心からの人
反董卓連合撃退から数日後、怪我のない疲労しただけ兵の休息から動けないほどの重症を負った兵の治療など。
やるべき事をこなして予定された帰陣の日、その大軍から移動するのも時間が掛かるも行き届いた訓練により円滑に洛陽の外で動く。
一度整列を成してからの順次出発、その手筈であったが待ったをかけた者が居た。
それは宮中からの使い、早馬に乗って辛うじて出発前に間に合った。
案内された使者が告げる言葉に耳を傾け、袁紹は少しの沈黙の後。
「……安景さん、相国が参られますわ」
「御意、出発を遅らせます」
漢王朝において名門名家を自負する袁紹は袁家以上の権威に弱い。
それがぽっと出で田舎豪族の小娘であっても、皇帝に認められた相国であるならば頭を下げる。
そして今の袁紹はそれが出来る、袁家とはなにかと学んだ結果。
まだ表情を繕えるほどではないが、直情的な袁紹からすればよく我慢している方であった。
だからこそ言って置かなければならない、忘れている可能性も考慮しての再認識。
「……本初様、董卓様のご事情は覚えておいでですね?」
「覚えておりますわよ! あの卑しい宦官たちのおかげでまきこまれて、このわたくしが、わ・た・く・しが! 助けて差し上げたかわいそぉーな小娘ですわ」
ふんと鼻息を鳴らしてそっぽを向く袁紹、董卓とはまともに話したことはなく、直接顔を合わせたのは皇帝を宦官から救い出した時だけ。
袁家のように代々皇帝に仕えて重ねてきた実績や家柄もない、取るに足らない田舎の小娘が運だけで自分よりも上の地位に就く。
その状況に袁紹は確固として認識しては居ないが、誠心誠意尽くしてきた袁家が蔑ろにされているような気がしていた。
それが董卓に対する刺を生み出し、他者から見て分かるほどの不機嫌な表情を生み出す。
その感情を露わにすれば関係の悪化に繋がりかねない……、のだが玄胞は全く危惧していなかった。
「勿論、相国様も間違いなく感謝しているでしょう」
董卓の気質から考えれば関係悪化になるような態度は取らない、賈駆も取らないよう注意するだろう。
状況的にも董卓は『感謝しなければならない』し、賈駆も状況と負い目で『謝辞を述べるのは当然』と考えているはず。
もしそう考えていなければ手を切らざるを得ないし、更なる『開戦』も有り得る。
しかしその可能性は限りなく低いだろう、目的が此方と一致しているために賈駆は『起こさない』。
だが可能性は大凡全ての事において零は有り得ず、絶対というものも存在しないために起こり得ることとして考えから除外しない。
「それでは出迎える準備をしましょう、粗相があってはいけませんから」
「ええ、安景さんにお任せますわ」
「はっ、期待に添えることに致します。 あと出迎えるにあたって本初様は下手に繕わず、普段通りで構いません」
「……良いんですの?」
「ええ、必要なことですから」
「安景さんがそう言うのでしたら」
素直にうなずいた袁紹、それに僅かに笑顔を浮かべた玄胞であった。
「……詠ちゃん、大丈夫かな……」
洛陽の外を目指して走り揺れる馬車、その中で二人の少女が向かい合って座っていた。
「大丈夫よ、向こう……玄胞も絶対に織り込んでるわ」
心配がって言う董卓と、さほど心配せずに言う賈駆。
今回の押し掛け染みた事は董卓の発案で、袁紹側の心象を考えていた賈駆もそれに賛同して行動に移った。
袁紹の帰還間近になったのは劉協が董卓を離さなかったせいであり、説得やら策を駆使していたために時間が掛かった。
玄胞にも劉協が董卓にべったりなのを伝えてあり、『何故』は既に解決して『如何にするか』に移行していると予測していた賈駆。
それは奇妙な信用とも言えた、それくらい考えついてもらわなければならないし、そうでなかったら今頃どこかを放浪していたはずと考えていた。
「……そうかな」
そう小さく呟く董卓は、心の中で大きな不安を抱えていた。
「……月」
それを賈駆は見抜いていた、腰を上げて立ち上がり、董卓の隣に座り直す。
「月、前にも言ったわよね? 人は出来る事と出来無い事があるって」
董卓の手に重ねるようにして賈駆は手を握る。
「ボクにはボクしか出来ないことがあって、月には月にしか出来ないことをやってたんだから」
「………」
そう言う賈駆の言葉も董卓の胸中には届かない、これほどまでに大きくなった事が胸の中に大きな影を生み出した。
その影を落とした理由、それは董卓自身が『何も出来なかった』事が最大の原因。
太尉となり、ついで相国になって、位人臣を極めた結果が最初から最後まで皇帝と一緒に居るだけと言うもの。
この事態を収拾する方法を考え、命令を出したわけでもない。
実際に奔走していたのは賈駆であり、董卓自身は『何もしていない』と言い切れるほどに動けなかった。
それは故意ではない、董卓があえて動かなかったと言う話ではない。
賈駆の意向でもある、僅かな政治的理由と大多数の私情によって董卓にお願いしていた。
董卓は董卓で、そのお願いを無下には出来ない。
そのお願いに込められた賈駆の感情を理解しているため、さらに董卓自身が考えた上で自分に出来る事を見出だせなかったため。
だからこそこんな事でいいのか、本当は何かできることが有るのではないかと考え心労が積もることもなかった。
賈駆に相談しても『出来る事をしていた』と返ってくるだけ、その答えに理解して納得している。
劉協が董卓でなければ嫌だとごねる、その皇帝の相手をするのが董卓に、董卓『しか』出来ないこと。
だからこそ、董卓は本当にそれだけしか出来なかったのか確かめたかった。
「だからボクは自信を持って言える、月は月にしか出来ないことをしているって。 誰にも文句は言わせない、言っていい筈がない! 月は気に病む必要ないのよ、こんな戦いをさせたあいつらが悪いんだから!」
降りかかった火の粉を払った、それで董卓が気に病むのは間違っている。
お前たちが来なければこんな事にはならなかった、責められる謂われなど微塵もない。
本当にくだらない過ぎたる野望が、起こることもなかっただろう被害を生み出した。
物も人も、そして見えない心にさえ傷を付けた。
連合軍の奴らは、本当に自分の事しか見えていないと盛大に馬鹿にする賈駆。
「いい、月? 月は悪くない、本当のことを知る人達に聞けば誰だってそう答えるわ」
「詠ちゃん……」
「何も出来なかったなんて思わないで」
真剣な表情の賈駆、董卓を慰めるだけに吐いた言葉でなかった。
「……うん」
それに気が付き、心を抑えながら頷いた。
馬車に揺られながら、賈駆の言葉を反芻してゆっくりと飲み込んでいく。
そうした二人の会話は終わり、普段ならあり得ないおかしな空気。
共に口を閉じて、目的地に付くまで内の静寂と外の喧騒を味わった。
幾許かの時間を過ごし、馬車が速度を落としたのを二人は揺れで感じ取る。
完全に停車し、少し待てば護衛の董卓軍兵士が扉を開けて到着した旨を伝える。
二人は頷いて馬車から降りて目にしたのは、円状に並んだ金色の壁とその中央にぽつんと一つだけ立っている大きめの天幕。
囲んでいる袁紹軍兵士と天幕の間は一町(109メートル)以上あり、天幕の周りには三人しか居ない。
「……望むところだけど、やり過ぎでしょ」
賈駆はその光景を見て呆れる、これほど開けていたら襲撃者が居ても一見でわかる。
そもそも数万の袁紹軍兵士に囲まれたこの場所に、荒事を持って踏み込める存在は恐らく一人しか居ないと賈駆。
勿論出来ようが出来まいが、不和どころか敵対行為で自分の首を刎ね飛ばす所業であるために頭の中から蹴飛ばした。
「え、詠ちゃん……」
異様に異様を重ねる袁紹軍、と言うよりも玄胞の動かし方に何度目かわからない溜め息を吐いた賈駆。
「大丈夫、大丈夫よ」
心配がる董卓を宥め、侍従とともに天幕へと進む一行。
そうして近づくと天幕を守っている三人の武将、文醜、顔良、趙雲の姿をしっかりと認めた。
その中の一人、顔良が前に出て跪き頭を下げた。
それに続き、顔良と同じ姿勢で頭を垂れるのは文醜と趙雲。
「お待ちしておりました、相国様」
顔良の礼の後、天幕の入り口に進み出る二人。
「麗羽様、相国様がお越しになられました」
するとすぐに天幕の中から現れるのは袁紹と傍に侍る玄胞。
「お待ちしておりました、相国様」
天幕の扉を潜って現れた袁紹は即座に膝を折る、同じく玄胞も膝を折って頭を垂れた。
「……月、宮廷と同じでいいのよ」
その二人を見てどうしたら良いのかわからない、そんな感じの董卓に賈駆が小声で言う。
「……面を上げてください、袁 本初殿。 此度の活躍に陛下も甚く感心しておられました、陛下の窮地を救わんと駆けつけたその篤き忠義に信を置かれるでしょう」
「はっ! 臣下として当然のことでございます!」
「今後共陛下のために忠を尽くしてください」
「ははっ!」
一度上げた頭を再度下げる袁紹、その後に継ぐのは賈駆。
「ここから先は中で話しましょう、相国様も宜しいでしょうか?」
「良きに計らってください」
賈駆が頷き、袁紹と玄胞を見てから命じる。
「それでは中に、あなた達はここで待機していなさい」
「……それでは護衛の役目が」
当然護衛が渋る、皇帝を除けば守るべき最重要人物。
一応味方ではあるが、なにか起こってはいけないと護衛の言葉。
「不要よ、もしそんなことが起これば互いに最悪だもの」
そう歯牙にもかけず、護衛隊長の提案を却下。
もう一度賈駆は待機するように命じる、当然上からの命令であるために拒否することは出来ずに護衛隊長は渋々頷いた。
そしてすぐさま二人は立ち上がって天幕の入り口を開けて、董卓と賈駆を招き入れた。
「……ほんと、面倒くさいわ」
入るなり一つため息、天幕内には袁紹と玄胞と董卓と賈駆の四人だけ。
形式に則った礼儀、他の視線がある以上やって置かなければならないことだからこその呟き。
「背負うと決めたのでしょう? だったら全うすべきです。 それでは始めましょうか」
そんな賈駆の疲れを労る気など毛頭無さそうに進める玄胞。
少しムッとしたが、それをぶつけるべき相手は玄胞ではないために何事も無さそうに治める賈駆。
「では、なぜ今頃来たのです?」
初手で終い手、まどろっこしい真似は不要。
「……袁紹さんと玄胞さんに、お礼を、言いに来ました」
「………」
会話は玄胞に任せる、事前にそう決めた袁紹は何も言わずに董卓を見るだけ。
「……そうですか、では普段通りで宜しいですね?」
「ええ、今頃形式ぶっても肩がこるだけでしょ」
そうして視線が董卓に集まる、そもそも会って礼を言いたい言い出したのは董卓だ。
だから切り出すべきは董卓であり、三人とも董卓の口から出る言葉を待った。
「……袁紹さん、玄胞さん、そして詠ちゃん。 皆さんのおかげで私だけじゃなく、兵の皆さんも助かりました。 本当に、ありがとうございました」
董 仲穎、一目見て言葉を交わして映る姿はか弱さや儚さだろう。
だが今そこに映る姿に弱さなど見えず、一挙一動に思いを込めた、芯を持った言葉を持っての姿。
「……ボクからも言わせてもらうわ、袁紹さん、玄胞、それに月も。 皆のおかげで被害をとても大きく減らせたわ、多分、袁紹さんが味方してくれなかったら酷いことになってと思うから、本当にありがとうございました」
賈駆は董卓の真摯な姿に習い、同じように最大限の礼を述べる。
口調も常日頃とは違う丁寧なものとなった、袁紹の助力なくして今回の結果よりも良く出来る自信は欠片もなく、心からの感謝があったためだ。
此度の戦いにおいて董卓軍が前面に出たとはいえ、想定外の戦闘時間で損耗が予想を遥かに下回った。
六桁の人員がぶつかり合ったとは到底思えない数値、おかげで再編などに掛かるはずだった費用が大きく浮いた。
今後の行動が滞らずに動かせる、敗走した諸侯に与えてしまう時間が限りなく減った。
「……はぁ」
そういった事もあって深く頭を下げ、袁紹の反応を待っていた董卓と賈駆は呆れたようなため息を聞いた。
「まったく、こぉーんな小娘に皆さん怖がって、情けないですわね」
袁紹の言葉は当然違う、怖がったのではなく餌になりに来た鴨にしか見えなかったのだ。
しかし事が終わって現実を見れば、餌と思っていた鴨を食べようとして群がってきた所に大口を開けた龍が突進してきた。
例えればそんなところだろう、傍から見れば嵌められたようにも見える。
「……怖がったんじゃ──」
賈駆が呟くが、これまでの袁紹を思い出して意味のない言葉と悟って口をつぐんだ。
「仕方ありませんわねぇ、このわたくしが、陛下のついでに守って差し上げますわ。 いいですこと? ついでですわ、つ・い・で!」
「……まあ、それは助かるんだけど」
董卓と賈駆を交互に指さし、念を押すように言う袁紹。
大事なのは皇帝であって董卓ではない、そう言うも結果的に董卓と賈駆を守ることに変わりはない。
皇帝が董卓を傍に置き続ける限り、一緒くたに守らねばならない。
なのでついでに守ってやってあげると袁紹、玄胞も二人が害悪になるわけでもなく敵対しなければ守ってやろうといった程度。
「さて」
袁紹の言葉になんだかなー、と言った二人に横から声。
「話は終わりましたね? こちらの帰陣もありますのでもう宜しいですか?」
「……ええ、そうね。 直接お礼が言いたかったわけだし」
「はい、急な事でも待った頂いてありがとうございました」
もう一度董卓が頭を下げる。
「いえ、相国様の命ですので当然です」
それを留めた玄胞は外に居た顔良を呼び、二人が帰るので送っていくように命じた。
だが賈駆はそれに首を横に振る。
「いいわよ、送ってもらわなくても。 そっちもやることあるんだから、これ以上時間を取らせたくないわ」
この会見のちょっとした時間を作るために数刻使った、さらに送迎のために時間を掛けるのも馬鹿らしい。
そう言って賈駆は断る。
「そうですか、それでは何かありましたら」
「ええ、頼りにさせてもらうわ」
「ふふふ、そうですわ。 この名門名家の頭領であるわたくしと安景さんが居れば、どんな敵であろうと華麗に粉砕してさしあげますわ!」
おーっほっほっほ! といつもの高笑いを上げる袁紹。
「……それじゃ帰るわ」
「はい、お気をつけて」
げんなりした賈駆が言って玄胞が頭を下げ、董卓も習って頭を下げ返す。
そうして二人は天幕を後にし、洛陽へと戻っていった。
「さあ、本初様。 冀州へ帰りましょうか、民が待っておりますよ」
玄胞は笑顔を浮かべて袁紹を見て、少しだけ安堵しながら言った。
「ええ、そうですわね! まったく、陛下に楯突くなんて愚かなことを。 まあわたくしのような、本当の忠義者であれば反乱軍のような愚行は犯しませんことよ!」
盛大に他の諸侯を馬鹿にしながら、高笑いしつつ袁紹は天幕を出て行く。
それを見送り、玄胞は一息つく。
横暴な態度を取ったが彼女たちの反応も予想通りで問題なく、目下邪魔になる者は居なくなった。
不安要素はまだいくつかあるが、趨勢はほぼ決したと言っていい。
ここから油断せず、残党を虱潰しにしていけば事は成るだろう。
やらなければならないことは山ほどある、地道に固めていこう。
息を大きく吸って吐く、一つ活を入れなおして玄胞は天幕を出て南皮への帰陣指示を出し始めた。
ツンデレではない通常運転。




