始まる人たち
袁紹の参戦、この事を重く受け止めるか、軽く受け止めるかでその人物の優劣が決まるだろう。
ある者は夜襲を行ってくる事が確定したと考え、ある者は虎牢関の守りが厚くなったと考えた。
そしてある者は避けきれない敗北を確信した。
果たして正しいのはどれか、答えは得物を振るう武将ではなく知略を駆使する軍師でもない。
況してや戦場を支配する玄胞でもなく、高笑いして悠々と虎牢関に入ってくる袁紹が持っていた。
「本初様……」
こめかみを右手で擦りながら、ため息が交じる声で主の字を呼ぶ玄胞。
戦場に出てきて欲しくはなかった、その為に大将軍の名代として戦場に立ったのだ。
安全な洛陽で腰を据えて戦いが終わるのを待っていればいい、それだけで十二分に役目を果たせるのだ。
また事前に洛陽に居るべきだと話は付けてあった、それなのに出てきたと言う事は誰かが、恐らくは皇帝が焚きつけるように言いつけたのだろう。
「下知を受けたので?」
「ええ、大将軍足る者が後方で震え上がるとは何事かと叱咤を受けてしまいましたわ!」
そう言って恨みがましく玄胞を見る袁紹、予想通りだったことにまた一つため息。
「幼い子供に震え上がる大人など居るものですか」
はっきりと言えば連合軍の事など微塵も怖がっては居ないだろう、皇帝に言われたことなど小さなきっかけでしか無いこともまたわかっていた。
「……さし上げた手紙の通り、本当によろしいのですね?」
「わたくしが袁宗家棟梁であるからには、必ずややっておかなければいけないことですわ」
「……ではこの不肖玄 郷刷、本初様の本懐を成すために尽力させていただく所存です」
「期待していますわよ」
膝をついて頭を垂れる、その玄胞の肩に手を置く袁紹。
肩に暖かさを感じながら玄胞は考える。
全く厄介なことをしてくれたものだ、このような危ない場所に主を駆り出させるとは。
……いや、皇帝のことなど今はどうでもいい、後でどうにでも出来る。
問題は本初様の事、皇帝の命か本懐か、優先するのはどちらかと考えれば『皇帝の命』だろう。
誇りで在れ、棟梁足る責務を果たさなければならない。
王朝があってこその袁家、これ故に袁家が反旗を翻すことなどあってはならない。
だからこそ袁家棟梁として、袁紹は行動する。
その本懐、逆臣である『袁 公路の処断』を成すために。
袁紹の虎牢関到着から半刻も経たずに銅鑼が鳴る。
大銅鑼からけたたましく鳴らされる号令、それを耳に入れた各隊の隊長たちは命令を飛ばす。
「後退せよ! 陣形を維持しつつ後退! 後退だ!」
日が暮れ始めて既に影は長い、後半刻もしない内に日は落ちて夜の帳に包まれるだろう。
暗闇による被害の増大を嫌ってか後退、じりじりと下がっていく董卓・袁紹軍の兵士たち。
それを見て敵を押し込めたと勘違いした一部の将兵は好機と見て追撃を掛け、突出した形になって包囲、あっと言う間に殲滅された。
「……続く者が居ないわ、行けば二面で当たることになるわね」
突出して包囲された将兵が居た場所、董卓・袁紹軍が後退して見えたそこには包囲殲滅を受けて重なる連合軍兵士の屍の山。
今追撃をかければあの光景がそのまま自分たちの未来になると確信、前進させずにそのまま待機させて見送る。
結局は描いた展望が何一つ日の目を見ないままに消え、それなりの損耗を受けただけの形となった。
もっと進展が早ければ良くも悪くもこのような結果にはならなかっただろう、連合軍右翼もそれといった進展も無く膠着状態。
「やってられないわね」
被害を積み重ねるばかりでどうにも進まない、この状況は玄胞の思う壺。
いくら頑張った所で友軍が足を引っ張る、劉備然り袁術然り。
もとより連携などさほど期待してないが、僅かばかりであっても期待を掛ける事自体が間違っていたのだろう。
だからと言って一軍だけでどうにかなる状況ではない、どうにか出来るならもうどうにかしている。
もう撤退しようかしらと、出来もしないことすら考え始める曹操。
「……夜営の準備を、それと夜襲の備えもしておきなさい」
「……はっ」
そう言いつけて陣の奥へと引っ込む曹操、頭を下げて了解を返す荀イク。
振り返って数秒董卓・袁紹軍を睨んで見つめた後、曹操の命をこなすために動き出した。
それから更に一刻経ち夜の帳が下りた中で、連合軍右翼から心底嫌そうに呟きが漏れた。
「うっわ、これはきっついわねぇ……」
そう漏らすのは孫策、あれは正直に言って相手にしたくないと呟く。
「確かに、やはり温存していただのだろうな」
孫策と周瑜、黄蓋に陸遜と少ないながらも補うだけの力量を持った主力が遠目に眺めていた。
「何じゃあれは……」
この場に居る誰よりも戦いと言うものを知っている黄蓋が、呆気に取られて呟く。
戦いが始まってから、金色の兵士を見た割合は少ない。
殆どが紺色の董卓軍兵であり、金色の袁紹軍兵は将の周りに居ただけ。
その将、趙雲が引けば董卓軍兵しか居なくなる程に見なかった。
これはどういう事かと言えば、袁紹軍兵の消耗を抑えていた。
董卓軍兵を矢面に立たせて、体力の消費や兵数の減少を抑えていたからに他ならない。
「最初から夜襲をするつもりだったわね」
「そもそも初日で終わらせる気であったんだろう、そして奴が思い描いた通りの状況になってしまったわけだ」
玄胞の策を止められなかった、いや、予想できない時点で反董卓連合軍の敗北は決まっていたかもしれない。
「予想できるわけ無いでしょ、こんな大軍同士の戦いが一日も経たずに終わるって考えもしないわよ」
万の軍勢がぶつかり合う戦場、それも互いに縦に伸びて接触面が少ない地形での戦い。
当然戦う数が減れば起きる損害も減る、だからこそ長期戦は必至であり、誰もが早い決着を望みながらもそうはならないと言う当然の考え。
それを覆したのは玄胞であり、今まさに趨勢が決まりつつあった。
「……良かったわね」
「雪蓮には悪いが、確証も無いから信じることは出来ん」
「んー、まあ助からないなら助からないで、玄胞の首は必ず取ってくるから安心して」
騙して裏切るなら絶対許さないと言いながら、自分は騙して裏切ってくるのなら首を撥ねられても文句は言えない。
一命を賭して玄胞を殺しに行くだろう孫策、そしてそれを援護するのは孫策軍全て。
責を持って発言したのだから、それぐらいはちゃんと守ってほしいと孫策。
「……にしても」
「ああ……」
「……堪らんのぉ」
「どうしたらあんな風になるんですかねぇ~?」
見れば見るほど酷いものだ、正直に言って遠慮も何もない戦場でこんなものをお目に掛かるなどとは思っても見なかった。
その酷い光景、言葉にすれば袁紹軍が整列して進軍してきていると言う簡単なものだ。
単純であるからこそ酷い、なにせ一糸乱れぬ隊列で粛々と進んで来ているからだ。
歩幅と足並みを揃えて進み、強調するように幾つもの篝火が焚かれたその光を反射するのは金色の鎧。
他の者から見れば『悪趣味』と形容される金色の防具、酷ければ笑いものにされるであろうそれが今何よりも恐ろしい物へと変貌していた。
声を上げず、乱れが殆ど見えない隊列に、ただ一点に反董卓連合軍を見据えて金色が進んでくる。
響くのは足音と号令の銅鑼の音だけ、それもやけに揃って纏まったもの。
ありえない、そう断じて多くの連合軍兵を飲み込み慄かせるには十分すぎる光景。
異様だ、それ以外に言い様がない。
武器を抜かず、鬨も上げずに、足並みを揃えて進軍してくる金色の鎧を纏った軍団。
虐殺などで無残にも切り捨てられた人の死体がごろごろ転がる光景など、戦いで見たくはない光景も有る。
だがこれは一風変わりすぎて、不気味過ぎて見たくはない光景。
視覚的威力が凄まじい、長い遠征に命を懸けた戦いに曝された将兵の心を折るには十分過ぎた。
だからこそ駄目押しのもう一撃。
「全軍停止!」
玄胞の号令により、合わせて大銅鑼が全軍停止の音を鳴らす。
大銅鑼を中心として進軍の歩みが止まる、それは水面に水滴が落ちて広がる波紋のように歩みが止まる。
「本初様、号令を」
進軍前に示し合わせた号令、それを袁紹に求めた。
「ええ、よろしくてよ」
馬上から袁紹、大きく息を吸ってからの。
「全軍、抜刀なさい!」
玄胞の号令よりはるかに小さいが大声での命令で大銅鑼が鳴る、袁紹軍全体に伝える抜刀の命令。
僅かに遅れて波打つように金色の群れから鈍色の刃が天へと向けられる、それはまるで天に刃向かうような光景。
「全軍、敵定め!」
大銅鑼が鳴る、将兵一人一人が振り下ろすように前方へと刃を向ける。
これは天に刃向かうのではない、これは天から振り下ろされる刃である。
「誉れ高く栄えあるわたくしの将兵に命じますわ、愚かしくも皇帝陛下に刃を向ける逆徒たちを殲滅せよ! 全、軍、突、撃!」
袁紹の命により銅鑼が激しく鳴らされる、そうして怒りで脈動する金色の波が雄叫びを上げた。
袁紹軍があらん限りの咆哮を上げ、今ここに勝者と敗者が決まった。
これより起こるのは殲滅戦、蜘蛛の糸を手繰り寄せられなかった愚者たちを刈り取る屠殺場。
同情など掛けない、平等に死を押し付ける殲滅戦であり、死から逃げ延びる撤退戦が始まった。
終わる終わる詐欺ももうすぐ終わる、終わるから! もうすぐ終わるから!(ゲシュタルト崩壊)