さようなら幸せに
「嫌よ」
なんて言えるはずもなかった。私はただ膝の上に置く手に力を込め、泣かないように努力をし、
「分かったわ。今までありがとう」
と言うしかなかった。
もし籍が入っていたら、また違った展開になったのだろうか? それとも、痛みがより激しくなるだけで結果は同じだったのだろうか。
最後の晩餐は焼き魚、肉じゃが、大根の味噌汁。けんさんの好きな三大料理だ。
「あ、これ美味しいな」
けんさんは味噌汁を一口飲むとそう言った。一緒に住んだばかりの頃は毎日のように美味しい美味しい言ってくれたが、最近はただ機械的に食事を摂っているようにしか見えなかった。だから、久しぶりに聞く褒め言葉だった。
「涼子はいい奥さんになれるよ」
私は箸の動きを止めた。私だって、本当はあなたの奥さんになりたかったのよ。どうして、それは夢物語になってしまったのだろう。
「ご飯、冷めるぞ」
けんさんの言葉にはっとなり、私は焼き魚とご飯を口に詰めた。味がしないのは、きっと私の口が麻痺しているからだろう。心も麻痺してしまったら楽なのにね。
「煙草、買い置きしておいたからね」
「ああ」
「夏のスーツはクリーニングに出しているから、後で取りに行ってね」
「ああ」
「明日の夜は冷えるから、ちゃんと毛布かけて寝るのよ」
「ああ」
まだまだ言いたいことは沢山あった。でも、けんさんは食べ終わり風呂に行ってしまったので、私は荷物の整理をし始めた。あまり服は持っていない方だと思っていたが、十年分となるとなかなかの量がある。
タンスの引き出しの長年開けていなかったところを開けると、一枚の写真が入っていた。若い頃の私とけんさん。まだこの頃はけんさんと付き合っていなかった。この頃に、戻れたらいいのに。涙が写真の上に零れた。
「涼子、どうした?」
風呂から上がったけんさんが声をかけてきた。私は慌てて涙を拭い、
「ほら。懐かしい写真」
と言った。
「どれどれ……お、若いなあ。涼子、髪が短いな」
「この頃に戻って、最初からやり直せたらいいのにね」
「……そうだな」
少しずつずれていった気持ちは、気が付いたら修復不可能になっていた。もっと早く気付いていたら、どうにかなったかもしれない。
「好きだったよ」
けんさんが言った。それは過去形だった。私は泣きそうになるのを必死でこらえて、
「幸せになってね」
と言って笑った。
「涼子もな。もうお前は男じゃない、立派な女だ」
そう言ってけんさんは、性転換手術をする前の私と彼の写真を静かにしまった。
BGM:さようなら幸せに/サザンクロス




