいけないのだ。

この頃まだパソコンは普及していなかったし、紅子はゲームの類は、トランプくらいしか所持していなかったが、しかしそんなことは関係が無い。この時代では近眼の理由はゲームのやり過ぎとテレビの観過ぎによるものと相場が決まっていた。

 紅子は実家にいた頃、両親にテレビを厳しく制限されており、観過ぎにより視力が悪くなるどころか、観なさ過ぎによりクラスの話題についていけないほどだった。しかし事実など、世間にとってはどうでも良いことなのだ。

 この時代の世間の常識は、近眼の理由はゲームとテレビだった。経済苦ゆえに眼鏡が買えないなど考えられないことだった。そこまで貧しいのなら無理して一人暮らしなどせず実家で暮らせば良いのだった。

 また子供を愛さない両親などいないのだから、父親がを殴るとか、

「お前たちを作って、本当に損した」

と言われたとか、両親の存在がストレスで幼稚園児の時に神経性胃炎を起こして病院に運ばれたとか、このまま実家にいたら自分の心身が崩壊してしまうなどという紅子の話は、全部嘘に決まっていて、そんな嘘つきが始終体調を崩すのは、甘えていて自己管理ができていないだけなのだ。

 そしてその世間の常識は、そのまま紅子の自己評価にもつながった。自分がこんなに体が弱いのは皆が言う通り、甘えて自己管理ができていないせいなんだろう。甘えと自己管理とは何のことかよく分からないがどうせ聞いても誰も教えてくれないのだし、具合が悪いのなら病院に行かなければ。

 歩みを進める紅子の目の前に、かかりつけの総合病院の玄関が見えてきた。総合病院は混雑している上に料金が高いのだから、ただの風邪なら、個人病院へ行くのが経済苦の紅子にとってはふさわしい。だが残念ながら無知な紅子は、駅の側のたまたま目についたその病院へ通っており、今日も何の疑問も抱かず入り口を通過して行った。




 受付開始時刻前に到着したというのに、病院はすでに十数人の患者たちが待機していた。若者や中年もちらほらいたが多くは老年層で占められている。

「モギさんの姿が見えないけど、具合でも悪いのかね?」

「心配じゃんね」

 患者仲間を心配し合う老人たちの会話を背後に、診察券入れに診察券を投入すると、紅子は待合所の椅子に腰掛けた。

 医療費の安い老人たちが、病院を社交場代わりに利用していることが社会問題になっていることは、紅子も知っていたが、そんなことに腹を立てる余裕も無いほど疲れていた。マガジンラックに差し込まれている週刊誌を取りに行く元気も今日は無い。

 バッグを膝の上に載せると、紅子は椅子の背に体をもたれまぶたを閉じた。蛍光灯の光が閉じたまぶたの上に降り注ぎ紅子に赤桃色の模様を見せる。その色彩は今朝方見た露出狂の下半身を連想させた。

 紅子は身震いするとカッと目を見開いた。一瞬のことだった上に近眼のため、彼らの下半身をきちんと見ることは出来なかった。その時紅子が見たのは下半身に広がる赤桃色の色彩だった。

 卑猥で隠微で恐怖の対象でしかない赤桃色。まだあたしを襲うのか。脚で逃げ電車に飛び乗って逃れても尚、残像はあたしを追って離さないのか。

 紅子は歯をギリリと食いしばった。小三の頃無人駅でおじさんがおぶさってきた時も、紅子は歯を食いしばってその重みに耐えた。それから十二年経っても尚、紅子は歯を食いしばり続ける。このままでは食いしばる歯が磨り減ってしまいそうだと思った。

 その時、紅子の斜め前方で

「いつまで待たせるんだ」

 という男の患者の怒声が響いた。紅子は思わずそちらを見やった。四十絡みの目玉のぎょろついた男が、早く診察を始めろと看護婦に食ってかかっているところだった。

 そんなことを言っても、まだ診察時刻になっていないのだから無理な話だ。紅子は呆れながらその男を観察した。男は安物のジャンバーを羽織り、つんつるてんのズボンを履き、ズボンと靴下の間からはかさついた毛脛が見えていた。

 ちょっと頭のおかしい人かも知れないと紅子は考えた。頭のおかしい人間など、今朝方出会った三人もしくは四人の変質者だけで充分だった。もうこれ以上異常な人間とは関わりたくない。紅子はその男から目を逸らしたが、そこでふと思い当たった。

 世の中にはごね得というものが存在する。あの男がああやってごねることにより、早く呼ばれることになり、その分自分の順番が繰り下げられることになるかも知れない。そんな不正を許しても良いのだろうか。

 紅子は視線をごねる男とその隣で困惑する看護婦の方へ戻すと、軽く眉をひそめてみせた。この騒ぎにより、甚だ不愉快な思いをしたということを、看護婦に視線で訴えておく必要があるのではないかと思ったからだ。

 だが紅子のこの作戦は裏目に出た。何と看護婦ではなく、男の方が紅子の視線に気付き近づいて来たのだ。

 やばい。ガン飛ばしてたと思われたかな。インネンつけられたらどうしよう。紅子はおびえながらそっと男から視線を外した。すると男は紅子の右隣に腰掛け話しかけてきた。

「全く、待たせるよなあ」

 その砕けた物言いの明るさに紅子はホッと胸を撫で下ろした。どうやら男は紅子の不快そうな視線を、待たされていることによる病院側への不満と捉え、自分の仲間だと考えたらしい。

 とはいえ真冬に毛脛を晒した姿で病院に現れ、看護婦にいちゃもんをつけるような男に、仲間と思われることを喜んで良いのかどうかは疑問だった。しかし少なくとも喧嘩を売られるよりはマシだろう。そう考えた紅子はとっておきの笑顔を作ると

「そうですねえ。でもまだ診察時間じゃないですからねえ」

 と仲間ではないが敵対関係でもないことを平和的に表そうとした。

 男はそれを聞くとしばらく紅子をジロジロ眺めていたが、突然

「あんたは、どこが悪いの」

 と尋ねてきた。初対面の男のその物言いに紅子は内心ムッとしたが、しかし笑顔を崩さないまま

「さあー、まだ診察を受けてないから分からないですう」

 と語尾を伸ばしながらはぐらかした。この男は、初対面の人間にどこが悪いのか聞くことは失礼だと知らないのだろうかと紅子は考えたが、すぐに知らないのだろうと判断した。この男は医者が診断するまでもなく多分頭が悪いのだ。

 するとその頭の悪そうな男は、今度はこう質問した。

「あんたは、結婚してるの?」

 紅子は思わず目を丸くした。これまで二十年生きてきたが、結婚しているのかと聞かれたことはこれが初めてだった。そもそも童顔の紅子は大抵二、三歳は年下に見られることが多く、結婚どころか学生と間違われることの方が多いのだ。

 それが結婚しているのかとはどういうことか。いや仮に結婚しているような年齢に見えたとして、どうして今突然そんな質問をしてくるのか。

「え? いいえ」

 戸惑ったままそう答えると、男は紅子の右手の薬指を指し「それは?」と尋ねた。そこには二十歳の誕生日に慎一から贈られたゴールドの指輪がはめられていた。

 この頃若い女たちの間で一つのジンクスが広まっていた。それは

「十九歳のシルバーリング。二十歳のゴールドリング。二十一歳のプラチナリングを贈られた女は幸せになる」

 というものだった。

「贈ってくれた相手とは、幸せになれない」

 というジンクスもついて回ったものの、女たちは一つの信仰のように十九、二十、二十一の歳にもらう指輪に憧れた。

 紅子も例外に漏れず、十九歳の誕生日にはシルバーリング、二十歳の誕生日にはゴールドリングを恋人にねだった。ジンクス通り十九歳の誕生日にシルバーリングを贈ってくれた相手とは、相手の四股が発覚して別れてしまったが、若い紅子にはすぐ新たな恋人が現れ、二十歳のゴールドリングを手に入れることができた。

 その恋人、毎朝モーニングコールを要求し、電話の度に結婚に向けての意思確認をする煩わしい慎一とも、ジンクス通り別れることになるのかということよりも、紅子にとってはいずれ迎える二十一歳の誕生日にプラチナリングをもらえるか否かの方が重要だった。

 とはいえ慎一のことを好きではないのかというと、決してそんなことは無かった。シルバーリングの恋人には四股をかけられていた都合上、淋しい思いばかりさせられたが、慎一は遠距離だというのに疎ましい思いをさせられるほど、自分のことばかりを想っている。そこまで自分を想ってくれる男が愛しくないはずは無かった。

 親に愛されなかった上に、四股をかけられた経験を持つ紅子は、常人以上に自分を構ってくれる人間に対する感謝の念が強かった。とはいえ紅子は面食いだったから、不細工な男のアプローチはことごとく無視してきた。けれど慎一はシルバーリングの恋人よりは落ちるとはいえ、まあかっこいいと言える顔立ちだった。

 見栄えがする上に自分に執着する男。これ以上何を望もうかと紅子は思った。若い紅子はそれ以上に必要なものがあることを知らなかった。だが無意識に、時には意識的に、紅子は慎一の欠点を感じていた。その不満が、紅子にゴールドリングをねだらせたのかも知れない。

 贈ってくれた相手とは幸せになれないとは、何と悲しいことかと思いつつも、それでも贈られることにより自分が幸せになることを紅子は望んだ。ジンクスの前半しか知らない世の男たちは、愛しい女のためにそしてジュエリー業界を潤すために、せっせとリングを贈り続けた。

 そんな過程で贈られた指輪を指して、既婚の有無を問う傍らの男に対し、紅子はけげんな面持ちで

「これ、右手ですけど」

 と答えた。男は意味が分からずきょとんとしていた。

「結婚指輪は、左手の薬指です」

 ああ成る程と納得する男を眺めながら、紅子は内心、馬鹿かこの男はと毒づいた。このゴールドリングには誕生石であるガーネットが飾られていた。

 サムシングブルーの言い伝えにより、結婚指輪の裏側に、小さな青い石をはめ込むケースはある。しかし結婚指輪の表に石を付けるなど、家事も仕事もする必要の無いどこぞの奥様でない限り、通常はあり得ない。はめる指も指輪の種類も知らず指輪を見ただけで自分を既婚者だと誤解したというのだろうか。

 紅子が苛々しながら男から視線を外そうとすると、男はぎょろりとした眼光で、その視線に絡み込んだ。そして突然

「あのさ、あんたにストッキングをプレゼントしたいんだけどさ、車の中に入ってるんだ。ちょっと駐車場まで来てくれないかな」

 と言いながら腰を浮かした。

 唐突なその申し出に紅子は一瞬混乱した。そのことと自分が独身だということに、何の関係があるのかよく分からなかった。

 分からないまま紅子は

「いえ、あの呼ばれたら困りますから」

 と断った。いくら経済苦だからといって、初対面の男にストッキングをプレゼントすると言われて喜ぶほど、紅子は神経が太くなかった。

「でも、すぐそこだから」

「でも、もうすぐ診察始まりますから」

 その時、紅子の声に被せるようにして看護婦の声が

「ユイさーん。ユイヨウキチさーん。一番にお入り下さーい」

 と流れた。男はその声にハッとすると立ち上がって「一番」と書かれた診察室に入って行った。

ナイス看護婦。ごね得万歳。紅子は心の中でガッツポーズを取るとホッと安堵して椅子に背をもたれかけた。内科の診察室は一番から四番までありおそらく今日は全てがフル稼働するはずだから、診察が始まってしまえば、誰がどの診察室に入りその後どこへ送られるかはもう分からない。先程のユイとかいう男ともこれでおさらばだ。

 しかし初対面の女に、「ストッキングをプレゼントしたい」と言い出すとはまともではない。紅子はあれも変質者だろうと考えた。それにしてもまさか真昼間の病院で変質者に遭遇するとは、紅子は思ってもみなかった。世の中に安全な場所は無いのだろうか。水と安全は無料ではなかったのだろうか。

 紅子がげんなりしていると

「若杉さーん。若杉紅子さーん。三番にお入り下さーい」

 と看護婦の声が流れた。紅子はよろよろと立ち上がると「三番」と書かれた診察室へ、ふらふらした足取りで入って行った。




 診察室で風邪の諸症状を訴えた後、紅子は採血室前の待合廊下に行くよう指示された。あまりにも頻繁に風邪をひき過ぎるため、検査をした方が良いとの医者の判断だった。頼りない足取りで待合廊下にたどり着き椅子に腰掛けると、紅子の頭上で聞き覚えのある声が響いた。

「あれっ。あんた採血まで?」

 またもや遭遇してしまったユイに暗い顔を向けると、紅子は「はあ」と力無く返事をした。この混雑した病院内で最も会いたくない人物に再会してしまうとは、全くもってついていなかった。

「大変だねえ。あんたどこが悪いの」

「それを、これから調べるんです」

 大変なのはお前と再会してしまったことの方だと思いながら、ユイから視線をそらそうとすると、ユイはぎょろついた目玉でまたもや紅子の視線に絡み付きながら

「ストッキングあげるから、俺の車のとこまで来てよ」

 と再び紅子を誘った。

「いえ、今から採血ですから」

「まだ、呼ばれてないじゃん」

「席外している間に、呼ばれたら困りますから」

 押し問答をしていると、採血室から看護婦が呼びかけた。

「若杉紅子さん。お入り下さーい」

 紅子は安堵の表情を浮かべると採血室へと入って行った。消毒を施された紅子の腕の静脈に、鈍く光る注射針が突き刺さった。紅子はそっと顔をそむけ、腕の痛みと気の遠くなるような気分の悪さに耐えた。あのしつこいユイから逃れた事実の前では、採血の不快感など大した事ではなかった。

 看護婦はアルコール綿を紅子の腕に紙テープで貼り付けながら

「じゃあここ押さえながら、さっきの場所で呼ばれるまで待ってて下さいねえ」

 と紅子に告げた。紅子は取りすがるようにして看護婦に「あのっ」と話しかけた。

「えっと待合室に変な男の人がいて、さっきからしつこくされて困ってて、こちらで待たせて頂く訳にはいきませんか」

 中年の看護婦はそれを聞くと、「まあ」と言って目を見開いた。

「いいわよ。だったらそこの椅子に座ってて下さい」

 隅にある椅子を指すと、中年の看護婦は険しい顔をして待合廊下の様子を見に行った。紅子はホッと胸を撫で下ろすと、示された椅子に腰掛け親指に力を込めて止血をした。

 しばらくすると先程の看護婦がやって来て

「若杉さん、ちょっと」

 と紅子を手招きした。紅子がそちらに向かうと看護婦は扉の隙間から待合廊下を覗かせ

「さっき言ってた、変な男の人ってあの人?」

 と椅子に座った見知らぬハゲ頭の男を指した。男は人の好さそうな穏やかな表情を浮かべながら、蛍光灯に頭を照らされるままに輝いていた。

「いえ、違います」

 そう言って首を伸ばすと紅子は辺りをぐるりと見渡した。ユイの姿はもう無かった。

「あの、もういなくなったみたいです」

「ああ良かった。じゃあこれ持って三番の診察室に行って下さいね」

 看護婦はそう言ってカルテを手渡すと、にこやかに紅子を送り出した。紅子も笑顔を返したがしかし変質者に間違われてしまったハゲ男のことを思うと、いたたまれない思いに駆られた。紅子は足早に待合廊下を通り抜けた。

 ハゲ男は自分にかけられた嫌疑に気付かないまま、先程自分を疑った看護婦の呼びかけに、実に気持ちの良い返事を返し、相変わらず頭をテカテカさせながら採血室へと入って行った。

 その後診察を終えた紅子は、やれやれと思いながら会計の待合室へ入って行った。採血の結果が一週間後になるのは気がかりではあるが、しかしその後打ってもらった注射のおかげで、体力は回復してきていた。

 あとは会計を済ませ午後から半日出勤すれば良い。そうすればあとは、ハナキンのアフターファイブと土日の休みが待っている。

 体力と共に、少しずつ気力が回復してきていることを実感しつつ、紅子が空席に向かって歩き出したその時、玄関からユイが入って来るのが見えた。紅子は体を硬直させ立ち止まった。一体なぜ玄関から入って来るのか。

 ユイは紅子の前に躍り出ると

「これこれ、ストッキング」

 と紅子に紙袋を差し出した。紅子が駐車場について行くのを断り続けたため、とうとうユイは一人で駐車場へ取りに行ったようだった。

 紅子の脳裏に、今朝方駐輪場で小さな紙袋を差し出して来たヘルメット男が浮かんだ。一体どうして今日は、見知らぬ変質者から訳の分からない物を渡されそうになってしまうのだろうか。

 紅子はすっかり面食らいながら

「いえ結構です。困りますから」

 と断った。しかしユイは

「いいの。いいの。あんたに使って欲しいんだから」

 と強引に紅子に紙袋を押し付け、そのまま病院を出て行ってしまった。

 紅子はぽかんとしたままユイの姿を見送った。こんな物を押し付けられて迷惑この上無いが、しかしこうして姿を消してくれたのだから、もうこれで一件落着とするべきなのかも知れない。

 紅子は支払いを済ませると駅に向かい、駅ビルのパン屋でサンドイッチを買って電車に乗り込んだ。電車の中で先程ユイに押し付けられた紙袋をバッグから取り出してみる。何の変哲も無い白い紙袋には、マジックで「油井」という男の苗字と、自宅の電話番号が書かれていた。

 電話をくれという意味なのは分かるが、しかしなぜ苗字だけなのだろうかと紅子は考えた。油井は一人暮らしで、名前での呼び出しは不要ということだろうか。そこまで考えた時、紅子はふと

「あんたは、結婚してるの」

 と尋ねられたことを思い出した。

 独身なら誘ってもいいと思ったか。独身でも彼氏がいるかも知れないとは思わなかったか。例え彼氏がいないにしろ、初対面の男にストッキングを贈られて女が喜ぶとでも思ったか。それでも不倫だけは犯すまいと思ったのか。頭が弱いなりに変質者なりにそのモラルだけは守ろうとしたのか。

 つまり変質者にもルールやモラルがあって、その枠内で行動しているということなのだろうかと、紅子は首を傾げた。少し好奇心が疼いたがしかし油井に電話をかける気は全く起こらなかった。

 紅子はそっと紙袋を開いてみた。中には未開封のベージュのストッキングが一足入っていた。変質者が新品のストッキングをくれるとは思ってもみなかった紅子は、少し得した気分になってサイズを見た。S~Mの表示だった。

 短足用じゃねえか。身長165センチの紅子は、腹を立てるとそのまま紙袋をバッグにしまい込んだ。真昼間の病院で「あんたに使って欲しい」と変質者に贈られたサイズの合わないストッキングは、非常に重い荷物となって、紅子のバッグの奥底へと沈んでいった。




 会社に着いた紅子はまず一階の事務所に出向いた。そして総務部長と女性事務員たちに挨拶を済ませ、階段を上って二階の中程にあるロッカー室へ入って行った。着替えを済ませた頃には、ちょうど昼休みが始まるだろう。そうしたら食堂で皆と交じってサンドイッチを食べ、そのまま午後の仕事に突入すれば良い。

 そこまで考えた時、紅子はふと、大学前でピーコートを着た青年に声をかけられた時に、自分が会社に背を向けてしまった理由に思い当たった。

 おそらく自分は昼食の用意が無いことが、無意識に気がかりだったのではあるまいか。その事実に朝から何度も遭遇した変質者の存在や、風邪気味の事実が後押しし、駅へと向かってしまったのではないだろうか。

 そう考えると、自分が大変無責任な食いしん坊であるようで紅子ははなはだ気が滅入った。しかし昼食の買い忘れなどこれが初めてなのだから、ここは気持ちを切り替えるしかない。紅子は勢い良くロッカーを開けた。ここは会社なのだ。ここには見知らぬ変質者など現れたりしない。

 するとロッカーからひらりと一枚の便箋が落ちてきた。冒頭には角ばった汚い字で、「ベニちゃんへ」とある。紅子は便箋の末尾に目をやった。「相崎」とあった。


 ベニちゃんへ。最近元気がないようですがどうしましたか。とても心配です。何か悩みがあるなら相談にのります。早く元気なベニちゃんに戻ってください。相崎


 紅子はわなわなと震えると、手紙を握りつぶしバッグを開けて中に押し込んだ。その時、先程油井に渡された紙袋がチラと目に入った。

「あんたは、結婚してるの」

 油井の問いかけが頭の中でこだました。相崎よりも、自分なりにモラルを守ろうとしている油井の方がずっと、人としてマシなのではないか。その思想に紅子は思わず身震いした。

 見知らぬ女に突然ストッキングを渡すような変態よりも、ずっと人としての資質が問われる男が、今この会社に存在している。その事実を受け入れざるを得ない現状に紅子はめまいを感じた。




 そもそも紅子は、育児休暇を取る営業事務員の欠員を埋めようという、会社側の思惑により採用された社員だった。その営業事務員はいい加減な性格で、ろくに引き継ぎもしないままさっさと育児休暇に入ってしまった。他の女性事務員たちには営業事務の知識が無く新人の紅子は困り果てていた。そんな紅子の窮状を見かね、何かと世話を焼いたのが営業係長の相崎恒方(あいざきつねかた)だった。

 相崎は高校生の娘を持つ四十代の男で、若い女に対する対応が柔らかかった。紅子はすっかり相崎を信頼した。何と頼りになる人だろう。何と面倒見の良い人だろう。紅子は親切な上司として相崎を慕うようになった。

 当然のことながらそれは決して恋愛感情ではなかった。相崎は柔和な顔立ちをしているものの、決して色男の類ではなかったし、第一、歳が離れ過ぎていた。

 これまで紅子は、三歳以上歳の離れた相手に恋愛感情を抱いた経験が無かった。だからちょっと親切にされたくらいで、二十歳以上も年上のくたびれた中年男に恋心を抱くなど考えられないことだった。いやむしろ若い女特有の嫌悪感から、紅子は中年男を苦手としていた。

 だからそんな中で、中年相崎を恋愛感情抜きでも慕うようになったのは、紅子にとっては奇跡的な進歩だった。しかし相崎の側は違った。相崎は紅子を不倫の対象として見ていた。

 相崎の気持ちを知った時、紅子は困惑した。こんなに優しい相崎さんを傷付けてはいけない。こんなに優しい相崎さんの奥さんを傷付けてはいけない。そう思った。紅子は遠回しに相崎に拒否を示した。

 しかし相崎はめげなかった。毎日毎日仕事にかこつけては紅子の周りをまとわりつき、彼氏がいてもいい。二週に一度でいい。デートしてくれ、デートしてくれと訴え続けた。

 その内に紅子は、以前自分が抱いていた中年男全般への嫌悪感をパワーアップさせて復活させ、相崎を憎むようになった。相崎が優しかったのは人として上司としてではなかった。下心ゆえだったのだ。それなのにそんなゲスな男とその妻を、傷付けてはならないなどと気遣っていた自分のお人好しさが、悔しくてならなかった。

 そんな最中に今度はこの手紙だ。紅子は相崎に憎悪を燃やした。確かに近頃の紅子は相崎と接する時に元気が無かったから、「最近元気が無い」という解釈もあながち間違いではない。しかし紅子は相崎以外の社員に対しては、これまでと変わらぬ振る舞いをしていた。

 それなのに自分に対する態度だけで、「最近元気が無い」などと、総称するかのような評価を下した相崎が腹立たしくてならなかった。紅子に最近元気が無いのは相崎の存在が苦痛だからだ。それにも関わらず苦痛の元凶が、「何か悩みがあるなら相談にのります」とは一体どういうことか。

「あなたの気持ちが迷惑で、最近元気が出ないんです」

 とでも相談しろと言うのだろうかと紅子は考えた。それをはっきり言っては、今後会社で気まずいからこそ、遠回しに態度で伝えているのになぜそれを分かってくれないのか。

 そもそも恋人の存在を明かしてあるのだから、その時点で、最初から自分を誘うべきではないと紅子には思われた。だが相崎の側にも妻がいたため、紅子の恋人の存在は彼にとって何のストッパーにもなっていないようだった。

 怒り心頭に発しながら、紅子は乱暴に衣服を脱ぎ捨て制服に着替えた。その時ふと今更ながらに、この場所が女性専用のロッカールームであることに気付いた。つまり相崎は、紅子に手紙を渡すためにここにこっそりと忍び込んだということだ。

 その非常識な行為に紅子は思わず身の毛がよだった。しかしそんなことを、他の女性社員に言いつけても無駄だと分かっていた。紅子以外の女性社員は、いや男性も含め全ての社員は車通勤なのだ。皆は家から制服を着用して来ている。この部屋を着替えに使っているのは紅子一人なのだ。

 着替えに利用しない、ただの荷物置き場に過ぎないロッカー室に、相崎がただ一度侵入したからといって、他の女性社員にとって問題があるはずは無かった。そもそも相崎の狙いは紅子なのだから他の女性社員は共通の被害者にならない。

 とはいえ紅子一人が、被害者としてこの事実を公表し、他の女性社員の同情を得るという手も無いではなかった。ただ紅子はそれを言いたくなかった。くたびれた中年男にアタックされているという事実は紅子にとって不名誉なことだったからだ。

 しかし実際は多くの社員は、相崎が紅子に接近していることを知っていた。そして多くの社員の感想はこうだった。

「アイさんの女好きには困ったもんだよね。ベニは若くて右も左も分かんないから、あのままアイさんについてっっちゃうかも知れないよ」

 だが検針部の手島敏江(てじまとしえ)は、こう判断した。

「ベニちゃんの方に隙があるのよ。だってアイさんはわたしのことは誘わないもの」

 そうは言っても、敏江は夫も子もある四十代のどっしりとした体型の女だ。相崎でなくても普通の男なら、敏江にちょっかいを出すくらいなら若くて可愛い紅子に手をつける方を選ぶだろう。けれど敏江は決してそうは思わず、あろうことかある日、紅子に向かって

「ベニちゃんって男の人と接する時、相手を男だと思って接してるでしょう?」

 と言いがかりをつけた。

 敏江の心情を知らない紅子は面食らって

「え? だって男の人は男の人だからそう思って接しますよね? 普通は違うんですか?」

 と尋ねた。敏江は厚化粧で塗り固めた顔でふふんと笑うと

「やっぱりね。そういう所に隙があるのよ」

 と言い放った。

 これが嫉妬から発したいちゃもんだと気付くには、紅子はまだ若過ぎた。その時紅子は、他の人たちは男と接する時も女と接する時も、相手の性別など一切意識せずに接するのだろうかと、頭を混乱させただけだった。

 紅子にとって男女の性差というものは、年齢や職業や趣味や嗜好などといった、特徴の一部に過ぎなかった。それが敏江に言いがかりをつけられたことにより、自分が異常な程、性差を意識した人間であるかのように思われた。そうすると他の人間が自分ほど性差を意識しないなら、なぜ会社主催の花見の際に、女性社員のみが台所に立たされたのか、全くもって分からなかった。

 ただそのやり取りにより紅子が理解したことは、自分は他人に、「隙がある」と思われているということだ。ということは相崎に好意を寄せられ困り果てていることを公表してしまったら、自分はますます、隙がある女として蔑視されることになるだろうと、紅子はおびえた。

 隙というものがどのように生じるものなのか紅子はさっぱり分からなかった。だからこそ紅子は、自分に張られたそのレッテルが、更に張り巡らされることを恐れた。

 とはいえそれは、相崎の行動が社員たちに知れていたからこそのレッテルだった。またそのレッテルを張ったのは敏江一人だった。だから紅子は本当ならそこまで自分の評判を気にする必要は無かった。しかし紅子は自分に自信の無い女だった。そのため自分に向けられる悪口雑言に、必要以上に身構える習性があった。親に愛されずに育った人間は、このように人の悪意にもろいものだ。

 だが紅子は相崎に言い寄られる事実を、自分に隙があるのだから仕方無いとは考えなかった。仮に自分に隙があるにせよ、不倫というものはいけないことなのだから紅子にとっては無関係な話だった。

 いやむしろ相崎に口説かれることにより、自分に隙があるという他人の評価が、現実的に確定しそうな恐怖を覚えた。逆を返せば、紅子にどれだけ隙があったところで、男が誰一人として寄ってこなければ紅子に隙があるという証にはならないからだ。

 だから相崎が紅子に粉をかけなければ、紅子に隙があることは証明されないのだ。だが現実的に相崎は紅子に迫り、その行為により故意ではないものの紅子の評判を落とそうとしていた。その事実が疎ましく紅子はギリギリと歯を食いしばった。

 噛み合わされ一分の隙も無いはずの口内で、紅子の赤桃色の舌がその隙間をチロリとなぞった。食いしばり磨り減った歯はとうとう二本も無くなり、紅子の口内には上下に二箇所の空洞ができた。

 いや、それはとっくに生じていた空洞だった。半年前、虫歯の痛みで歯科に飛び込んだ紅子は、レントゲンを撮った歯科医に驚愕の声を上げさせた。

「この上下の虫歯は乳歯です。あなた歯が全部生え換わってなかったんですよ。乳歯でもろいから虫歯になっちゃったんです」

 歯科医はその後

「戦時中の子供じゃあるまいしねえ」

 と嘆息した。そして乳歯でもろいこの歯を残す訳にはいかないと、抜歯してブリッジを入れる旨を紅子に説明した。それは奥歯だったので保険内治療だと銀歯になってしまう。しかし口を開けると見えてしまう位置だった。歯科医は白い歯にすることを勧めると言った。一本数万円だ。

 紅子は痛みから逃れるために抜歯だけは行ったが、その後ブリッジは入れなかった。歯科からは

「ブリッジを入れに来ないと、歯並びが歪んでしまう」

 との電話がかかってきたが、そんなお金などどうあがいても捻出できなかった。

 親には報告すらしなかった。戦時中の子供が食していたような、栄養不良の食事を紅子に与えていた親だ。その食事すら機嫌の悪い時はしばしば欠食させていた親だ。今更、紅子の歯並びが歪もうとどうなろうと治療費を出してくれるはずが無かった。

 今朝方、病院の待合室で、食いしばる歯が磨り減りそうだと悲観したことを紅子は思い起こした。自嘲的な微笑みが漏れる。磨り減るどころか歯など最初から生えていなかった。ひょっとしたら自分には最初から守る名誉も無いのかも知れない。そんな気がした。

 破れかぶれな思いでロッカーをバタンと閉めると、紅子はロッカー室を後にして食堂へと向かった。

 足りない歯並びでサンドイッチを咀嚼するために。自分を貶める相崎の前に、空洞だらけの姿を現すために。





 食堂とは名ばかりの厨房一つ無い室内に入ると、男性社員たちの食す見慣れた弁当類の他に、赤桃色の色彩がテーブル上に据えられているのが見て取れた。

「あ、ベニちゃん。律子(りつこ)さんが持って来てくれたの。食べて食べて」

 今朝方、紅子の半休の電話を受けた千景が、肉付きの良い白い手で赤桃色の色彩を差し出した。それは律子の出身地である甲州特有の、甘納豆がまぶされた柔らかい赤飯だった。

 何か祝い事でもあったのかと紅子が問おうとした時、側を通りかかった相崎が

「律子の生理が、あがったらしいぞ」

 といやしい笑顔で紅子と千景の顔を見比べた。紅子が絶句しているとその言葉を引き受けた千景が

「どうして生理があがって、赤飯炊くのよ」

 と配列の悪いおかめのような下膨れの顔で、笑いながら相崎をたしなめた。女も三十路の声が聞こえる頃にはこうした下ネタにいちいち驚かないものだ。

 だが二十歳の紅子は、唖然としながら赤飯の皿に箸を伸ばした。相崎の発言の品の無さそれ自体も一驚に値したが、しかしそれ以上に驚いたのは、五十代にさしかかった律子さえセクハラの対象になり得るという事実だった。しかも女の機能を失う年代であることを陰で揶揄されるとは何という屈辱だろうか。

 検針部の内藤(ないとう)律子とは、紅子は特に親しい間柄ではなかった。しかしその場にいない律子のプライドが、こっそりと損なわれた様を目の当たりにし、紅子は心密かに相崎に憤った。

 そしてその憤りは、相崎を笑いながらたしなめた千景にも向けられた。紅子にしてみれば千景が相崎と一緒になって律子を笑いものにしたように感じられた。それは嫁き遅れた女が、年配の既婚者に抱く浅ましい自尊心として紅子の目に映った。

 とはいえ千景が嫁き遅れてしまった件については、同情の余地があった。千景は五年前に両親を共に病気で亡くしているのだが、二人姉妹を残して亡くなることが気がかりだったのか、両親は娘二人に婿養子を取るよう遺言を残したのだ。

 しかし千景の姉は、遺言を無視して二年前に他家へ嫁いでしまった。妹の容貌から姉のそれを察すると両親の遺言を無視した姉は甚だ賢明だったといえた。しかし姉の嫁入りにより、妹の千景は何が何でも遺言を守らねばならなくなった。

 婿養子というものは、女の方に余程の魅力が無ければ男は良い顔をしないものだ。それなのに配列の悪いおかめ顔では、一層難儀なのは当然だった。

 とはいえ千景は細やかな気配りをする女だった。だから男に全く相手にされない訳でもなかったが、相手にしてくれた営業所の男は千景と営業所の女を二股にかけた挙句、千景を捨ててしまった。

 社内の人間は

「飯ヶ浜さんが婿養子にこだわらなければ、選ばれたかも知れなかったのに」

 としたり顔で噂し合った。

 それらは紅子の入社前の出来事だったが、噂好きの社員たちにより紅子の耳にも入っていた。ならば紅子は、自分のおかめ顔も顧みず忠実に両親の遺言を守ろうとする千景に憐憫の情を起こすべき、もしくはその勇ましさに感服するべきだった。しかし若い紅子は遺言に縛られた千景を蔑視していた。

 遺言だか何だか知らないけど、死んだ人の言葉に縛られて嫁き遅れた挙句、トウばっか立っちゃって陰で男と一緒に年配の女性を貶めてたんじゃ、あまりに品が無いじゃないの。

 気分を害した紅子は、赤飯を盛られた皿とサンドイッチの袋を持ったまま、食堂の奥へと進んで行った。相崎はとうにテーブルを離れていたが、千景の側に腰を下ろすことが今の紅子には耐えられなかった。

 三つの島に分かれた長方形のテーブルの入り口側が、主に女性社員たちが利用する場所だった。その奥手に一つ空席を見つけた紅子はそこにちょこんと腰を下ろした。

 すでに隣の席で手製の弁当を食べていた、事務員の上田錦(うえだにしき)は、チラリと紅子に視線を流した。しかし正面に座るパート社員江上(えがみ)のどかとの会話が興に乗っていた。錦はすぐにのどかに視線を戻すと話の続きを始めた。

 紅子は赤飯とサンドイッチの和洋折衷の昼食を広げると、心を無にして赤飯を食べ始めた。実は紅子は赤飯が嫌いだった。振舞われてしまったので仕方なく食べ始めたが、紅子にとって飯が甘いなどということは考えられないことだった。飯に味付けをするのならそれは塩辛くあるべきだった。

 ようやく赤飯を片付けると、紅子はやっとリラックスしてサンドイッチに手を伸ばした。力が抜けたためにようやく錦とのどかの会話が耳に入ってきた。会話の内容は、錦がこれまでの半生にいかに多くの痴漢に巡り会ってきたかといったものだった。

 紅子は目を丸くすると、熱弁を振るう錦の姿を見詰めた。錦はその相撲取りのような名が示す程ではないにしろどすこい体型の女だった。そして27歳という実年齢に、5歳の見た目年齢をプラスしなければならないような容貌だった。

 最初紅子は、こういう女にも痴漢は接近するのかと感嘆しながら錦の演説に耳を傾けていた。その内何とはなしに事情が飲み込めてきた。どうやら錦が遭遇してきたのは露出狂ばかりのようなのだ。どうも露出狂というものは、あまり相手に対して贅沢は言わないものであるらしい。

 しかし紅子は錦にある種の親近感を覚え始めた。実をいうと、どすこい体型のくせに自己顕示欲の強い錦に、紅子はこれまであまり良い感情を抱いていなかった。しかし錦がそこまで露出狂と対面してきたのなら錦は紅子と共通の被害者ということになる。

 ならば錦こそ、今日の紅子の心の痛みを分かち合うべき存在なのではないか。すっかり仲間意識を抱いた紅子は

「あたしも結構、痴漢に遭うんですう」

 と二人の話に割って入った。そして今日に限らず、これまでの痴漢被害を愚痴り精神の毒出しをしようと願った。

 ところが錦は毛流れの悪い眉をひそめると

「わたしなんか、子供の頃から遭いっぱなしだよ」

 と息巻いた。その尋常ならざる迫力に、紅子は

「あたしも子供の頃に、遭いました」

 という言葉を即座に飲み込んだ。

 錦はいつでも、自分が話題の中心でいなければ気が済まない女であることを思い出したのだ。「そうなんですかあ」と驚いてみせながら、こんな女と、痛みを分かち合おうなどと考えた自分を紅子は反省した。

 しかし紅子の反省には洞察力が欠けていた。二十代後半にさしかかった醜い錦にとって、痴漢に遭遇しているという事実は、ありもしない自分の女としての魅力を訴える数少ない手段の一つだった。それなのに、歳若く顔立ちのいい紅子まで痴漢被害を言い出しては台無しだからだ。

 とはいえ変質者たちとの出会いに心底落ち込んでいた紅子に、それを察しろというのは、無理な話でもあった。紅子はただ単に自己顕示欲の強い女として錦を再認識するに留まった。

 しかしパート社員ののどかは違った。三十路を超えとっくに所帯を持っていた彼女は、錦のあがきと紅子の察しの悪さの両方を汲み取ると、何食わぬ顔で二人に尋ねた。

「でもさあ露出漢って何で見せたがるのかなあ? サイズに自信があるってこと?」

 紅子は今朝方、二度に渡って目撃した男の下半身を思い起こした。それはぼんやりと漂うただの赤桃色で、サイズどころか形状さえ定かではなかった。

 答えようが無い紅子は、錦に問うような視線を送った。すると錦は

「いやあ? ささやかなもんだったよ」

 と言い捨てた。紅子は思わず吹き出した。紅子はこれまでにこのような美しい言葉で人を蔑む人間に出会ったことが無かった。

 笑い転げつつ紅子は、緊急事態に相手のサイズをきちんと観察している錦の冷静さに内心感心した。

 しかし実際は錦は、彼らのサイズを矮小呼ばわりすることにより、自分は多くの男のサイズを熟知しているのだとアピールしたいだけだった。こうして痴漢被害を自己アピールに利用しながらも、錦とて内心では痴漢を憎んでいるのだった。

 けれどそんなこととは知らない紅子は、自分には観察力が足りないのではないかと、またもや反省しだす始末だった。

 視力が悪いのだから、紅子が露出狂の下半身をきちんと観察できなくても仕方が無い。しかし体の弱い紅子は、体調を崩す度に「病は気から」などと周囲にたしなめられていたため、全ては自分の気合いが足りないせいではないかと見当違いなことを考えながら席を立った。今日は思わぬ赤飯の差し入れがあり、皿や箸が給湯室から出されたため、早目に昼休みを切り上げる必要があったのだ。

 とはいえまずは化粧直しをしたいと思った紅子は、再びロッカー室へと入って行った。中では六人の女性社員たちが、畳の上で横座りをしながら化粧を直したり談笑したりしていた。

 紅子は自分のロッカーを開け、化粧ポーチを出そうとバッグの中を探ったが、その時指先に油井から渡された紙袋が触れた。紅子はその袋をつかむと中にいた女たちに向かって

「あのう、S~Mのパンスト入る人いますか」

 と尋ねた。

 千景がファンデーションをはたく手を休め

「ハルちゃん、入るんじゃないの」

 と鼻の頭の脂を押さえていた、二十二歳の事務員に尋ねた。 近江春日(おうみはるひ)はまだ脂の取りきれていないテカテカした顔で

「わたし、入るよ」

 と紅子の手元の紙袋を見詰めた。

 頂き物なのだが、サイズが合わないので使ってもらえないかと紅子が持ちかけると、春日は快く承諾した。紅子は厄介払いができた上に物をあげて喜ばれたことに満足した。しかし今度はストッキングが一足しか無かったことが惜しく思われてきた。この場にいる他の女たちのことも、何とか喜ばせる方法は無いものだろうか。

 それはやはり油井との出会いを打ち明けるに限るだろうと、紅子は判断した。自分にとっては不快な体験だったが、しかし他人事として聞けば病院に出没する変質者ネタは女たちの興味をそそると思えた。

 女たちがそれにより驚いたり面白がったりすれば、紅子も油井との出会いを、肯定的に捉えられそうな気がした。どうせ不愉快な思いをしてしまったのなら、その体験談で周囲の人間を楽しませれば良いと思えた。

 その思いつきに夢中になると、紅子は早速油井との出会いを手短に女たちに話し始めた。このような珍しい話を聞くことにより、女たちは大いに驚きかつ面白がってくれることだろう。

 だがその希望的観測は外れた。春日はその美しいゴリラのような顔を青ざめさせ

「何言ってるの、ベニちゃん。そんなパンスト捨てなよ。気持ち悪い」

 とヒステリックな声を上げた。

 紅子は面食らい、自分の手の中のストッキングをまじまじと見詰めた。

 確かに油井の存在は紅子にとっても気持ち悪かった。しかし紅子は、ストッキング自体は決して気持ち悪くなかった。サイズが合わないから押し付けられた後に持て余してしまっただけだ。むしろいつもは五足で千円のストッキングを買っている身としては、バラ売りされていたらしきこのストッキングに、高級感を覚える程だった。

 そこで紅子は

「でも新品ですよ。未開封だし」

 と嫌われ者のストッキングを弁護した。物には罪が無いのである。

 だが「捨てろ」という意見に、千景を始め更に二人の女が加勢した。どうやら民主的に考えるとこのロッカー室では、ストッキングを捨てるという採択を取らねばならないようだ。敢えて発言を控えている女が同期の三枝留美(さえぐさるみ)を含め二人いたが、当然それは無効票だ。

 紅子は仕方なく「分かりました」と、紙袋ごとストッキングをゴミ箱に入れた。ひょっとしたら自分がおかしいのだろうかと考えた。

 紅子は油井との出会いを、充分に嫌悪していたつもりだったが、しかしストッキングの扱いに対する他の女たちとの見解の相違を考えると、何やら自分が大変に図太い女であるような気がしてきた。

 しかしこれは、単純に神経の繊細さのみが問われる問題ではなかった。飢えた人間が道端に落ちている食べ物を思わず口にしてしまうのと同様に、経済苦の紅子にとっては、何の罪も無いストッキングが一度も女の脚を包まないまま闇に葬り去られてしまうことが、耐えがたかったのだ。

 加えて環境問題に対する意識が、まだまだ低かった時代だったことも起因した。紅子はこの時代の人間にしては環境問題への意識が高かった。それで物を無駄にすることが嫌だったのだ。

 ところが対する春日は、この時代の人間としても珍しく物を粗末に扱う女だった。彼女は脱いだ服を部屋に脱ぎ散らかしては皺だらけにし、そして皺が付いてしまったからと捨ててしまうような女だった。

 以前その話を聞いた時、紅子は

「あたしアイロンかけて着ますから、捨てるくらいなら下さい」

 と持ちかけた。春日は承諾したが実際に紅子のために、皺だらけの洋服を持ってくることは一度も無かった。そもそも服をその辺に脱ぎ散らかし捨ててしまうようなズボラな女が、人のため、わざわざ服を持ってくるような労を厭わない訳がない。

 そう考えると、実際に図太いのはむしろ春日の方だ。しかしそのエピソードをすっかり忘れていた紅子は、自分は相当図太い女のようだと考え落ち込んだ。そんな図太い自分には、変質者たちとの遭遇に落ち込む資格が無いような気がしてきた。

 自己嫌悪に駆られながら手早く化粧直しを終えると、紅子は留美と共に給湯室で洗い物を始めた。皿にこびりついた赤飯の飯粒が紅子の目にひどく赤く映った。

「そういえばさあ、日本人の男の名前で一番多いのはヒロシだって昨日ベニちゃん言ってたよね。うち帰ってから思い出したんだけど、わたし今まで付き合った人の中で、確かにヒロシって名前の人が一番多かったよ」

 ストッキングを人にあげようとしたことは、間違っていると思うかとか、今日は朝から何度も変質者に遭ってしまったとか、実は相崎について困っているとか、そんなことを留美に話そうと思いつつ、結局その内のどれについて話せば良いのか分からぬままいる紅子に対し、留美は何とものん気な話を始めた。

 とはいえ過去に付き合った男の名前が、かぶること自体が珍しい話だ。それにも増して一番多い名前がヒロシだということは、二番目に多い名前や三番目に多い名前が存在することが推測される。一体留美は二十一歳の身空で、何人の男と付き合ってきたのか。しかし今の紅子にとってはそんなことはどうでも良いことだった。

 そもそも留美は、頬骨の高さがやや難であるものの愛らしい顔立ちの女だ。その上相手の外見に何のこだわりも持たない。そして相手との交際にも執着を持たない。そんな女の過去の男の数がどれだけ多かろうとそれは至極当然の話だ。そんな当たり前の話を聞かされるより、紅子は今の自分の気がかりを打ち明けたかった。

 だが話の切れ目を狙う紅子を遮るかのように、背後から千景が

「ベニちゃん、金沢(かなざわ)君が探してたけど」

 と声をかけてきた。

 この会社では、中途入社とはいえ新人の金沢深志(ふかし)までが、年上の女性社員を女だという理由だけで平気でパシリに使う。中でも千景はその鈍重そうな見かけとは裏腹に使われ易い女だった。

 昼休みの後に、新人の女性事務員が給湯室で洗い物をするのは毎日のことだ。金沢も紅子に用があるのなら給湯室まで出向けばいい。しかし最早日常の風景であるこんなやり取りに紅子は違和感も覚えず、泡だらけの手で「分かりました」と答えた。

 そして同じく違和感を抱かない留美に

「もう、ここいいから行っておいでよ」

 と送り出され、紅子はハンカチで手を拭いながら一階の事務所へ降りていった。

 営業部のブースは出入り口の一番近くにある。営業の金沢が紅子を探すために、千景をパシリに使ったということは、金沢自身は自分の席にでんと腰を下ろしているというだ。元より紅子の席は金沢の正面だった。

 紅子は顔を幾分硬直させると、営業部のブースへと向かって行った。金沢が苦手なのではない。そのブースには相崎の席もあるからだ。ところが午後の営業にでも出かけたのか、事務所にはもう相崎の姿が無かった。

 紅子はホッと胸を撫で下ろすと、自分の席に腰掛けながら

「なあに? カナジャワ」

 とくだけた口調で正面の金沢に声をかけた。一歳年上とはいえ同期入社の金沢は、紅子にとって気の置けない同僚だった。

「おう若杉、これ注文して」

 金沢は机越しにガステーブルのカタログを広げると、掲載されている部品を指した。これまでに紅子はガステーブルは何度も発注したことがあった。しかしガステーブルの部品の発注はかけたことが無い。紅子はカタログをまじまじと見詰めると、確認のために声に出して読み上げた。

「フッ素ジル、受け皿?」

 途端に金沢が腹を抱えて笑い出した。紅子はきょとんとするとカタログを再度見直した。そこには「フッ素汁受け皿」と記載されていた。

「なあに? 何で笑うの?」

 紅子が不思議そうに尋ねると、金沢はまだ笑いを止められない様子で

「馬鹿、『フッ素、シル受け皿』だよ」

 と答え、またもやゲラゲラと笑い出した。

 紅子は

「ああ、そう」

 と受け流すと、濁点が付くか付かないかのことでこの人はなぜこんなに笑うんだろうと首を傾げた。

 すると紅子の疑問を察した金沢は

「あのなガステーブルで料理してると、煮物の汁とか吹きこぼれるだろ? それを受けるのがこの汁受け皿って訳」

 と説明を始めた。金沢は育児に不熱心な母親のせいで四歳になるまで言語を知らず、母親の腕に噛み付いて意思表示をするという幼少期を経た。その甲斐あって、言葉を知らない人間の戸惑いを察することに長けている男だ。

「それは、知ってる」

「それなのに『フッ素ジル、受け皿』なんつったら、フッ素の汁を受ける皿みてえじゃんか。吹きこぼれた料理の汁を受けるフッ素加工の受け皿なんだから、『フッ素、シル受け皿』って読まねえと」

 紅子はようやく理解すると

「ああそうゆうこと。成る程ね。よそで『フッ素ジル』なんて言ったら笑われちゃうね」

 と笑顔で答えた。紅子のくだけた様子に弾みがついた金沢は、ニヤリとした笑みを分厚い唇に浮かべると

「笑われるさ。『ガマン汁か?』って言われちゃうさ」

 と辺りをはばかり小声でささやいた。

 営業部のブースには金沢と紅子の二人しかいなかったが、抑えられた声量から、秘密めいた匂いを嗅ぎ取った紅子は、金沢に合わせて声を潜めると

「『ガマン汁』って、何?」

 と問い返した。正しい意味は知らないまでも何となくいやらしい意味らしいということは察していた。「何、若杉お前『ガマン汁』を知らん?」

 金沢は顔を輝かせると嬉々として紅子に説明を始めた。年長の男の中には、女に性技を教えることを喜びとする者が少なくない。金沢は己の外見の凡庸さを知っており、行為をはしょってささやかな知識の伝達を行うことにより満足を覚えるという選択をする、賢明な男だった。

 だが親切な金沢の微に入り細にわたった説明は、少々余計だった。紅子は「ガマン汁」という俗称を知らなかっただけで、別の呼び名は承知していたからだ。そこで紅子は説明の途中で

「ああ、先走り?」

 と遮った。金沢は

「おう、それそれ」

 と満足そうに答えた。

「何で『先走り』を、『ガマン汁』って言うの」

「そりゃ、我慢してる時に出るからさ」

「我慢って、イクのをってこと?」

「そうさ。そんで本気になってから出るのが『本気汁』ね」

「成る程ねえ」と紅子はつぶやきつつも、微妙に引っかかるものを感じた。

 例えば遅漏の男なら、射精までの時間を長引かせようなどと考えたりはしないはずだ。その場合でもその「先走り」は、「ガマン汁」と呼ばれてしまうのだろうか。

 また発射するつもりではなかったのに、ついうっかり何かの弾みで放ってしまった場合、男は精神的には「本気」ではなかった訳だ。それでもその精液は「本気汁」と呼ばれてしまうのだろうか。

 国文科出身の紅子は、元々言葉というものに対する知的好奇心が旺盛だった。だから「ガマン汁」と「本気汁」という単語を知り得た事実には満足した。しかし言葉というものに対する知的好奇心が旺盛だったことにより、それらの俗称に納得いかないものを感じた。

 とはいえ納得いかない言葉の存在など、別に「ガマン汁」や「本気汁」に限ったことではない。どんなに太腿をシェイプアップしたところで、太腿が細腿と呼ばれるようになる訳ではないし、自分だってウェディングドレスを身にまとえば、おそらくヴァージンロードを歩くのだ。

 紅子がそのようなことを考えていると、二人の机の脇を配送部の菊川平馬(きくかわへいま)が通りかかった。金沢は

「ちょう、キクちゃん聞いてえ」

 と菊川を呼び止めた。高校時代の同級生である菊川の紹介により中途入社した経緯もあり、金沢は日頃から菊川と親しかった。

「さっき若杉に、このフッ素汁受け皿を注文してって頼んさ。そしたらこいつ『フッ素ジル、受け皿?』とか言いやがって」

 カタログを示しながらそう話しかける金沢に、菊川は「ガマン汁かよ」と好色な笑みを浮かべた。シルをジルと読んだだけで二人の男がガマン汁を連想した。その事実に紅子は、男というものは、これしきのことからも、即座に卑猥な事柄を連想するものなのだろうかと衝撃を受けた。

 だがジル繋がりで連想するなら、必ずしもガマン汁でなくともいいはずだ。それにも関わらず二人は敢えて本気汁ではなくガマン汁を連想した。そのことからこの二人が、日頃からいかに床の上で我慢を強いられているか、いやひょっとしたら、行為のチャンス自体に恵まれず我慢ばかりしているのではないかといったことが察せられ、紅子は彼らが不憫に感じられた。

 受話器を取り上げ、フッ素汁受け皿の発注をかける紅子の様子を、二人の男はニヤニヤと含み笑いをしながら眺めてい。紅子は彼らのことを憎む気になれなかった。


 1日に3回痴漢に遭ったことがありまして、現実に1日3回痴漢に遭ったんなら、小説の主人公なら、何回遭っても不思議ではないだろうと思いました。

 それで自分が遭遇した痴漢の話を、1日にまとめて書こうと思ったんですが、第32回すばる文学賞は400字×50~300枚以内の規定があって、収まりませんでした。

 なので私の全ての痴漢ネタを放出できた訳ではないんですが、経験上、雑談の際に痴漢体験というものは盛り上がるので、全てが書けなくてもいいだろうと。

 昔は痴漢に遭っても、女に隙があったと言われることが多くて、多くは泣き寝入りでした。今は痴漢の冤罪事件などが多くてやっぱり告発しにくい時代に思えます。

 というか今だって、痴漢に遭ったなんて決して名誉なことではないので、言えない人多いでしょうし。痴漢のでっち上げなんてする人は、ある意味では最も女を捨ててると言えますし。

 言えない気持ちは分かります。本当は告発した方がいいんでしょうけど、言えないと思うこともまともです。

 でも言わなきゃ言わないで悶々するんですよね。だから痴漢体験談は、女同士で盛り上がる。

 なので痴漢に遭って告発できなくて悶々している人に、自分だけじゃないんだと思って頂きたくて書きました。

 本当は告発した方がいいんですよ。でも人間は、いつでも100点の行動が取れる訳じゃないですからね。

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